夕張無惨

夕張を撮り続ける写真家「風 間健介」作品展を見て

佐藤弘弥

夕張を撮る 風間健介の世界

風間健介氏 トークショーで新宿「ルーニィ」
(07年4月8日 佐藤弘弥撮影)


  1 夕張の現実を伝える二枚の写真

北海道夕張の奥地に、18年間住み、この町の変化を、冷徹な観察眼で撮り続ける風間健介(47)という写真家がいる。この孤高の写真家の写真展
(於:新宿「ルーニィ」)に行ってきた。

今、夕張は私企業であれば倒産に当たる「財政再建団体」(06年3月6日)となり、逆風の真っ直中にある。私はまず、夕張を撮り続けてきたというその一 点に興味が湧いた。何故それほど夕張にこだわったのか。その辺りが聞きたかった。風間のモノクロ写真が狭い会場一杯に隙間なく貼られていた。

それはどこが、中心というものはなく、ただ地球の至るところに人が住み、村ができ、やがてそれが都市に発展したように、並んでいる。風間もまた「自分の 作品の代表作はこれ」という言い方はせず、「雲の動きのあるもの」、「星が映ったもの」という言葉を使った。その時、私は直観した。この写真家は、夕 張という被写体を自然と一体なものとして、ただひたすら捉えようとしているのだな、と。

北炭清水沢発電所

「北炭清水沢 発電所」
(1989年 風間健介写真集「夕張」より)



全体のトーンとしては、夕張が廃墟の都市であるような印象を受けた。でも、風間は、「夕張というとこ ろは、実は札幌がランプで生活していた時期、発電所を 持って、夜中でも煌々と電気をつけて暮らしていた。北海道のなかでももっとも栄えていた都市だった。」と夕張の歴史を語った。

私の眼は、風間の撮った二枚の写真に強く惹き付けられた。

一枚目の写真は、「北炭清水沢発電所」を撮影した写真だった。一見、中央の煙突から煙が出ていて、まさか稼働中のものかと思った。ここには古写真を見るよ うな郷愁(ノスタルジー)があり、どことなく炭坑としての活気のようなものが感じられた。ところが実は、風間がこれを撮影したのは1989年頃で あるというから、
この頃、北炭は経営破綻し、この発電所は解体中ということで、もう既に 廃墟だったのである。

夜の観覧車

「夜の観覧 車」
(風間健介撮影)


もう一枚の写真は、暗がりのなかに観覧車やジェットコースターの線路が写っている写真だ。炭坑が閉山になった後、夕張は巨額の資金を投下して、遊戯施設を 第三セクターで作った。はじめは物珍しさも幸いして賑わったのだが、次第に閑古鳥がなくようになり、ついにはこれも運営困難になり、今現在廃墟のように なって見えるのである

風間の夕張の写真には、ほとんど人が写っていない。会場の端っこに祭のハッ ピを着た子供たちが写っている写真があった。風間に夕張の子供たちの現状を聞くと「夕張の学校が合併するのは良いことだ。」と言った。それは 生徒数が少ないために、ひとつの教室で、ひとりの先生が学年の違う複数の生徒を教えているが減って、質の高い教育ができりのではないかということだ。



私は風間の写真を見ながら、ずっとむかしに見たHG・ウェルズ原作の「タイムマシン」(1960年アメリカ)という映画を何故か思い出していた。それは内 容というよりは、タイムマシンに乗って同じ景色を見ていると、人間は霧か霞のようにしか見えず、どんどんと景色ばかりがどんどんと移り変わっていく シーンがあるが、そん な生きているはずの人間の姿が見えぬ光景に似ていると思ったのだ。

それにしても今では俄に信じられないことだが、炭坑の街夕張は、
かつて北海道の中で、もっとも希望に満ちた街のひとつだった。

私は、風間の写真から、夕張市が陥っている「財政再建団体」という現実が、ひとり夕張の問題であるというよりは、日本全国至るところで、起こりかけて いる 地域経済崩壊のさきがけにに過ぎないのではないかと思うようになった。


 2 夕張の歴史

夕張は、明治の初期より、石炭鉱脈が発見されて以来、北炭(正式名称「北炭夕張炭鉱」)や三菱大夕張炭鉱が、この地に開設され、ゴールドラッシュならぬ石 炭ラッシュのような状況となって、飛躍的な発展を遂げることになった。採掘した石炭を室蘭に運ぶための鉄道が敷設されるなど、1960年代には、およそ人 口12万(116,908人)を数える北海道有数の都市となったのである。この頃、学生たちのあこがれの就職先は石炭産業だった。

そんな夕張に突然変化が訪れる。国際的な競争に曝されて、採算は見る間に悪化した。それに悲惨な炭鉱事故も何度かあった。しかし決定的だったのは、一般に 「エネルギー革命」と呼ばれる国によるエネルギー政策の転換だった。これによって夕張繁栄の柱だった「石炭」は、エネルギーの主役の座から引きずり降ろさ れる結果となった。こうして時代は、石油や天然ガス、原子力といった新たな代価エネルギーの時代に否応なく入って行ったのである。

都市夕張は、それでも何とか、新たな生きる道を求めながら、一方では石炭を掘り続け、た。北炭の優秀な経営者たちも、企業の生き残りをかけて、時代の求め る付加価値が高い原料炭などの生産に活路を求めるなどの努力を続けたが、時代の逆風の前では、いかんともしがたい壁があり、挫折した。

1981年10月16日、決定的な悲劇が夕張を襲った。北炭夕張新炭鉱ガス突出事故の発生である。この事故により、坑内に発生したガスに火が引火して火災 が発生し93名の犠牲者が出た。結局、この大事故を契機として北炭は翌年に閉山し、後に倒産(1995年)に追い込まれた。

1985年には、三菱南大夕張炭鉱でも、ガス爆発事故が発生、62人の尊い命が奪われた。

1988年、夕張市は、炭坑開基100年記念祭式典(併せて市政施行45周年も)を催した。これは1888年に北海道庁の坂市太郎という技師が、夕張に石 炭層を発見した日から起算した百年の祝事として挙行されたものである。

1990年3月、最後まで営業を続けてきた三菱大夕張炭鉱が閉山し、炭坑の街として発展してきた夕張市は「炭坑から観光の街へ」という合い言葉の下に、再 出発を余儀なくされたものである。

夕張市が600億(632億)を越える巨額の負債を抱えて財政再建団体に陥った最大の原因は、実はこの時の閉山企業とのやり取りにあったようだ。

夕張市の財務諸表に「炭鉱閉山処理対策費」と聞き慣れない項目がある。これは「北炭」や「三菱大夕張」が保有していたインフラや病院施設などを夕張市が買 い取った時に生じた負債のようである。その総額は何と「583億円」(ウィキペディア「夕張市」より)もある。

閉山に伴い、街がどうして不良債権とも言える街を離れる石炭企業の残余資産を買い取るようなことを行ったのか、どのような法的根拠や判断の下にそのような ことが行われたのか、歴史を掘り起こしてみる必要がある。

また当時の中田鉄治市長は、テーマパークの開設やスキー場の敷設など、積極的に巨額の資金を必要とする市政を展開したことも疑問だ。夕張メロンや映画祭な ど、市民参加型の政策もあった。このアイデアならば理解はできる。しかし人口減少が予想される現状で、新たな雇用創出は分かるが、あまりに無謀な計画で あったというしかない。

おそらく、市長や議会、市民には、国や道庁などの支援があれば、どうにかなるという甘い見通しが、結局夕張の財政を破綻に導いたものである。融資をした銀 行団にしても、市町村などは、倒産することは、不良債権になどなるはずがないという意識しかなかった。

考えてみれば夕張は、この百年の間、国のエネルギー政策に翻弄され続けた街であった。これは誰も否定できない事実である。このことから見ても、夕張問題の 責任の所在については、夕張市民のみに一方的に押しつけることはできないはずだ。

もちろん夕張市民が国の政策に逆らうことなく、そこに乗っていれば、いざという時には、万事国が支えてくれるという甘い認識は間違いなくあった。それは問 題である。

しかし「炭坑から観光へ」という夕張再生のアイデアが誰から出たものか、その出所を追求してみたい。おそらくこれは中田市長の個人的なアイデアというより は、国(当時の自治省)や与党自民党、道庁も含めた数多くの人の意見の集積の下で構想されたものであろう。とすれば、エネルギー政策を転換し、夕張の自治 の方向転換を指し示した国やその他の関係者にも、大いに責任があると言わざるを得ないのではないだろうか。

一方、1991年、国(建設省=現国土交通省)は、多目的ダム、夕張シューパロダム建設を発表した。夕張の新たな雇用創出のためかどうかは不明であるが、 このダム建設には利水、治水、環境破壊の多方面から大いに疑問が持たれている。実に場当たり的な政策である。これも地元の国会議員たちが、炭坑閉山に伴い 大騒ぎをして、巨額の公共投資を呼び込んだものであろう。


  3 夕張は日本における「地域崩壊」のさきがけの地

こうして今や夕張は、人口12万の活気ある街から、廃坑となった諸々の施設が無惨に立ち並ぶ廃墟の街となった。人口は10分の1の1万3千人とな り、全職員の過半数の150名もの市職員が退職をしてしまった。不思議なのは、それでも夕張市民が、国や道庁が自分たちの市を何とかしてくれると思ってい ることだ。

この度、朝日新聞本社が実施した市民アンケート調査(朝日新聞 マイタウン 北海道 HP4月11日掲載)によれば、来る4月22日に実施される市長選挙 において「投票で何を一番重視するか」という質問に有権者は以 下のように答えた。

「国や道とのパイプ」→43%。
「政策やアイデア」 →28%。
「リーダーシップ」 →22%。

今に至っても、夕張市民は、国や道庁が何とかしてくれる、と考えているように見える。悲しい現実である。さらに考えさせられるのは、18年かけて「353 億円」の借財を返すことになるこの夕張に「これからも夕張住み続けたい」とした市民が、78%も いるという現実である。これは高齢化が日増しに進み、もうどこにも逃げ場がないという諦めの声なき声という気がしてくる。やはり夕張は日本の「地域崩壊」 のさきがけの街なのだ・・・。


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