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相原友直小伝

 

平泉實記

平泉實記巻之四

 

 目録
 
 

 平泉僧侶安堵

  附 頼朝卿御下文

  平泉堂社・伽藍

  附 清衡経蔵寄文

 京都 奏聞降人生捕

 諸士勸賞

 鎭守府八幡宮

 泰衡黨類


 

 

平泉實記巻之四

東奥 気仙 相原友直 著

 

平泉僧侶安堵

 附 頼朝卿御下文

頼朝ハ清衡・基衡・秀衡三代の間、磐井郡平泉に於て數多の堂社・寺院を建立するのよし聞召(きこしめさ)れ、去る九日、陣が岡より比企藤内朝宗を彼地につかはされ、此度泰衡を誅戮(ちゅうりく)せらるるといへとも、僧侶において其科なきの間、牢籠(ろうろう)あるべからす、且佛餉・燈油の田を宛行るへきの間、佛閣寺院の員數を註進すべしと仰下されける、同十日、中尊寺経蔵別當大法師心蓮、陣がをかの御旅館に参上して患(うれえ)申て曰く、仰關山中尊寺ハ、経蔵以下佛閣・塔婆等、清衡草創たりといへとも、忝(かたじけなく)も七十四代

鳥羽院 勅願の霊場にして年序是久し、寺領を寄附せられ、又御祈祷を募置(つのりおか)るる所也、経蔵にハ紺金銀泥行交の一切經を納給ふ、事に於て厳重の霊場なれバ、頽發(たいはい)なきのやうに御惠をかうふらんことを希(こいねがい)候也、次に當國御合戦によつて寺領の土民等怖畏し、資財・雑具をはこひかくし、深山幽谷にかくれ居候、早く本所へ安堵つかまつるへき旨を仰下されんことを奉願候とぞ訴へける、則彼僧を御前に召れ、C衡以來建立せし所の寺塔の事をたづね給ふ所に、分明(ぶんみょう)に答え申けれは、追て巨細(こさい)の言上を注進すべしと仰含らる、依之先、

  經藏領骨寺境四至、東鎰懸(いつかけ)、西山王窟(いわや)、南岩井河、北峯堂、馬坂也、

右御奉免の状を下さる、且逐電の土民等、早く本所にかへり住居すへきの旨を仰下され、齋院次官親能これを奉行す、同十一日、平泉の内、寺々の住侶源忠已講(いこう)・快能等も、又陣か岡の御旅館に参上す、よつて心蓮法師をはじめ彼僧等に御下文を賜ハる、其趣は、寺領の事、C衡鳥羽院 勅願圓満の御祈祷料所を募置給ふの上ハ、向後も先例の通相違あるべからさる也、尤寺領の事ハたとへ荒廢の地たりといへども、地頭等防をいたすべからざる旨を載られける、同十七日にハC衡以來造立する所の堂塔伽藍の事、源忠已講・心蓮大法師等一々に記録して奉りければ、齋院次官親能・比企藤内朝宗、御前においてこれをよむ、ョ朝は是を聞給ひ、忽に信心をもよほし給ふ、よつて寺領先規にしたかひ悉く寄附せらるるの間、御祈祷間断すべからすと仰下され、則圓隆寺の南大門に押べしとて、一紙のを壁書(へきしょ)賜ハる、其文に曰く、

  平泉内寺領者、任先例所寄附也、縦堂塔雖爲荒廢之地至佛餉(ぶつしょう)・燈油之勤者、地頭等不

  可致其妨者也、

衆徒等是を頂戴し、いそき平泉にかへり、圓隆寺の南大門にかけたりけれハ、僧等をはしめ土民等に至るまで面々これを拝見し安堵の思をなしたりける、

 

 ョ朝卿御下文(おんくだしぶみ)

  鳥羽院御願關山中尊寺御經藏所領骨寺之内、籠居(ろうきょ)人等事、早於彼雑人等

  者、還本住所、可成安堵思也、但、限骨寺内境東鎰懸(いつかけ)、南岩井河、西山

  王窟、北峯堂之末限馬坂、總於境者可限水境(みずさかい)也、仍所被仰下執達如件、

   文治五年九月十日                 親義 華押(かきはん)

  ○「史料編一」22親能奉書案と對校す。

  右古來中尊寺ニ相傅ル所、東釜ニ被下御奉免状ト云モノコレナリ、按ズルニ、今磐井

  郡五串(いつくし)村ノ内本寺ト云所アリ、御下文ノ説ニフン合ス、コレ所謂骨寺ナルベシ、

  骨寺ハC衡ノ時ヨリ經藏ニ寄附セシ地ナリ、寄文ニアリ、末ニ附ス、

 

平泉堂社・伽藍

衆徒(しゅうと)等ハョ朝卿の仰によつて、三代の間建立の堂社伽藍、佛像・經巻、其外年中の法會、秀衡平泉館に至るまて一々これを注進す、

 

關山中尊寺の事

寺塔四十餘宇、禪房三百餘宇也、C衡六郎を管領するの最初當寺を草創す、先睦奥・下野の境白河の關より外が濱に至りて二十餘ヶ日の行程也、其路一丁ことに笠卒都婆を立て、其表に金色の阿彌陀の像を圓絵す、當國の中心、山の頂上において一つの墓塔を立、

一、多寶寺

寺院の中央にあり、釋迦・多寶の像を左右に安置して其中間に關路(せきじ)をひらきて旅人往還の道路となす、

一、釋迦堂

金容の釋迦如来の像一百餘體を安置す、

一、兩界堂

胎藏・金剛兩部の諸尊ハミな金色の木像也、

一、二階大堂

是を大長壽院と號す、堂の高さ五丈、本尊ハ三尊金色の阿彌陀如来、脇立九體同じく丈六也、

一、金色堂

上下、四壁、内殿みな金色也、堂の内に三檀をかまへ、ことごとく螺鈿(らでん)をもつてこれをかざる、阿彌陀の三尊・二天・六地藏ハ定朝作也、

一、經藏(「吾妻鏡」に記事なし。附の「經藏寄文」に據ったものならん。)

紺紙金銀泥行交の一切經ハ

鳥羽院これを納めたまへり、勅願の霊場たるに依て也、鎭守ハ、南方日吉の社、北方白山の宮、此外宋本の一切經藏、内外陣の荘厳、数十字の楼閣註進するにいとまらす、

 

毛越寺(もうおつじ)の事

堂塔四十餘字、禪房五百餘宇也、

一、金堂

基衡是を建立す、先金堂を圓隆寺と號す、金銀を鏤(ちりばめ)紫檀・赤木等を繼(つぎ)て萬寶を盡し、衆彩(しゅうさい)をまじゆ、本佛ハ丈六の薬師如来、同十二神将を安置す、佛師運慶造之、佛菩薩の像玉をもつて眼に入る事この時より始まれり、

一、講堂・常行堂・二階總門・鐘楼(しょうろう)・經藏

此外の堂塔甍をならぶ、額ハ九條關白家御自筆を染らる、堂中の色紙形ハ参議教長卿の御筆なり、按ズルニ、九條關白ハ忠通ナリ、忠通公ハ前關白忠實公ノ御子ニテ、詩哥ニタクミ、筆跡ハナハダスグレタマヘリ、七十七代後白河院保元年中大内裡造營ノ時、殿門ノ額忠通公コレヲ書タマヘリ、○教長卿ハ三位藤原朝臣教長卿ナリ、宇治左大臣ョ長公ノ御子ニテ、コレモ忠實公ニハ孫ナリ、保元ノ乱ニヨツテ常陸ノ國ニ遠流セラル、

此外造立の間、基衡支度を佛師運慶に請ふ、運慶上品・中品・下品の三品を註し出して基衡に授ければ、基衡中品をつくるべきよしを望ける、則功物として、

 金百兩     鷲羽(わしのは) 百尻(しり)

 七間々中經水豹皮六十餘枚(しちけんまなかわたりのあざらしのかは)

 安達絹千匹

 希婦細布(けふのほそぬの)二千端按ズルニ、陸奥國鹿角郡狹布(けふ)ノ細布ノコトナルベシ、東鑒ニきふトヨムハアヤマリナリ、

 糠部(ぬかのぶ)駿馬五十疋今南部領土二戸・三戸・九戸郡北郡、古ヘノ糠部ナリトイフ、ぬかのぶト訓ズ、古ヘ北郡ヨリ尾駁(おぶち)駮ノ名馬ヲ禁裡ヘミツギモノセシヨリ、尾駁(みまき)ノ御牧ト云、

 白布三千端   信夫毛地摺(しのぶもじずり)千端

此外山海の珍物を添らる、又別祿と稱して生美絹(すずしのきぬ)を船三艘に積ておくりけれハ、運慶これを見て喜悦のあまりに戯れて曰く、喜悦極なしといへとも、なほ練絹大切也と云、使者ハ是を聞て急ぎ奥州に下り、其趣を基衡に告ければ、基衡おどろき悔て、則練絹(ねりきぬ)を船三艘に積ておくりける、凡三ヶ年を経て造出しける、其中京都と奥州との間、上下の夫課駄(ふかだ)山道・海道片時もたゆることなし、かくのことき次第

鳥羽禪定法皇の 叡聞に達し、彼佛像を拜し給ふ所に、さらに比類なき佛なれば、洛外に出すべからずと 宣下せられける、基衡此よしを聞、心~度をうしなひ、持佛堂にとぢこもり、七日七夜飲食を断して祈誓し、子細を九條關白へ愁申ける、關白

天気をうかかひ給ひ、委細の 奏聞を逐給ひて後、つひに 勅許をかうふり、彼佛像を奥州に下し、圓隆寺に安置したてまつる、

按ズルニ、東鑑脱漏(だつろう)ニ嘉祿三年丙戌八十五代後堀河院の年號十一月八日、陸奧國平泉圓隆寺本書ニ、圓ノ字ニ作ル、傅寫ノアヤマリナリ、焼亡(しょうもう)ス、時ニ此災アルノヨシ鎌倉中ニ告廻ル者アリ、然ルニ後日ニ風聞スル所ニ、平泉ノ焼亡ハ彼鎌倉ニ告マハルノ時剋也、不思議ト云ツベシトイヘリ、

一、吉祥堂

本尊観世音ハ洛陽補陀落寺の本尊を模(うつ)し奉る、生身(しょうしん)のよし託語(たくご)あり、厳重の霊場たるの間、さらに丈六の観世音の像を建立し、件(くだん)の佛を其内に納めたてまつる、

一、千手堂

千手観音木像、二十八部衆合金銀をちりはむ、

一、鎭守ハ總社、金峯山、東西に勧請したてまつる、

一、嘉勝寺

基衡是を建立す、未終功以前に死去するによつて、秀衡是を造畢す、四壁ならびに三面の扉(とぼそ)に法花經二十八品の大意を彩盡(さいが)す、本尊ハ丈六の薬師如来、

按スルニ、平泉ニ於テ嘉祥トモ嘉承トモ書ス、嘉祥ハ慈覚開基ノ年號、嘉承ハ堀河帝ノ暦號ナリ、東釜ニハ嘉勝ニ作レリ、

一、観自在王院

是を阿彌陀堂といふ、基衡が妻(さい)、鳥海(とりのうみ)三郎宗任が息女の創立也、四壁ハ洛陽の霊地・名所を圓絵す、佛檀ハ銀なり、高欄は磨金(まごん)、

一、小(こ)阿彌陀堂

是又基衡か妻の建立也、障子色紙形(しょうじしきしがた)は、参議教長卿の筆也、

 

無量光院の事

是を新御堂(しんみどう)と云、秀衡是を建立す、本尊ハ丈六の阿彌陀也、堂の内四壁の扉(とぼそ)ハ観經(観無量壽經)の大意を圓絵す、又秀衡自ら狩猟する體(てい)を圓絵す、院内・院外の荘厳に地形(じぎょう)に至るまで、悉く宇治の平等院を模(うつ)せり、

一、三重の寶塔
 

鎭守の事

一、中央に總社、東方に日吉・白山の兩社、南方に祇園の社、王子の諸社、西方に北野天神・金峯山、北方に今熊野・稲荷等の社也、何れも本社の儀を模せり、

 

年中恒例法會の事

二月 常楽會

四月 舎利會

六月 今熊野會 祇園會

八月 放生會

九月 仁王會

購読師・請僧、或三十人、或百人、或千人也、舞人三十六人、楽人三十六人

兩寺一年中問答講の事按スルニ、兩寺ハ中尊寺・毛越寺(もうおつじ)ノコトナリ、長日(ちょうじつ)延命講  彌陀講  月次(つきなみ)問答講、正五九月最勝十講等也、

 

秀衡が館の事

平泉館

金堂の正方、無量光院の北に並びて宿館(しゅくかん)をかまへ、平泉館と號す、

一、加羅楽(かららく)

無量光院の東門(とうもん)に一郭(いっかく)をかまへ加羅楽と號す、是秀衡が常の居所(きょしょ)也、泰衡相継で居所となす、

一、西城戸に嫡子西木戸太郎國衡が宅あり、泉屋の東に三男泉三郎忠衡が宅あり、四男本吉冠者隆衡が宅にならぶ、

 

高屋(たかきや)の事

一、観自在王院と南大門(なんだいもん)の南北の道、東西より数十丁に及て宿(しゅく)を作りならぶ、倉町もまた数十字の車宿(くるまやどり)あり、

 

右註文、源忠・心蓮をはしめ衆徒(しゅうと)等これをととのひてョ朝へささけける、

 

 C衡經藏寄文

鳥羽院御願 関山中尊寺金銀泥行交一切經藏別當職之事

僧蓮光所

所領骨寺 磐井郡有之

御堂出入料田淡畋(染段)、屋敷壹所瀬原有是レ之

燈明料屋敷肆所内北谷・赤岩兩所端麓レ之、瀬原村有之

毎日御沸供料白米二斗、可入銅鉢貳之、自高御倉可被取請之

毎月箱拭料上品絹壹疋、白布壹畋(段)、自御改所可被取請之

毎年正月修正・二季彼岸懺法(「毎日毎御沸事請僧壹口可被請定」の一行脱)、毎月文殊講、彼以骨寺田畑(畠)、一向可募之故也、是偏聖朝安穏御祈祷、無懈怠可令勤仕、右件於自在房蓮光者、為金銀泥行交一切経奉行、自八箇年内書寫畢、依之、且為奉公、且為器量故、御経蔵別當職所定也、就中、令寄進御経蔵蓮光往古私領骨寺、然間限永代、任蓮光相傳、致御経蔵別當骨寺、不可在他人妨、仍可令寺家宜承知之状如件、

                          俊慶 判

天治三年(丙午脱)三月二五日           金C兼 判

                        坂上季隆 判

                       藤原C朝臣 判

右古來中尊寺ニ相傳ル所ノ寫ナリ、此外古へヨリ近世ニ至リテ數通ノ文書アリ、北條相模守貞時・同陸奧守宣時・北畠中納言顯家・若狹守行重・平忠泰・仁木右京大夫義長・前越前守親重・浅野彈正少弼長政・關白秀次等、其外古文書多シ、

 

泰衡之党類

樋爪(ひづめの)太郎俊衡入道ハ、去る九月四日、其居所樋爪の館(たち)に火を掛て、一族を引具し奥の方へ落けるが、泰衡も誅せられ、其外一門從類或ハ討死し、或ハ生捕れて、行末ョすくなく覚けるにや、同月十五日、俊衡入道ならびに舎弟樋爪五郎季衡(すえひら)等、厨川の御旅館に來りて降人(こうにん)に出(いで)たりける、俊衡子息三人を相具す、太田冠者師衡・二郎兼衡又義衡トモイヘリ、・河北冠者忠衡也、季衡が冠者子息一人新田冠者經衡也、ョ朝は彼等を召出し、其體を見給ふに、俊衡ハ齢已に六十に及び、白頭老羸(ろうるい)の體なりければ、是を憐ミ思しめされ、八田右衛門尉知家に預らる、知家是を相具して休所にかへりける、俊衡法華經読誦の外に一言をも発せず、知家もとより佛法に帰依しけるゆゑ、是を見て随喜甚深し、同十六日、此趣をョ朝へ言上す、ョ朝往日(おうじつ)法華を持せられけれバ、彼が罪名を定られず、もとの住所樋爪の館を宛賜り安堵すべきよしを下知せらる、是しかしなから十羅刹(じゅうらせつ)の照鑑を優(ゆう)したてまつるの旨を仰含らる、同十八日、秀衡が四男本吉冠者高衡降人となる、下河邊庄司行平是を召進す、泰衡が一方の後見熊野別當をバ上野介義兼これを召進ず、およそ残党ことごとく以て是を得たまふ、

 

京都 奏聞降人生捕

九月十八日、飛脚を京都に登せらる、是康平五年九月十七日、ョ義朝臣此厨川の棚に於て、貞任・千世童子等(ちよどうじら)が首を得、ならびに宗任等を擒(とりご)にせられし佳例(かれい)にかなひ、今又その時日をたかへず、文治五年九月終に宿望を達せられ、同十八日、消息(しょうそこ)をととのひ給ひ、吉田中納言經房卿を以て奏聞(そうもん)せらる、其状に曰く、

  追討泰衡事、先日以脚力令言上候訖、而其党類樋爪俊衡法師・同五郎季衡等、焼樋爪

  館逃籠奥方候、即継候而、厨川与申館迄罷著候之間、俊衡法師季衡等爲降人出來候

  註折紙謹而進上之、其中俊衡法師年齢(よわい)高候之上、依令受持法華經、宛給本

  住所而、所令安堵候也、其外之輩皆召具候而、鎌倉可上道候、而其後可進京都候歟、

  又相計候而、関東住人抔(などに)可預給候歟、何様(いかよう)可令沙汰候哉、來

  月内可罷著鎌倉候、又重而自鎌倉可令言上候也、以此旨可令洩達給候、ョ朝恐々謹言、

 九月十八日        頼朝

進上  師 中納言殿

 

 私言上、

今年計(ばかり)暫与御制止候を、催軍士不可黙止之間、無左右打入候而、如此令追討泰衡候訖、

宣旨之候得者、不及左右候へけると承候、内々御気色可仰給候、當時恐入候也、抑前民部少輔基成息男三人所召取候也、彼基成雖非指武士云平家時、云此時、偏輕

朝威之候、而交名不載折紙候事、非指武士候之故也、勤言、

 

 折紙状云、

降人

 本吉冠者高衡  秀衡法師四男

 樋爪俊衡法師  男三人

 太田冠者師衡

 次郎兼衡     又義衡トモイヘリ、

 河北冠者忠衡

 樋爪五郎季衡  俊衡法師舎弟

 男新田冠者経衡

 件之輩、不洩一人召調候事者、今月九月十八日也、仍所令上達候也、

飛脚ハこれを受取、御旅館を進發す、さてまた降人生捕の面々、俊衡法師は御免をかうふり元の住所に安堵す、由利八郎は先達て御免を蒙る、佐藤庄司基治・名取郡司・熊野別當等も恩免をかうふり、各本所にかへりけり、其外多くの囚人所々に於て放免せられ、残る所わつかに三十餘人を鎌倉に召具せらる、民部少輔基成父子の四人ハ奥州にのこしおかる、此度召具せらるべきといへとも、させる勇士にあらざるによつて也、子細を京都言上せらるるの間、暫くこれをなだめおかれ追て左右あるべき旨を仰含らる、

 

諸士勸賞(けんしょう)

同月廿日、頼朝卿ハ奥州・羽州等の事吉書始(きつしょはじめ)の後、軍功の軽重をただし、諸士の面々に動功の賞を宛行はれ、御下文をたまハる、或は今日書下さるる所也、千葉介常胤最初に是を拜領す、およそ恩賞をほとこし給ふごとに、常胤をもつて初とすべきのよし、兼日(けんじつ)御約束の上意をかうふりける故也、其外勸賞の人々其員(かず)あげてかそへかたし、先國中神社沸閣の祭祀供養の事、先規泰衡が時の例にしたがひ是を執行(しゆぎよう)すべし、次に金師等において違亂をなすへからざるの旨、浴恩の輩に仰含らる、畠山重忠にハ葛岡郡玉造郡ニ葛岡村アリ、コノ地ナリト云、をたまハる、是狹少の地也、重忠かたへの人に語りで曰く、このたび重忠先陣を奉(うけたまわ)るといへとも、大城戸合戦の時他人の為に先登(さきがけ)を奪ハる、其子細を知といへとも我敢て是をととめず、其賞を傍輩(ほうばい)に周(あまね)うせんが為也、今是を見れバ果してミな數ヶ所の廣博の地を賜ハる、おそらくは芳志といふべきか、とぞ語りける、又宇都宮右衛門尉朝綱が郎從に紀權守波賀二郎太夫等が動功の事、頗る御感(ぎょかん)をかうふる、但し所領をたまハるに及はず、旗二流を下さる、永く子孫に傅へ、家の眉目(みめ)にそなふべきのよし仰を蒙る、小山下野入道政光が郎從保志黒二郎・永大六次池二郎等同じく旗・弓袋をたまはる、動功の賞によつて下し給るによし銘を加へられ、文治五年九月廿日と、民部丞平盛時仰をかうふり、是を書す、ここに手越平太(てごしのへいだ)といふ者あり、此の度御共に候し、其功を募り、勸賞を蒙らん事を言上す、駿河國麻利子(まりこ)の一色(いちゆう)を賜らば、浪人を招ぎ居、驛家(えきか)を建立せんと言上申ければ、則望に任せ早く宛行はるべきのよし、斎院次官親能(中原)に仰付らる、次に陸奥の國の御家人等の事、葛西C重奉行すへし、参士(さんじ)の輩ハC重に属し子細を啓(けい)すべきの旨仰下さる、且又平泉の郡内檢非違使所の事、C重管領すへきの旨御下文を賜はる、郡の内に於て諸人の濫行を停止し、罪科を糾弾すべきのよし仰付らる、凡C重が此度の勲功抜群たるに依て是等の重職を奉るのミにあらず、あ剰へ膽澤・岩井・牡鹿(おじか)等の数郡、其外数ヶ所を拝領し、國中所務の爲に奥州に止置給ふ、

 

鎭守府八幡宮

同廿一日、膽澤郡鎭守府に著給ひ、八幡宮の瑞籬(みずがき)に奉幣し給ふ、此八幡宮は第二殿と號し奉り、延暦年中坂上田村麿征東大将軍の勅命を蒙り、東夷征伐の爲當國に下向ありし時に、崇敬(そうぎょう)の霊廟を館勧請し給ひし所也、即彼卿の帯する所の弓箭ならびに鞭等を納置給ふ、今に至りて寶藏に納めつたはれり、ョ朝ハ是を拝覧し給ひ、ことに欽仰(きんごう)し給ふ、神職等を召出され、向後に於て神事御願として執行すべきのよしを仰付られける、第五巻ヲ参看スベシ、

  按ズルニ、膽澤郡八幡村(やはたむら)八幡宮今ニオイテ鎭守府八幡宮トイヘリ、寶

  殿ニ最霊(くしみたま)トイフ石アリ、又古ヘノ剣・鏑矢(かぶらや)等今ニ傅レリ、

  里老ノ日、鎭守府ノ舊蹟ハ方八丁也トイフ傅アリト、又隣村ニ竈殿(へついでん)ト

  云社アリ、辻ナト云田圃ノ字アリ、舊名ノノコレル成ベシ、

  ○按スルニ、クシミタマト申奉ルハ、筑前國怡土郡(いどのこほり)深江村八幡宮ノ

  御神體ナリ、神功皇后異國征伐ノ時、御鎧(よろい)ノ上帯(うわおび)ニサシハサ

  ミタマヘル鎭懐石(ちんかいせき)ナリ、萬葉集ニ建部牛麿ガ歌

   安女津智乃登茂仁此左之久以比津計徙(アメツチノトモニヒサシクイヒツケシ)

   古乃久志美多麻之加志計良之毛(コノクシミタマシカシケラシモ)

  ト云ルハ此石ノコトナリト云、田村麻呂其神體ヲ勧請シタマヘルニコソ、

 

平泉實記巻之四


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最終更新日 1999.10.8 Hsato