映画「硫黄島からの手紙」小論


日本と日本文化へのオマージュのような傑作!?


1 日本と日本文化へのオマージュ
クリント・イーストウッド監督の最新作「硫黄島からの手紙」を鑑賞した。封切り前夜、私は一睡もせず、いやでき ず、とにかく映画を体験したいという強い衝動のようなものに突き動かされ、夜明けを待って映画館に向かう。

この映画を丸々二度見終わって、先に観た「父親たちの星条旗」とはまったく違う視点で作られた作品だと、率直に 思った。前作は原作があり、ある意味では理性的な側面がある。それに対し「硫黄島からの手紙」は、非常に感覚的な作品である。

この違いは、様々な原因が考えられるが、一番大きかったのは、監督のクリント・イーストウッドがアメリカ人で、ア メリカのことはよく知っているが、日本についてはあまり知らないということから来ているのではないかと思った。同時に、私はそこにイーストウッド監督の作 家的良心のようなものを感じた。日本という未知なる文化に対し謙虚な態度でこれを映像化しようする姿勢がフィルムの端々から伝わってくるのである。

とかくアメリカの映画作家は、星条旗を背負っているような傲慢さが目立つ作品も少なくない。しかしイーストウッド 監督は、この作品において、アメリカ人の撮った映画というよりは、日本人監督が撮ってもここまで出来ないだろう、と思わせるほどに当時の日本人の感性の特 徴を、この映画に凝縮させることに成功している。

その意味で、この映画は、現代のアメリカの映画の最高峰の映画作家のレベルを物語る作品である。要するにこの映画 は、戦争に勝利したアメリカ人の視点から敗者である日本を撮るというような狭量(アメリカイズムの戦争映画)な作品でも、日本で興行的に成功を収めたいと いうような下心の見え見えの作でもない。この映画の根底には、監督自身が栗林中将という人物と硫黄島の戦闘をもっと深く知りたいという真摯な動機が明確に 見え隠れしている。

イーストウッド監督は、シナリオを深く読み込み、現場においては日本人俳優やスタッフらとの創造的な緊張関係の中 から、日本と日本文化というものの奥にあるものを映画として結晶させようとした。その試みは成功しているように見えた。

その結果、この作品は単純な「硫黄島の攻防」を描いた戦争映画のワクを遙かに越えて、不可解なる「戦争」というも のの本質を鋭く突く人間ドラマとなったばかりではなく、映画作家「クリント・イーストウッド」自身の日本と日本文化に対するオマージュ(讃辞)ともいうよ うな傑作に仕上がっている。


2 イーストウッドの感性とその演出法
この映画はイーストウッド監督の柔らかな感性を感じさせる。確かにこの映画には、どこも説明にあたるキャプションが出てこない。日付はおろか場所あらゆる情報 は、曖昧で時間感覚もアバウトである。戦争映画によくありがちな記録的でも説教的でもない。単なる戦争映画でも、反戦映画でもない。それでいて、どんどん と観る者をスクリーンに釘付けにする魅力ある人間ドラマだ。どこか能や歌舞伎に通じる日本的芸能の様式美を感じさせる映画だ。

映画公開に先立って行われたインタビューによれば、彼は映画作りの信条を、「誠実」と「真実」と述べている。

まずイーストウッド監督は、シナリオを日本文化を良く知る(?)日系女流脚本家のアイリス・ヤマシタに依頼した。 その上で監督は、さらに撮影現場で柔軟にシナリオを解釈し、渡辺謙をはじめとする日本人俳優やスタッフに、彼らの意見やアイデアを聞きながら、これを積極 的に取り入れて撮影したようである。イーストウッドという映画監督は、非常に謙虚で物静かな人物のようである。インタビューにおいて渡辺謙は、リーダーと してイーストウッド監督の中に栗林中将という人がダブって見えたとしている。渡辺謙は、実際の演技に監督の立ち振る舞いを演技に取り入れたとも語ってい る。

渡辺謙が、「監督が栗林中将に見えた」と言ったのは、実に興味深く面白いエピソードだ。もっと言えば、監督は、栗 林中将に自分の分身を無意識で感じつつ演出をしていたのか。また渡辺はそれを直観で鋭く感じ取っていたのかもしれない。

イーストウッド監督は、「父親たちの星条旗」を撮るに当たって、様々な資料(史料)を見ているうちに、一人の興味 ある日本人に出会う。もちろん硫黄島の戦闘の日本側のリーダー栗林忠道中将である。監督は、栗林忠道という人物に不思議なほどに人間的な魅力を感じた。調 べるうちに、敵将である栗林中将が、日本の陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、アメリカに留学し、アメリカの名門ハーバード大学で英語を学び、アメリカの 軍関係にも多くの友人をアメリカ通の人物であるということを知る。そしてこの親米家と言ってもよい日本側のリーダーが、硫黄島の戦いという太平洋戦線の究 極の攻防戦において、アメリカ軍の前に鬼のように立ちはだかり、アメリカ人をきりきり舞いさせるような優れた作戦を立案し、精一杯に戦い、そして死んで いったのかを、描き切りたかったのではないだろうか。イーストウッド監督は、人間栗林忠道を自分の感性に近い人物としてシンパシーを感じていたのかもしれ ない。

国家同士の戦争というものは、時としてあらゆる個人の感情や信条のレベルを越えて、両国のすべての人々を悲しみの 淵に引きずり込んでしまうものだ。


3 ストーリーと演技者たち
筋を大まかにみる。死ぬことを運命付けられた戦地硫黄島に一人のリーダー(栗林忠道)が送られる。援軍が来る見通 しはない。彼はこの島の地形を考え、地下要塞を建設する戦術を思いつく。それまでの上陸阻止の戦術の定石(セオリー)を越えた奇策だ。軍人として本土に家 族を持つ者として玉砕ではなく持久戦の展開にして、自分たちの死を意味のあるものにしようとする。しかしここで内部抗争がある。栗林中将は持久戦派であ り、一方では硬直的な思考で、潔く玉砕をして果てようとする短期決戦玉砕派とでも呼ぶような連中である。

栗林は時に柔軟に時に厳しく自説を説き、強いリーダーシップで、迫り来る決戦に備える。しかし対するアメリカ軍と の物量の差は圧倒的である。この中で栗林はどう考え。どう行動するか。この辺りが映画の見所である。彼はいったいどのようなキャリアを持ち、感性を持った 人物なのか・・・。


 a 栗林忠道 渡辺謙
栗林忠道を演じるのは、映画「ラスト・サムライ」で文字通り最後のサムライ「カツモト」を演じ、日本を代表する大 スターとなった渡辺謙である。今回の栗林中将のイメージは、どこか「カツモト」と重なるものがある。ふたりとも西洋の文化を理解し英語を話す先進的な知性 を持つ人物である。と同時に、自国の文化を身をもって体現するほどの保守的精神をも具有している。このアンビバレンス(両価感情)な感情をひとつの心に宿 しているところに、栗林とカツモトの悲劇はある。

彼れは敗者を運命図けられてしまっている。彼らは西洋流の合理精神と社会契約の国家観を持ちながら、「国」や 「義」という不合理なる伝統に殉じて自己の不条理極まる死に意味を見出さなければならないのである。

このぬぐい去れないほどの精神のアンビバレンス(両価感情)は、栗林やカツモトに限らず明治以降、西洋の文化を学 んだ日本の知識人に共通する精神構造であり、苦悩を形成していたと思われる。日本人でありながら、アメリカを理解し、その国力を知り、そこに師や友を持つ とすれば、この映画の主人公栗林忠道という日本人リーダーの背負った苦悩は、日本という文化が背負った苦悩と悲劇でもある。

渡辺謙という役者は、死を乗り越えて来た役者である。彼は個人的に白血病を患い大変な思いをして現在の地位に上り 詰めたのである。おそらくは目前に死を覚悟したこともあっただろう。彼の深い悲しみを抱えた眼孔は演技というものを越えて人生あるいは生きるということの 意味を伝えている。セリフなどなくても、生きるということの意味を伝えることの出来る役者なのだ。この映画においても、彼は栗林忠道という人物の苦悩とい うものを、抑えた演技の中で十分に演じきっていた。いつもながら彼の演技には、古き良き日本人の最良の人々が持っていた威厳と風格が漂っている。

映画における栗林忠道のキャラクターをまとめてみる。日本軍の総指揮官でありながら、広 い視野を持つ人物として描かれている。この映画の想像力の源泉 そのもの。戦略家としての力量に優れ、万歳突撃などの無意味な死を避けて、長期に渡る持久戦を硫黄島にて展開。「私たちがこの島を守る一日には意味があ る」というセリフが哲学的に響く。しかしこの戦法に反対する指揮官も多く苦労をする。そこがドラマの緊張を作っている側面もある。


 b 西郷一等兵 二宮和也
栗林忠道を最後まで見届け、地獄のような島から生還する狂言回しの役が二宮和也演じる西郷一等兵である。彼は職業 軍人ではなく、平凡な街のパン屋である。エリート軍人の栗林中将や西中佐(伊原剛志)とは、まさに好対照をなしている。この映画の成功は、この人物のよう な平凡で善良な市民キャラクターを創出した点が大きかったと思われる。西郷というキャラクターは、名もなき庶民が心ならずも国家同士の戦争に巻き込まれて ながら、精一杯生き抜いて、国で待つ妻子の元へ戻ろうとする。

硫黄島に限らず、あの大戦が繰り広げられたそれぞれの戦場では、それこそ無数の西郷一等兵が存在していたはずであ る。彼らは故郷の妻子を思い、老いた父母を気遣いながら、死んでいったのである。おそらく実在の人物ではなく、創作上の人物であろう。私はすぐに黒澤明の 後期の傑作「乱」(1987年)における狂阿弥(俳優:ピーター)のような役回りだと思った。それにしても二宮の演技は、実にみずみずしく素晴らしい。

西郷一等兵のキャラクターのまとめ。大宮のパン屋であったが、召集されて硫黄島に来る。 故郷には生まれたばかりの女児があり、妻に絶対帰ると約束したが、戦況がどんどんと不利に展開する中で、本人も、生きては帰れないという思いがしてくる。 当時の一般的日本人の代表のような存在。


 c 西竹一 伊原剛志
バロン西(アメリカのマスコミが付けたニックネーム)こと西竹一中佐(1902ー1945)を演じた伊原剛志も熱 のこもった演技だった。但しもう少し、西には育ちの良さから来る世間を喰ったような生意気さの名残があっても良かったかなと思う。

バロン西は、もはや伝説的な人物である。「バロン」とは、もちろん「男爵」のことである。彼の父親は明治維新に勲功あり、日清戦争の働きにより
男爵を授かり、後に外務大臣を務め鹿児島藩士の西徳二郎という人物である。

父徳二郎は、麻布に広大な邸宅を構え、使用人は七十名を越えていた。例年、長者番付の常連だった。竹一は徳二郎の正妻の子ではなかったが、男子がいないた め、父が明治四十五年に六十六歳で急逝すると、膨大な資産をわずか十歳で引き継ぐことになる。
彼はほとんど父母の愛情というものを知らずに育ったようだ。

その為かどうか、学習院では、問題児として、停学処分なども何度か受けたという。その後、日比谷高校から陸軍士官学校を卒業し、騎兵隊に所属した。栗林忠 道も騎兵出身ということで、父親の威厳を知らない西にとっては、栗林忠道という人物は、年齢的には歳の離れた兄のような存在であるが、むしろ父親のような イメージを抱いていたのではあるまいか。

西の自慢とアイデンティティは、昭和七年(1932)にアメリカのロサンゼルスで開催されたオリンピックの馬術大賞典障害飛越競技で愛馬ウラヌス号をかっ て金メダルを獲得したことである。英語を悠長に話し、長髪をなびかせ、西洋流の社交界も熟知していた西は、たちまちアメリカでもプレイボーイとなり。ハリ ウッドの女優と浮き名を流したりした。連日、当時世界でも数台しかないという超高級車パッカード(12気筒)のオープンカーを乗り回した。彼は日本におい てもクルーザーやハレーダビットソン(バイク)やクライスラーなどの高級車、ドイツ製のライカなどを愛好した。まさに傍若無人とでもいうべきか、質素倹約 の日本人という固定的イメージを逸脱する型破りな人物だった。

このような享楽的でユニークな人間が戦争に巻き込まれるとどうなるか。当初周囲(大本営)は、彼を天才的な馬術の技量を利用して、日本の国威を発揚する文 化宣伝として活用しながら、目に余るほどの贅沢三昧を次第に煙たく思うようになる。その結果、西は、あっちこっちと戦地をたらい回しにされることになる。 早い話が左遷の連続だった。そして43歳、中佐であった西は、戦車部隊700名を預けられ、生きて還ることの望めない硫黄島に送られることになった。

騎馬隊の先輩であり、尊敬の対象である栗林中将との運命の再会であったというべきだろうか。ユニークな人物というものは、死ぬまでユニークなもののよう だ。彼は老いた愛馬ウラヌス会いに行き、たてがみを切って別れを告げると、これを愛馬の写真と共にポケットに入れて、栗林中将の待つ硫黄島に馳せ参じよう とした。

ところが横浜から兵員や物資を輸送船に積んで船出した西であったが、運悪くアメリカ軍潜水艦の攻撃にあって船が沈められ、東京に戻ってくることになる。二 度目の渡航をへて、やっとの思いで硫黄島に辿り着く。それでも愛馬を島に同行させるなど、西の行動は規律厳しい日本軍の中にあっては微笑ましいほどユニー クでわがままだ。

しかし今度ばかりは、西も腹を据えていたようだ。長髪を短く切り、かつて愛したアメリかと死に物狂いの負け戦をしなければならない。比較にならないほど、 日米の国力の差があることを西は知り尽くしている。どこか西の心には、戦争での勝敗はともかく、純粋な張りのある生き方をして死んでも良い、という思いが 芽生えていたのかもしれない。
それは栗林忠道への尊敬と思慕の念だったかもしれない。あ るいは死に場所を求めるようなところがあったのかもしれない。

映画の中で、西が栗林に赴任してきたことを馬に乗り告げに来るシーンがある。殺風景な硫黄島の汀であるが、伊原が馬に乗って砂浜を疾走する映像は実に美し い。清々しい再会シーンだった。

西中佐の存在は、この映画でもとくに重要だ。戦闘中、西の部下が、ひとりのアメリカ兵を撃ち、洞窟に運び入れる。西は、瀕死の重傷を負っているアメリカ兵 の治療を衛生兵に命令する。自軍の医薬品が少なくなっていることもあり、衛生兵はためらうが、「もしも自分がこのアメリカ兵の立場だったら、そうして欲し いだろう」と、治療に当たらせる。

アメリカ兵は、歳の頃は20歳前後の若い兵士だ。表情は怯えて切って硬直している。西はその前にやってきて、英語で優しく話しかける。

「君はどこの出身か?」有名な俳優や女優の名を挙げて、「僕の知り合いだ。東京の僕の家にも遊びに来たことがある。」「僕はロサンゼルスオリンピックで馬 術でチャンピオンになった、」もちろん若者は知らない。世代が違うのだ。西は息子のような青年にウラヌスに乗って障害を飛び越える自慢の写真を見せる。ア メリカ兵の顔が和む。「僕はタケイチ君は?」、「サム」二人は握手をする。

イーストウッド監督は、この握手にひとつのメッセージを託しているように思う。日米は利害がこじれて争ってはいるが、個人同士は分かり合える共通の精神基 盤がある。そんなことかもしれない。

翌日、西はアメリカの若者が冷たくなっているのを知る。手には紙切れが握られていた。若者の母からのメッセージだった。

手紙には、5冊の本を送ること。元気で生還することを祈っていること。自分が正義と思うことを信じて貫けば、それが正義となること、などが書かれてあっ た。

西はこれを自分の部下に読んで聞かせる。部下たちは、敵であるアメリカ人も同じように、生還を信じて心配している家族が郷里で待っているということを知 る。日本人もアメリカ人も同じなのである。西は若い兵士の手を前に合わせ合掌させる。
捕 まった当初は怯えきった顔をしていた兵士の表情が、思いの他に安らかなになっているのは、ひとつの救いだった。

やがて擂鉢山が陥落し、西の戦車部隊の陣地にも、アメリカ軍がどんどんと侵攻している。 西は爆風によって、目を焼かれてしまう。西は自分が足手まといになることを思い、部下を他の隊と合流することを命令する。その時の部下への訓辞に、この映 画全体のテーマが隠されていた。

彼はここで、最後まで生き抜いて欲しいこと、最後には自分で判断し決断して欲しいこと、それが君たち兵士の正義となることなどの話をして部下を見送る。最 後のセリフは、この映画のテーマそのものであったが、ここで西という人物は、結構軽妙なジョークを飛ばす面白い人だったらしいから、死出の別れの言葉とは 思い得ないようなセリフを最後に吐かせても良かったのではなかろうか。

ここで西が口にする「正義」であるが、これは国家が戦争の時に必ず口にする「戦争の正義」ではない。この「正義」は、先に亡くなったサムというアメリカ兵 の母が手紙に託した母の言う「正義」のことである。人の道からすれば、戦争は悪である。しかし国家というものは、どんな戦争でも「正義」という言葉を使用 する。その「正義」とは、絶対的一方的な側面からの「正義」であって、相対的な正義ではない。相対的な正義とは、どんな時では、「正義」とはどの辺りにあ るか、ということを相対的客観的に判断できた上での人間の道としての「正義」でなければならない。

部下たちを見送った西は、ライフルで自害をする。

この時の演出には、疑問がふたつある。まず第一は、伊原自身の提案で実行されたという負傷した西の眼球の色である。色つきのコンタクトで白く混濁してい て、怪奇映画のようになっていたが、このような演出が必要だったのか、はなはだ疑問である。それともうひとつ、ライフルの引き金を足の指で引いて自殺する 時、部下がこの銃声を聞いて、立ち止まるのだが、表情ひとつ変えずに、その場を離れるのは問題である。
尊敬する上司を置き去りにするのである。しかもその後、上司が自害するは明白である。その銃声を聞き、ハッとして立ち止まったならば、その瞬間頭を垂れて「黙祷」するか、「南無阿弥陀仏」と唱えて去るはずだ。それが日本人の感性である。だからど うしても、あのシーンは日本人の美徳が忘れられているようで美しくないと感じたのである。目の色よりも、惜別の情の表現が必要だった。

西中佐のキャラクターのまとめ。エリート軍人であるが、型破りな人柄で、ある種のトリッ クスターである。西の生き様には一般の日本人には決してないスマートさと無邪気さがあり、魅力的なキャラクターだ。


 d 伊藤中尉 中村獅童
中村獅童演じる伊藤中尉は典型的な軍国主義者である。目が据わり、日本の不敗神話を信じ、日米決戦でも必ず神風が 吹くと、頭から信じ切っている。人権も国際法も眼中にはなく、価値観の多様なることを言えば、「非国民」、「天誅」と叫び、暴力に訴える。日本中至るとこ ろにこのような軍国青年がいた。

おそらく伊藤中尉も架空の人物であろう。そもそも武士の精神とは、主従の契約に基づく水平的な契約関係のはずであ る。軍国主義的な解釈では、天皇の下に軍隊として垂直的な従属の関係とする。これは徳川時代の二百六十年において、臣下の関係が、徐々に従属的な関係に意 図的に転換させられてきたものを、明治以降、徳川というヒエラルキーの頂点を天皇に置きかえた形と考えられる。

明治以降、天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、日本の軍人は天皇の軍隊となった。日清戦争、日露戦争の奇跡的な 勝利は、日本人の 領土的な野心をかき立て、日本人はアジア大陸への進出を疑いもなく熱狂をもって受け入れる。日清日露の両戦争において、日本の勝利の背景には、イギリス、 アメリカの経済的外交的支援があったことを忘れてはならない。しかし日本の軍事政権の領土的野心は、味方にすべき国を見誤って、ドイツ、イタリアと三国同 盟を結んでしまう。結果、日本は紛れもなく英米を敵に回すことになる。一般に軍部の暴走と呼ばれるものだ。こうして多様な意見や価値観は封じられ、軍国主 義教育によって、骨の髄まで、洗脳された日本人は、広島長崎に投下された原爆によって目が覚まされるまでに、三百十万人を越える戦争犠牲者を出すことに なった。

中村獅童の狂気じみた目の中には、日本人の陥った軍国主義という悲劇の正体がまざまざと宿っていた。見ていること さえおぞましく感 じられる。心理学者ユングがいうところの「影(シャドウ」がそこにあるからだと考えられる。ユングによれば、「影」とは自分が見るのも憚られる自分の否定 的な部分とされる。伊藤中尉は、紛れもなく六十数年前の「日本人の影」なのである。私たちは、これをどんなに見たくなくても、正視しなかればならない。伊 藤中尉の惨 めな姿に日本人の欠点を見、この姿をどうしたら人間らしい血の通った心に戻れるかものかと、その処方箋を作るべきである。

伊藤中尉は、軍人はむざむざ生きて生き恥をさらすより潔く死ぬべきと、いち早い玉砕戦を挑み、栗林や西中佐という 上官と対立する。無謀な擂鉢山奪回策を叫び、栗林中将の命令を無視して部下を巻き込んで敵の中に飛び込んでいく。途中、伊藤は部下は戻し、独り体中に爆弾を巻き付けて、陣地に侵入してくる戦車諸とも 自爆しようとし、じっと時を待つ。何故か、戦車は伊藤の前に現れない。夜が明け、朝がきて、また夜がくる。だがいくら待っても戦車は来ない。彼はついに巻 き付けた爆弾を外し、夢遊病者のように歩き出す。そして自分がもっとも嫌う捕虜となってアメリカ 軍に連れていかれるハメになる。これは皮肉な末路である。神仏の視点でみれば、神が日本人に自己反省の機会を与えるために、これを殺さずに生き延びさ せたということになるだろうか。日本人は伊藤中尉を笑い足蹴にすることはできない。何故ならば、それは単なる想像の産物ではなく、我々の父や祖父の理由な き熱狂の果ての実際の姿そのものだから だ

伊藤中尉のキャラクターのまとめ。ごりごりの軍国主義青年。常に心に刃を隠しているよう な雰囲気がある。でもこのような人間が当時は五万と居た。


 e  清水 加瀬亮
清水は、西郷たちの部隊に配属されてきた新人である。この人物も創作上の人物だろうが、どこか暗い影を持っている。部隊の者が、清水に以前の配属先を聞け ば、「憲兵隊」と答える。西郷の同僚たちは、不適正な思考を持つ兵士を内部で調べにきたのではないかと疑心暗鬼に陥る。西郷だけは、「馬鹿な?」とその疑 いを一蹴する。

清水の属していた憲兵について解説を加えて置く。「憲兵隊」は、フランスの制度を導入して設立されたものである。かつて陸軍大臣に属し、陸海軍の軍事警察 であったが、徐々に権限が拡大していく。全国の市町村に配置され、国民生活に介入するようになる。社会秩序の維持を目的として、一般警察の役割を担うよう になり、学校にも常駐し思想弾圧を平然と行うなど、軍国主義日本を支える国民監視機関となった。国民から見れば「憲兵」は国家権力そのものであり、恐怖の 存在であった。

清水は、この恐怖の軍国主義維持機関のエリートであった。しかしある事件をきっかけに、憲兵的人格が不適正とされ、一般の兵員として、玉砕必至の硫黄島に 左遷されてきた者である。彼の中には、この戦争が「正義の戦争かどうか?」という以前に、「自分はこの時代にどのように生きていけば良いか」という生に対 する疑問が宿っている。

この硫黄島に清水が送られた裏にはこんなエピソードがあった。ある夜、先輩の憲兵と住宅地周辺を回っている時に、国旗を掲揚していない家屋を見つける。先 輩は、「あの非国民の家を正して来い」と命令する。戸を叩くと、生活に疲れた妻が顔を出し、夫が出征して、高いところに掲揚することができないので、失礼 しました。手伝っていただければ、今すぐ掲揚します、と言う。清水が、物干し台に上り、国旗掲揚を終えて、任務を果たしたと思っていると、その家の飼い犬 が「ワンワン」と吠えて泣きやまない。先輩憲兵は、苦々しい顔をして、「イヌが公務を妨害している。処分して来い」と清水に命令する。幼さない男児と女児 が母の後ろで心配そうに見ている。清水は、イヌを裏に連れて行き、機転を利かして、空に一発銃を放って、妻に奥で静かにさせて置くように、と帰る。無事一 件落着と思ったところが、そこはイヌの悲しさで、家の奥から「ワン」と聞こえて来る。先輩憲兵は、たちまち鬼の形相となって、戸を開け、土足で上がって、 妻子が「キャー」と悲しい叫びを上げる中で、銃声が響き、イヌは殺害されるのである。終わると清水に向かって「オレに恥を掻かせた」と何度も拳を振るうの である。これが清水である。どのような経緯で、憲兵隊に入ったのか、理由は不明だが、軍国教育を受けつつも、伊藤中尉ほどに、洗脳されている訳ではない。 大いなる疑問を持ちながら、日本という国が進もうとしている方向に流されているのである。

大方の日本人は、この清水のように、国家に対し反抗的でも積極的に荷担する気持ちもないままに、いつの間にか、戦争の前線に押し出されていたということで はなかったか。気がついて見たら、生と死の淵に来てしまったのである。少し前まで、清水は大学で学んでいたのだろう。ところが戦線が拡大し、人不足から学 徒出陣(1943年以降)によって、強制的に入隊させられたものと思われる。清水にすれば、あれよあれよという間に、硫黄島に来ていたというのが正直なと ころだろう。

清水のセリフはあまり多くない。ただ終始、その表情は不安の影があり、誰ともうち解けないような雰囲気がある。少なくても、栗林や西は職業軍人である。そ れに対し、この清水や西郷は、召集によって強制的に戦争に連れて来られたものである。国家による軍事的暴走がここまで日本人苦しめるものか。そう思わずに はいられない。最後に清水は、西の言葉に触発され、自分が考える正義を信じ精一杯生きることを決意する。それは、アメリカ軍に投降し、それでも生きるとい う道であった。白い布を降りながら、アメリカ軍の捕虜になってほっとした清水だが、アメリカ兵は、これを無造作に射殺してしまう。
もちろんこれは捕虜の扱いに関するジュネー ブ条約(1929)違反の行為であるが、アメリカ兵にも、日本兵同様に、様々な人間がい るということだ。しかし極限状況に ある前線ではしばしばこのような悲劇が起こるものだ。やがて、そこに西郷らが来て、白い布を持ちながら倒れている清水を発見する。西郷は千人針の胴巻きを 遺体に掛けこれを弔う。

清水を演じた加瀬亮は、国家に翻弄されながらも、軍国主義思想に馴染めずに苦悩するごく普通の若者の姿を控えめに演じていて好感が持てた。

清水二等兵のキャラクターのまとめ。憲兵士官からの左遷されて硫黄島にやって来た落ちこ ぼれ。どこか軍隊にも状況にも馴染めない。学徒出陣か。


  西郷花子 裕木奈江
花子は西郷の若妻である。埼玉県大宮市で夫婦二人でパン屋を営んでいたが、戦争が始まり、小麦粉や砂糖などの原材料が入らなくなる。更に鉄材の不足から、 パンを焼く機材が国家に拠出させられ、為す術もなく暮らしていた。その時、花子はお腹に子供を宿してた。

そこに夫へ、召集令状(赤紙)が届く。令状を持ってきたのは、郵便配達と国防婦人会(愛国組織)の女性ふたり。当時、郵便配達と一緒に街ごとに愛国的な婦 人会が組織され、ウムを言わせぬような国民総監視体制が出来上がっていたのだろう。

「おめでとうございます。ご主人に召集令状が参りました」

花子は激しく動揺する。そして「私には主人しかいません。お腹には子供います。勘弁してください。」と涙を零す。すると、国防婦人会の女性が、鬼のような 形相となって、
「あなたは何を言っているんです。私たちも皆主人や息子たちを戦地に送っているんです」

歴史家井上清(1913ー2001)は、当時の世相をこのように記述している。

「戦争は女性の生活も一変した。・・・一九三 〇年には、文部省によって『大日本連合婦人会』がつくられ、主として農村の主婦が組織され、同時にそれまでの各地方ごとの『処女団』などは『大日本連合女 子青年団』に統一せられ、未婚の女性が強制的に加入させられた。一九三二年には、陸軍省は『大日本国防婦人会』をつくった。こうして古くからの『愛国婦人 会』とならんで、三つの官僚・軍閥の御用婦人団体が、たがいに軍国主義を競争した。・・・四二年二月には、『愛国婦人会』、『大日本連合婦人会』、『大日 本国防婦人会』の政府・軍部御用三団体は『大日本婦人会』に統合された。その会にすべての既婚婦人は強制的に加入させられ、『兵隊さんは生命がけ、私たち はたすきがけ』などと、・・・出征兵士の見送りや、慰問袋つくりにかり出され、防空演習、公債の強制わりあて、強制貯金、廃品のとり集めと供出、などをや らされた。」(井上清 「日本女性史」三一書房 1967年刊 P289-P291)

花子は、このような戦争一辺倒の世相にささやかな抵抗を試みた。いや何とかして欲しいと頭を下げたのである。これを軍国主義で頭が凝り固まっている世間が 許す訳がない。花子は常識のないわがままな婦人として、場合によっては、「非国民」と言われ、村八分になる可能性もある。西郷は戦争を肯定論者でも否定論 者でもないが、世間の戦争へ戦争へと流れる大きな潮流に乗って、戦場へ向かうしかなかったのである。

花子と西郷の別れのシーンは、「戦争反対!!」と叫ぶ幾千の言葉よりも、遙かに強い非戦のメッセージが込められた名シーンであった。明日への不安を口にし て、「み んなあなたを返してくれないのよ」という花子に、「きっと返って来るよ」と言いながら、花子のお腹に耳を当てて、「聞こえるかい。お父さんが言うよ」と優 しく話しかける。花子は夫の出征後、女の子を産む。硫黄島にいる西郷は、妻と子に、心を込めた手紙を送る。もちろん手紙は軍によって検閲をされるから滅多 ななことは書けない。これは西郷のことではないが、万葉集に付された歌の番号を暗号のようにして、愛を交わしあった若い夫婦がいたらしい。この時期、若い 母たちは、ある人は妊娠をし、子供を産み、幼子を抱え、食糧もなく、夫の消息への不安と空襲に怯えながら、一途に夫の無事の帰還を祈っていたのである。

花子を演じる裕木奈江は、シーンとしては召集令状の場面と夜の別れの場面の二度の出演であったが、戦争というものに巻き込まれて戸惑う庶民の不安を全身で 演じていて強い印象を残した。

花子のキャラクターのまとめ。西郷の妻にして、古き日本女性の慎ましさを遺す。

以上の六人の主要人物を中心に、硫黄島の日本軍が敗北していく姿を、悲しくも淡々と描い ている。

 
4 まとめ 硫黄島の戦いとは何だったのか?

映画を見終わった瞬間、いったい硫黄島の戦いというものは、何だったのか、と考えた。それはもちろん、日本が負け、アメリカが勝ち、日本人として悔しい、 などという単純なものではない。そもそも日米の罪もなき若者たちが、何故あのような硫黄の臭いの充満する地獄のような孤島で、命を散らさねばならなかった のか・・・。考えても考えても、容易に答えなど見つかるものではない。それは六十一年後の今でも歴史という不可解な闇の中でうごめいている。

ただ私はこの映画に、ふたつの救いをみた。ひとつはこの映画が完成したことによって、忘れ去られていた硫黄島の戦いの記憶が人々の中に甦って来つつあるこ とだ。

戦後六一年目に当たる今年、第二次大戦の記憶は、日本人の中においても大いに薄れつつある。信じられないことだが、日本とアメリカが太平洋を挟んで四年間 に渡って悲惨な戦争を行ったことを知らないという子供たちも年々増えているという。

一方では戦争で悲惨な時代を過ごしてきた世代が年々亡くなっていくという現実がある。教科書などでは言葉によって、戦争の悲惨さを教えているが、生まれて からずっと戦争による飢餓や空襲などの恐怖を体験したことのない世代にとっては、どこか他人事になってしまうのである。

「硫黄島からの手紙」には、過剰とも思える自爆シーンが随所にあり、目を覆いたくなったことも事実だ。しかしこれが戦争の悲惨だ。私たちの父や祖父たち は、程度の差はあっても、これと同じような戦争体験をしてきたのである。

この映画「硫黄島からの手紙」をどうしても観たくなる自分の心境について、私の心の奥底で何が起こっているのか。もしかするとそれは無意識として眠ってい る戦争への憧憬かもしれない。それは自分の命も危ういような戦場(極限状況)に身を置いてみたいという心境だが、そんな思いがどこかにあるのではないかと 思った。人間には暴力性が眠っていると言われる。それこそが戦争を引きおこす心理的な要因であり、有史以来いっこうに戦争というものがなくならない最大の 原因であるかもしれない。


この映画のふたつ目の救いは、埋もれていた「栗林忠道」という優れた人物を発掘したことだ。六一年間、栗林忠道という人物について、日本において、この人 物の人となりを、素晴らしいと褒め称えたことはほとんどなかった。もちろんそれは無理からぬことかもしれぬ。敗戦国日本において、職業軍人であり、戦勝国 アメリカに最大の打撃を与えた硫黄島の戦いの総指揮をとった最高責任者であるから、顕彰しようがなかったことも事実だろう。むしろ栗林忠道は、アメリカの 将軍たちやジャーナリズムによって、優れた戦略家として、評価されてきた経緯がある。

僅かアメリカ軍の三分の一ほどの二万足らずの軍隊で、島の周囲は、米太平洋艦隊にネズミ一匹通れないように封鎖され、空からはひっきりなしに五月雨のよう に爆弾が投下される中にあって、無意味な死ぬための突撃をけっして許さず、自らの将兵を励まし、それから三十数日間、地獄のような戦いの最後の最後にあっ て、彼は「私は常に諸君たちの先頭たって戦う」との言葉を発し、自ら硫黄島の砂の中に姿を消したのである。

アメリカの将軍たちが、敵将あっぱれという気持ちにさせた人物栗林忠道中将。しかし私たちはあえてこの人物を「硫黄島のヒーロー」に祭り上げてはならな い。私が熱い気持ちになって、この映画をどうしても観たいという背景には、軍国主義的な熱狂への民族的ノスタルジー(無意識)のようなものがないとも限ら ない。栗林忠道という人物の軍事的戦略家としの非凡な才能を認めつつも、私はあえて、彼の心の奥にある温かい眼差しにこそ光を当ててみるべきだと思う。家 族への心温まる手紙や硫黄島においてともに戦った兵士たちに注いだ思いやりある態度は、硫黄島の鬼神のごとき日本軍最高指揮官というよりは、一人の心優し き父親のイメージがある。

戦後六一年目にして、アメリカ人映画監督クリント・イーストウッドによって制作されたこの映画は、彼の最高傑作にして、これまでのあらゆる戦争映画の中で も五指に入るほどの出来映えであった。栗林忠道が最後の突撃を試みるラストシーンが悲しくも美しい。西郷がひとり生き残り、栗林から自分の遺体を米軍に見 つからぬうよう砂に隠せ、という命を受ける。彼はその命令を全うする。やがて西郷は米軍に囲まれ捕虜となる。気を失った西郷が担架に運ばれ、米軍の負傷兵 の横に並べられるシーンには、思わず拍手を送りたくなった。もはやここには、勝者も敗者もない。そんな意図を持った映像だった。このラストにおいて、イー ストウッド監督の脳裏の中では、日米の若者の心はひとつに結ばれたのかもしれない。静かであるが、この映画を象徴するシーンだったと言えるかもしれない。

この映画は、栗林忠道という歴史的人物に光を当てて制作されているが、栗林という人物をヒーローとして描いているのではない。
イーストウッド監督にとって、栗林はこの映画を創る上において想像力の源泉だったのである。その上で監督は、戦争の渦中で苦悩する栗林を通じて、この人物を育んだ日本と日本文化にも最大限の敬意を払っているように感じた。

昨今の世界を見渡すと、世界各国で偏狭なナショナリズムの台頭 があり、無差別テロを助長する空気が蔓延し、ア メリカ自身は、あっさりと民主化できると踏んだイラクで苦しんでいる。クリント・イーストウッド監督は、そんな戦争への危険な徴候に対し、「硫黄島からの 手紙」を平和への祈りとして制作したのではなかろうか。彼は、2006年立て続けに発表した「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」の二つの意欲作に より、世界の 映画界を代表する映画作家になったのである。

 硫黄島に散った若き兵士の御霊に二首
平時なら友ともなりし日米の若人なぜに殺し合ひしに
いくさなき後の世夢見旅立てる人の辞世を吾子らに伝ふ



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2006.12.10-14  佐藤弘弥

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