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相原友直小伝

 

平泉舊蹟志

 

相原友直著

飯川 勤校

 

<居館趾>

 

國衡・隆衡居館趾、南大門の南にあたれり、東鑑に西木戸に嫡子國衡が家有り、同四男隆衡が宅これに相並ぶと云へり、館趾今は畠となれり、里俗八ツ花形館と云ふ、八ヶ所築出したる所あり、又此邊の田畑に昔の町の名残れる有り、

一、西木戸、昔平泉館の西の關門此邊に有りと云ふ、今其所詳かならず、

一、高石、國衡屋敷に近し、是則撰集抄にも、いはゆる逆芝山にして此高石は、其書に云へる石塔なりと云ふ、愚按するに、撰集抄に云へる石塔は、里をはなれて十餘町山中に在りと云へり、此所山中にあらず、好事の者の附會なるべし、再び按するに、都て逆芝山の事は信用しがたし、西行法師の平泉に下りしこと、東鑑並に家集の歌を以て見るに、平泉全盛の時なり、豈撰集抄にいへる如くならんや、其書の跋に擬作にかゝれる者ありと云ふは、是等の事をも云へるなるべし、此事平泉雑記に詳にのす、

一、忠衡館、東鑑に、三男泉三郎忠衡が居館は、泉屋の東に在りと云へり、其處今知れる者なし、前の琵琶棚の條と考へ看るべし、

一、無量光院趾、又新御堂とも云へり、本尊丈六の彌陀なり、秀衡これを建立す、堂内四壁の扉観經の大意を圖繪す、

一、三重寶塔趾、鐘楼跡、梵字池彌陀の種字の形をほりしと云ふ、院跡の前に在り、其跡少し残れり、右の跡高館の東南にあり、愚按に、東鑑に、館は院の北に並ぶとあり、然るに今院の趾と云ひ傅へたるは、平泉館の趾と云へる所よりは西北に在り、東鑑の説なれば院の跡は、館の南にあるべし、卿説の如きは疑なきこと能はず、然れども今其礎等有るを以て證とする時は、院は館の北に並ぶと書べきを、東鑑に傅寫し謬れる者歟、

一、平泉館趾、平地なり、秀衡館は金色堂の正方無量光院の北に並で、宿館を構へ平泉館と號すと、東鑑にいへり、館の跡は金色堂の西南方にして十餘町をへだつ、高館よりも南にあたれり、今は田畠となせり、鎭守府将軍陸奥出羽押領使藤原C衡、膽澤・江刺・和賀・稗貫・志和・岩手の六郡を領し、七十三代堀河帝の嘉保元年、江刺郡豊田館を磐井郡平泉に移して居館を構へ、平泉館と號し奥御館と稱す、其子鎭守府将軍睦奥出羽押領使藤原基衡、其嫡子鎭守府将軍陸奥從五位上藤原秀衡まで、相継で奥御館と稱して其館に住す、其子陸奥押領使藤原泰衡、父が趾を領する事三ヶ年にして、文治五年九月、ョ朝卿の爲にほろぼさる、嘉保元年甲戌より泰衡滅亡に至るまで、都て九十六ヶ年なり、愚按に、東鑑にC衡が康保年中に、豊田館を平泉に移したると云へるは、嘉保の誤なり、嘉保元年よりC衡の卒せし大治元年丙午に至まで、三十三ヶ年なり、是則清原實俊がョ朝卿へ言上せし年数に合す、或説に、康保は康和の誤なるべしと云ふ、然るに康和元年已卯より大治元年までは二十八ヶ年にして、三十三ヶ年の数に足らざる時は、其数に合する者を取らんか、又東鑑の内に加賀あり、按するに、是和賀の誤なり、膽澤・江刺より和賀・稗貫・志和・岩手六郡、並び続けるを以て證とすべし、或る説に、加賀は加美郡の誤なりと云へるはひかごとなり、加美は膽澤より南方二日路餘の行程をへだつ、六郡連続の内、和賀一郡を除きて、加美を加ふるべきにあらず、且本書六郡の事を載る巻末に、和賀・稗貫誤て部貫と書す、のこと有り、近きにあるをとらずして、遠きに求むべからず、

一、加羅楽趾、新御堂の東、北上河の西、高館の東南に在り、今の海道の北なり、東鑑に、無量光院の東門に一郭を構へ、加羅楽と號し秀衡が常の居所となす、泰衡も相続て居所とすと云へり、里俗又伽羅御所とも云へり、

一、泉酒趾、平泉館の南にあり、今の海道の東なり、三代の時醴泉の湧出せる所なりと云ふ、其趾今にあり、愚按するに、其醴泉の甘味を稱してかく名付たるにや、又按するに、此所平地にして泉あり、上古より此郷を平泉と號せしは、此泉に因て呼べるにや、

一、白山・日吉兩社趾、平泉館趾の西南にあり、

一、鈴澤池、昔右兩社の前にあり、今其形少く残れり、西を池上と云ひ東を池尻と云ふ、

一、祇園社、王子諸社、山神社、館の南にあたれり、以上三社、東館の説を前に挙ぐ、此社海道の東にありしを、後生今の地に移せり、毎年六月十四日祇園牛頭天王の祭あり、

一、鈴懸、昔は修験金峰山に入峰して、歸國して鈴懸を此所に納めしと云傳へり、

一、櫃が森、五郎ひつ森とも云ふ、昔黄金を掘出せし所なり、

一、比丘尼寺山、昔尼寺の在りし所なり、寺趾今に在り、

一、鳥屋崎屋敷、昔鳥屋崎備中居館趾なり、

一、日向館、阿土日向居館趾なり、

一、大佛趾、古釋迦の大佛有り、一、大佛館、黒澤豊前居館なり、一、新城館、同豊前隠居せし所と云ふ、按するに、鳥屋崎・阿土・黒澤等は秀衡以後の人なるにや、

一、寄水観音、昔北上川洪水の時、観音堂流れ来りたるを、此所に建しと云ふ、又佛像なりとも云ふ、一、幸神、道祖神の宮なり、一、達谷日光權現、毛越寺日光權現社領の地なり、故に勧請すと云ふ、一、木守權現、善阿彌山の内に在り、此並に木船明神有り、往古常泉と云ふ者勧請せしと云ふ、

一、修正田、昔正月修正料免田なり、一、霜月田、昔霜月二十四日天台師講料免田なり、一、月忌田、昔両阿彌陀佛供料免田なり、一、大田川、達谷川の下なり、平泉にて大田川と云ふ、一、大田橋、今は大橋と云ふ、一、黄金澤、古砂金湧出し所なり、今小金澤と書す、

一、善阿彌山、古より常行堂、正月廿日祭禮の節の、柴燈木を採し所なり、元禄年中の頃よりやみたり、一、木守權現、善阿彌山の内にあり、澄江云、木守は子守に書するが、吉野に子守の宮・勝手の宮とてあり、又木船の社有り、昔常泉と云ふ者勧請せしと云、近世、此社の本佛は不動なりとて、像を建立して安置す、

一、寄水観音、昔北上川洪水の時、佛像堂共に流よりたるを安置せし所なり、佛像今はうせてなし、文禄年中の洪水に流れよりしと云、

一、幸の神社、海道の東にして畑の中に今杉一本有る所なり、往古、道祖神勧請の所なり、一、此丘尼寺山、黄金澤の西、今の達谷道よりニ三町南にあり、磁石八九間四方にて今に残れり、何れの世に創立し、何れの時断絶せし事知るものなし、里人の言傳ふるには、此寺野火にて焼亡くしたりと云へり、愚按するに、亂世の時不幸にて、愁にしづめる人々尼となりて、此寺に籠り居て讀經年佛して、西方往生を願ひしなるべし、

一、馬場、むかし山王祭禮の時、やぶさめありしと云ふ、

一、小極、祇園祭禮の御旅所なりと云ふ、或人云、洛東本社の御旅所をは京極と云へり、此所をも昔は京極と云けるにや、今は小極と云ふ、

 

<居館趾

 


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最終更新日 1999.11.19 Hsato