喜納昌吉氏に会う

−歌にある真実−


万座毛
海の神住み給いける沖縄の海どこまでも閑かなりけり


去る2001年9月11日、アメリカが、同時多発テロの攻撃にさらされて以降、世界が目まぐるしく動いている。アフガンは、テロリストの首謀者と見なされるビン・ラディンなる人物を匿ったかどにより、アメリカの軍事的標的となり、罪もないアフガンの人々が、生命の危機にさらされている。

その最中の11月中旬、アメリカ軍の極東最大の軍事基地のある沖縄に向かった。さっそく羽田で厳しい手荷物チェックに辟易となった。何しろ、若いお嬢ちゃんのような係官に呼び止められ、リックの中身を出された挙げ句、四度もあのX線の前を通されたのだ。最後には等々に「あんたらもいい加減にしなさいよ」と睨みつけたほどだ。羽田から飛び立つと、下から見上げた時には、あんなに素晴らしい青空に見えていたものが、車の排気ガスやら工場の煙突から立ち上る煙やらであろうか、薄茶色のベールとなって、東京全体を覆っているのを目の当たりにして、「うわー汚ないなあ。なんだよこれは!!」と心の中で叫んでいた。

 排ガスの雲に覆わる東京の空掻き分けて沖縄へ飛ぶ

過去も現在も、沖縄は、日本でもっとも有効求人倍率の低い地域であり、今回の同時テロ以降、国際テロ組織が、アメリカ軍を狙ったテロを仕掛けるのでは、という危機感から、観光の島が一転して、閑散の島となってしまった感がある。私が沖縄に向かった理由は、ただひとつ歌手の喜納昌吉氏に会う為だった。私にとっては数年ぶりの沖縄であったが、空港に降り立った印象としては思った以上に「長閑(のどか)だな」というものだった。妙な静けさが、街全体を包んでおり、それが余計に景気の悪さというものを表しているような感じだった。空港から海岸伝いに那覇の中心街のホテルに向かう途中でタクシーを運転する人物にこんな話をした。

「景気はどうですか?」
「いやー、もう最悪ですわ」
「やっぱり、同時テロの影響ですか?」
「もうはやく、終わって欲しいです」

結局、沖縄は、またしても、日本で一番早く戦争の影響を受けてしまったのだ。これはタクシーだけではない。様々な人が一様に話すのは、「昔は、もっと貧しかったけど、少なくても、これからは、どんどん良くなっていく、という希望があった。でも今は先が見えない。それが不安を助長する」と語っているが、確かにそうだ。これは沖縄に限ったことではなく、日本全体に言えることだ。人間先が見えないほど怖いことはない。その中で、沖縄のため、日本のために、歌という武器を通じて、戦っている人物が、喜納昌吉という人物だ。

運転する人物の話を聞きながら、飛行機の中で読んだ喜納氏の近著「すべての人の心に花を」の中に書いてあったあるエピソードを思い出していた。ある時、喜納は、疲れて眠ってしまった時、ベットの向こうに人の気配を感じて、目を開ける。するとそこには、美しい顔をした白髪の老紳士が立っていて、一言、「喜納さん日本を頼みます」と言って消えたというのだ。喜納氏にそのことを問いかけると、「夢だったのか、現実だったのかは、今でも分からないけれど、とにかく、リアリティがあったんだよね。」と説明してくれた。この夢について、何故か私は特に気になって、次のような二首の歌を詠んだりもした。

 彼の人は夢に現る翁の言「日本頼む」の一言に生く
 
喜納氏の前に現れたという白髪の老紳士とは、いったい誰なのだろう。そしてどのような意味を持って、彼の前に出現したのであろう。ずっと考えて、ふとこんなことが浮かんだ。きっとそれは喜納氏の心の奥にあるヴィジョンで、ユング心理学でいう「賢老人」のイメージではないか・・・。またそれは喜納氏の意識が、深いところで、日本という文化の底流に流れる集合的無意識と出会った瞬間かもしれない、というようなものであった。

その話を、ホテルで、ある人に話した所、その人は喜納氏のファンでも何でもない人物なのだが、
「そうですか。喜納さんという人は、もしかすると、日本も沖縄も救う人かもしれませんね」と真顔で答えてくれた。喜納氏の歌が、国を越え、人種の壁も越え、世界中で愛されている理由は、おそらく、喜納氏という人物の中にあるある種の、正義とか、平和とかを心底から希求する魂の純粋性にあると思った。

対談の中で喜納氏は、「佐藤さん、何でもそうですが、現実というものを見なければいけないよね」ときっぱりと言われた。それは単に人の住む町の野山がきれいがどうかというようなものではなく、もっとその町の背後にある本質的なる問題をしっかり見据えなければ解決策もまた見えてはこないという事であろう。
 

世界と、人間を支配する呪縛の構図。問題を複雑化することによって答を隠蔽し、進歩の名のもとに、既得権を保持し、自然破壊を助長する愚かな構造を。そんな構造から、今こそわれわれ人類は解き放たれるべきではないのか。私は沖縄に住んでいる。そして沖縄には、日本にある米軍基地の75パーセントが集中している。沖縄の面積は、日本全土のわずか0.6パーセントでしかないというのに。日米安保によれば、米軍基地は極東の平和の維持のために欠かせないものであるという。(中略)ここに大きなまやかしがある。平和のための基地というなら、なぜ武器などを置く必要があるのか。武器を配備することによって保たれる平和とは何か。そんなものに、いったい何の意味があるのか。私は政治家ではない。社会運動家でもない。・・・もちろん宗教家でもない。私はミュージシャンだ。長く音楽活動に携わり、世界のあちこちの国でライブを行ってきた。その体験から私にわかった事が一つある。・・・平和を実現しうるものは、武器では絶対にない。それは楽器なのだ。

『今、私は提案する。すべての武器を楽器に』と

上の平和への強烈なるメッセージは、喜納氏の著書「すべての楽器を武器に」(「すべての武器を楽器に」喜納昌吉著1997年5月冒険者刊)で語られている彼の魂からの肉声である。

 花守と云ふ言の葉の在りさしずめに喜納は歌守(うたもり)楽器武器とす

今から二十数年前、まだ「花」(花は78年に詩が完成し、80年に発表された)という歌がこのように現れる前、喜納氏は、長野でのコンサートに向かった。そこにはシンセサイザーの世界的奏者となった喜多郎も来ていた。喜納氏は、世界や日本のことを考えながら、「二十一世紀に向かって、これから大変な時代になっていく、未来に向かって一緒に力を合わせてやっていこう。日本を変えていこうじゃないか」と言うと、「何をそんなに思い煩うんだ。風はきれいだし、星はきれいだし、ここにはすべてがあるじゃないか。何も煩うことなんてないよ」という答えが返ってきて、余りの意見の食い違いに、喜納氏は居たたまれず、その場をすぐに離れてしまった。

喜納氏は、野山ばかりではなく、ありのままの世界の政治的現実をも見ようとする。一方喜多郎の方は、政治的現実には目を瞑って、自然の野山の美しさを見ていこうとするようなところがある。そんな二人の物の見方に対する価値観の違いが根底にあって事件だったと言える。まさにアイデンティティの違いだった。事実、喜多郎は、アメリカに渡って、その後、日本という国の美しさを謳歌するような曲を多く作曲し、アメリカにおいては、「ヒーリングミュージック」(癒しの音楽)の旗手のような地位を不動のものとしている。

喜納氏は、日本にこだわり、沖縄にこだわり、その現実の矛盾や腐敗を突くような音楽活動を続けている。もちろんこの違いは、両者の資質の違いで、一様にどちらが優れているなどという判断はするつもりはないが、少なくても、現実を深く追求し、ただ単に美しいものだけではなく、背後にある問題点を厳しく見据えるような音楽活動をしている喜納氏の音楽に私は惹かれるのである。そうだが、その日の夜に、宿泊先のベットに現れたのが、先に言った白髪の老紳士だったのである。

このひとつの神秘(ヌミノース)体験が、喜納氏の創作活動でも大きな転機をもたらすこととなる。喜納氏にとって、この出来事は、おそらく通常の潜在意識のさらに奥底にある集合的無意識と会話した瞬間であった。簡単に云えば、喜納氏は、夢の中で、人間の心の奥底にある無意識の世界に通じるトンネルをくぐったのだ。そこには無限の世界が広がっており、一旦そこに創造のエネルギーの源を求めたならば、個人の意識のレベルを遙かに超えた創造性が発揮されることがある。またそれは喜納氏という小さな個の魂が精神的に追いつめられて自己崩壊の危機にあった時に、自らを助ける為に行った自助の精神作用でもあった。 

この後に、喜納氏は傑作「花」を一気に書き上げることになる。この作品が出来上がる瞬間を喜納氏は次のように語っている。 
 

ある日、渋谷のホテルのティールームに親友の・・・と共にいたとき、どこか頭の片隅に忘れていたフレーズが一瞬よぎった。「泣きなさい、笑いなさい・・・」それからたちまち、頭の中に降ってくる言葉と、体の底から湧いてくるメロディが結び合い一つの曲になった。私はあわてて、そばにあったナプキンに歌詞を書きとめた。 
川は流れて どこどこ行くの 
人も流れて どこどこ行くの 
そんな流れが つくころには
花として 花として 咲かせてあげたい

泣きなさい 笑いなさい 
いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ
(後略)

それは3分か、5分かとても短い間の出来事だった。 
(「すべての武器を楽器に」喜納昌吉著1997年5月冒険者刊)


ここで、喜納氏は「どこか頭の片隅に忘れていたフレーズが一瞬よぎった」と語っているが、実はこの「泣きなさい 笑いなさい」というフレーズは、喜納氏が高校一年の時に興奮して見た東京オリンピックの閉会式のアナウンサーが発した言葉「泣いています。笑っています」から来ているのだという。東京オリンピックの閉会式は、開会式の厳格な雰囲気とはうってかわって、各国選手団が入り乱れて、和気藹々と入場してくるという型破りなものだった。実に粋な企画だった。各選手団は、肩車をしたり、祝福仕合い、抱き合い、めいめいのやり方で、4年に一度の祭典を惜しみながら、泣いたり、笑ったりして、入場して来る。16才の多感な喜納少年は、この光景とそれを「泣いてします。笑っています」と表現したアナウンサーの言葉に、涙が止まらないほどの感動を覚えてしまった。

当然だろう。第二次大戦の戦禍が深く刻み込まれた沖縄に生まれ、身の回りの至る所で悲惨極まる戦争の現実を目の当たりにしてきた喜納氏なのだ。その頃、沖縄はもちろん「日本」ではない。紛れもないアメリカ合衆国が統治する基地の島であった。そんな中で、テレビの中とはいえ、世界中の人々が、国を越え、人種も、言語も越えて、仲良くむつみ合って歩いてくるのだ。このシーンをこの上なく美しい光景として、脳裏に焼き付けていたのである。 これがずっと彼の頭の片隅に残っていた。

その時のフレーズが、その日から14年振りに、突然の如く、歌としてまさに花開いたことになる。不思議と云えば、不思議、奇妙と云えば奇妙だが、創造の瞬間というものは、こうしたものかもしれない。要は熟成ということになる。簡単に書いてしまったようだが、自己の魂の崩壊の危機を乗り越えて、はじめてこのような傑作が出来上がったことを想起すべきだろう。

 この歌について、喜納氏は、「作ったというよりは、授かったという方が適切かと思う」と語っている。するとこの傑作「花」の誕生のエピソードはこのように解釈はできないだろうか。「夢」に現れた白髪の紳士は、創造の神さまで、喜納氏の純粋で人間精神に溢れた生き方に共感し、「花」というファンタジー(幻想的創造物)を与えてくれたのだと…。
  
 何故かくも人の心を揺さぶらむ「花」聴く吾に歌の雨ふる
 

夜が来て、夕食を済ませると、タクシーで、国際通りにある喜納氏のライブハウス、チャクラに向かった。喜納氏とは、二度目の対面となる。9時頃から始まるライブまで、奥州平泉文化のことなどを話した。泰衡さんの首桶から800年の時を越えて咲いた中尊寺蓮には、特に喜納氏がご執心なので、このことを念入りに説明した。すると喜納氏は、

「この蓮の花が咲いたことは偶然ではありませんね。何か現代に生きる我々に対して、啓示を示していると考えるべきでしょうね。義経さんの命を取ったはずの泰衡さんの首桶から見つかった種でしょう。本当に不思議ですね」と話された。

そしてこの花に因んだ歌を創っていただくべく、お話をすると、

「分かりました。色々資料を揃えましょう。沖縄にもね、源平合戦の折、安徳天皇とか、海を越えて、沖縄に来たという伝承も残っているのです。沖縄の王朝の子孫も、平家から出たという出自の話もありますし、そのようなことも含めて、私も色々勉強した上でやりますから…」と言っていただいた。

あっという間に、一時間近くが過ぎ、チャクラの会場に行くと、熱気で圧倒されそうな気配であった。ステージの後方には、喜納氏の父君で沖縄民謡の大御所として名高い喜納昌永氏と母君がいて、優しく手を差し伸べていただいた。実は前日、喜納親子は、親子のジョイントコンサートを成功裡に終えられたばかりで、終始にこやかに微笑んでおられる姿が印象的であった。喜納昌永ご夫婦氏には、10人のお子さんがいて、ひ孫までを入れると70数人の大ファミリーとなる。その多くが、音楽に携わっており、チャンプルーズで、昌吉氏の脇を固めているのも二人の妹さんである。会場を見渡すと、全国から来た喜納ファンでいっすいの余地もないほどであった。

ライブの始まりは、「風」という歌であった。カリプソ風の軽快ながら、沖縄の海を思わせるような長閑な雰囲気の曲で、二人の妹さんが見事なハーモニーを聞かせた。この曲が終わろうとする頃、白いTシャツに身を包んだ喜納氏が登場すると、会場は割れんばかりの拍手が起きた。喜納氏のステージは奇妙な緊張感が伴う。それはもしかすると、その夜の演奏曲を、メンバーに事前に知らせていないことも影響しているのかもしれない。喜納氏は、軽く手を挙げて、拍手に答えると、側に置いている三線に手を伸ばした。

「ジャイーン」という強烈な音が会場に響き渡り、しばし三線のソロが続く。

最初の音で、会場の雰囲気が一変した。というよりは、今まで固い蕾だった花が、急に開くような衝撃があった。三線の弦が切れてしまった感じもした。しかし喜納氏は、一音一音確かめるようにスピリチュアルなメロディを奏でる…。

そして演奏は、謝花昇−愛は蓮華−アリラン−森の人よ−火神(演奏)−ハイサイおじさん−火神−久高−愛は私の胸の中−花(すべての人の心に花を)と、続き、私の中に深い感動を残して終わった。

音楽と言えば、特に私はマイルス・デイビス(1926−1991)に心酔している。とにかく全盛期のマイルスは強烈だった。マイルスがステージに登場すると聴衆は、まずその前衛的なファッションに圧倒される。マイルスがトランペットをさっとかざした瞬間、大音響と共にリズムが刻まれる。そこでふっと一息ついて、マイルスが、マウスピースに口をやって、音が鳴る。するとまたそのマイルスの音に反応しながら、リズムが変化する。マイルスのミュートトランペットは、まるで薄い氷の上を歩くように、メロディを紡いでいく、やがてアドリブが最高潮に達しようとする瞬間、ウェイン・ショーター(サックス)のようなソリストに、音楽を渡して、じっとあの大きな目で、会場を見渡し、タバコなどをくゆらせながら、じっと演奏を聞いているのである。そしてまたマイルスが、ふいに手をかざし、またトランペットを吹き始めると、急にリズムが変化して、マイルスのトランペットが泣くが如く会場一杯に広がっていく。観客は、良い悪いという次元で聞いているのではない。あえて言えば、観客は、マイルスの紡ぎ出す圧倒的な音量とマイルスのソウルから絞り出されるような演奏のエネルギーに背中から天上に真っ直ぐに通底するような感動を抱きつつ、身を固くし、黙ってその音に浸っているしかないのである。

喜納氏のコンサートは、マイルスとはまるで違う意味ではあるが、強烈なエネルギーを内包したステージだ。そのエネルギーの中心には、やはり沖縄という彼のアイデンティティから発せられる何ものかであろう。考えてみれば、私が喜納氏のステージを初めて見たのは、十一年ほど前に遡るが、マイルスと同じステージでのことだった。

それはオノヨーコの企画で行われた「ジョン・レノン没後10年のメモリアルコンサート」(名前は間違っているかもしれない?)だったと、記憶している。1990年(?)十二月、出来上がったばかりの東京ドームでのステージだった。私がそのコンサートに行った理由は、「ジョンレノン・メモリアル」でも喜納氏でもなく、久々にマイルスが日本にやってくるからというのであった。そのステージで、マイルスは、確か若手サックス奏者のケニー・ギャレット(?)と一緒に登場し、ユニゾンで、ジョン・レノンの「ストロベリー・フィ ールズ・フォーエバー」を信じられないほどメロディックにそしてメランコリックに演奏した。短かい演奏だったが、、マイルスは、いつなく上機嫌で、最後には聴衆にトランペットをかざして応えていた。しかしそれが私がマイルスを見た最後であった。その二年後の1991年にマイルスは永眠した。思えば、あのステージの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が私にとって、マイルスの「白鳥の歌」となった。

その夜、マイルスのステージの前に、白いスーツに身を包んで、ものすごいエネルギッシュな演奏をしたグループがいた。それが喜納昌吉氏とチャンプルーズの面々であった。ともかく華やかな演奏だった。エイサー踊り手なども配して、その時に聴いた「花」は、特に私に強烈な印象を残した。喜納氏の演奏のパワーの秘密は、彼自身が語っている通り、聴衆の心の中に内在しているエネルギーのようなものを自分の演奏に昇華させてしまう不思議な能力だ。だからこそ、彼の演奏は、その都度、その都度、色合いが違うのである。チャクラのステージで、私は喜納氏の演奏に、彼の紡ぎ出す音楽の花の根というものが、とてつもない深い所までそのツルが伸びているような奥の深さを感じた。また彼の歌に感じる純白のイメージは地下深くから吸い上げた純粋なる沖縄の水の透明さを象徴しているようにも思えた。

この夜の喜納氏の「チャクラ」でのコンサートは、一言で言えば、実に静かで深い趣のあるコンサートだったように思う。エネルギッシュというよりは、むしろスピリチュアルな感じの演奏だった。喜納氏の歌った歌が、まるで雨となって、私の乾いた心に降り注いだような趣があり、東京に帰った今でも、心の中が潤っているように感じる。歌の雨は、私の心の奥底に徐々に滲みていって、いつか心の井戸にポチャリと達するのであろうか。やはり喜納氏を聴くならば、沖縄に飛び、チャクラのステージで聴くことを皆さまにもお勧めしたい。

 沖縄の那覇の「チャクラ」のステージに喜納の魂(ソウル)の本領に触るゝ

佐藤



参考

2001.10.8
喜納昌吉インタビュー

 

 


2001.11.29

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