義経伝説ホームへ

相原友直小伝

 

平泉舊蹟志

 

相原友直著

飯川 勤校

 

<衣川>

 

一、衣川柵、衣川村に在り、安倍頼時・同貞任が居館なり、中尊寺山下海道より五六町ほ
                                                        (ケンタン)
  ど、衣川の上にあり、櫻の古木有り、門外の並木の殘れるなりと云ふ、里俗、間斷斷

  櫻と云ひ傳へたり、東鑑に、文治五年九月二七日、頼朝卿安倍頼時が衣川遺跡を暦覧

  し給ふと云へるは、此所なるべし、衣川館の事にはあらず、衣川館の條と参看すへし、

  衣川、名所なり、此川源二筋あり、北は上衣川村杳Vに出、南はC水大森に出で、同

  村百袋に至て二川相合し、中尊寺の後を東に流れ、北上川に落つ、衣川・北上川とも

  に、百年前の地圖を以て考合すれば、川筋甚だ昔に異なるなり、

 

拾遺         読人しらず
       (は)
 袂より落る泪やみちのくの衣川とぞいふべかりける
                                    (源カ)
                       兼  昌
  (永久百首 夏衣)
 夏たつとしるしも見えず衣川いつも舟よる浦しなければ
  
  (玉吟集)              (家隆脱カ)
 誰が袖につゝむほたるの衣川思ひあまりて玉ともゆらん

  永承五年十一月後綱朝臣家の歌合、水鳥

                         読人しらず
      (おしどり)
 衣川妻な鴛の聲きけばまづ我が袖ぞさへまさりける

   (夫木和歌集抄 川)
  松近河と云ふこと 衣川陸奥           西行法師

 衣川汀によりて立浪は峯の松が根あらふなりけり

    (山家集)                                                                                                              (殊外)
 十一(十)月十二日、平泉にまかりつきたるけるに、雪降り嵐はげしく、ことの

 ほかあれたりけり、いつしか衣川見まほしくて、まかりむかひて見けり、河
                                                       (事 柄) (様)
 の岸につきて衣川の城しまはしたることから、やうかりはりて物を見

 る心地しにけり、汀水てとりわけさむければ、

      (取り分)     (し)(凍)(冱)(ぞ脱ヵ)     (今日)
  とりわきて心もすみてさへわたる衣川見にきたるけふしも

一、衣郷、則此地の林里衣の里なり、或云参河の國なり、
          
           (夫木和歌集抄 雑 里)                  (宇多天皇皇孫女)(みこ脱カ)   
     六帖題御歌 紅梅 衣のさと陸奥       中 務 郷

 わきも子か衣の里の梅の花さぞ紅の色に埃らん

同(為忠朝臣家歌相)               意 尊 法 師
                                                                                 (ね)
 春過て夏のひとへになりなから衣の里は名こそかはらぬ

                         鷹 司 院 按 察
            (は)                    (ぬ)
 今よりの霞もさこそ立ゐらん衣の里に春しきぬれば為忠朝臣家歌相 参河國名所歌相衣里

 よをかさね深山立出るほとゝぎす衣の里にきつつ鳴くなり

   右一首は参河の地を詠す、

一、陣場はり山二箇所、頼義・義家か頼時・貞任等、征伐の時陣しける地なりと云ふ、

一、吉次屋敷跡、下衣川村に在り、衣川の北なり、門家等の舊礎猶あり、金商人三條吉次

  信高一説に孝春が屋敷趾なり、又今の一ノ關・山の目の間にも、吉次屋敷の蹟あり、

一、照井館跡、

一、北上河、此川と阿武隈川とは、封内南北二川の大河なり、昔は平泉の東長部山の流れ

  しが、今は數十町西の方高舘の下を流る、百年以来の事なりとかや、昔の川跡、今は

  沼となれり、高舘も此川流度々洪水によりて、崩れかけて昔より甚せはし、此川濫觴

  南部岩手郡に在り、廚川より奥道八十里ほとゝ云實否を尋むへし、奥なり、北上山通寶寺有

  り、俗に御堂観音と云ふ、堂の傍に弓悄池あり、是即ち北上川の源なり、池と云ふは

  涌出る清泉を云ふ、此川岩手・志和・稗貫・和賀の數郡を歴て、仙壷領に入り、膽澤・

  江刺・磐井・登米・本吉・遠田・桃生の數郡を過ぎ、鹿股にて二つに分れ、一筋は牡

  鹿郡石の卷にて海に注ぐ、一筋は本吉郡追波にて海に入る、或説に此川安倍頼時、長

  部山に平泉の東方、櫻を植し時、櫻川と號せしといへど、東鑑には、麓を流るゝ川を

  北上川と云と有て、櫻川とはいはず、又田村将軍達谷の寄文にも北上川とあれば、昔

  よりの名なること疑なし、

一、佐藤庄司屋敷跡、東山長部に北上川の古川沼となれる有り、是を長部沼と云ふ、此沼

  の上に在り、

一、諸士小路趾並市井趾、此舊趾、今の北上川の東方に有り町の名田畠に残れるも有りと

  云ふ、

一、駒形嶺、一名多和志根山、平泉の東長部村にあるが故に、長部山と云へり、是東鑑に

  いはゆる頼時が櫻を三十餘里に植し駒形嶺なり、一説に、たわしね山は、信濃の名所

  なりといへど、山家集の説を以て見る時は、此山をも云へり、

   陸奥國平泉にむかひて、たわしねと申す山の侍るに、こと木は少きやうに、櫻の限

   見えて花の咲たるをみてよめる、

山家集                     西 行 法 師
            (束 稲)
  きゝもせずたわしね山の櫻花吉野のほかにかゝるべしとは

  奥に猶人見ぬ花のちらむあれや尋ね越らん山ほとゝぎす

  愚案するに、仙壷封内に駒形山三ヶ所有り、一には膽澤郡西根村、神名帳の駒形神社

  なり、一には栗原郡三ノ迫庄沼倉村、駒形根(ママ)神社なり、此二山は大山にして出
                      (束 稲)
  羽仙北の境なり、一は磐井の駒形嶺にして多和志根山なり、

一、衣關、名所なり、高館をへだつこと壷町、今の海道高舘・中尊寺の間なり、關の趾有

  り、或人曰、衣關其傍に關山明神あり、今是をは膽澤郡白鳥村にあり、鵜木と云ふ關

  門屋敷と云へり、愚案するに、東鑑に、安倍頼時奥六郡を押領の時、西は白川關まで

  十餘日の行程、東は外ヶ濱まで十餘日の行程の中間にあたり、關門を開き名つけて衣

  關と云へり、此説に據る時は、頼時が時に始て關を構へたりと見へたり、又前太平記

  には、衣川關は貞任が父安倍頼時が、六郡を押領してより以来八十餘年、此城に居住

  すと云へり、是衣川に近きが故に、衣關とは名づけたるなるべし、又清衡の時中尊寺

  を關山と號せしは、衣關の此山に相隔たる事著し、或説に、白鳥村の關跡は、中尊寺

  より奥道拾餘里をへだつ處なれば別の關門なるべし、猶後の考を待つのみ、

  (詞花集 別)
  道貞忘れて侍ける後、みちの國の守にて、下りけるにつかわしける、

                         和 泉 式 部

  もろともにたゞましものを陸奥の衣の關をよそに見る哉

   建保六年歌合 冬關月

續後撰                      順徳院御製
      (むみ)
  風さゆる夜半の衣の關守はねられぬまゝの月を見る哉旅の歌の中に、

續拾遺 旅                    大蔵卿行宗
                  (み)
 都出て立歸るべきほど近し衣の關を今日そこへ(とひ)ぬる


                                      (藤原家良)
同                        衣笠内大臣
                            (か) 
 旅人の衣の關をはるばると都へたてゝ幾日來ぬらん

  寶治百首歌奉りける時、寄關戀、

同  戀五                    前参議忠定
                                            (の)
 跡たえて人もかよわぬ獨り寐に衣の關をもる泪かな

                         膾從三位為子
         (あけ)
 行人もえそ吹やらぬ吹返す衣の關の今朝の嵐に

 友達の東の方へまかりけるに、かくともしらせて、

 まかりくたりければ、よみてつかはしける、

續千載 賀                    藤原顯綱朝臣

 東路の立るをたにもしらせねば衣の關のあるかひもなし

  嘉元百首歌奉りける時、
 
(夫木和歌抄)                  (藤原)
夫木 春日 (花)         前中納言定家

 櫻色に四方の山風染てけり衣の關のあけぼの

  洞院攝政百首、花、
                                       (藤原)
同                        大納言經成卿

 花の香をゆく手にとめよ旅人の衣の關の春の山嵐

(同)                      親 隆一寂然法師

 ほとゝぎす衣の關に尋來てきかぬ恨をかさねつる哉

  嘉元百首歌奉りける時、旅、                津 守 國 助

 旅ねする衣のせきをもるものははるばるきぬる泪なりけり
                                       (源)
  堀川百首(關)                 藤原顯仲朝臣

 白雲のよそに聞しを陸奥の衣のせきをきてぞ越ぬる

  光臺院入道五十首
                                       (藤原)
夫木下同                     正三位知家卿

 櫻色の衣のせきの春風にわすれがたみの花の香ぞする

                         近衛院因幡光俊女

 紅葉散る衣のせきを來て見ればただかたつまを染るなりけり

(同)嘉暦二年十月法性寺殿歌合關路葉落
                                       (源通親)
                         土門内大臣

 なりかゝる紅葉の綿うへにきて衣の關を通る旅人
                                  
 (重之集)            (おいに)(をみて)
    衣川のせきの長のおわしけるときゝて、
                                       (源)
                         重  之

 昔見し關守見れば老にけり年のゆくをばえやはとどめぬ

 家集には衣の關のおさ有しよりも老たりしをとあり、
                                       (藤原)
新葉集                      為  忠
                                         (うら)
 露むすぶ袖を衣の關路とや空ゆく月も影とどむらん

一、櫻川、中尊寺と高舘の間を流る廣三間程の川なり、住還の土橋あり、西の山間より流

  れ北上川に入れり、或人櫻川と云ひしは、ョ時の時に長部山に櫻を植て、其麓を流るゝ

  北上川を云ひしといへど、東鑑にも麓をながるゝ川は、北上川と有て櫻川とはいはず、

  別に考る處有て、かくいへるにや、いぶかし、

一、紅楓櫻・岸の松、何れも古歌によみたる名木なり、其時の木は枯たるなるべし、

一、衣川館、又高舘とも云ふ、百年程以前、古城跡を記せるには、東西四百六十間餘、南

  北百三十間、高さ五十間とあり、其頃は、北上川東山の麓を流れしが、今は此館の下

  をながる、昔の地圖を以て見るに、百年以來の事なり、度々の洪水に崩れかけて今は

  甚せまし、此館中尊寺より、東南にあたり八町餘をへだつ、秀衡の時民部少輔基成朝

  臣を居住せしむ、又義經の頼朝卿の勘気をを蒙り下向せし時、秀衡此

  城の別館に居らしむ、是を柳御所と云けると云ひ傳へり、其趾と云ふは東方にあり、

  義經は其館に於て自殺せりと云ふ、基成は其時の騒動にもかまひなく、泰衡が滅亡の

  後まで猶高館も居住せり、是義經の館兵燹の時も、基成の館は火災をのがれたると見

  えたり、其間のへだゝりぬることはかり知ぬべし、頼朝卿、泰衡が平泉館の焼跡に陣

  して、千葉六郎太夫胤頼に命じて、彼らを召るゝ處に、基成三人の子息を召つれ降人

  に出たる事、東鑑に見えたり、或説に、此館を安倍頼時が築き、同貞任が住せし衣川

  柵なりと云ふはひがことなるにや、東鑑に、頼朝卿の頼時が衣川の遺跡を歴覧し給ふ

  時、郭土空く残りて秋草鎖す事數十町、礎石何くにかある、舊苔埋むこと百餘年と云

  へり、これを以て考るに、此衣川館の事にはあらず、前にも云へる如く衣川館は、泰

  衡か平泉館炎上の時まで、基成居住し火災を遁れたる事分明なり、豈にかくの如く秋

  草鎖すと云ひ、礎石いつくにあるやと云はんや、これを以て館と柵とは、別なるの證

  據とすべし、續日本紀桓武帝、延暦八年六月、征東将軍泰稱、従玉造塞至衣川營四日

  云云、是を以て考れば、衣川營は昔よりこれある事分明なり、然るに其地柵をいへる

  にや、館をいへるにや考ふべきなし、然るに、今其要害を以ていはゞ、衣川館の事な

  らん歟、尚後の考をまつ、

一、義經堂、高館にあり、義經の腰懸石と云へる石有て、堂はなかりしとぞ、然るに、天

  和三年癸亥の歳、郡司河東田平衛定忸、祠堂を建立せん事を太守に白す、前太守綱村公

  命有て祠堂を建立せしめ給ふ、定忸村老に問に天和三年より五十年以前ほどまでは、祠

  堂有りしと云へけるとぞ、定忸上梁文を、松島通玄和尚に請て書せしむ、

  義經廟上梁文、

  陸奥州高館者、源氏義經故城也、義經薨後遂作荒墟、天和年中、當州大守仙壷羽林綱村

  公家臣、河東田氏長兵衛定忸、来治諸郡之登此山、訪遺塵寒煙蔓草四顧荒涼、故老相傳

  五十年前、此地有霊祠、定忸慨然而歎曰、義經者、大将軍頼朝公令弟、其軍功威名市街

  豎童無不知焉、豈有不封尺寸地剪一莖芽、而安神霊乎、即興平泉衆徒共議之而白公、大

  守命之草創一宇以銕瓦茸之人咸號之曰義經堂、其功其徳雖専歸大守原厥濫觴實出自郡吏

  吏定忸之善心、豈可不獲善報乎可喜可尚、仍賦一偈充上梁文偈曰、

  以平等心為基趾 霊廟新成輪奐美

  爼豆来藻川漣綺 篝籃高館城蒼翠

  君蒿悽愴如見之 勿疑壷霊垂光賁

  蓋代功名昨夢回 従前汗馬総兒戯

  假令四海闘英雄 争似早出離生死

  血流漂噛古戦場 純白蓮華捧隻趾

  我有一巻了義經 天龍八部常側耳

  幸是猛烈大丈夫 降伏魔軍超佛地

  大功徳主奥州刺史仙壷羽林伊達英胃 藤原朝臣綱村公天和第三葵亥年十一月七日 松島

  山下此丘通玄達敬識義經像、寶歴の生害處と云ふ、今は枯たり、察するに後人の附會な

  らんか、

一、新山權現社、即羽黒權現なり、高館の上東方に在り、此所の鎮守なるか故に、里人後

  世に此地に祭ると云ふ、

一、柳御所趾、高館の東方なり、秀衡、義經を此館に居らしむると云ふ、又一説には、清

  衡・義經を此館に居らしむると云ふ、又一説には、清衡、基衡二代の居館と云ふ、

  賦高館古戦場出本朝一人一首

  高館聳天星似胄 衣川通海月如弓 義經運命紅塵外 弁慶揮威白浪中

 

一、猫間淵趾、高館の下東南にあり、今は田となる、義經滅亡の時、長廿丈ほとの大蛇此

  淵より出たりなど、俗間に傅ふるC悦物語と云へる書にあり、又近世鏤板の鎌倉實記

  にも、蛇の出たる事を載たり、何れも信用しかたき事なり、又俗説に、猫間扇に似た

  る石、中島に有し故名つくるとも云ふ、其外陋説多し、何れも採るにたらす、愚按す

  るに、京千本釋迦堂は秀衡の建立にして、其地は、猫間中納言光隆卿の家司岸高か、

  宅地を捨て寺と爲せしと、雍州府志に出たり、此淵を猫間と號せしは、是等によりて

  事實あることなるにやいぶかし、

一、弁慶屋敷趾、高館の北にあたり、今の北上川の流るるあたりなるべしと云ふ、

一、鈴木三郎重家屋敷趾、高館の下西北にあたる櫻川の下流に近し、

一、葛西屋敷趾、中尊寺の南、高館の西にあり、文治五年九月ョ朝卿下向の時、葛西三郎

  C重奥州惣奉行を奉り、且平泉郡内檢非違使所の事を管領せし時、此地に館を構へ、

  C重より以後三代此所に居住し、其後登米に移りしと云ふ、天正年中まで子孫相継て、

  登米・牡鹿兩郡に居城を占む、其末葉今東奥太守の家臣たり、

一、金鶏山、圓隆寺の鬼門にあたり、高館未申にある山を壹のかたちに築けり、基衡黄金

  を以て鶏の雌雄を造り、此山の土中に築こめて、平泉を鎭護せしむると云ひ傅へり、

  又郷説に、秀衡漆萬盃の内に、黄金億金を交へ土中に埋み隠し置く、末世の子孫に遜

  り傅へんとせしと、里俗のかたり傅へしは此山の事なり、其時の歌なりとて、

   朝日さす夕日かかやく木のもとに漆萬盃黄金萬置く

   又億置とも云へり、

一、經塚山

一、爪C泉、金鶏山の下にあり、平泉全盛の時、此水に爪を浸すに、水の寒冷に依て、爪

  破裂するか故に名けしとそ、

一、花館山、金難山の東に在り、平泉全盛の時の花園の地なり、一説には金峰山祭禮の時、

  吉野櫻の造り花を地に立て、御輿の御旅所とすとも云へり、

一、御旅宮跡、衣関の南に在り、

一、三十三間堂趾、今熊野跡に並ぶ、

一、今熊野堂跡、金鶏山の下にあり、近世まで礎残り有しを、用水堤を鑿し頃土手の内に

  築籠めたりと云ふ、用水堤とは田畑に用る水を貯る池を云ふ、

一、岩土穴、社の邊にあり、此穴の口經二三尺、深四五尺、元禄年中迄は十二ほと有り、

  今は一ツ残れり、俗是を御竈と云ふ、

  此堂趾の田より、寶暦九年己卯の春、此所の農民田の畔より壺を掘り出せり、其内に

  廻り二寸ほどの丸き玉と黄金とあり、玉は其形荷葉に水を包めるを見るがことし、水

  晶より猶Cき物なり、黄金の形は柿の實に似て大小ありし、色は少赤きかことし、壺

  は或者行基焼なりと云へるとそ、則是を國主に捧く、

一、岩倉、其由来を傅へす、愚按するに、昔平安城山東西南北の山に、經を納て岩倉と名

  つけ、王城の鎭護を爲す事は、雍州府志に見えたり、然れば三代の時、平安城の岩倉

  を模せる旧跡なるへし、

 

<衣川

 


義経伝説ホームへ

相原友直小伝

このページのトップへ

最終更新日 1999.11.12 Hsato