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相原友直小伝

 

平泉實記

平泉實記巻之三

 

 目録
 
 

 平泉館炎上

 泰衡落文最期

 樋爪館(ひづめのたち)没落泰衡之首

 實政・則景争生捕

 合戦次第奏聞

 高水寺衆徒(しゅうと)訴訟

 泰衡追討 宣旨

 ョ朝卿 陣が岡發駕

 C原實俊・同實昌


 

 

平泉實記巻之三

東奥 気仙 相原友直 著

 

平泉炎上

泰衡ハョ朝卿に先だち高波々の城をもおちゆき、蝦夷が嶋をこころがけ、猶奥の方へと逃にける、八月廿一日にハ、平泉館の門前を通りけるが、後よりの大軍事急也けれバ、暫時も止り得ず、郎從計をつかハし、火を放たしめければ、東西一時に燃上り、黒烟天に冲(のぼ)り、C衡以來甍をならべし峻宇(しゅんう)樓閣、杏梁桂柱(きょうりょうけいちゅう)の溝へ、累世積蓄たる麗金混玉(れいきんこんぎょく)、其外府庫門牆(ふこもんしょう)に至るまで、一片の烟(けぶり)と聳へ、忽に灰燼(かいじん)と成て失にけり、廿二日、大雨猶頻也といへとも、ョ朝ハにぐる敵を追かけ、其日の申の剋に平泉に著給ふ、降続たる大雨にて昨日の餘烟も打しめり、秋風蕭風(しょうさつ)として数丁の焼土茫々(ぼうぼう)たり、ここに坤(ひつじさる)の隅にあたりて一宇の府庫(くら)餘煙の難をのかれて残れるあり、葛西三郎C重・小栗十郎重成等をつかはされ、是を見せしめ給ふに、藏の内にハ沈木(じんぼく)・紫檀(したん)以下の唐木の厨子数脚あり、其内に納る所の物にハ、

  牛の玉                        犀角(さいかく)

  象牙の笛                       水牛角

  紺瑠璃等の笏(しゃく)                金の沓(くつ)

  玉の幡                        金の華鬘(けまん)以玉飾之

  蜀紅錦(しょくこうにしき)直・不縫帷(かたびら)   金(こがね)の鶴

  銀造(しろがねづくり)の瑠璃の燈爐          南廷(なんてい)百各盛金器

其外錦繍陵羅(きんしゅうりょうら)其数あけて記しかたし、象牙の笛・不縫帷(ぬはざるかたびら)はC重にたまハる、玉の幡・玉の華鬘ハ重成に賜りて氏寺を荘厳せんと望申けれバ、則是を下されける、廿三日、右兵衛督能保卿へ御消息(みしょうそこ)を遣ハさる、其趣は、八月八日・同十日両日に合戦を遂、昨廿二日平泉に著候畢ぬ、しかるに泰衡深山に逃入のよし其聞へ候の間、かさねて追繼んと欲し候なりと云云、雑色時澤(ときさわ)是を帯し、平泉を發足し京都へとぞ登りける、同廿五日、評定有て、泰衡をさがしもとめんが爲に軍兵の存亡いまだ分明ならさるの間、猶の方へ追かくへきのよし也、さてまた前民部少輔基成は今に於て衣川館を立退さるのよし、今日千葉六郎太夫胤ョをつかはされ彼父子を召れけり、胤ョハ彼等敵對に及ハバ一々に生捕んと心懸郎等を召連共、基成兵具をとるに及ハず、三人の子息を相具し手をつかねて降人(こうにん)に出ければ、胤ョハ彼者共を召具して御陣へぞ帰りける、此基成朝臣ハ鎌足公の御末、中關(なかの)白道隆八代の後胤、播磨三位末隆の孫、伊豫三位忠隆の子にて、中納言右衛門督藤原信ョの兄なりしが、平治の乱に信ョ誅せらるるの後、基成奥州へ配流せらる、秀衡是を衣川館に居らしめ、其女を我が後妻として二男泰衡、三男忠衡を生り、按ズルニ、建久四年七月三日、小栗重成ガ郎從常陸ノ國ヨリ鎌倉ニ來リテ、梶原景時ヲ以テョ朝ヘ言上シテ曰ク、重成今年ハ鹿島造營行事タルノ所ニ、去ル頃ヨリ所労ハナハダ危急ナリ、其體タ、コトニアラズ、頗ル物狂ト云ツベキカ、神託ト稱シテ無窮ノコトバヲ吐ク、去ル文治五年、奥州平泉ニオイテ泰衡カ庫ヲヒラカルルノトキ、重寶等ノ中ニオイテ玉ノ幡金ノ華鬘ヲ申ウケ、氏寺ヲ荘厳スル所ニ、毎夜夢ノ中ニ、山伏数十人重成カマクヲモトニ群集シテ件ノ幡ヲコフ、此夢十ヶ夜相ツ、クノノチ心神違例スト云云、

 

 

泰衡落文最期

同廿六日、ョ朝卿ハ平泉に逗留し給ふ所に、御旅館の邊へ日出る頃に匹夫(ひつぷ)一人來りて、一封の状を投こミ逐電(ちくでん)して其状をョ朝へささぐ、則齋院(さいいん)次宦中原親能によませらる表書に云く、

  進上鎌倉殿侍所

状中に云く、

  伊豫國司事者、父入道奉扶持訖、泰衡全不知濫觴(らんしょう)、亡父之後、請貴命

  奉誅訖、是可謂勲功歟、而(しかるを)無罪忽有征伐、何故哉、依之去累代在所、交

  山林尤不便(ふびん)也、両國己可爲御沙汰之上者、於泰衡蒙免除、欲列御家人、不然

  者、被滅死罪、可被處遠流、若垂慈恵有御返報者、可被落置于比内郡之邊、就其是非帰

  降、可走参之趣を載にけり、これによつて重々の沙汰あり、

土肥二郎實平申けるは、こころミに御返報を比内郡今出羽ノ國比内郡コレナリ、ヒナイト訓ズ、東釜ニヒウチト訓ズ、捨置、密に勇士一両人をかくしおきて、其書を取に來る者を搦捕(からめとり)、泰衡が在所(ありか)をたつね問れ候ハバ然るへしと言上す、ョ朝仰けるは、其儀におよぶべからず、返書を此内郡におくへきのよし言上するの上は、軍士等かの郡中をさがしもとむべし、と有ければ、面々これを領掌す、かくて九月二日、ョ朝卿は泰衡がかくれ居たる所を尋ねんが爲に平泉を打立給ひ、岩手郡東鑑ニ岩井郡ト云ハアヤマリナルベシ厨川の邊へ趣き給ふ、是先祖ョ義将軍、貞任等追討のとき、十二ヶ年の間所々において合戦し、勝負を決せさる所に、厨川の棚において彼等が首を得たり、其佳例によつて彼所(かしこ)に至りなバ必定泰衡が首を得べしと、内々思案し給ひけり、扨又泰衡ハ蝦夷が島へ行んとこころさし、糟部郡或人ノ白ク、糟部ハ糠部の誤ナリ、今ノ三ノ戸・二ノ戸・九ノ戸・北郡まて糠におもむく、ここに比内郡贄(にえ)の棚今ノ羽比内ノ大館コレ也トイフ、に累代の家人河田二郎といふ者あり、泰衡これをョてかくれ居たる所に、河田たちまちに君臣の義を忘れ、数代の荷恩を顧ミず、彼首をとり、ョ朝へ捧げ恩賞にあづからんと企て、郎從等をして泰衡を相かこましめ、終にこれを殺しける、時に文治五年己酉九月三日也、

  陸奥押領使藤原朝臣泰衡年三拾五

  鎭守府将軍兼陸奥守秀衡二男

  母民部少輔藤原基成女

  文治三年十月、繼於父遺跡爲出羽・陸奥押領使、管領六郡

  按ズルニ、寛治六年C衡出羽・陸奥ノ押領使トナリシヨリ、基衡・秀衡・泰衡ノ四代

  ヲ歴(へ)テ、文治五年ニ至リ、九十八ヶ年ニシテ其家断絶ス、

   文治五年ノ夏、陸奥ノ國津軽ノ海邊ニ大魚ナガレヨル、其形ヒトヘニ人ノゴトシ、

  是泰衡誅戮セラルルノ怪異(けい)也ト云、東鑑三十八巻ニ出タリ、

 

 

樋爪館没落泰衡之首

九月四日にョ朝卿ハ志和郡に著給ふ、ここに當郡樋爪館館ノアト、イマ志和郡五郎沼トイフ沼ノ東北ニアリ、ハ樋爪太郎俊衡入道が居館(いかん)也、此俊衡ハC衡が四男泉十郎C綱が嫡男也、しかるに此度ョ朝發向によつて、所々落城するのよしを聞て、去ぬる頃館に火をかけ一族を引具して奥をさして落てゆく、ョ朝は此よしを聞たまひ、三浦介義澄・同十郎義連・同平六義村等によほせて俊衡を追討せしめ給ふ、今日ョ朝ハ陣が岡峰の社陣ガ岡峰ノ社志和郡アリ、里老ノ日、ョ義公貞任征伐ノ時、陣營ノ地ナリ、故ニ陣ガ岡トイヘリ、C衡奥六郡ヲ領スルトキ、ソノ營跡ニ八幡宮ヲ勤請ス、故ニ土民八マンヲ略シテ八ノ社トイヘリ、東釜ニ、峰ノ字ヲカキタルハ訓同キヲ以テアヤマルト云リ、に陣せらる、しかるに北陸道の追討使比企藤四郎能員・宇佐美平次實政ハ、去る八月十三日に出羽の國に於て田河太郎行文・秋田(あいた)三郎致文(ともぶん)等を討亡し、ことことく出羽の國を打靡(なびかせ)、此所に來りて本陣に相加ハる、今日諸軍勢の人数を改むるの所に、諸人の郎從等を加へて軍士都合二十八萬四千騎也、此説、軍兵ノ一人ヲ一騎トスルモノ也、騎馬ノ数ヲモツテイフニアラズ、其勢野に塞り山にみち、思々に陣取て颯々(さつさつ)たる秋風に吹靡きたる白旗ハ、満天の雲にことならず、同六日、河田二郎ハ抽賞を蒙らんと主人泰衡が首を陣が岡に持來り、景時を以て是をさゝぐ、此旨ョ朝に言上しければ、義盛・重忠両人におほせて彼首を實驗せしむるのうへ、泰衡が家臣なりける囚人赤田二郎をめし出し、これを見せしむるに、うたかふべくもあらぬ泰衡が首にて候と申ければ、則義盛に預おかる、又景時をもつて河田に仰含られけるハ、汝が所爲一旦功あるに似たりといへとも、元より泰衡ハ我掌の中の者也、何ぞ他の武略をからんや、汝たちまちに譜代の重恩を忘、主人を殺(しい)するの咎八虐(はちぎゃく)をまねくの間、抽賞を加ふべきに非ず、且後輩を懲(こら)さんが爲に身の暇をたまハる、其後泰衡が首を梟(きょう)せらる、康平五年九月、ョ義将軍の貞任が首を梟せられし時、横山太夫經兼が奉(うけたまわり)として門客貞兼をもつて件の首を受とり、郎從惟仲(これなか)をして是をかけしむ、長さ八寸の鐵釘(てってい)を以て打付たりければ、此度も其例を引用ひ給ひて、經兼か曾孫小權守時廣(そうそんこごんのかみときひろ)に仰て、其子息時兼をして彼首を景時が手より受とり、郎從惟仲が七代の後胤廣綱を召いだし、是をかけさせらる、鐵釘は昔の例を用らる、

 

 

實政・則景争生捕

九月七日、宇佐美平次實政ハ泰衡が郎從由利八郎を生捕、陣岡に相具し來て其旨を言上す、しかる所に天野右馬允則景も同じく御前に進出、由利八郎をハ某が生捕候、と披露をなす、依之たかひに争論におよびける、ョ朝聞給ひ、主計允(かずのえじょう)行政に仰付られ、両人を鎭給ひてのち、彼者ともが由利を生捕たるとき著したる甲(よろい)の毛ならひに乗たる馬の毛色を尋問せられ、是を印しおかせらる、其後彼兩人の實否を由利に尋問へきの旨景時に仰らる、景時ハ由利が前に行立向て云やう、汝ハ泰衡が郎從の内名ある者なれば、定めて虚言すべからざるか、實正にまかせ言上すへき也、何色の甲を著たる者汝を生捕たるや、と問たりける、由利是を聞て怒ていふやう、汝は兵衛佐殿の家人か、今の口状過分の至、たとへをとるに物なし、故御舘(こみたち)秀衡ヲサス、秀郷将軍嫡流の正統たり、以上三代将軍の號をくむ汝が主人ハかくのこときの言葉を發すべからず、況やまた汝と我と對揚(たいよう)の所いづれか勝劣あらんや、運つきて囚人となるハ勇士の常也、鎌倉殿の家人をもつて奇怪をあらハすの條、甚いはれなし、今門所の事ハさらに返答するに及はずとぞ申ける、景時赤面し頼朝の御前にかへりて、此男悪口も外別の詞なきの間、糾問せんと欲するに術なしと言上す、頼朝おほせけるは、景時無禮なすによつて囚人是をとがめたるなるへし、尤道理也、重忠早くこれをたつぬへしと有けれは、重忠ハ手つから敷皮をとり、由利が前に至りて是に坐し、禮を正うし誘(いざなつ)て云く、弓馬に携る者敵の為に捕はるるハ漢家(かんか)・本朝の通規也、必恥辱といふへからす、就中、故左典廐義朝永暦年中横死の後、二品ョ朝も又囚人となりて六波羅に向はる、結句豆州に配流せらる、しかれども佳運むなしからす、遂に天下を拉(ひ)き給ふ、貴客生捕の名をかうふるといふとも、始終沈倫の恨を遺すべからさるか、奥六郡の内において貴客ハ武勇の誉を具ふるのよし、兼て以て其名を存るの間、勇士等勲功を立んが爲に、客を搦得るの旨たかひに争論に及び候、よつて彼等が甲を云、並びに馬の毛付を云畢ぬ、彼等が浮沈此事に極るべき者也、何色の甲を著て何毛の馬に乗たる者に生捕れ給ふぞや、分明にこれを申さるべしといひければ、由利是を聞、客は畠山殿殊に禮法を存せらる、前の男が奇怪には似ず、尤是を申べし、まつ我をとりて馬より引おとしたる武者ハ、黒糸威の甲を著て鹿毛の馬に乗たり、其後追々來る者ハ嗷々(ごうごう)として色目をわかず候也といふ、重忠は則御所にかへりて此趣を言上するの所に、件の甲ハ實政也けれバ、彼か勲功にきはまる、ョ朝仰けるは、此男の申條を以て心中の勇敢を推察すたづねらるへき事あるの間召出すべしと有ければ、重忠是を相具して御前に参ず、ョ朝幕を上これを見給ひて仰けるは、己が主人泰衡ハ威勢を兩國の間にふるふが故に、我此度の征伐の事難儀におもふの處尋常の郎從これなきにや、河田二郎一人が爲に誅せらる、およそ兩國を管領し十七萬騎の貫主として、敵を百日ささゆること能ハず、僅に二十日が内に一族悉く滅亡す、いふに足さること也と仰ける、由利答て申けるハ、尋常の郎從少々主人に相從といへども、壮士をハ所々の要害に分ちつかハし、我等ことき不肖の族(やから)ハまたかくのことく生捕らるるの間、主人の最期に相ともなハず候也、抑故左馬頭殿義朝ハ東海道十五ヶ國管領せらるるといへども、平治の逆乱の時一日をもささへ給ハすして没落せらる、数萬騎の主たりといへとも、長田庄司が爲に輙(たやす)く誅せられ給ふ、古と今と甲乙いかがおはしめさるるや、泰衡の管領せらるる所は僅に兩國にして、其勇士をもつて数十日の間賢慮一篇をなやまし奉る、不覚とおぼしめさるべからす、と憚諂(はばかりへつら)ふけしきもなく返答申けれバ、ョ朝重ねての仰もなく則幕を垂給ふ、由利をハ重忠に召預られ、芳情を施すべきのよし仰付られける、同月十三日、勇敢の誉あるによつて恩免をかうふりける、ただし兵具を許されず、

 

 

合戦次第 奏

同八日、主計允(かずえのじょう)藤原行政におほせて、此度の奥州合戦の次第を記さしめ、吉田中納言經房卿を以て

禁裡へ奏聞せらる、其状に曰く、
 

爲攻奥州泰衡、去七月十九日、打立鎌倉、同廿九日、越白河關打入、八月八日、於厚加志楯前合戦、靡(なびかし)敵訖、同十日、越厚加志山、於山口秀衡法師嫡男西城戸太郎國衡為大将軍向逢合戦、即討取國衡訖、而泰衡自多賀國府以北、玉造郡内、高波々申所構城郭相待、廿日、押寄候之處、不相待落件城訖、自此所平泉中間五六日道候、即討繼訖、泰衡郎従等於途中相禦、然而打取為宗之輩等、寄平泉之處、泰衡廿一日落畢、頼朝、廿二申刻、著平泉、泰衡、一日前立逃行、猶追繼、今月三日、打取候訖、雖須(すべからく)進其首候、遼遠之上、非指(させる)貴人、且相傳家人也、仍不能進候、又於出羽國、八月十三日合戦、猶以討敵候訖、以此旨可令洩言上給、頼朝恐々謹言
九月八日
                           頼朝
進上 師(そちの)中納言殿


雑色安達新三郎清經信仰をかうふり、御書を帯して則進發したりける、
 
 
 

高水寺衆徒訴訟

同九日、頼朝卿ハ猶蜂の社に逗留し給ふ、其近辺に寺あり、高水寺といふ、此寺人皇四十八代稱徳天皇の勅願として、御丈一丈の観世音の像を、諸國に安置し給ふ所の随一也、しかるに彼寺の住僧禅修房をはじめ、衆徒十六人、御旅館に来りて訴へけるは、頃日御野陣の間、御家人等の僮僕(どうぼく)多く当寺に乱入、金堂の壁板十三枚をはなちとり候、冥慮(めいりょ)尤量がたし、早く糺明を遂られん事を希ひとぞ申しける、頼朝おどろきて給ひて、則景時をめして、彼者ともをたつね出すへしと仰ければ、景時これを尋ねもとむるに、宇佐美平次実政が僕従の所業也けり、則かの者共を召捕、仰によって彼犯人の左右の手をきり、釘をもつて其手を居たの面に打付て、衆徒の鬱憤(うっぷん)を散せしむ、其上衆徒等に、寺中興隆の事に付て望所あらハ言上すべしと仰下さる、彼者共は、今度訴訟の儀御裁断をかうふるのうへは、更に望所なく候とて、各寺へかへりける、湯山高水寺ハ南部領志和郡郡山村ニアリ、ムカシ清衡伊豆ノ走湯権現ヲ勧請シテ鎮守トナス、山上ニ清水アリ、寺ヨリタカキコト数丈、故ニ高水寺トイウ、近世寺ヲ盛岡ニウツス、観音ノ像ハモトノ地ニアリ
 
 
 

泰衡追討 宣旨

同日の晩、京都の守護右馬頭(藤原)能保より指下さるゝ所の使者、陣が岡に到着す、持参する所は、さる七月十九日の口宣也、並に院宣を添下さる、泰衡追伐の事一旦制止給らるゝといへとも、かさねて計らひ申さるゝの旨尤可然のよしなりける、使者申て曰く、此 宣旨七月廿四日に奉行蔵人大輔(藤原)家実卿より師(そち)の中納言經房卿へおくらる、同廿六日に經房卿より、右武衛(うぶえ)能保卿へおくられ、同廿八日に京都を發足し、今日は到著仕候、と言上す、宣旨に曰く、

  文治五年七月十九日 宣旨
武蔵國住人泰衡等、梟心(きゅうしん)稟(うけ)性、雄張辺境、或容隠賊徒、而猥同野心、或対捍(たいかんして)詔使、而如忘朝威、結構至、既渉逆節者歟(与)、加之、掠籠(りゃくろう)奥州・羽州之両國、いたさず公田之乃貢(のうぐ)、恒例の仏神事、納官封家(のうかんほうけ)の諸済物、其勤空忘、其用欲缺(欠)、奸謀(かんぼう)非一、嚴(厳)科難遁、冀(よろしく)仰正二位源朝臣臣、征伐其身、永断後濫、

蔵人宮内大輔藤原家実 奉(うけたまわる)

右の宣旨使者是を捧げれハ、頼朝拝覧し給ひける、

 

 

頼朝卿陣が岡發駕

頼朝卿ハ同十一日まで七ヶ日陣か岡に逗留し給ふ、しかるに高水寺の鎮守ハ走湯権現を勧請し、其傍に又小社あり、大道祖と號す、これ清衡が勧請也、此社に大なる槻木(つきのき)有、頼朝卿彼樹の下に至りて、走湯権現に奉ると称して上箭(うわや)の鏑(かぶら)二筋を射立らる、里俗コレヲ頼朝公矢立ノ槻トイフ、其樹近世カレテ根ノミノコレリ、継ノ木ヲ矢立槻トイフ、又頼朝公腰カケ石ト云アリ、是伊豆の走湯山ハかねて崇敬し給ふ所の神なれば也、今日陣が岡を立給ひ、厨川棚今南部領岩手郡ニ城アトアリ、本丸・二丸・砦・堀・井等ノアト今ニノコレリ、に移らる、是より北西にあたり、二十五里の行程なれバ、黄昏に至らすして彼所に著給ふ、厨川の坤(ひつじさる)の隅(すみ){仗次の波気(はき)を點し御館を定らる、今日工藤小二郎行光杯酒椀飯を獻ず、是當郡ハ行光拝領すべきによつて、別して仰かうふり、此儀にハおよびける、同十三日、此間兩國騒動によつて庶民寃屈(べんくつ)におよぶ、或ハ子孫を失ひ、又は夫婦にわかれ山林に身をかくし、五穀収藏の時を失ひけるによつて、彼者共を召集、面々本所へ安堵すへきの旨を仰含られける、其上宿老の面々にハ、綿衣一領・駿馬一疋づつ賜ハりけり、

 

 

C衡實俊・同實昌

同十四日、奥州・羽州兩國の省帳(せいちょう)・田文(たぶみ)今云檢地ノ水張ナリ、以下の文書を求給ふ所に、平泉炎上の時、焼失して其巨細を知かたきによつて、古老の者に尋給ふに、奥州の住人豊前介C原實俊ならびに弟(おとど)橘藤五實昌といふ者、故實を存するのよし申上けれバ、則召出され、子細を問せ給ふ所に、兄弟の者ども暗(そら)に兩國の繪圖を注進し、諸郡の券契(けんけい)、郷里の田畠を辨ひ定む、山野河海ことことく其中に見たり、餘目三所を記し洩すの外、さらに犯失なし、ことに御感の仰をかうふり、則御家人にめしつかハるへきのよしを仰下され、眉目(びもく)をぞほとこしける、按ズルニ、東釜巻ノ十二ニ鎌倉ノ公事奉行人前豊前介C原眞人(まっと)實俊ト云ハ乃此人ナリ、

 

平泉實記巻之三

 


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最終更新日 1999.10.4 Hsato