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銀河鉄道の夜の夢分析 

−芸術の創作過程に夢が介在する時U−


 

銀河鉄道の夜の夢分析 序

基本的に夢は、心がバランスをとるための補償的な機能を持つものであるが、物語作者としての賢治にとっては、夢が創造の源泉であったことは疑いのない事実であろう。中でも特に「銀河鉄道の夜」には、賢治の夢が数多く介在しているように思える。この作品以外でも、賢治の創造した数々の物語には、理解しがたい不可思議な現象やら奇妙奇天烈な言葉、突然のどんでん返しなどが、ひんぱんに起こる。その度に首を傾げてしまうのだが、それは読み手が、現実の常識の中で考えるからそのようになってしまうのだ。案外これを夢の中の事と考えれば「はあ、そうか」ということになる。

賢治にとって時間と空間が溶け合った四次元世界である。もちろん賢治に限らず夢の中で、人は古代中世現代という時間を越えあるいは様々な空間を自由に行き来し、心の中でドラマを形成する。一つのイメージが次のイメージを紡ぎ出し、又別のイメージが湧き、それが心というものを通じて、気づかないうちに統一性をもった方向に誘われるのである。

夢は個人の経験や普段の顕在意識の中から抽出されるとは限らない。夢は時として、個人の意識を越えたイメージとして表れ、それが顕在意識のイメージと複雑に絡まり合うことによって、何故あのような夢を見たのだろう、と考えさせてしまう奇々怪々さに満ちている。また夢には、顕在意識で知りうる精神の補償的な機能と自身が「かくありたい」との願望充足的な機能と更には古い夢理論で言う所の啓示的な夢の機能がある。啓示的な夢については、ユングが集合的な無意識と言っている個人が意識化しようにも意識化できない魂の領域から来るものであろうが、これは経験とは体験したものとは違う所の個人の意識を離れたある民族とかあるいはあるいはさらに大きな意味で人類とかのレベルで顕れる共通した意識ということができる。要するに人間の意識は、この集合的無意識という領域で考えれば、地下水脈で結ばれているということになるのである。

こうして私が今書いている宮沢賢治という存在についても、何故かくも自分の興味をそそるのであろうと考えるが、余り意味がはっきりしない。でも私だけではなく、多くの日本人が、様々な思いを持ちながらも、賢治に惹かれるのは、賢治がこの日本人の集合的無意識を自己の作品に昇華させたのだということが何よりも大きいのであろう。言うならば、宮沢賢治という存在は、理性で良いとか悪いとか判断する存在ではなく、好きとか嫌いの次元で考えた方がより納得できる作家と言える。それでも厳しい言い方をすれば、先生とか誰か周囲の目上の人が、「賢治はすごい」とか「賢治の童話はいい」という言葉を聞いて、それが「刷り込み」となって、自分も「いい」とか「好き」とか思い込んでいる人も少なからずいると思う。私などは、「賢治のどこがいいのか」と賢治をやや批判的に受容しようとしている人間の一人だが、「それでも脆弱な精神だ」、「ひ弱な教条主義者」と言いながら、どこかで完全否定し得ずに逆に魅力のようなものを感じているのも事実だ。このことは賢治が、日本人の無意識を作品化した数少ない作家の一人であることに起因していると思う。中でも賢治の夢の結晶としての「銀河鉄道の夜」という作品を夢分析することは、賢治という個人を通して、日本人の無意識の研究することに繋がっていくであろうことは疑いのない事実だ。
 
 

 第一次稿の夢分析

T

第一次稿をテキストとし、これを賢治の夢と仮定し、分析してみることにしよう。第一次稿は、最終章の「ジョバンニの切符」断片部分しか残っていない。しかしこれが賢治の最初の発想であり、これを手掛かりとすることで、賢治の顕在意識に夢(無意識)がどの程度介在し、創作に影響を及ぼしているかを推理してみることは意味のあることに思われる。
 

場所は、天の川。
そこを賢治(ジョバンニ)がカムパネルラや女の子のグループと共に、走っている。
青い森から青白い光りが射している。音楽が聞こえている。
銀河鉄道は、そこを通っている。
女の子はこの森は、琴(らいら)の宿ではないか、さらにあの森の中には、お姫様がいて竪琴を奏でている、青白い光りは、お付きの腰元や誰かが孔雀の羽でお姫様を扇いでいるその反射では、と言う。
賢治たち一行はどうも琴座の辺りをは走っているようだ。


文字通り「天の川」は天(てん)の河ではあるが、川は人生そのもの、運命を意味する象徴ととることができる。もちろん三途の川というイメージもある。通常であれば、川には水が流れているのであるが、水が象徴するものは、女性的なもの、子宮にある羊水を意味し、再生を暗示している可能性もある。この銀河鉄道の夜という作品自体「中有」をさすらう物語であるとすれば、大好きな人間の死からの復活の物語を無意識として夢にみた可能性がある。私事で恐縮だが、父が亡くなった時に、大きな自動車を背中に担いで、大きな河を渡っていく夢を見たことがある。おそらく賢治自身も、妹のトシさんを亡くした時に川を渡っていくトシさんの姿を夢に見たのではなかろうか。それが賢治に「銀河鉄道の夜」という作品を書かせる動機となったと考えたい。賢治は、作品化に当たり、この「川」を「天の川」に置き換えれば、きっと面白い自分らしいファンタジーになると確信し、第一稿を書き始めたのではないだろうか。

次に森のイメージは、原始あるいは太古の世界と考えることができるが、同時にそれは無意識世界への入口に通じる。きっと賢治は、何度も森の夢を見ていたであろうし、そこから発せられる青白い神秘的な光りがまるで孔雀が羽を拡げたようにも見えたのであろうか。考えて見れば、孔雀の羽は曼陀羅の一断片のようでもある。ともかく賢治は、自己の心の奥底に分け入って見たかったのである。

さて琴座のエピソードとイメージであるが、賢治にとって、これが言葉の連想となって、音楽と青白い光りとなって表現されているような気がする。どうしても私にはこの部分は、物語創作過程における顕在意識からの導入部と考えたい。つまりこれが賢治の夢のインスピレーションによって創作されたものではないという説である。
 

河が現れる。そこではイルカが泳いでいる。
河は二またに分かれる。
女の子とカムパネルラが、イルカやクジラの話をしているので、クジラを知らない賢治は、焼き餅のような気持ちがしていらいらしてくる。


イルカというものは、聖なる動物である。本文の中でイルカは魚ではない、などという会話がなされるが、場合によっては、イルカは神の使い、あるいは神そのものの象徴となることもある。ギリシャ神話では度々イルカが登場する。イルカやクジラの夢はめったに見る夢ではないが、非常に深い深層心理からのメッセージと考えることができる。この場合、一筋だった川が、二つに分かれるシーンで、イルカが現れるのであるから、重大な決断を迫られている時を暗示している。
 

河の中の真っ暗な島にやぐらが組まれていて、大きめの服を着て赤い帽子の男が、赤と青の旗を振っている。まるでオーケストラの指揮者のようだと賢治は感じる。
次の瞬間激しく雨が降ってくる。
その中を黒い塊が鉄砲玉のように河の向こう側に飛んでいく。
それは小さな鳥の群れであった。
空は桔梗(ききよう)色である。


川にやぐらが組まれているのは、自制心の反映であろうか。もしもかなりやぐらの高さがあれば、それは権力のようなものを象徴しているものかもしれない。そこに指揮者のように鳥たちが飛んで行くのを規制している男がいるのであるから、それはこの世からあの世へ渡る鳥たち(実はそれは人間の魂であるが)というようなものの渡りの交通整理をしていることになる。このような箇所を読んで河合隼雄氏は、賢治の臨死体験の反映という仮説を出されたのであろうか。
 
 

男が赤を振ると、鳥は河を渡らない。
「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥」
という男の声が賢治にはっきりと聞こえ、すると鳥は群れをなして空をまっすぐにかけていく。
どうやらここは射手座の辺りであることが暗示される。
射手座から鉄砲が発しているらしく、男は鳥にその危険を教えているようだ。
賢治は悲しくなる。
そして独り言を言う。
「どうして僕はこんなに悲しいのだらう。僕はもっとこころもちをきれいにおおきくもたなければいけない・・・」


うまく渡れずに鉄砲に射られてしまう鳥というものはいったいどのようなことを象徴しているのであろうか。それはうまく天国へ行けないもの。地獄に堕ちてしまう哀れな魂を象徴しているのであろうか。賢治が悲しくなるのは、うなずける。賢治に聞こえる「いまこそわたれわたり鳥、いまこそわたれわたり鳥」という言葉は、賢治自身の潜在意識からの声とも受け取れる。鳥が渡っていくことは単に、トシに仮託されたカムパネルラの魂が、天国に無事昇っていくことの象徴としてだけではなく、賢治の人生の転換点を意味すると同時に、これほど鮮明な川を渡る夢が象徴するのは、賢治自身の眼前に死が迫って来ていることを暗示している可能性が強い。
 

遠くに小さな青い火が見える。
それを見て賢治は心を落ち着けようとする。
そしてまた独り言を言う。
「ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろさうに話しているし僕はほんたうにつらいなあ」
賢治の眼からは涙が溢れそうになる。


チベットの死者の書の感覚で言えば、この小さな青い火は危険な火である。訓練を受けずに亡くなった人間が心が落ち着くような光りは、昆虫などの虫たちの産道に繋がっている可能性がある。賢治のこの危うい選択は、愚かな嫉妬心から発っする魂の迷いということができる。きっと妹トシに限らず、保阪嘉内に限らず、賢治という人間は、人間関係を上手く構築できない性分を持っているから、彼らに近づき親しげに話そうものならば、猛烈な嫉妬心が湧き、それでいて正面からそれを口に出せずにいたのであろう。その辺りの賢治の性格の一旦がよく表れている。独り立ち出来ないでいる賢治の孤独の性格が強く感じられる。
 

汽車は河から崖を隔てた渓谷のような所に差し掛かる。
トウモロコシの木が見える。
緑色の身がたわわに実っている。
よく見ると地平線の果てまでトウモロコシの木が並んでいる。
停車場に止まる。
時計は第二時を指す。
ドヴォルザークの交響曲第九番「新世界」がしずかに流れてくる。
どうやらこの辺りはコロラドの渓谷のようだ。
三度の独白。
「こんなにしづかなとこで僕はどうしてももっと愉快になれないんだらう、いっしょに汽車に乗っていながらまるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんたうにつらいなあ」


この箇所のトウモロコシは、どのように考えても成熟しきった男性のシンボルを象徴しているようにしか思えない。ここに賢治のコンプレックスが存在するのを感じるのは私だけだろうか。同時にこのトウモロコシは、新世界としてのアメリカ合衆国を象徴しているのかもしれない。やがて賢治がコンプレックスを抱くアメリカと日本は、太平洋を挟んで世界大戦を戦う運命にある。
 
 

U

 
トウモロコシが無くなって黒い野原が広がる。ひとりのインディアンが白い鳥の冠をつけて追いかけてくる。手には弓を持っている。弓を空に放つと、一羽の鶴がインディアンの拡げた手の中に落ちてくる。うれしそうに笑うインディアン。


トウモロコシ畑が暗転し、時代が一気に遡ったような感じを受ける。インディアンが白い鳥の羽の冠を被って、空に矢を放つシーンはある種の神聖な古代の儀式を感じさせる。しかし一転、結局インディアンは、結局俗っぽいただの狩という行為であることに変化する。ツルはアルファベットのBを表し、ギリシャ文字ではβ(ベータ)となる。

またツルは高さのシンボルであり、ギリシャではツルの声が、収穫と種蒔きの合図ともなる。私はこのインディアンの中に、賢治が投影しているのではないかと思う。矢を放ち得物を狩る行為の攻撃性が、賢治の心の中に目覚めており、その行為が賢治自身の気分の昂揚をもたらしているのは明らかだ。またインディアンは、アメリカの先住民族であり、賢治の岩手に生まれた蝦夷的なる精神の顕現と考えることができる。もしかすると賢治は、時の国際政治の政治的状況の雰囲気というものを敏感に感じ取っていて、アメリカ合衆国という国家に対しての憧れのような気持ちとインディアンに象徴されるような文化を駆逐していくアメリカという怪物に対して少なからぬ反感を持っていた可能性がある。
 

汽車は下っていく。賢治は気持ちが明るくなるのを感じる。特に汽車が小さな小屋の前を通った時「しょんぼりひとりの子供が立ってこっちを見ている時などはほうと叫び出したいと思ったほど」だった。


賢治の気分は、狩をするという俗なる行為において昂揚した。その昂揚した感覚が、また自分にとって癒しとなるイメージを結ぶ。賢治は車窓から、貧しさを象徴する小さな小屋の前にひとりの子供が佇んでいるのを見た時、思わず「ほう」と声が漏れそうになるほど、明るい気分となる。これはきれい事を排除した賢治という人間の本当のエゴむき出しの心かもしれない。でもよく考えてみればありがちな感覚ではないか。人間のというものは、本音を言えば、誰しも自分より幸福でない人間、あるいは自分より深い悲しみや孤独を背負った人間を目の前にするとき、ほっとするものである。賢治の非常に抑鬱され、抑圧されていた嫌な部分を見た思いだ。これが夢というものであろう。賢治の中に眠っている暴力的な感覚が呼び覚まされると同時に、心の奥で抑圧されて眠っていた差別に通じる厭な感覚も目覚めた可能性もある。
 

天の川に沿ってなでしこの花が咲いている。向こうとこっちの岸に星とツルハシの旗が棚引いている。それが工兵の旗だとわかる。架橋演習をしているようだ。突然、発破の音が聞こえ。天の川に水柱が上がる。すると鮭や鱒が白い腹を出して空中に舞って円を描いて落ちる。賢治は踊り出したい位に愉快な気持ちになる。


賢治の攻撃的な感覚は、ますます昂揚し、それが政治性を帯びる。星とツルハシはもちろん共産主義国家ソビエトロシアの旗であり、賢治の中にある暴力性に、時代という顕在意識からのイメージが連想されることによって、夢はまさに現代という時代に引き戻される。旗は権力を象徴し、自己主張や愛国心を意味し、また暴力革命を意味している可能性もある。

ナデシコには「永遠の愛」という花言葉がある通り、妹トシに手向けられた花である。ここに登場する工兵たちは、天の川に橋を架けようとしている革命兵士であり、それはあの世とこの世に橋を架けて、再び亡くなった妹トシを何としてでも取り戻したいという賢治自身の強烈な思いを象徴しているような気がする。発破の音と水柱や腹を出して空中に踊る魚たちは、賢治の昂揚した気持ちと怒り、またその発散と考えられる。明らかに賢治は興奮している。まるでトシを再生させることもできるのではという希望のような感情も伺える。このようにして賢治の心は必死で自らの最愛の妹の喪失感を癒しているのであろうか。
 
 

V

河の向こうが俄に赤くなる。
それがサソリ座の火であると分かる。
女の子が父に聞いたというサソリ話をする。
サソリはイタチに見つかって逃げたのだが、井戸にはまって溺れそうになる。
サソリは後悔をする。
私は多くの命をとってきたのに、どうしてイタチに自分の体を呉れてやらなかったのだろう。神さまどうか私の体をお使い下さい。そしたらサソリは自分の体が真っ赤な美しい火になって夜の闇を照らしているのが見た、と。


賢治の心は赤いそれがソビエトロシアの旗だろうがさそり座の火だろうが、とにかく賢治は興奮状態にあり、いささか過熱気味だ。心というものは、良くできた装置で、興奮が度を過ぎれば、それを冷ます機能が自然に働く。それは睡眠中でも同じだ。賢治は夢の中で、さそり座の教訓噺を連想することによって、過熱気味の自己の熱を冷ましているのだ。そのことで賢治の心は、辛うじて暴走を免れ、ブッダの前世話のウサギのようにサソリの火を美しいファンタジーに置き換えてしまった。

汽車はサソリ座を遠ざかる。
何か賑やかな音楽や人々の喧騒が聞こえてくる。ケンタウルス祭だ。
色とりどりの豆電球を吊したクリスマスツリーが見える。(原稿一枚なし)


やがて賢治は、現実の世界に引き戻されそうになる。もしかすると眠っていた賢治の耳に、銀河鉄道の夜にある「ケンタウルス祭」に似た祭りの喧騒が夢に影響し、それが夢に反映した経験を描いている可能性がある。我々も朝方の浅い眠りの中で、目覚ましラジオから流れるニュースの断片が、夢として顕れ、あるいはその時見ていた夢に影響を及ぼした経験を持っている人は多いのではないだろうか。きっとケンタウルス祭の喧騒や音楽が、賢治の脳裏にクリスマスツリーの映像を結ばせたに違いない。きっと賢治は幼い頃に、クリスマスツリーに関して楽しい思い出があるに違いない。
 

南十字星(サザンクロス)が近づく。
青年が女の子たちに降りる支度を促す。
第一稿にはたった一人の神さま論争はない。
ただ「僕たちと一緒に乗って行かう。僕たちどこまでも行ける切符持ってるんだ。」と賢治は言う。更に「天上なんか行かなくたっていいじゃないか、もっといいとこへ行く切符を僕ら持ってるんだ。天上なら行きっきりでないって誰か云ったよ」とも言う。


もちろんクリスマスと言えば、イエス・キリストの聖誕祭である。その人はベツレヘムの馬小屋で、処女マリアと大工のヨセフとの間に生まれた。ところで、キリストが出現する前に、新約聖書では、予言者ヨハネのことが述べられる。今では、皆がイエスを唯一の救世主の如く言っているが、2千年前のイスラエルでは、まずヨハネこそが、ユダヤの民の救世主と目されていた。例えば、イエスの誕生の前に、預言者ヨハネの誕生が描かれる。ヨハネの母はエリザベスであったが、イエスを宿しているマリアが、エリザベスの前に行くと、エリザベスも実はお腹にヨハネを宿しているのだが、マリアに向かって「わたしの主(イエスを指す)のお母さまが、わたしのような者のところにきてくださるとは」(ルカによる福音書)と謙っている。現在の新約聖書は、イエスを正統とするイエスの言行録であるから、当然であるが、ヨハネはかつてはキリストと並ぶような宗教指導者で、イエスに洗礼を与えたのもこのヨハネなのである。結局イエスと同世代であったが、イエスに先行する形で、宗教活動を行い、イエスよりも早く処刑されてしまったことによって、イエスの新しい教えが広まる素地が出来たと見るのが自然である。
 

さて私がここで何を言いたいのかは、銀河鉄道の夜の賢治の分身であるジョバンニという名前がヨハネのイタリア語読みということを言いたいのである。英語読みになれば、ジョン。ドイツ語ではヨハン。ロシア語ではイワンとなる。ヨーロッパの中では、日本の太郎に近い最も一般的な名前ということになる。ちなみにヨハネの聖誕祭(聖ヨハネ祭)は6月24日であり、ヨーロッパ各地では、夏至を祝う日として盛大な祭りも行われる。この祭りは元々盛夏崇拝の強いヨーロッパの先住民族であるケルト人たちのガーウェインの盛夏祭を、後にヨハネが引き継いで、聖ヨハネ祭の原型になったとも言われるものだ。シェークスピアに「真夏の夜の夢」(原題:A Midsummer Night's Dream)という大変楽しい戯曲があるが、これは夏至(Midsummer)の夜の楽しく喧騒に満ちた祝祭的な雰囲気を作品化したもので、賢治の「銀河の祭」のイメージにも、少なからぬ影響があるように思われる。ヨハネ(ジョバンニ)は、十二宮(古代バビロニアやエジプトより伝わる春分点を起点とした季節区分。円状に十二等分し各区間につけた名称)のうちの獅子座を支配する。概して西洋における夏至祭は、シェークスピアの作品にも端的に反映しているように楽しく陽気で、心躍るような祭りであるが、怖い言い伝えも無いわけではない。それは「聖ヨハネ祭の前夜には、教会で断食中の番人が、次の年に不運にも死ぬ運命のものの亡霊が教会の扉をノックするのを見る」(イメージ・シンボル事典:大修館)というものだ。

銀河鉄道の夜の「銀河の祭」もこのヨハネの聖誕祭との何らかの関連も考えられないことはない。ジョバンニことヨハネは、イエスの正統に対してはやはり異端である。敢えて賢治が、ジョバンニという名前を付けた裏には、父の浄土真宗に対する反発や皆が正しいと考えるものに対する賢治の異端を好む感性が働いていた可能性がある。

実際に、この作品の中で”天上なんか行かなくたってもっと良いところに行こう。”とジョバンニが言うのは、イエスの説く天上ではなく、この地上での万人の幸せを願う賢治の現実主義的な心が言わせた言葉かもしれない。農業や農民を愛し、彼らを豊かにしようとする賢治の情熱には、どこかヨハネの思想があるように思えてならない。

ヨハネはルカの福音書でこのように言っている。
「良い木を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる・・・下着を二枚持っているものは、一枚も持っていないものにやれ、食べ物を持っているものも同じようにせよ・・・規定以上の税金を取り立てるな・・・」

まるでマルクスレーニン真っ青の共産主義的な演説に聞こえる。このような過激な言葉を使いヨハネは、一人荒野に居て、悔い改めよと叫んだ人物である。しかし彼の過激さは、領主のヘロデ王の知るところとなった。やがて彼は牢獄に繋がれ、そして首を切られて獄死してしまう。その後を継いだのが、イエスの「右の頬を打たれたら、左の頬を出せという」平和の福音であった。

賢治は、もしかすると、イエスよりも過激なイメージの強い殉教的な預言者ヨハネと日蓮(日蓮主義を田中智学も含め)の類似性を見つけて、親近感を持っていたのであろうか。またジョバンニの名を主人公の名として拝借した賢治の心には、ヨハネを通して、日蓮に結びつき、そして富の分配の平等を説く共産主義に少なからぬ魅力を感じていたことがあったかもしれない。だからこそ「天上ではなく、もっと良いところにいく切符を持っている」という言葉がすっと独白のように漏れたのかもしれない。このように考えていくと、賢治の潜在意識の中では、イエスの対立概念がヨハネであり、クリスマス(イエスの聖誕祭)にケンタウルス祭(ヨハネの聖誕祭)、そして浄土真宗に日蓮宗という対立構造が、常に対置する形で鬩ぎ合っているのが分かる。

賢治にとって、夏祭りというものは、とても陽気な気分になれるものであったに違いない。しかし祭というものは、一夜の夢のような出来事であって、賢治に限らず、祭の後に人は、直ぐさま個々にのし掛かる現実の悲しみやら不安やらに引き戻されてしまうものである。「銀河鉄道の夜」という作品は、祭の日の少年の悲しい悲しい物語であるが、ここに象徴されているものは、賢治の中にある悲しみと得体の知れない不安のようなものだ。そして賢治の潜在意識は、その悲しみや不安を払拭しようと、必死で戦うイメージの国の戦士のようでもある。
 
 

W

天の川のまん中に青や橙(だいだい)に飾られた十字架が一本の木のように立っている。
その上方には青白い雲が丸い輪のなって架かっている。
「ハルレヤ・ハルレヤ」という声やラッパの音が聞こえる。
その中を青年に連れられて女の子たちは降りていく。
十字架の前にひざまずいている彼ら。
キリストらしき白い衣の人は天の川を渡ってこっちに来る。
その人の手が伸びた瞬間に汽車は動きだし、
銀色の霧がすっと立ちこめて何も見えなくなる。


いよいよ、女の子たちが、銀河鉄道に象徴されるつかの間の同乗から降りる時が来た。賢治のイメージにある南十字星のイメージには、どこか教会のステンドグラスが混じっているようにも感じる。イメージとしては川のまん中に、十字架は木のように生えていて、その上方には円光のような青白い雲が浮かんでいる。何故か分からぬが、ここで聞こえてくる賛美歌の声が「ハレルヤ」ではなく「ハルレヤ」となっているが、子供の頃の、思い込みで、そうなった可能性もあるが、これは賢治一流のジョーク感覚と解しておくべきであろう。その中を汽車を降りた女の子の一団が、川に入っていく、すると向こうからキリストと思しき人物が、川の向こうから、すーっと顕れる。実に古代的で神話的なイメージの強いシーンだ。その人の手が伸びた瞬間に、賢治はこの夢のモチーフから醒めたとも考えられる。もちろん、夢が継続していて、霧が立ちこめて見えなくなった可能性も否定し得ないが、人はこのような印象深い夢を見た瞬間、その夢の強烈さ故に、すぐに目が覚めて、「あの夢はいったい何だったのだろう」と思うことがしばしばあるものだ。

この賢治のキリストの夢は、様式的な美しさをもった神話的な夢である。ここに夢の劇的造形力の凄さというものが表れている。私はこの夢に「キリスト」というひとつの元型(集合的無意識)が、賢治という人間の夢に反映した姿を見る思いがする。
 

突然霧の中に葉をさんさんと光らせた胡桃の木が立っている。
黄金の円光をもった電気リスが可愛らしい顔をのぞかせている。


この時の霧は、舞台でいう暗転を意味し、夢の中におけるひとつのストーリーが終結し、次の夢のモチーフへ繋ぐための間と考えることができる。賢治の無意識は、まるで夢舞台の演出家のように、次のモチーフを準備している。夢は、このように演出も主演も自分がすべてなす劇的世界なのである。

少しして、霧の舞台に、眩しい照明が当てられて、再び夢という劇が始まる。背景には、葉の生い茂った胡桃の木置かれている。どうもこの木は、北欧神話に登場する生命の木あるいは宇宙樹と言われる「ユグドラジル」のようにみえる。何故そのように私が判断するかと言えば、次にリスが表れるからだ。このリスは、おそらくラタトスクと呼ばれるリスであろう。ラタトスクは、この「ユグドラジル」という木を通じて冥界と天上界を行き来し、木の下に棲む竜(冥界)と天辺にいる鷲(天上界)の間を悪口を伝えていると言われている。要するにこのラタトスクというリスは、冥界と天上界の生き物の間を取り持つように見えて、実は両方の世界の仲違いの原因を作っている動物でなのである。生命の木の「ユグドラシル」には、竜や鷲の他にも多くの生き物が棲んでいる。枝には鷹、若葉には牡鹿。一番上の根が伸びる「ウルザンブルの泉」には二羽の白鳥がいる。また二番目に根が伸びるという「ウルドの泉」からは聖なる水「ウルザンブルン」が湧き出していて、ノルンの乙女たちが、この泉の水と泥を「ユグドラシル」の根や幹にかけて守っているのである。だからこそこの「ユグドラシル」の木は、けっして枯れることなく、多くの生命を育む役目を果たしているのである。青々とした葉の勢いは、生命力の象徴と考えることができる。

胡桃の木は、堅い表皮に覆われた中に乳白色の身を付ける。それは隠された英知を表し、長寿、豊饒を意味することも。また逆境における力、利己心を示すこともある。この場合、胡桃が顕れ、胡桃の実をも容易に割ることできる歯の持ち主のリスが登場したのであるからこのリスは、賢治の隠されたこの世の秘密のようなものを、明かしてやるぞ、という意志のようなものを象徴している可能性がある。しかも電気のリスであるから、ロボットリスのような感じもあり、より強力な歯の力で、隠された秘密を暴いてみたいという賢治の生命というものに対する知識欲の強さとみることも可能だ。また夢の舞台の中では、このリスは、芝居の前口上を述べる役割を果たしていることは明白である。

つまり「さて夢劇場にご来場の皆さま、これから演じまするは、ジョバンニとカムパネルラ離別の場でございまして云々」という感じだろうか。
 
 

X


霧が晴れる。しかしもう女の子一団は、もう行方が分からなくなっている。
賢治「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでも一緒に行かう。僕たちはあのさそうりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼かれてもかまはない」
カムパネルラ「うん、僕だってそうだ」
賢治「けれどほんたうのさいはひは一体何だらう」
カムパネルラ「僕分からない」
賢治「僕たちしっかりやらうねえ」


まず霧であるが、霧は迫り来るカムパネルラの死とその消滅を幻想的に予感させる象徴として働いている。霧は、ケルト神話によれば、FOGは人間の世界と来世の島々の境界を意味し、北欧神話によれば、死の闇と寒気に閉ざされた極北の地を意味し、いずれにしてもあの世とこの世を分けている境界であることに変わりはない。また霧は未来に対する賢治の漠然とした不安を象徴している可能性もある。

そしてとにかく霧という幕は開いた。銀河を行く汽車に乗っているのは賢治とカムパネルラだ。賢治は、大好きなカムパネルラと二人きりになれた幸せ感で胸がいっぱいになっている。しかも同じ銀河鉄道という夜空の川を行く船に乗り、どこへだって行くことのできる切符を持っているのだから・・・。こうなったら、自分なんてどうなっても構わない。本当の幸せは、世界中のみんなが幸せになってはじめて実現される。そんな社会の実現を二人で造ろう。本気でそのように賢治は思っている。

そして呪文のような自己を呪縛する例の言葉をついに吐いてしまう。
「あのさそりやうに・・・さいはいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼かれてもかまはない」

この言葉は、一般には賢治の崇高なる自己犠牲の精神と大乗仏教的な菩薩道の精神の独白と見られているが、賢治の自己にとっては、一生を左右するような実に危険な呪文のように思える。つまりこれは精神においては、一種の願を懸けた状態を生んでいる。人間というものは不思議なもので、自己を犠牲にしても、誰かを助けたいとか、そんなことを一心で願う時、神仏の前で、密かに自分の命を差し出して取引をすることがある。「私はどうなっても構いませんから、・・の命を助けてください」とやる。するといつしか願を懸けた人間の心の深い部分に作用して、すべての思考や行動に影響を及ぼすことがある。願とは、人間の心に、自らが書いた呪文あるいは呪縛という小さなプログラムであるが、人の生き死にまで深く関わることもある。

ただその呪文が賢治の人生にどのように影響を及ぼそうとも、例えその呪文が彼の死期を早めたとしても、今日賢治が「天才の宮沢賢治」として語り継がれるほど大きな存在になっていることの大きな要因のひとつは、呪文を貫く菩薩道の精神になることも事実である。賢治が、「あのさそりやうに・・・さいはいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼かれてもかまはない」と心から願う背景には、明らかに妹トシという存在に端を発した賢治の精神の危機的状況があったことは事実である。さらにその個と個の対幻想的な意識が拡大したものとして、「みんなの幸」という大乗的な発願に辿りついたと解釈することができる。また大乗的な発願によってしか、トシから保阪嘉内に変容したカムパネルラという存在をつなぎ止める術は、賢治にはないように思えたことも事実であろう。

そこで賢治は、夢の中で、トシとも保阪嘉内とも解釈できるカムパネルラにこのように問う。
「けれどほんたうのさいはひは一体何だらう」と。するとカムパネルラは答える「僕分からない」

この問答は、賢治が保阪嘉内を論破して、自らの思想の元につなぎ止めて置くための思想闘争のような感じさえ受ける。その前に賢治は、カムパネルラから「うん、僕だってそうだ」という同意を得ている。つまり賢治は「みんなの幸」という極めて曖昧な言葉を使いながら、カムパネルラという友人のオルグに半分成功しかけている。これは賢治にといっての希望の灯である。行くべき方向については、カムパネルラと同じ、では次に、どのような方法手段(方便)を使って、その「みんなの幸」というものを実現するか。問題はその一点に掛かってくる。でも賢治は、はっきりとそれが日蓮的なやり方で行こうと明言することは避けて、ただ「僕たちしっかりやらうねえ」とお茶を濁す。もちろん「銀河鉄道の夜」という作品において、思想信条を明かすことは愚の骨頂ではあるが・・・。

賢治が、法華経精神を深く敬愛し、万人が幸せにならない限り本当の幸せはない、と感じていたことは周知の事実だ。また賢治はそのためには、自分の命さえも差し出しかねない純粋な心の持ち主であった。そのような賢治の純粋な部分が、今日にもこれほど多くの読者やファンを持ち、いつしか賢治伝説のようにまでなっていることの背景にはある。つまり日本人は、賢治の純粋な生き方に共感を受けている。またその余りにも短く儚い人生にもどうしようもないロマンを感じるのであろう。賢治の一生を顧みれば、雛の里の花巻に生まれ、生きている間は、たいした評価もされずに、ところが本人は、本当の菩薩になりたいと純粋に願い、豊かな才能を持て余しながらも、薄幸のまま、自らで大乗の思想に殉じて逝った儚い美しさがある。

さて心の補償としての夢の理論で言えば、これは賢治の周囲で起こっている現実の世界が賢治の願う方向とは、別の方向に向かっているからこそ見た夢に過ぎない。つまり夢が賢治の欲求を満たして精神のバランスを辛うじて維持しようとする一種の癒しあるいは補償作用なのである。概ね誰にとっても人生というものは思いと現実には位相が生じるもので、それが精神に大いなるストレスを招くものだ。賢治の場合は、自らが人一倍多感な性格もあって、まず最愛の妹トシを失い、更に魂の友とも密かに考えていた保阪嘉内との思想的離別を通じ、精神の危機を迎えていた。賢治の夢には、間違いなくその危機的情況が反映していたはずである。賢治の精神は、夢を見ることで、何とかこの危機から心を守っていたということになろう。
 
 

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そこに暗黒星雲と言われる石灰袋(コールサック)が見えて、カムパネルラが大声を出す。
カムパネルラ「ああ、あすこ石灰袋だよ。そらの孔(あな)だ」
賢治「僕もうあんな大きな闇の中だってこはくはない。きっとみんなのさいはいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」
カムパネルラ「ああきっと行くよ」


しかし賢治はこのカムパネルラの言葉が「強い気持ちから出ていない」ような気がして寂しくなる。外を見れば、河岸に二本の電信柱が両方から腕を組んだように立っている。そして「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」と賢治が振り返ると黒いビロードばかりが光っている。

石灰袋は、暗黒星雲とも呼ばれ、その付近にガスや塵が大量に存在していて、周辺にある星の光をさえぎっていると見なされている辺りである。まさに空に開いた孔。銀河の中にあって、そこの場所だけが、黒い陰のように見えることからこのような名称がついたのであろうか。すべてを呑み込んでしまうような得たいの知れない深い深い底知れぬ闇がそこにはあり、見る者に不安を催わせる何かがある。これが石灰袋(コールサック)という名で呼ばれるのは、偶然ではあるが、賢治の生涯を考える時、「石灰」のイメージは、何故か共時的な意味と響きを持った名称と感じざるを得ない。

そもそも石灰とは、石灰岩を砕いたものである。石灰岩とは、広辞苑によれば次のように説明されている。
「堆積岩の一。炭酸カルシウムから成る動物の殻や骨格などが水底に積って生ずる。主に方解石から成り、混在する鉱物の種類によって各種の色を呈する。建築用材または石灰およびセメント製造の原料。」また石灰岩は、土壌の酸性度など理化学的性質を改良するため施す石灰肥料にも加工される。
賢治の生まれた北上山地周辺は、この岩石の層が多く見られる。晩年、取り憑かれたように熱中する東北砕石工場(現在の東山町松川付近)では、「酸性土壌改良」という大義名分を持って、エコロジーを少々度外視した山林の切り崩しを正当化してしまう賢治のイメージも災いしていることもあるが、何故か石灰と賢治にまとわりつくイメージには、妙に悲しい何ものかが漂っている。

イメージ・シンボル事典(大修館書店)によれば、この賢治の夢に連想される説明として、肯定的に考えれば、太陽、清めの火、豊饒、暖かさ、団らん等の意味もあるが、否定的な見方では、繁栄の衰退、不服従に対する罰、否定のエネルギー、闘争を引き起こす、復習、卑しい仕事、臆病風を吹かせる等の象徴という説明もある。この中で注目されるのは、「石灰を運ぶ」(Carry coales)という言葉は、元々悪口で、ある目的の為には何でもやる、というような意味を持つようだ。およそ東北に生まれた宮沢賢治という人間にとって、石灰という暗黒星雲には、確かにすべてを呑み込んでしまうようなブラックホールのような否定的な印象が強い。

賢治としては夢の中で、カムパネルラとだったら石灰袋を背負って、暗黒の孔にでも入って行く覚悟があると言いたいのである。それに対して、カムパネルラも、「ああきっと行くよ」と答えたのだが、賢治にはどうしてもそれが自分の本心から来る強い言葉のように聞こえなくて、急に寂しさに襲われてしまう。外に立っている二本の電信柱は、賢治とカムパネルラの関係性をあるいは友情を揺るぎのないものにしたいという賢治の強い願望が反映している象徴との感じを受ける。そして賢治は、寂しさと不安を自らで掻き消すべく、カムパネルラの方に眼を向ける。しかしもうどこにもカムパネルラは消えていて、ビロードのシートに鈍く光っているだけである。どうもイメージとしては、カムパネルラが石灰袋に呑み込まれてしまったような印象である・・・。

賢治はこうして大切な大切な何かを失ったことを夢の中で漠然と受け止めた。しかし賢治にとって、まだ失う対象としてのカムパネルラが、死んでしまったことを潜在意識のレベルでは実感出来ていないようにみえる。誰でも人は、失った人物が大切であればあるほど、残された側の生者の心の中では、そう簡単に受け止められるものではない。生者の精神の深層においては、そのような否定的な現実を実感として受け止めるには、途方もない時間が必要になる。それは丁度、山に降り積もった雪が、清水として湧出してくる為には、何十年もの歳月を必要とすることに似ている。これは人間の心というものが、たとえ自分であっても容易にコントロール出来ないものであることを如実に物語っている。
 
 

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賢治は、鉄砲玉のように立ち上がり、激しく胸を打って叫ぶ。
「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ、きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だがきっとさがしあてるぞ。」

その時、青白いのろしが上がり、辺りが昼間のように明るくなる。
のろしは天に昇って、いつまでも光り続けている。

マジェラン星が見える。賢治は再び叫ぶ。
「ああマジェラン星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

賢治はマジェラン星雲を見ながら立ち尽くしている。
天の川を無数の氷が美しい燐光を放って花火のように弾ける。
向こうには大犬座が眩しく光っている。


「鉄砲玉」というのは、随分威勢の良い表現だが、この第一次稿は、その後の第三次に渡る原稿と比べると淡泊で、さっぱりしているというか、陰影に欠ける印象が強い。何しろ「さあ、やっぱり僕はたったひとりだ」ときっぱり宣言をして、ずばりと「ほんたうの幸福」を「さがしあてるぞ」とテーマらしき本音をそのまま馬鹿正直に明かしてしまっている。

作品の表現に即して言えば、この時点ですでに賢治は夢からは覚めかけている。夢うつつの中で賢治は、夢に勇気づけられて、「ほんたうの幸福」を「たったひとり」で探す決意をするという設定だ。

その時、現実と夢が交錯して、ケンタウルス祭で打ち上げられた花火が、夢にも反映して、空を真昼のようにして、光は天に留まってマゼラン星雲となって輝き出すのである。マゼラン星雲は、南天に輝く、銀河で、あのポルトガルの探検家マゼラン(Ferdinand Magellan:1480〜1521)によって世界周航の途中で発見した星雲である。大マゼラン星雲(地球から一六万光年の彼方にある)と小マゼラン星雲(同二〇万光年の彼方にある)分かれ、我々の銀河と共に銀河団という島宇宙を構成している。銀河団あるいは島宇宙という概念は、賢治の時代になかったが、どうも賢治は詩人の直感力をもって、この銀河が、アンドロメダや我々の銀河と共に何らかのコンステレーション(布置)を形成していることを感じ取っているような気がする。

また「マゼラン」という響きには、信念のためには死をも厭わない強い意志力を感じさせる何かがある。現実に、探検家マゼラン自身は、当時のスペイン王カルロス一世に自ら願い出て、資金を出してもらい、大西洋を西に進み、南米においてマゼラン海峡を発見し、さらにそこを経て、太平洋に出て、フィリピンに達したのであったが、運悪く島の先住民によって殺害されてしまったような人物である。賢治には、こころざし半ばで死んだマゼランの冒険精神に対する何らかの思いがあったのであろう。

だからこそ、賢治は「ああマジェラン星雲だ」と叫んだ後に「ほんたうの幸福」を探すたったひとりの旅に出る決意を独白したのではあるまいか。
 
 

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その時、セロのような声が聞こえてくる。
「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いてゆかなければいけない。天の川のなかでたった一つのほんたうのその切符をけっしておまへはなくしてはいけない」


セロはチェロとも言い、正式名称は「バイオリンチェロ」。バイオリンの二倍の長さがあり、形状は優美で、バイオリン同様女性の円やかな肉体を連想させる。賢治は、これを「セロ」と呼び、大好きな楽器であった。形状は女性的だが、チェロの出す音は、大人の男性の声に近い。そこからチェロが象徴するものは、男性的原理ということができるであろう。また賢治の中にある男性的なるものを刺激する波動を持っているのかもしれない。またそれは賢治の心の内部から聞こえてくる声をも象徴し、賢治の中に本来棲んでいる老賢者のような存在のような気もする。またそれは人知を越えた神の声のようでもある。結局、賢治は内部から聞こえてくる声に感応して、イマジネーション豊かで、彼しか作れないような作品を遺したのであろうか。その中に、「星めぐりの歌」という賢治が作詞作曲をした歌がある。
 

星めぐりの歌

あかいめだまのさそり
ひろげた鷲のつばさ
あをいめだまの小いぬ
ひかりのへびのとぐろ
オリオンは高くうたひ
つゆとしもとをおとす

アンドロメダのくもは
さかなのくちのかたち
大ぐまのあしをきたに
五つのばしたところ
小熊のひたいのうへは
そらのめぐりのめあて 


このメロディをチェロで弾くと、何のこともない小品であるが、賢治の純粋で素朴な心がそのまま魂の波動のように伝わってくるような気がしてしまう。そして妙に心に染みてくるのだ。この曲とは直接関係ないのだが、大江健三郎と小沢征爾が対談の中で、大江の子息の大江光の作曲した曲に関して、小沢は、「これはアカデミックな感覚で云々する曲ではない。でもとっても純粋で美しい」というように語ったことがある。「賢治の星めぐりの歌」も、まさに小沢の言葉がそのまま当てはまるような不思議な魅力を持った曲である。調べた訳ではないので、はっきりしたことは分からないが、もしかすると賢治はこの星めぐりの歌のメロディをチェロを弾きながら作曲したのではないだろうか。おそらくそれは賢治の心の中に流れている魂の波動が、これ以上ないほどに純粋無垢な形で、自然に湧いてきたものと考えられる。

セロの声は、まるで内部の声の励ましのようにも聞こえる。その主旨は、@切符をもって、A夢の銀河鉄道の中ではなく、B現実世界を大股で行け、Cこの世でたったひとつの切符をなくすなという4つのポイントに集約される。ここで、切符が二度登場するが、これは前にも述べた通り、法華経の教義そのものである。大股とは大乗仏教の意味し、大乗の教えを持って、この世に「ほんたうの幸福」をもたらせと、賢治の心を鼓舞していることは明白である。

賢治は、夢の中でカムパネルラという大切な友を失う幻想を見ながら、その苦悩を乗り越えて、夢の世界ではなしに、現実の荒波をたった一人で生きて行く決意を即座に固める。賢治の中で夢は、明確にひとつの大いなる力であった。現実の世界において、賢治は最愛の妹トシや親友保阪嘉内との思想的な別離を通して、自らの存在の意味すら分からなくなってしまうような激しい喪失感を感じていた。しかし夢はこのような賢治の精神の危機を乗り越えるために決定的な役割を果たした。夢は賢治に多くの暗示と癒しを与えた。こうして賢治の精神は、夢により、夢見る力によって救われたのである。
 
 

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賢治はこの時、夢から醒めた自分に気づく。
賢治は草の丘に立っている。
足音が近づく。
ブルカニロ博士であった。
博士「ありがたう。私は大へんいい実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を伝へる実験をしたいとさっき考えていた。お前の云った語(ことば)はみんな私の手帳にとってある。さあ帰っておやすみ。お前は夢の中で決心したとほりまっすぐに進んで行くがいい。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい」
賢治「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」

夢から醒めた賢治は、全てが夢だったことに気づく。賢治の心の中では、進むべき道が明確に見えている。劇中劇ということがあるが、これを夢中夢、つまり夢の中の夢と考えてみよう。すると賢治は、自分が夢の中で、誰かに思考をコントロールされ、操られるているのではという意識を持っていることになる。


考え方によっては、このブルカニロ博士という存在は、賢治の中にあって、ソクラテスの行動を始終規制しているデーモニッシュな声と共通点があるようにも思える。ソクラテスに耳元に聞こえてくる声は、ソクラテスが何かを始めようとすると、必ずそれを止める役割を果たした。ところがソクラテスが、異教の神を崇め、若者を扇動したという罪によって、捕縛され、死罪の罪を背負って毒杯を飲むという時には、何も言わなかった。こうして逃げれば逃げれるソクラテスは、結局毒杯をあおって、死に花を咲かせたのである。その時ソクラテスの年齢は74歳だったと思う。どんなに生きても、当時の寿命から言えば、10年も生きなかったであろうから、意味のある死に方をソクラテスは選択したということになる。死にことが返って永遠に生きることに繋がるということの好例と言ってよい。もしもそこでソクラテスが、逃げていたら、今日のようにソクラテスという人物が、ギリシャ哲学ひいては西洋哲学の祖のように言われて伝説化するようなことはなかったかもしれない。つまりソクラテスの内部から聞こえてくるデーモニッシュな声は、ソクラテスの良心の声であり、賢治がセロのような声といったブルカニロ博士と同じ役割を果たしていることになる。賢治にソクラテスのような超感覚的な能力があったとは思えないが、新しもの好きの賢治のことだから、今日「超心理学」の研究課題になっているような「テレパシー」や「他者の思考のコントロール」「千里眼」などの先駆的な研究についても知っていたと思われる。

まあ常識的な見方をすれば、このブルカニロ博士は、賢治の中にある良心となるが、ユング的に言えば老賢者という集合的無意識(元型)ということになる。ただこの意識領域は、通常の意識のレベルでは、けっして触れることの出来ない深層の意識領域であるから、もしも賢治がこの老賢者という元型とコンタクトが自由に取れるようになっていたとすれば、まさに賢治は生者の世界と死者の世界を自由に行き来できるオルフェウスのような特別な感覚を持った人間ということになる。更にそのブルカニロ博士という老賢者が、「これから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい」と言うのだからこれは面白い。確かに賢治は、自己の中にある老賢者と話をしたのであろうか・・・。
 
 

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博士は「さようなら」と言い、賢治の胸のあたりをさわって丘の向こうに消える。
賢治は母の待つ家に急ぐ。
ポケットの中で、かちかちと音がするので、みると金貨が二枚入っていた。
博士がくれたものだ。
賢治の心には何とも言えず悲しいような新しいような複雑な思いが交錯している。

琴座が、西の方に移って茸のように足を伸ばして輝いている。


ブルカニロ博士は、まるでソクラテスに聞こえるデーモニッシュな声を人格化したような不思議な存在だ。賢治の夢には、ブルカニロ博士に似た人物がおそらく姿を見せたのであろう。夢うつつの中で、このような啓示のようなものを与える存在は、けっして珍しいことではない。

沖縄で喜納昌吉氏に会った折り、こんな話を聞いたことがある。喜納氏が、旅先のホテルのベットで夢うつつの中に居ると、当然、前方から白髪の老紳士が目の前に顕れて、「喜納さん、日本を頼みます」と言ったというのだ。それが妙にリアリティがあり、喜納氏は、今でも神妙な気持ちになると語っていた。その時、喜納氏は、自分の進むべき方向を決めかねていて、大いに悩んでいた。するとこの夢うつつの中で顕れた老紳士は、喜納氏の意識下にある存在ではなくて、集合的無意識の領域から現れた老賢者という元型そのものということになるであろう。それから数日後、「花」(原題はすべての人の心に花を)が喫茶店の片隅で溢れるように出て、思わず喜納氏は、それを喫茶店の紙ナプキンに慌てて書き留めたというのだ。それが名曲「花」誕生の物語である。

きっと賢治も夢うつつの中で、集合的無意識の領域から、喜納氏の前に現れたと同じような老賢者が顕れたのではあるまいか。その賢治の中に存在する老賢者ことブルカニロ博士は、賢治の胸ポケットに金貨を二枚押し込んで消える。金貨とは、掛け替えのない貴重な宝あるいは人生の指針のようなものを象徴している。この金貨を使って、生きなさいと博士は、賢治を励まし、勇気付けている。喜納氏の場合も、非常に迷ってどうしようもない時のヌミノース体験であったが、賢治もこれと同じかそれ以上の精神の危機的状況があった訳であるが、このように考えると夢というものが、時としていかに途方もない力を発揮するかが分かるというものだ。

さて考えてみれば、第一次稿では、カムパネルラが亡くなったということを知らせる記述がない。とするとこの「銀河鉄道の夜」という物語は、初めから賢治の「夢物語」で、どのようにカムパネルラが亡くなったのかは記述せずに、前後の話から、読者にきっとカムパネルラは、亡くなったと、思わせる着想だったのかもしれない。つまり賢治は、最初、妹トシの逝去によって受けた心のダメージによって見た自分の印象に残った夢をそのまま物語にしようとした訳だ。しかしこれでは夢の不合理な非論理性が禍して読み手に意味が伝わらない。そこで賢治は、主人公を自分からジョバンニ(「ヨハネ」=先駆者:獅子座)という名に置き換えて、第一次稿を習作として書き進んだ。そして結局、試行錯誤を繰り返し、何度も何度も推敲を重ねるうちに、筋立てや論理を合わせ、不自然さを無くすために、様々なシーンを挿入し、また削除するなど、物語全体の構成を大幅に変えざるを得なかったのではないだろうか。このように考えることで、第二次稿以降付けられた最初の「授業のシーン」や「カムパネルラの死の真相」、「母に牛乳を持ち帰るシーン」などの導入された意味や「ブルカニロ博士の言葉」の削除されたことなど、この物語の一連の謎が解けるような気がするのだが、どうであろうか。

賢治の心に残った「何とも言えず悲しいような新しいような思い」というものは、夢から醒めようとしている賢治が実感としてかみ締めている素直な感情だろう。そこで琴座が、茸のように足を伸ばしているという表現は、何ともイメージの広がるいい表現だ。琴座の琴とは最愛の妻を冥界から連れ戻すために冥界まで、「足を伸ばした」オルフェウスの琴であり、それは冥界から最愛の人を連れ戻すためにオルフェウスが使った楽器(平和の武器)が天に昇って星となったものであった。
 

つづく

ジョン・レノンの「アクロス・ザ・ユニバース」と宮沢賢治Tへ

佐藤弘弥
 
 

 


2002.2.18
2002.3.13

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