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相原友直小伝

 

平泉舊蹟志

 

相原友直著

飯川 勤校

 

<毛越寺>

 

 

一、東鑑に曰、年中恒例法會の事、二月常楽會、三月千部會・一切經會、四月舎利會、六月今熊野會、祇園會、八月放生會、九月仁王會、講讀師・請僧、或三十人、或百人、或いは千人也、舞人卅六人、楽人卅六人、一、兩寺一年中問答講文事、長日延命講、彌陀講、月次問答講、正五九最勝十講等也、

 

一、毛越寺の僧徒の傅記に曰、恒例法會之事、正月修正會自元日至八日 同月慈覚講十四日 同月常行堂會自十四日至二十日 同月最勝會 二月常楽會十五日 同月天満會廿五日 三月千部會 同月一切經會 四月薬師會八日 同月誕生會八日 同月舎利會 同月山王會中の申日也、或は初申也、 同月兩彌陀堂會廿日 五月常行堂會廿日 同日最勝會 六月傅教會 同月祇園會十四日 同月熊野會十五日 七月眞籠會十五日 八月放生會十五日 九月仁王會 同月稲荷會九日 同月白山會十九日 同月最勝會 同月常行堂會廿日 同月不動堂會二十八日 同月金峰會二十九日 十月佛名會 十一月外習始七日 同月天台大師講廿四日 十二月祭燈 毎月薬師講八日 同大般若會 同護摩會 同問答講正月並除十二月 長日延命講 同彌陀講

 右毛越寺一山恒例、年中法會分次第如件

 

一、醫王山毛越寺、金剛王院と號す、嘉祥年中、慈覚大師の開基にして、其後、鳥羽院の勅願の霊場なり、其頃勅願使として左少弁富任卿下向し給ひ、基衡勅を奉して堂塔・佛像を建立し、秀衡相継て是を造営す、東鑑に、堂塔四十餘宇、房五百餘宇と云へり、基衡造営の後八十餘年を過て、嘉禄二年丙戌の歳十一月八日に、堂塔焼亡し、残れるは亦星霜を歴て、頽廃して礎のみ残れるもあり、田圃に其名の残れるも多し、今有る所の堂社僅に八九宇、僧舎十八坊なり、東叡山の末寺、天台宗、C僧あり妻帯あり、一説に、堀河・鳥羽兩帝の勅願にして、C衡以來三代の建立と云ふ、

一、金堂趾、東鑑に、基衡これを建立す、金堂を圓隆寺と號す、金銀を鏤め紫檀赤木等を継き、萬寶を盡し衆色を交ゆ、本佛は丈六の薬師同十二神将を安置す、日天月天も有しといふ、運慶これを作れり、佛菩薩の像玉を以て眼に入る事、此時を始とす、講堂・常行堂・二階總門・鐘楼・經藏等これあり、九條關白家、御自筆を染られ額を下さる、参議教長卿堂中の色紙形を書せらる、

此本尊造立の間、基衡運慶に贈れる處、金百兩、鷲羽百尻、七間々中径水豹皮六十餘枚、安達絹千疋、希婦細布二千端、糠部駿足五十疋、白布三千端、信夫毛地摺千端、此外山海の珍物を添らる、又別禄と稱し生美絹船三雙に積て贈之、又重て練絹を船三雙に積て贈れり、凡三ヶ年の間にして造り出せり、

此事鳥羽法皇の叡聞に達し、彼の佛像を拝し給ふ所に、比類なき佛なれば、洛外に出すべからずと宣下せらる、基衡はこれをきゝ、地佛堂に閉籠り七ヶ日夜水漿を断て祈り、子細を九條関白に愁申ければ、天気を伺ひ、此旨を達し給ひ、遂に勅願を蒙り奥州に下し、圓隆寺に安置せしこと東鑑に詳なり、此堂宇・佛像悉く嘉禄二年十一月八日に廻禄して、今は九間四面の礎のみ残れり、愚按するに、九條関白家は忠通公なり、忠通公は前関白中實公の御子にして、詩歌にたくみに筆蹟甚すくれ給へり、七十七代の帝後白河院、保元年中、大内裏造營の時、殿門の額忠通公これを書し給ふと云へり、教長卿は三位藤原朝臣教長卿なり、宇治左大臣ョ長卿の御子にて、是も忠實卿の孫なり、保元の乱に依て常陸の國に遠流せらる、

金堂趾に安置する所の薬師の石像は、近世里人村上治兵衛照信の建立なり、

一、講堂趾、金堂趾の東にあり、本尊胎藏界大日、是亦焼亡して礎石今に残れり、昔の溝石此邊の田のほとりに在り、

一、常行堂、金堂趾の東に在り、即ち摩多羅神なり、神體拝見をゆるさず、

實冠彌陀・観音・勢至・文珠・普賢を安置し、昔堂回禄の後、本尊は天神社趾に、假堂を建て移し置く事年久しかりしか、享保年中、再び昔の地に堂を建立す、昔の堂趾より四五間ほと西へよれりと云ふ、

此神は平泉の鎭守なり、祭禮正月二十日の夜なり、田楽・開口・祝詞・若女舞・老女舞・狂言有吉、昔の勅使富任の家臣有吉、主人の使者として一山への往返の趣なり、勅使の儀式等有り、一山の衆徒これを勤む、

銅鐘、寶永年中、里人の奉納なり、

一、文珠樓趾、講堂の南に在り、一、鐘樓趾、文珠樓の東に在り、一、鼓樓趾、文珠樓の西に在り、一、經蔵趾、、嘉祥寺跡の東南に在り、一、二階総門、南大門とも云ふ、礎今に残れり、

一、池俗に大泉池と云ふ、池の形今に残れり、昔金堂・講堂の前に大なる池をほり、中島を築き南大門を池の南に構へ、講堂の庭より、反橋をかけて通路とせり、池の大さ今残る所、南北廿餘間東西是に倍せり、池中の立石二ツ今に残れり、古は名のる所なるべし、今是を 傳へす、里俗僧石と云ふ、僧の相向て物語するかことくなれは、かく名けしとそ、池邊の築山・岩組等、今に残れり、石は唐土より渡せしと云ひ傳へり、今見る所江刺黒石、正法寺境内に在る所の石と同し、

一、文珠樓趾、講堂の南に在り、一、鐘樓趾、文珠樓の東に在り、一、鼓樓趾、文珠樓の西に在り、一、經蔵趾、、嘉祥寺跡の東南に在り、一、二階総門、南大門とも云ふ、礎今に残れり、

一、池俗に大泉池と云ふ、池の形今に残れり、昔金堂・講堂の前に大なる池をほり、中島を築き南大門を池の南に構へ、講堂の庭より、反橋をかけて通路とせり、池の大さ今残る所、南北廿餘間東西是に倍せり、池中の立石二ツ今に残れり、古は名のる所なるべし、今是を 傳へす、里俗僧石と云ふ、僧の相向て物語するかことくなれは、かく名けしとそ、池邊の築山・岩組等、今に残れり、石は唐土より渡せしと云ひ傳へり、今見る所江刺黒石、正法寺境内に在る所の石と同し、

一、大黒天堂趾東方、 弁財天堂趾西方、 何も池中に在り、講堂の南なり、

一、聖天堂趾、南大門の東にあり、

一、吉祥堂趾、今隆藏寺の東南にあり、金輪山吉祥寺と號せり、東鑑に、本は洛陽補陀洛寺の本尊観音を模し奉り、生身のよし詫語(たご)あり、厳重の霊像たるの間、更に丈六の観音の像を造り、其内に件の本佛を納め奉ると云へり、

一、千手堂趾、千手二十八部像、各金銀を鏤む、

一、鎭守惣社、金峰山を東西に崇め奉る、

一、嘉祥寺趾、講堂の西なり、礎今にあり、東鑑に、未た功を終さる以前基衡卒去す、仍て秀衡これを造り卒ぬ、四壁並に三面の扉法華經二十八品の大意を彩とりゑかけり、本佛は薬師の丈六なりと云へり、

一、観自在王院、圓隆寺の東数百歩にあり、東鑑に、阿彌陀堂と號す、基衡の妻宗任か女の建立なり、四壁の圖絵は洛陽の霊地名所なり、佛檀は銀なり、高欄は磨金なりと云へり、郷人是を大阿彌陀堂と云ふ、天正元年癸酉二月八日、昔の堂焼亡す、本尊は残れり、彌陀坐像三尺餘なり、其後他所に移し置事年久しかりしか、享保年中、堂をもとの地に造營して佛像を安す、基衡の妻は仁平二年壬申四月廿日に卒去し、今に於て毎年其日一山の衆徒、此堂に於て興を荷ひ堂を廻り、葬禮の儀式を以て法事を爲す、燭台二脚有り、高貳尺ほと樹の皮のかたちを造れり、鍛冶舞草森房これを造りて奉納す、

一、小阿彌陀堂趾、大阿彌陀堂に並て東方に有り、東鑑に、是亦基衡か妻の建立なり、障子色紙形、参議教長卿筆を染らるゝと有り、或説に、基衡の母は左少弁富任卿の女子也、此の堂を建立すと云へるは誤なり、堂趾の傍に古き石佛有り、里人是を音頭佛と云ふ、昔兩阿彌陀堂建立の日、人夫の司をせし者是を建立す、此者を音頭と呼し故に、音頭佛と號す、俗におつと石と云ふは誤なり、俗に大石・大木等を引く時、かけ声をなし指揮する者を音頭をとると云ふ、六字名號の石塔あり、元文年中、金堂前の池中より出したる石なり、里人彌陀の六字名號を彫てこれを立たり、

一舞鶴池、兩阿彌陀堂の前に在り、中島有り、經塚有りし趾少残りて、外はみな田となる、

一、法華銕塔、高貳尺五寸、圍五尺九寸二分、其形まるくして桶を立たるかことく、座は造り付け四角にして三階なり、一階高二寸六分、横二尺四寸、昔は銕の屋九輪も有りしを、天正年中失せて、後世石にて造りしか、石も亦損したり、九十九代後光厳帝の文和四年乙未九月の建立なり、今は阿弥陀堂の内に置けり、文和四年は基衡の妻卒せし仁平より二百四年後なり、銘に曰、奉安置平泉観自在王院池中島 奉納六十六部妙典塔婆 寶萬銕塔鋳立功徳 法界民生速成佛道 文和第四玄月上旬 鍛冶久行 行祐法師 鋳師浄圓金剛覚賢 權律師幸賢 勧進衆 法橋定進 金剛覚

秀 故法印幸海 衆徒敬白

右都て八十八字なり、其中裂欠する者有れとも、大率かくのことし、

一、基衡室之墓、小阿彌陀堂跡の後に在り、近年、里人石碑をたつ、碑面に曰、

   前鎭守府将軍基衡室安倍宗任女墓 仁平二壬申年四月二十日

   此碑、里人村上治兵衛照信これを建つ、

碑の脇に、享保十有五庚戌九月十三日と勒せり、仁平は七十六代近衛院の年號なり、

一、普賢堂趾、鐘楼趾の南にあり、

一、五重塔、普賢堂趾の東にあり、

一、鐘楼趾、小阿彌陀堂の東にあり、日光権現社趾、

一、貴船明神、

一、諏訪明神、一、辨財天堂、堂行堂の後の池中の島に在り、

一、鐘か獄、毛越寺の北の山を云ふ、昔軍備の為に四十八の鐘を、國中所々の高山の上に掛置て、急を告けると云ひ傳へり、此山上の鐘も其一つなりと云ひ傳ふ、又一説には、中尊・毛越両山曾合の時の為とも云ふ、

一、鑿通(キリトホシ)清水、金堂趾の後に在り、慈覚大師の加持水なり、獨鈷水と號す、

一、高屋・倉町・車宿、東鑑に、観自在王院・南大門の南北の路、東西において數十町に及び、宿を造り並ぶ、倉町も亦數十宇の高屋をたつ、同院の西南北に、數十宇の車宿ありと云ふ、

一、時太鼓屋の趾、大阿彌陀堂の南にあり、今民居となる、

一、八幡宮、常行堂の南にあたれり、

一、一切經蔵趾、南大門の西にあたれり、

一、護摩堂趾、經蔵趾の南にあり、

一、鐘樓趾、此鐘を伊達政宗公、仙臺八ツ塚正楽寺に寄附して舊銘を削り新銘を記す、現今正楽寺鐘門にあり、

一、兒が墓、南大門の南にあり、昔堂舎参詣の乗逢の争論にて兒の討れたるを葬りし處なりと云ふ、

一、兒が澤、兒墓の下を流るゝが故にかく名付く、

一、粧坂、正月摩多羅神祭禮の時、田楽人の装束所、此坂の上にありし故に名付ると云ふ、

一、文珠堂跡、御摩堂の西南にあり、

一、稲荷明神、文珠堂址の南にあり、

一、慈覚堂趾、前に同じ、

一、大日堂趾、慈覚堂の南に在り、

一、十王堂趾、一、春日明神

一、北野天神宮趾、此所に假宮を立て、摩多羅神を年久しく移置たりしが、享保年中、常行堂を舊地に建立の後、天神像をも常行堂にうつせり、東鑑に、鎮守の事、中央に惣社、東方に日吉、白山両社、南方に祇園社・王子諸社、西方に北野天神・金峰山、北方に今熊野・稻荷等の社ありと云ふ、

一、不動堂

一、最明寺屋敷、鎌倉(北條)時頼入道行脚の日、此所に寓せりと云ふ、磁石今に残れり、

一、白山權現

一、櫻清水、昔泉の邊に櫻の並木有し故に名付く、今も尚櫻樹有り、

一、勅使屋敷、清衡の時、勅願使按察使中納言顯隆喞、基衡の時、勅使左少辨富任喞下向せし時の賓館の趾なり、

一、薬師堂

一、鏡山 伊豆權現、近江の鏡山を摸せり、

 

<毛越寺

 


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最終更新日 1999.11.18 Hsato