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ジョン・レノンの「アクロス・ザ・ユニバース」と宮沢賢治 

−芸術の創作過程に夢が介在する時−


1 「アクロス・ザ・ユニバース」を解釈する

ジョンレノンの作ったビートルズ時代の傑作に「アクロス・ザ・ユニバース」という曲がある。この曲を聴きながら、ふと宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を思い出していた。まあ、ジョンの傑作の中でも、この歌の内容をめぐって、これほど誤解されている歌も少ないかもしれないが、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」もまた、宮沢が伝えたかったメッセージを真に理解している人は本当に少ない。その意味で、この「アクロス・ザ・ユニバース」の歌詞を読み解きながら、併せて宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」という作品との比較を試みてみたい。

ジョンはもちろん宮沢賢治のことを知らなかったであろうが、並々ならぬ自意識と想像力に富む言葉に対する鋭敏さは、どこか共通するものがあるように常々感じてきた。別に先のふたつの作品が共に宇宙を表現したからというようなことではなく、自分が心の中で、築き上げていく、作品の一コマ一コマ、あるいは言葉の選択の仕方が、私に宮沢とジョンの時代の僅かな位相の中で「連なる魂」というものを感じさせるのである。

ジョンはその歌の中でこのように歌い出す。
「言葉は、長雨がペーパーカップの中へ降り注ぐように、飛び散っては消える
(Words are flying out like endless rain into a paper cup)
それは滑り且つ過ぎ大宇宙を遙かに越えて何処かに滑っては消える
(They slither while they pass They slip away across the universe)
悲しみはプールとなり、歓びは波となり、私の真実の心を漂っている
(Pools of sorrow waves of joy are drifting thorough my open mind)
悲喜こもごもの言葉の雨は、私を捉え、そして私に口づけをくれる
Possessing and caressing me
たとえJai(?)でも、導師(グル)でも、悪魔でも、呪文でも
(Jai guru deva om)
私の世界を変えることなどできないのだ。
(Nothing's gonna change my world)

何たる強靱な自己への思いであろう。ジョンは後に、この歌を作るきっかけについて、インドのある導師(グル)との出会いであると告白したことがある。しかし彼は大いなる疑念を持って、帰ってきた。それは導師の女性スキャンダルから発した思いであったが、それ以後、ジョン自身は、この導師と距離を置き、多くを語らなくなった。それはまさにジョンの若い魂が出くわした大いなる失望の経験であった。その意味で、この歌は、大いなる失望の歌と言えるで。

ジョンは、この歌の中で、自分の心の世界を宇宙に喩え、自分の広大無辺な宇宙の中に入ったならば、たとえどのような導師でも、私の心の中にある宇宙を変えることなんて不可能だと宣言をする。考えてみれば、この世界に人間が発生し、文明というものが形作られた時から、宗教というものは、多くの人間の心の拠り所として、人間社会そのものを支えてきたのである。でもジョンは、そのような宗教の中にある大切なものを知りながらも、もしもその中に、ある種の危うきものを、見つけた時には、自分の内部という宇宙の光りに照らして、それが真実であるか虚偽であるかを見抜く力をすでに持っていたようである。

続けてジョンは、歌う。

壊れた光りのイメージが、百万の瞳となって私の前で踊る
(Images of broken light which dance before me like a million eyes)
それが私を呼び止め、大宇宙を越えて「行こう・行こう」と誘いかけるのだ
(That call me on and on across the universe)
すると私の思いは、郵便箱の中に吹く風のように落ち着きなくふらふらと彷徨い
Thoughts meander like a restless wind inside a letter box
イメージが創り上げる「大宇宙の越える道」とやらに盲目的にのめり込むでしまう
(they tumble blindly as they make their way across the universe)
たとえJai(?)でも、導師(グル)でも、悪魔でも、呪文でも
(Jai guru deva om)
私の世界を変えることなどできないのだ。
(Nothing's gonna change my world)

この歌は明らかに怪しげな新興宗教が、一人の人間を幻覚的な甘い誘惑をもって誘い込み、そのイメージが一人の人間を幻想の世界に留めてしまう姿に対する強靱な自己による反逆の歌詞である。多くの人は、この歌の意味をよく分からずに、LSDを吸引した時の幻覚を歌にしたものとか、インド思想にジョンが傾倒していた時代の幻想的な作品と解釈している人物が多いが的を得た解釈ではない。これはある導師に対する思想的訣別の歌なのである。

さらに続けてジョンは歌う。

人生の影たちの笑い声はサウンドとなり、
Sounds of laughter shades of life
私の耳穴を通して鳴り響いている
are ringing through my open ears
それは私を興奮させ、私の心をそそるのだ
exciting and inviting me
限界もなき不滅の愛が
Limitless undying love which
百万の太陽をちりばめたように私の周囲で輝いている
shines around me like a million suns
それが大宇宙を越えて、どんどん行こうと私を呼ぶのだ
It calls me on and on across the universe

たとえJai(?)でも、導師(グル)でも、悪魔でも、呪文でも
(Jai guru deva om)
私の世界を変えることなどできないのだ。
(Nothing's gonna change my world)

この歌は、1968年2月4日に録音された。実はジョンとジョージが、インドへの旅に出たのは同年2月16日である。するとこの歌は、失望の歌、訣別の歌というよりは、ジョンの中にあるある種の宗教的不安のようなものが作らせた歌と言えるかもしれない。つまりこれまで自分が信じてきた宗教とは、異質な宗教者に会うという緊張が、どこかに自己防衛的な本能を呼び覚ましてしまったということになる。あるいはジョンの強烈なる魂(無意識)が、会う前にして、「どんな聖人だって、簡単に”ああそうですか”と弟子になるような俺ではないぞ、と宣言した結果かもしれない。ともかくはっきりしていることは、どうしても眠れなかったジョンが、この歌を作った後は、不思議なほどぐっすり眠れたということである。その意味でこの歌は、ジョンの魂が、均衡を保つための補償的な役割を果たしていたということになる。

優れた芸術というものは、このようにして誕生するものなのだろう。要するに理性が勝ちすぎたような作品ではなく、自分の魂が均衡を保つ為に作られた作品が、たまたま人の心に共鳴し、共感を呼び、傑作として、世に残っていくのであろう。

ジョン自身この作品に対しては、評価が揺れている。初めはこの歌詞を見てくれ、この歌詞はメロディがなくたって「詩」そのものとしていいだろう。と言っていたのが、80年のラストインタビューの辺りになると、大した歌ではない、と語っている。それはこの歌のアレンジが満足いくものではなかったので、それがいやな思い出として残ってそのように語ったのかもしれない。しかし私はジョンという芸術家の凄まじい自意識と先見性をこの歌に感じて背筋が寒くなる思いがするのである。

私は、このジョンの自意識の中に「ブッダの魂」というものを感じる。それはブッダが死ぬ前に弟子のアーナンダに遺した言葉を思い出したからだ。死の床に就いたブッダは、泣いているアーナンダに向かってこのようにいった。
「何も悲しむことはない。また言い残すこともない。人生に秘密などない。すべてお前には教えてきた。ただ自分を信じ、自分の心を光りとして、修行に励みなさい。」

人は何か、人生に大いなる秘密でもあって、それを諭してくれるのが、宗教であったり、偉い坊さんや聖人という人だと思い込んでいる節がある。そこに怪しげな新興宗教でも蔓延る精神的基盤がある。しかし大事なのは、自分の中から発せられる心の光を当てて、実物を見、判断できる眼なのだ。左翼的と一般には思われているジョンだが、ジョンは左翼でも右翼でもない。例えば彼は「ホワイト・アルバム」の「レボリューション(革命)」という作品の中で、「君は革命・革命というけれど、物事すべてを破壊するような考えには賛成できないな。世の中を変えるのは賛成が、革命のようなもので、世界が変わるとは思えない。まず自分の頭の中を変えようや、そして時期を待て、時代は少しずつ良くなっていくさ」というようなことを歌った。当時ジョンは、学生革命を鼓舞して「悪魔を憐れむ歌」などを歌っていたローリングストーンズに対して、体制派の日和見主義と見られていた。しかし今時代を遡って考えてみて、ジョンが抱いたあの時の「学生革命」に対する「メッセージ」の正当性は、誰も否定できないほど正しいものであった。
 

2 賢治の銀河鉄道の夜のテーマを探る

人は、夜空に輝く星というものに古来より特別の思いをもって見上げてきた。古人はそこに神の存在を見、人は死んだ後には、皆その星空に駆け上り、星になるのだということを考えるようになった。もはやジョンレノンも宮沢賢治も、今を生き、夜空に輝く星を見上げる我々にとって、ひときわ煌めく星そのものだ。

いつしか果てしなく広がる海に乗り出した人間は、暗い夜も夜空に輝く星を頼りとして、方向を探り、航海の目的とする地に辿り着くことを覚えた。

その意味で、ジョンや賢治は、やはり星そのものである。我々は彼らのけっして多くはない作品を通して、人間の想像力の素晴らしさを発見し、憧れを抱き、彼らのようにかっこよく行くものではないが、何とかその後を追いたいと感じ、自らの短い人生をいかに生きるべきかを教えられるのである。

正直に言えば私は時代的な背景もあってか、ジョン・レノンほど、宮沢賢治を好きだった訳ではない。中学生の頃、「銀河鉄道の夜」を読んだ記憶があるが、途中で投げ出してしまった記憶がある。今読んでも「銀河鉄道の夜」という作品は、難解で非常に分かりづらいと思ってしまう。だから「銀河鉄道の夜」を、子供に勧める親や先生がいると聞くと、首を傾げたくなる。「大人も分からないものを子供が分かるはずもないではないか・・・」と。

さて賢治が「銀河鉄道の夜」という作品を通して、言いたかったことは何だろう。誰か答えられる人はいるだろうか。おそらく賢治自身も、「アクロス・ザ・ユニバース」を聞かれたジョンのように、その答えは二転三転してしまう可能性が高い。それはこの作品が賢治にとっても、夢のような作品だったからではなかったか。考えれば、考えるほど難解なこの作品を、多くの人が判で押したように賢治の最高傑作と呼び、子供たちにも推奨しようとする。

周囲の人間にこのように聞いてみた。
「今、銀河鉄道読み直しているんだけれど、読めば読むほど分からなくなってしまう。少し言葉も難解で、表現も複雑だし、第一テーマが見えて来ないんだよ」と。するとたいていの人は、ぼそっと、「実は同じ事を感じていた・・・」という答を返してくる。何故、賢治がこの作品について推敲を重ねながらも、生前に出版しなかったのだろう。おそらくそれは賢治自身が、この作品の価値や意味を計りかねていた節が伺える。賢治の推敲というものが、普通の作品の場合どの程度やっていたものなのかは、知らないが、銀河鉄道という作品に関して残っている資料をみると、多くの推敲を重ねながら、結局決定稿として世に出す自信が持てなかった可能性が高い。

さてこの作品から大きな筋だけを抜き取れば、「友人であるカムパネルラが死ぬ」というただそれだけのストーリーに突き当たる。そこからこの作品が、どうやら死をテーマとして扱った作品であることが分かるだろう。作品の中には、友情らしきものは、微かに垣間見ることができる。しかしそれはテーマではない。次に銀河であるが、この銀河の存在は、死んだ後に人がそこに行くべき、美しき場所という一種の装置である。人が死にと光りに包まれて天上に召されるという死後の物語が、世界各地で類型的に見られるという話があるが、賢治のこのストーリーもまた流れに沿ったものとの見方もできる。しかもこの銀河という死の際に行く場所は、賢治という人物にとっては、特別の意味のある空間ということになりそうだ。

こうして考えてくると、「銀河鉄道の夜」という作品は、宮沢賢治が、自らに刻々と迫ってくる死というものをどうしようもなく受け入れざるを得ない過程において、自らの潜在意識が、それを乗り越えるために書かせた作品のように思える。彼にとって、自らの精神のバランスを取るための「夢」の役割を担った作品なのであろう。もっと分かり易く言えば賢治が死の恐怖から、逃れるために作った作品と言えないこともない。
 

3 「銀河鉄道の夜」の最終章「ジョバンニの切符」を読む

「銀河鉄道の夜」という作品は、先にも述べたように、生前には発表されなかった作品である。この作品に向かい賢治は、凄まじいほどの意気込みで推敲に推敲を重ねた。賢治は迫り来る己の死期を忘れ去るかのように、この作品と格闘し続けた。この推敲は、大きく分けて第一次から第四次にまで渡ったようである。最後の原稿である第四次稿の成立は、昭和6年(1931)から昭和7年(1932)頃だったと言われているから、まさに「銀河鉄道の夜」という作品は賢治の最晩年の白鳥の歌と言ってよい作品だ。しかし賢治は、この作品が世に出るのをが見ないまま、昭和8年、9月21日、37歳の若さで自らがカムパネルラとなってあの世に旅立っていったのである。

さて本題に入ろう。「銀河鉄道の夜」の最終章(「ジョバンニの切符」)で、このような会話が、ジョバンニとカムパネルラの間でなされる。 原文から地の文を除き会話だけを表記してみる。
 

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一諸に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」
「僕わからない。」
「僕たちしっかりやろうねえ。」
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一諸に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」
「カムパネルラ、僕たち一諸に行こうねえ。」
次の瞬間、カムパネルラの姿が消えて見えなくなってしまう。このシーンは、夢を見ていたジョバンニが、友だちのカムパネルラと銀河行きの汽車に乗り、様々な人々と出会い、みんなが降りていって、ジョバンニとカムパネルラが、二人だけとなって語る場面だ。ジョバンニは、本当に静かな気持ちになり、つかの間の幸福感に浸っている。しかし幸福感に浸る間もなく、カムパネルラは何処へ消えてしまう。これはカムパネルラの死を暗示する共時的なシーンである。まあ俗に言えば、カムパネルラがジョバンニの夢に現れて「お別れにきた」ということになるかもしれない。

ところで最終稿では削られているが。第三次稿では次のようなシーンが続く。
 

「おまへはいったい何を泣いてゐるの。ちょっとこっちをごらん。」いままでたびたび聞こえたあのやさしいセロのやうな声がジョバンニのうしろから聞こえました。
ジョバンニははっと思って涙をはらってそっちをふり向きました。さっきまでカムパネルラの座ってゐた席に黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人がやさしくわらって大きな一冊の本を持っていました。
「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてさうなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」「あゝ、ぼくはきっとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいゝでせう。」「あゝわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。」(後略)


このシーンで、カムパネルラの居た場所に突然現れる謎の人物は、ユング心理学で考えればさしずめ人間の誰しもの心の奥に棲む「老賢者」という存在と解釈できる。つまりジョバンニの心の奥底にある老賢者が、ジョバンニに教え諭すシーンなのだ。さてこの老賢者は、手に一冊の本を持っているのだが、これは「地理と歴史の辞典」ということがこの後になって明かされる。内容は「紀元前二千二百年の地理と歴史」が書いてあるものだそうだ。

老賢者のような男が語った「みんながカムパネルラだ」という言葉は象徴的な表現である。結局カムパネルラという存在は、「生命そのものの象徴」と解釈することができる。また「おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりした」という表現から、人間というものが、たえず輪廻転生を繰り返す存在であることをジョバンニに教え諭しているかのようである。

この後に続くシーンで、第一次稿では次のような箇所があったが、やっぱりこれも削除されている。
 

「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」
「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、カムパネルラのためにみんなのためにほうたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」
 「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。」

 あのセロのやうな声がしたと思ふとジョバンニはあの天の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹き自分はまっすぐに草の丘に立ってゐるのを見また遠くからあのブルカニロ博士の足おとの近づいて来るのをききました。
「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を 人に 伝へる実験をしたいとさっき考へてゐた。お前の云った語はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがいゝ。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」(後略)


この削除されたシーンを、読みながら、「何故賢治がこの箇所を削除したのか」、と考えてみた。このシーンはおそらく、賢治の理性的な部分が介在し過ぎているように賢治自身が感じて、ばっさりと削除してしまったのではないだろうか。はっきり言えば、このように露骨に美しき真っ当なテーマを見せられたら、読み手は感動を覚えない。又自身の死に対する不安を払拭する賢治の夢からおそらく題材を採ったはずの様々な不可解で意味不明なシーンの連続の果てに、このように簡単に理性でばっさりと片づけてしまうと、ファンタジーとしての深みがことごとく霧散してしまうことは確かだ。そこで賢治は、思い切ってこの部分を切ったのであろうか・・・。
 

4 賢治に迫る「死」の影と「銀河鉄道の夜」

「銀河鉄道の夜」という作品に、賢治が取りかかった年は、おおよそ大正14年(1924)前後と言われる。最終稿となる第四次稿が出来上がったのが、昭和7年(1932)頃だとすると、この作品を賢治は、8年間もの間、懐に置いて推敲を重ねたことになる。

この初期稿(第一次稿)から第四次稿には、全体の筋立てや、文言の削除挿入ばかりではなく、明らかなトーンの違いが見られる。前章で見たように、初期稿では明確であったテーマが、削られてぼかされ、幻想性がより深まっている。そこに人は初期稿の頃には、たとえ賢治にとって唯一の文学的理解者でもあった愛妹の「トシの死」もどのように慟哭の涙を流そうとも所詮「他者の死」でしかなかった。それは実に悲しい現実である。それを賢治は、「銀河鉄道の夜」の中でカムパネルラの死のエピソードに凝縮して乗り越えようとした。

第一次稿で、賢治はカムパネルラが消えた瞬間にジョバンニに独白させている。
さ、やっぱり僕はたったひとりだ。きっともう行くぞ。本当の幸福が何だかきっとさがしあてるぞ」まさにこれはカムパネルラに仮託された愛妹トシの死を乗り越えて、まだ漠然としか分からないけれども「ほんとうの幸福」というものを見つけて見せるという決意そのものである。そしてなによりもこの独白には、希望の光というものがみえる。現に独白の後に賢治は、このように表現している。

そのときまっくらな地平線の向ふから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられて汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかって光りつづけました。この独白は第二次稿でもそのままであった。


ところが第三次稿になると、この独白は削られて、その代わりに、

みんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。
という言葉を老賢人とでもいう人物を登場させて語らせているのだ。しかもその声は、少々不気味で、陰鬱な感じさえ受ける。いつかはジョバンニ自身も、カムパネルラのように死ななければならないということを受け入れなければという思いが何処かに漂っている。賢治にとって、死が、ついに「他者の死」から「自己の死」として自覚されつつあったことの反映であろうか。

これが更に最終稿としての第四次稿となると、独白も賢老人の声もなくなって、カムパネルラの姿が消えると、彼が居たはずの席の「黒いびろうどばかりがひかっていました」と切って、一切の説明を省いてしまうのである。結果としては、これがために「銀河鉄道の夜」という作品は、人生の深い陰翳が漂うようになり、読み手に様々な感慨やインスピレーションを与える作品となったことは確かだ。「銀河鉄道の夜」の八年間の推敲の過程は、そのまま「死」という現実を受け入れる賢治の精神史そのものであった。
 

4 宮沢賢治のマンダラとしての銀河

さてそれでは何故、賢治は「銀河鉄道の夜」などという難解な物語を書いたのだろう? 
賢治の心について、静に眼を瞑って考えてみた。銀河は星の集合であり、光りに包まれた宇宙に浮かぶ卵のようだ。すると不思議にアンドロメダ大星雲が思い出され、我々の銀河とアンドロメダ銀河は、兄弟のような関係にあり、気の遠くなるような時間を経て、いつしかこのふたつの銀河は、ひとつに集合するのではないか、という科学雑誌の記事を読んだことも思い出された。 

そこでふっと閃きがあり、ひょっとしたらこの作品は、賢治にとって「マンダラ」だったのではないか、という考えが突然湧いてきた。自分の中で、「マンダラ」と「銀河」がイメージの世界で交錯した。 

マンダラ(Mandara)は、サンスクリット語で円の意味がある。漢字では曼陀羅と表記される。仏教では、これを「輪円具足」「道場」「壇」などと訳し、当初は円形の修行のための檀のことであったが、次第に悟りの世界を象徴するものとの解釈がなされるようになり、その結果「本質」といった訳も付されるようになっていった。マンダラについて、ユング心理学ではこのように説明される。 
 

「マンダラは・・・方向喪失・パニック・混乱した心の状態・の後すぐによく現れる。つまり、マンダラは混乱を秩序へと移すという目的を持っているのである。ただしこの意図は患者には意識されていない。いずれにせよそれは秩序・平衡・全体性を表現している。したがって患者はよくこの種の絵を描くと気持ちがよくなって気が静まると強調する。マンダラによって表現されるのはたいていヌミノースなイメージや考え、あるいはーその代わりをなすー哲学的理念である。」(CGユング「個性化とマンダラ」林道義訳みすず書房) 


真言密教の「両界曼荼羅」を誰しも一度や二度見たことは人もいるだろう。チベット密教では、法会がある時、精緻な美しさを誇る「砂曼陀羅」というものを、僧侶たちが、手分けをして数ヶ月の時間をかけて、色とりどりの砂粒をもって描き、信者の前に披露をする。マンダラは、完全性と調和の象徴であり、悟りの心を表しているのである。 

ユングは、ある時、自分の所に来た患者(クライアント)たちが、不思議に共通したマンダラ的な絵を描くことに着目して、これが人間の心の無意識領域に誰しもが持っているイメージであるかもしれないとして、マンダラの研究に着手したのであった。 

いくつもの患者たちの絵を研究し、ユングは患者(クライアント)たちの絵の特徴を次のようにまとめた。  
 

 1 円ないし球、または卵の形。 
 2 円の形は花(バラ、水蓮・・・) 
 3 中心は大洋・星・十字形によって表現され、たいていは四本、八本ないし十二本の光線を放っている。 
 4 円、球、十字形はしばしば回転しているもの(卍)として描かれる。 
 5 円は中心を取り巻く蛇によって、円状に(ウロボロス)または渦巻き状に(オルフェウスの卵)描かれる。 
 6 四角と円の組み合わせ。すなわち四角の中の円、またはその反対。 
 7 四角または円形の城・町・中庭(聖域)。 
 8 眼(瞳孔や虹彩) 
 9 四角の(および4の倍数の)形姿のほかに、きわめて稀ではあるが、三角や五画形姿が現れる。それは以下にように「歪んだ」全体像と考えられる。」(ユング前掲書)


どうだろう。単に「マンダラ」と「銀河」の形状の近似だけではなく、ユングが上げた患者(クライアント)たちの絵の特徴を、何気なく読むと賢治の「銀河鉄道の夜」と符合する言葉が次々と見つかる。例えば、「四」という言葉が、マンダラにとってはキーワードのようだが、賢治が推敲した回数は、四回である。また十字形であるが、銀河鉄道の旅は、北十字と言われる白鳥座から南十字の方向への旅である。卍という意味も、実に良く銀河の形状を表しているように思える。このように考えると「銀河鉄道の夜」という作品が、マンダラ的な世界を見事に形成していることが分かる。 

ユング心理学で言えば、マンダラは、無意識の領域のことであるから、やはり賢治は、「銀河」を自己のマンダラをとして、自己の心の葛藤や不安を「銀河」をイメージすることによって、心の均衡を保っていたのかも知れない。
 

5 賢治の宗教と父の権威からの解放 

賢治の生涯を辿る時、私はどうしてもその父宮沢政次郎という人物の立派な面差しを思い出してしまう。その前で、ひ弱な賢治は、圧倒されて消え入りそうな感じさえ受けてしまう。確か5、6年前(96年?)に賢治生誕百年を記念して映画が二作作られたが、松竹版では仲代達也、東映版では渡哲也と、共に強烈な父性を感じさせる男優を使っていた。どう考えても賢治の親は、子にしてみれば怖くて、しかも立派過ぎるのだ。政次郎は、花巻という温泉町の素封家にして、花巻仏教会を作るほど、宗教にも熱心で花巻仏教会を作り町会議員になるなど町の名士であった。賢治は若い頃から、浄土真宗を信じるその父の薫陶を受けて成長したのである。 

息子というものは、いつの世も、親に反抗をして、自分の存在というものを形成していくものである。賢治もまた例外ではなかった。賢治は、父の推す浄土真宗ではなく、法華経を第一の教義とする日蓮の教えに共感を覚えた。これを絶対他力の浄土真宗と自力を説く日蓮の宗教教義上の問題と考える人があるが、私はもっと単純に父に対抗する手段として、徐々に法華経に魅せらていったのではないかと考えている。言うならば方便だ。(もちろん晩年には、この法華経が自己の真の宗教となるのではあるが…)賢治は盛岡中学を卒業した18歳(大正3年:1914)で、法華経と出会い、強烈な感動を覚えたようだ。翌年、盛岡の高等農林学校(後の岩手大学農学部)に入学した賢治にとって、法華経は座右の書だったようで、この頃に同人誌に書いた「旅人のはなしから」という作品には、法華経の影響と思われる輪廻思想を根底にした放浪の物語のイメージが描かれている。 

賢治の興味は、法華経からその教義を根本とする日蓮の思想に惹かれていく。大正七年(1918)になると賢治は、法華経に加えて「日蓮上人御遺文」を愛読していたようだ。そして賢治は、国粋主義的な傾向の濃い「国柱会」という在家仏教教団に入信する。この教団は、田中智学(1861−1939)という人物が、主宰する教団で、日蓮の「立正安国論」をベースに、「日蓮主義」なる言葉まで作り、ついには「世界そのものをあげて法華経化せしめればよろしい」「日本による世界制覇の思想的正当性」というようなことまで主張するに至った。もちろんこれは日蓮の思想の国家主義的歪曲であったが、若い賢治は、熱にうなされたようになって、夜の町をお題目を唱えながら、歩く賢治の姿が目撃されたこともあったようだ。私からすれば、この頃の賢治の思想的偏向は、戦後の若者が、訳も分からずとにかくマルクスやレーニンに走って、父親の呪縛から逃れようとしたのとよく似ているように思う。 

ともかく賢治はこのようにして、父の権威の呪縛から逃れようとしたのである。そして賢治は、大正十年(1921)一月二三日上京して、国柱会の布教活動をしながら、童話を書きまくるのである。賢治は童話を通して独自の法華経的な宗教観を持った賢治ワールドを作り始めるのである。しかし突然の試練が賢治を襲う。最良の賢治ワールドの理解者であると共に、最愛の妹としの病気である。(
 
 

6 詩人宮沢賢治誕生と妹トシの魂

大正十年(1921)年八月、妹トシの急病の知らせを聞き、賢治は矢も楯もたまらずに実家花巻に戻った。賢治の必死の看病のかいもなく、トシは翌年十一月二十七日に亡くなった。享年24歳であった。賢治の動揺は想像を絶するものがあった。押入に首を突っ込んで慟哭したという話も伝わっている。この時の悲しみを賢治は「永訣の朝」「無声慟哭」「松の針」といった痛苦に充ち満ちた詩に結晶させている。翌日二十八日の通夜では、仏壇の御曼陀羅に向かって一心に祈り続けた。

「無声慟哭」

こんなにみんなにみまもられながら
おまへはまだここでくるしまなければならないか
ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
また純粋やちいさな徳性のかずをうしなひ
わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
(後略)(「春と修羅」所収)

結局、このトシの死は、賢治にこの世の無常を痛切に思い知らせると共に、何処へ飛んで行ってしまうかも知れない若い情熱に満ちた賢治を再び田舎である花巻に呼び寄せ、そこに生活の基盤を置くことを強いたことを思えば、トシは自分の命というものを捧げて宮沢賢治という一人の天才が誕生するのを助けたことになる。実際、もしも賢治が、東京にこのまま居続け、国柱会のような国粋主義的な宗教活動に没頭していたならば、今日の賢治の文学が、健全な形を保ちながら、これほど人々にあいされるようになったか、どうかは分からない。更に大正十二年(1923)9月1日に発生する関東大震災に巻き込まれていた可能性だってあった。

古来より、詩人には、霊感を与えるニンフ(山川草木やある場所に存在すると言われる妖精、あるいは女神)的な存在が必ずいるものだ。まさに妹トシは、賢治にとって霊感の源のニンフそのものであった。

翌年、六月に賢治は「白い鳥」というトシを思う詩を書いているが、この中のある「白い鳥」に焦点を当てて、読んでみよう。
 

「白い鳥」

(前略)
二疋の大きな白い鳥が
鋭く悲しく啼きかはしながら
しめった朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる

(中略)
あんなにかなしく啼きながら
朝のひかりをとんでゐる
(中略)
どうしてそれらの鳥は二羽
そんなにかなしくきこえるか
それはじぶんにすくふちからをうしなったとき
わたくしのいもうとをもうしなった
そのかなしみによるのだが

(中略)
いま鳥は二羽、かゞやいて白くひるがへり
むかふの湿地、青い芦のなかに降りる
降りやうとしてまたのぼる
(日本武尊の新しい御陵の前に
 おきさきたちがうちふして嘆き
 そこからたまたま千鳥が飛べば
 それを尊のみたまとおもひ
 芦に足をも傷つけながら
 海辺をしたって行かれたのだ)

(後略)(「春と修羅」所収)
 

私はこの白い鳥が「二疋」という言葉に注目したい。この詩の中で、賢治はトシと一緒に「白い鳥」となって、眩しい朝日の中を一心同体で飛んでいるかのようだ。この「白い鳥」が、白鳥であるのか、サギであるのか、また他の白い鳥であるのかは分からない。しかし「銀河鉄道の夜」における旅の始まりが白鳥座からだったことを考える時、実に象徴的な感じを受けるのである。白鳥というものは、聖なるものを象徴すると同時に、両性具有を意味するらしい。それは白鳥の首が男性のシンボルを意味し、その円やかな体の線が女性を象徴することから来ている。また賢治が、ヤマトタケルの陵(みささぎ:天皇や皇子などの御墓)から、千鳥が飛び去ったのを、ヤマトタケルの霊(みたま)が千鳥となって飛び去った思ったお后たちがその後を自分が傷つくことも構わず追ったというエピソードをWイメージで付した気持ちもよく分かる。

詩人宮沢賢治が誕生するためには、どうしても雛の地「花巻」の自然が必要であった。その意味を一番知っていたのは、もしかすると妹トシの魂だったのかもしれない・・・。すると賢治とトシの魂が、一体となって、銀河を旅するジョバンニとカムパネルラに見えてくるから不思議だ。
 

7 カムパネルラとは誰なのか?

銀河鉄道の夜のジョバンニは、賢治自身であることに異論の余地はないが、友人のカムパネルラについては、妹トシという説と友人の保阪嘉内との説がある。私はどちらか一方という説ではなく、妹トシと保阪嘉内の両方のイメージが交錯して現れていると考えたい。

夢のイメージで考えれば簡単に分かることだが、夢の中では、父の顔が瞬間に別の顔に変わることもある。トシ説には、確かに死に逝く魂の象徴としての悲しみの観念が、カムパネルラが一瞬にして闇に消えてしまうシーンに凝縮されている感じがするが、カムパネルラの中には、何か同性の友に対する思慕と嫉妬の観念が言外に内包されているような気がする。しかもカムパネルラの母は、既に亡くなっていると説明されているが、これは賢治自身が、保阪嘉内の母の死に直面しているから、まさに現実と符合している。賢治の心の中では、保阪の母が亡くなったことも、心の傷として残っていたのであろう。作品の中でも、カムパネルラは、その母の元に行くことに何かしらの意味を見出しているようにも感じられる。

宮沢賢治の手紙を一通り見て感じることは、出す人間によって、文体が著しく変化し、内容も又著しく一変することである。特に友人の保阪宛の手紙では、思想信条特に文学や宗教のことに関して書かれたものがほとんどであるという点だ。何か賢治は、保阪に対する時には、少し気取っているようにも見え、背伸びをしているようにも見える。それはきっと、思慕や嫉妬の観念がどこかに作用しているためだろう。彼の中では、友人保阪は、ある種のコンプレックスを形成しているのである。
 

大正7年12月、二十二歳の賢治は、盛岡高農卒業後の進路について父と対立している頃、保阪嘉内にこのような手紙を書いた。
 

私があなたの力を知らないというのはあなたが現在の儘であなたの理想を外に施すとしてそれが果たして人人とあなたの幸福を齎(もたら)すかどうかを知らないと云ふことです。
あなたに具はれる素質を私はよく知りません。が、どちらも一定不変なものではありませんし、十へも一へも展開させ得るのですから、実は私はいつでも現在の状態を軽く見るくせがあります。
(中略)
今私は求めることにしばらく労(ねぎらわ)れ、しずかに明るい世界を追想してみました。それはあなたに今さっぱり交渉のないことかもしれません。
けれどもあの銀河がしらしらと南から北にかかり、静かな裾野のうすあかりの中に、消えたたいまつを吹いてゐたこと、そのたいまつは或は赤い小さな手のひらのごとく、あるひはある不思議な花びらのやうに、暗の中にひかってゐたこと、またはるかに沼森といふおちついた小さな山が黒く夜の底に淀んでゐたことは、私にこゝろもちよい静けさを齎(もたら)します。
(中略)
勝手にわたしのきもちのよいことばかり書きました。
さようなら。(新校本宮沢賢治全集十五巻書簡NO94)


私はこの手紙に、冷たいものを感じる。保阪嘉内は、賢治と同じ歳であるが、一年浪人をして盛岡高農に入学してきた男である。しかし賢治にとっては気になる人物だったようだ。何しろ、、入学してすぐに自分の劇作を披露するような、非常に多才な一面を持っていた。賢治としては、「何だよこの男は?」という劣等感が形成された可能性が高い。だから彼と接する時には、どうしても背伸びをしながら、言葉も気取った調子になるのであろう。この手紙から、保阪の方から「君は僕の本当の力というものを知らない」と強く言われた後の返事というような内容だ。そこで、賢治はそれに対抗して、冷たく突き放したような調子の返事を書いたのではあるまいか。

男女であれば、まさに別れるの前の感情の行き違いが進んでいるような状況だ。あれほど燃えてつき合っていた男女に秋風が容赦なく吹いているようなものだ。しかし賢治の心には、相反するふたつの感情が渦巻いている。賢治は、嘉内の心を求めながらも、一方では強烈に排除しようとしているところがある。その中に賢治という人間の悲しい人格がある。これは、宮沢賢治という人物を語る上では、大変重要なことかもしれない。この心的傾向は、友情の領域だけではなく、おそらく男女関係においても、同じだったのではあるまいか。つまり求めながらも、一方で失っていくことをよしとするような複雑な心理的特性が災いし、男女関係が恋愛にまで発展しえなかったのではなかろうか。

保阪自身が、どのような返事を書いたのかは分からない。しかし賢治は、同年12月16日に再び保阪にこのような葉書を書いた。

「私は求めることにしばらく労(ねぎらわ)れ、」と書いたと思います。但しあなたに求めるものはあなたの私を怒らないことです。今年も匆々(そうそう)暮れます。アンデルセンの物語を勉強しながら次の歌をうたいました。

「聞けよ。」又月は語りぬやさしさもアンデルセンの月は語りぬ。
みなそこのこの黒き藻はみな月光にあやしき腕をさしのぶるなり
ましろなるはねも融け行き白鳥は群をはなれて海に下りぬ
わだつみにねたみは起り青白(ママ)きほのほの如く白鳥に寄す
あかつきの瑪瑙(めのう)光ればしらじらとアンデルセンの月は沈みぬ
白鳥のつばさは張られかゞやける琥珀のそらにひたのぼり行く
(新校本宮沢賢治全集十五巻書簡NO95)
 

賢治は、この時ドイツ語でアンデルセンの童話「絵のない絵本」を読んで、特にその中の二十八話の「白鳥の歌」に感銘を受けて、歌を詠んだようだ。特にこの中で、最後の「白鳥のつばさは張られかゞやける琥珀のそらにひたのぼり行く」という歌が、自身のマンダラとも言うべき「銀河鉄道の夜」に繋がるイメージの種子が賢治の心に蒔かれたように感じる。

そしてついに、賢治は、保阪嘉内との思想的(?)訣別を暗示させるような手紙を書いたのである。この手紙は重要なので長いが全文を掲載する。
 

あなたはむかし、私の持ってゐた、人に対してのかなしい、やるせない心を知って居られ、またじっと見つめて居られました。今また、私の高い声に覚び出され、力ない身にはとてもと思われるやうな、四つの願を起した事をもあなた一人のみ知って居られます。

まことにむかしのあなたがふるさとを出づるの歌の心持また夏に岩手山に行く途中 誓はれた心が今荒び給ふならば私は一人の友もなく自らと人とにかよわな戦を続けなければなりません。

今あなたはどの道を進むとも人のあわれを見つめこの人たちとかならずかの山の頂に至らんと誓ひう給ふならば何とて私とあなたとは行く道を異にして居りませうや。仮令(たとえ)しばらく互に言ひ事が解らない様な事があってもやがて誠の輝きの日が来るでせう。

どうか一所に参らして下さい。わが一人の友よ。しばらくは境遇の為にはなれる日があっても、人の言の不完全故に互に誤る時があってもやがてこの大地このまま寂光土と化するとき何のかなしみがありませうか。

或はこれが語(ことば)での御別れかもしれません。既に言へば言ふほど間違って御互に考へました。然し私はそうではない事を祈りまする。この願は正しくないかもしれません。それで最後に只一言致します。それは次の二頁です。

次の二頁を心から御読み下さらば最早今無限の空間に互ひに離れても私は惜しいと思ひますまい。
若し今までの間でも覚束(おぼつか)ないと思はれるならば次の二頁は開かんで置て下さい。

あなたは今この次に、輝きの身を得数多の神通をも得力強く人も吾も菩提に進ませる事が出来る様になるか、又は涯無い暗黒の中の大火の中に堕ち百千万劫自らの為に(誰もその為に益はなく)封ぜられ去るかの二つの境に立ってゐます。間違ってはいません。」この二つは唯、経(この経)を信じるか又は一度この経の御名をも聞きこの経をも読みながら今之を棄て去るかのみに依って定まります。かの巨なる火をやうやく逃れて二度人に生れても恐らくこの経の御名さへも今度は聞き得ません。この故に又何処に流転するか定めないことです。

保阪さん。私は今泣きながら書いてゐます。あなた自身のことです。偽(いつわり)ではありません。私とても勿論力及びません。

信じたたまへ、求め給へ。あゝ「時だ」と教へられました。「機」だと教へられました。今あなたがこの時に適ひ、この機ならば、この一つが適はなかったら未来永劫の火に焼けます。

私は愚かものです。何も知りません。たゞこの事を伝へるときは如来の使(つかい)と心得ます。保阪さん。この経に帰依して下さい。総ての覚者(仏)はみなこの経に依て悟ったのです。総ての道徳、哲学宗教はみなこの前に来つて礼拝讃嘆いたします。この経の御名をも崇めて下さい。

そうでなかったら私はあなたと一緒に最早、一足も行けないのです。そうであったら仮令(たとえ)あなたが罪を得て死刑に処せられるゝときもあなたを礼拝し讃嘆致します。信じてください。
(新校本宮沢賢治全集十五巻書簡NO102)
 

この手紙で明らかとなるのは、法華経に対する熱烈な信仰の兆しが見られることだ。日蓮主義を標榜する田中智学の国柱会に入会するのは、これから一年半ほど後の大正9年の秋頃と見なされている。

賢治は、この手紙を書くことによって、保阪嘉内との間の友情が終わりになることを薄々意識しているようだ。どんなに賢治が、法華経への帰依を友人の保阪に望んだ所で、別の道を歩む人物であることは彼自身が一番知っている。そんなことを考えていると、「銀河鉄道の夜」を書いた賢治の潜在意識には、ある種この保阪嘉内との無理心中的な意識さえあったようにも感じられる。

自分の中にある保阪嘉内に対するコンプレックスを、法華経という熱狂的な仏教思想を駆使して、克服しようとする賢治のやり方は、父の政次郎の権威を克服しようとした時と同じ手法であるが、私はこの中に賢治の未成熟な自己というものを感じてしまう。極論をすれば、賢治にとって、法華経のイメージそのものが夜空に燦然と輝く銀河だった。きっと賢治は、その中心に、最愛の妹トシや賢治自身が「たった一人の友人」と言う保阪嘉内らと旅をしたかったのだろう。

結局、賢治は、「銀河鉄道の夜」という作品において、自分の中のコンプレックスを「カムパネルラ」として人格化し、自己の中心を意味する銀河の中心において葬り去った訳であるが、このことは、賢治の内的世界が形成され、自己を個性化しようとする賢治の魂にとっては、是非とも必要なイメージ化の過程だったのであろう。ただそれは賢治自身明確に意識化されていたものではないはずだ。ともかく私は、「銀河鉄道の夜」という作品に昇華する過程においては、最愛の妹トシを失った悲しみと保阪にという親友に対する思慕と嫉妬のコンプレックスを越えて行くために人格化したのがカムパネルラだったと思う。
 

8 中有(バルドゥ)の旅として「銀河鉄道の夜」

銀河鉄道の夜という作品が、中有(バルドゥ)の旅を描いた作品だという考え方がある。それは溺れ死んだカムパネルラの魂が中有を通って天国に向かっている時、たまたまそれがジョバンニの心に感応して夢に現れたということである。中有とは、簡単に言えば、死んだ者が、まず行く魂の行き場だ。広辞苑では「衆生が死んで次の生を受けるまでの間。」と表現する。この「期間は一念の間から7日あるいは不定ともいうが、日本では49日。この間、7日ごとに法事を行う」とある。また「中陰」「中間生」とも呼ばれることもある。

中有とは、見た目には死んでいる状態であるが、「中有」という言葉の通り、中間的な存在として「有る」ということになる。仏教によれば人間は、この中有の期間を通して、前世の反省をし、次の生に生まれるための準備期間に入るのだと考えられている。

チベット密教の経典に、「死者の書」(バルドゥ・トドル)というものがある。この経典は、まさに死者のためのお経である。死者の魂が中有において、迷って、正しい光りに導かれて行かないと、人間の産道に入れずに、他の生き物の産道に入ったりしないように、死者の耳元で、僧侶が経を読む。「お前は死んだのだ。死んだお前には今、このような光りが見えるだろう・・・お前は死んだのだ。」というように繰り返す。成仏するまで、僧侶は、繰り返し、何日も何日もこの経を死者のために読経するのである。すると死者の体に何かしらの変化が表れる。そこで死者の魂は、救われたということになる。

チベットの死者の書の本文を実際に読んでみる。
 

ああ、善い人よ、(中略)自分に何が起こっていたのでだろうかという想いが生じるであろう。汝はバルドゥ(中有)の状態にあるのだと覚るべきである。その時に輪廻の反転から、ありとあらゆる幻影が光明と身体を持った姿で現れるであろう。虚空がすべて紺青色の光りとなって現れてくるであろう」(河崎信定著「チベットの死者の書」筑摩書房刊)


考えてみれば、般若心経もまた、内容としては、呪の部分の「ギャー・ティー、ギャー・ティー(掲諦掲諦)、パーラー、ギャーティー(波羅掲諦)、パラソー、ギャーティー(波羅僧掲諦)、ボーデー、スーバーハー(菩提薩婆訶)」という部分の意味は、「逝ける者よ、まったき逝ける者よ、彼岸に逝ける者よ、悟りよ、幸あれ」というような意味になる。我々が何気なく目にする葬式での光景も又、やはり死者を中有の状態から、完全なる彼岸に送り届ける意味を持っているのである。

ユング心理学の権威である河合隼雄氏も、賢治の「銀河鉄道の夜」という作品を中有のことを描いた作品であると考えているようだ。
 

私の考えの根本は、宮沢賢治という人は、おそらく臨死体験をしたのではないか、そしてその体験が「銀河鉄道の夜」という作品に結晶したのではないか、ということにあります。
(中略)そしてこの「銀河鉄道の夜」全体を通じての透明さ、透き通った感じは、死後の世界を描くときの感じに似ています。この透んだ感じは、死んでいく人たちが皆一様に体験することです。(後略)(「臨死体験と銀河鉄道の夜」河合隼雄 新文芸読本「宮沢賢治」所収)


賢治が臨死体験を、この「銀河鉄道の夜」の創作過程において、体験したかどうは、分からないが、少なくても、高熱を発して生死の域を彷徨ったことも事実で、実際に遺書も書いているほどだから、この河合氏の指摘は、もっともである。

但し私はむしろ、法華経の熱心な研究の過程で、イメージとして既に何度も死の過程を経験しているであろうし、その中で輪廻という思想を、当然の如く受け入れている賢治であるから、臨死体験から書かれた作品というようなものではなく、もっと身近なある時に見た夢のモチーフを童話にしてみよう、いった、極々軽い気持ちで、書き進められたものが、次第に自分の中で膨らんで、とうとう自分でも収拾できないほど、イメージが膨らんでしまった作と思うのだがどうであろう。
 

9  「オルフェウスの物語」と「銀河鉄道の夜」の比較

ギリシャ神話にオルフェウス(オルペウス)の物語というものがある。この「オルフェウスの物語」と「銀河鉄道の夜」を比較してみよう。まずオルフェウスの物語の全体像を見る。
 
 

オルフェウスは、ホメロス以前には最大の詩人にして音楽家だったと言われる伝説上の人物である。オリンポス山の北側の地トラキアに生まれ、アポロンより竪琴を授かる。彼の作る詩とその音楽は、野獣も山川草木も聞きほれたと伝えられる。アルゴナウテースの遠征では、奪われた金毛の羊皮(権力の象徴)を奪還するために、王アイソーンの檄(げき)に応じて、巨大な櫂船に乗って、詩と歌の才を持って、これを助けたとも伝えられる。

彼の妻はアポロンの娘でニンフのエウリュディケであったが、彼女の美しさに魅せられたアリスタイオスという者に迫られて逃げる途中に、草むらに潜んでいた蛇に噛まれて亡くなってしまう。諦めきれないオルフェウスは、妻を連れ戻しに冥界に向かう。そこでもオルフェウスは、得意の詩と歌を披瀝すると、冥界中がたちまち彼の音楽に魅せられてしまう。

冥界には、金持ちであったが罪のために池の中に首まで浸かりながらも永遠に喉が渇く罪を負ったタンタロスやその狡猾さ故に冥界の急坂を転がり落ちる岩を永遠に転がし上げる罪を負ったシーシュポスらがいたが、オルフェウスの奏でる竪琴と歌を聴いて、タンタロスは渇きを忘れ、シーシュポスの転がる岩が止まって手を止めたとさえ言われる。

ついに妻エウリュディケを見つけたオルフェウスは、冥界の王のハーデスと后のペルセポネーに掛け合う。するとハーデスは「お前が現世に戻るまでに後を振り向かなければ、お前の妻が冥界を離れることを許そう」と言う。もちろんこの条件を大喜びで呑んだオルフェウスは、妻と手を繋いで、現世に戻る旅路につく。まさに二人が地上に戻って、この世太陽の光を見ようとしたその瞬間、急に妻の姿が見えなくなる。慌てたオルフェウスは、ハーデスとの約束を忘れて、ふっと後を振り向いてしまう。その瞬間に、妻は再び冥界に連れ戻されてしまうのである。その後、彼は一切女性というものを寄せ付けなかった。夏の夜空に輝く琴座は、オルフェウスの竪琴が天に昇ったものとの言い伝えがある。

まず「オルフェウス」と「銀河鉄道の夜」で、決定的に違うのは、意志の介在の差である。つまりオルフェウスでは、明確に死んで冥界に逝った妻を連れ戻すという意志が働いている。それに対して賢治の「銀河鉄道」では、たまたま自己の夢の中に現れた死に逝く友と偶然に出くわして、そこが何処でどんな旅であるのかも分からずに中有(冥界)を旅する少年の物語なのである。この意志の介在の差は決定的である。

しかもその少年は、友人のカムパネルラと「一緒にどこまでも行けたらいい」と漠然と思っているが、しかしその望みが何処か儚いもので、自分の孤独はどうしても癒せないものだと思っているフシがある。このように賢治の未成熟で脆弱そのものの自己を映したジョバンニの精神は、どこまでも頼りなく、悲しく、哀れだ。「銀河鉄道の夜」という作品は、所詮カムパナルラという他人の夢(中有)に紛れ込んでしまったジョバンニの夢の物語なのである。

カムパネルラとは、既に見たように賢治にとって、亡くなった最愛の妹トシであり、思想的にはもはや破局の近づいた親友保阪嘉内への追慕の情の人格化された姿であった。彼らとの別れのために、賢治の精神は崩壊の危機を向かえていた。賢治の混乱した精神にとって、「銀河鉄道の夜」という作品は、是非とも生み出さなくてはならぬ自らの魂を癒すためのファンタジーであったと言える。

魂の遍歴という意味で、「オルフェウスの物語」と「銀河鉄道の夜」に多少の類似性を感じない訳ではないが、厳密に言えば、この二つの作品にまったく違う精神が反映しているのを感じる。すなわち前者は、「「愛別離苦」(愛する者と別れなければいけないという苦)という仏教的な宿業さえも己の意志の力で乗り越えようとするギリシャ精神の強靱な意志の物語であり、後者は、人の世の宿業に対するある種の諦念(ていねん:道理を覚り納得しようとする観念)の精神が何処かしらに漂う物語だ。

確かに「銀河鉄道の夜」という作品の底流に一貫して流れているものは、賢治の未成熟で脆弱な精神の泉からこんこんと湧く清水のようなものかもしれない。しかしこの危ういまでに清冽なる流れは、日本人の感情を「もののあはれ」の世界へと誘い、余り熱心でない読者さえも魅了してやまない何かがある・・・。
 
 

10  「たった一人の神さま」論争への危惧

銀河鉄道の夜」の最終章「九 ジョバンニの切符」の中で有名な「たった一人の神さま」論争がある。これはジョバンニとタイタニック号に乗っていて亡くなったと思われる西洋人の青年との間で交わされるものだ。会話だけを抜粋し、戯曲風にすれば次のようになる。
 

青年「もうじきサウザンクロスです。おりる支度をして下さい。」
男の子「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」
青年「ここでおりなけぁいけないのです。」
男の子「厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」
ジョバンニ「僕たちと一諸に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。
女の子「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」
ジョバンニ「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。
女の子「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ。」
ジョバンニ「そんな神さまうその神さまだい。」
女の子「あなたの神さまうその神さまよ。
ジョバンニ「そうじゃないよ。」
青年「あなたの神さまってどんな神さまですか。」
ジョバンニ「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
青年「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
ジョバンニ「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
青年「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」


ジョバンニは、南十字星で降りる支度を始めた連中と何故か急に別れがたい心境になって、「一緒に行こう。僕らはどこまでも行ける切符をもっているから」と語る。しかし青年は、天上に行くためには、ここで降りなければならないことを知っていて、子供たちの引率者として振る舞うのである。

ところでジョバンニが持っていたどこまでも行ける切符というのは、車掌から「切符拝見」と言われた時に、ポケットを探った時に偶然出てきたもので、本文ではこのように説明されている。
「ところがそれはいちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見ていると何だかその中へ吸い込まれてしまうような気がするのでした。」これは推測の域を出ないが、賢治が終生大事に読んだ「漢和対照・妙法蓮華経」の事かも知れない。丁度「・」まで入れれば10文字になる。ジョバンニは、「法華経」という切符を持って、中有の世界を偶然に旅をしているのである。

周知のように本来仏教というものは、インドの神々に対する信仰から発したものだが、多神教である。この世界では様々な仏、菩薩、如来、阿修羅などがきら星のように存在していて、ユダヤ教やそれから派生したキリスト教やイスラム教と違って、唯一絶対の神という存在はないのである。そこでジョバンニは、この法華経という切符を誇示して、「これがあればどこへでも行けるよ。本当の神さまにも会えるよ」と言っているのである。つまりこれはキリスト教の教義に対する対抗心であるが、神はたった一人という相手の得意技とも言うべき一神教的なレトリックを使って、相手を組み伏せようとするかのように見える。こと宗教に関して賢治は、父政次郎に改宗を迫り、自宅に浄土真宗の仏壇とは別に日蓮宗の仏壇を造るなどしたとのエピソードからも分かる通り、いささか教条的なところがあった。妹トシの葬式にも宗派の関係で、部分的にしか参加しなかったさえ言われる。後にはトシの遺骨を分骨し、静岡の国柱会の本部に納骨するほど、その考えは徹底していた。そのような賢治自身の宗教的熱狂が、ジョバンニの言動にも色濃く反映している。

また天上にではなく、「ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」とジョバンニに言わせることで、日蓮の説く、正法をもって国を安んずるという「立正安国」の思想の実現をこの作品の思想として、さり気なく作品に散りばめている。ここからこの作品のキーワードとも言われる「ほんとうのさいわい」というものの正体が浮かび上がってくる。それは法華経の教義が正しく実現した社会の創出ということになるであろうが、このように考えると、少なくても私は、不遜に聞こえるかも知れないが、この「たった一人の神」論争は、もう少し言葉自体を練って置くか、省かれるべきではなかったかと思ってしまうのである。どうしてもこの賢治の教条主義的な発想には、ひとつ間違えれば軍国青年にも変化してしまいそうな、ある種の危険を感じ取ってしまう。老婆心さと言われれば、もちろんそれまでだが。
 

11 宮沢賢治の影

宮沢賢治の影について考えたい。
影と言っても心理学的な意味合いにおける。心に出来る影(シャドウ)のことだ。

人は誰も誰にも話したくない知られたくない否定的な側面を持っている。その記憶を留めた心の一画を厳重に館のように固め、誰にもそして自分をも立ち入らないようにするところがある。ユングはこれを影(シャドウ)と呼んだ。考えて見れば、生きている人間には、陽が当たるその反対方には、必ず影というものができる。影があるからこそ生きていると言える。

宮沢賢治の影は、顕在意識的には、自分が質屋という金貸しを生業(なりわい)とする家の息子というものだ。賢治の影は、賢治という人物が伝説化する過程において、あらゆる賢治ファンにとっても影を構成している。賢治が実家の生業に否定的な感覚を持ったのは、共産主義的な運動や書物と出会い、自分が労働者や農民を搾取する側の人間になっているのではないか、という一種の禍害妄想のようなものだ。

このことから、賢治の屈折した感覚が形成され、賢治の人格にしっかりと影が出来たのではなかろうか。賢治の生家を説明する時、何気なく、「質屋業と古着屋」を生業とする「宮沢商店」となりがちだ。私にはこの説明が、どうしても宮沢賢治という人間が時間を経過するにつれて、周囲の人々の心に何かしらの雲のようなものを湧き起こし、賢治を神話化あるいは伝説化しようとする集合的無意識が働いていているように感じてしまう。要するに賢治の影のようなものを少しずつ洗浄し、その影の部分をよく解釈しようとする賢治伝説の生成過程という訳である。

人は貧富の格差、貴賎の如何に関わらず、誰でも生家には、少なからぬコンプレックスを抱くものだ。きっと賢治は、父の金貸しとしての搾取する権力のイメージがたまらなかったのであろう。
 

つづく

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佐藤

 


2002.2.18
2002.2.27
 

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