映画
「父親たちの星条旗」小論


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硫黄島の戦いの真実-


クリント・イーストウッド監督の2006年最 新作「父親たちの星条旗」(原題:FLAGS OF OUR FATHERS)を観た。もっとストレートに言えば、どうしてもこの映画を観なければと、映画館に駆け付けたというのがほんとうのところだ。

その理由は、大きく言って三つあった。

まず第一の二枚目俳優から今やアメリカ映画界を代表する映画監督となった「クリント・イーストウッド (1930ー)」という人物の感性がどういうものか、知りたかった。

次ぎに、第二次大戦における硫黄島の戦いというものがいったいどんなものだったのか、その現場での真実を、日米双 方の立場から、映画化するというその手法に大いに興味があった。

最後に、人間にとって戦争とは何かということである。

私は一切の先入観を拝し、硫黄島の戦いをアメリカ側から描いた第一作「父親たちの星条旗」を、二度鑑賞した。一度 目と二度目では、まったく味わいが違って見えた。そしてこの作品の制作意図が、単に日米のどっちか勝利し敗北したか、というナショナルな次元での映画では なく、その思考法からは、一番遠い次元の作品であると強い感銘を受けることとなった。特に、最後のクレジットタイトル後の実写写真には見入ってしまった。 一度目に観た時には単なる映画でのラッシュと思っていた。しかし二度目に見た時に、それがすべてホンモノであることに気づき、思わず、身を乗り出してし まった。細部に渡り、硫黄島の戦いを、出来うる限り明らかにしたい、というイーストウッド監督の作家的良心を見る思いがした。

「父親たちの星条旗」には、同名の原作がある。それはある一枚の有名な硫黄島の戦闘を写した写真に撮られた衛生兵 の息子によって書かれたドキュメンタリー作品である。

たった一枚の写真とは、硫黄島の擂鉢山に星条旗を掲げようとする海兵隊員の姿を逆光のなかで写したドラマチックな 写真「硫黄島に掲げられる星条旗(原題: Raising the Flag on Iwo Jima)」だ。この写真は、報道写真として写真部門で「ピューリッツアー賞」を受賞したほどの出来映えであった。カメラマンはAP通信のジョン・ローゼ ンタール(1911−2006)。彼は、まさにこの写真一枚で世界で最も有名な報道カメラマンとなった。

「硫黄島に掲げられる星条旗」

硫黄島に掲げられる星条旗

( Raising the Flag on Iwo Jima)」
ジョン・ローゼ ンタール1923.2.23撮影


この写真が撮られたのは、昭和20年(1945)2月23日午後一時頃である。硫黄島で戦闘が始まったのは、同年 2月19日であるから、開始から5日経過していることになる。写真を見ると、空には暗雲が立ちこめ、海抜170mほどの小山の上に立った6名の海兵隊兵士 たちは、星条旗を頂上を掲げようと力を合わせている。兵士たちは、逆光の日に浮かび上がっていて、実にドラマチックだ。それもそのはず、この擂鉢山を攻略 するために、アメリカの海兵隊員たちは、上陸した者の内半数になる数千の兵士が戦死を遂げている。この段階で、アメリカは勝利を手にしている訳ではない。 早期で戦が終わると思った戦前の予想は外れ、時の大統領ルーズベルトは、初日で500名を越える戦死者を出し、二日目には更に犠牲者の数は膨らんだ。この 余りの犠牲者に、この事実を公式に発表することをためらったと言われる。

一枚の写真は、アメリカに勇気を与えるものとなった。いや、アメリカは、一枚の写真をプロパガンダとして利用する ことで、戦費が枯渇しつつある状況を打開することを思いついた。この写真は、アメリカの新聞に掲載されるや、たちまち話題となり、ここに写っている兵士の 身元が調べられ、その内三人の兵士がアメリカ本土に英雄として呼び寄せられたのである。

三人とは、衛生下士官のドク(ジョン・ドク・ブラッドリー)、伝令兵のレイニー(レイニー・ギャグソン)、ネィ ティブアメリカンピマ族出身のアイラ(アイラ・ヘイズ)である。彼らはアメリカ 全土を廻りながら、アメリカの国威を発揚し、財務省が試算した140億ドルに及ぶ戦時国債の発行のためにアメリカ各地を遊説して回る。

彼らは心のどこかに拭いきれない負い目を持っていた。それは自分たちは、本当の英雄などではなく、この一枚の写真 に写ったのは、偶然が重なった結果だと思っていたことだ。真実は、星条旗の掲揚は、実は二度あった。そして最初の掲揚は、実は彼らではなく、別の者たちが 行っていて、もっと小さな旗だった。その時、この旗の掲揚に感動した海兵隊の上官が、先の名誉の旗を持ってくるように命じたため、別のもっと大きな旗と交 換することになる。たまたまそこで三人がこの歴史的な写真に写ることになったのである。

しかしこの写真は、新聞などで報道されるや、大きな反響を呼んだ。アメリカ政府と自分の息子達を戦地に送ったアメ リカ人たちには、希望の光に映ったのである。民意を動かし、歴史を動かすイメージの力がこの写真にはあったのだ。

この映画のはじめの辺りで、「戦争を知っているというバカ者がいる。それは戦場の現場を知らないものに多い」とい う旨のメッセージが流される。確かにそうだ。この映画の中では、激しい戦闘で銃火があちこちで火を吹き、兵士の間を弾丸が飛び交う。戦車や装甲車が粉々に 吹き飛び、兵士は血まみれとなって、たちまち躯(むくろ)となる。人は戦場では虫けらよりも簡単にあの世に行ってしまうのである。硫黄島は、わずか東西に 8キロ強、南北に4キロ、面積にして世田谷区の半分ほどの小島である。そこで二万二千の日本軍の内ほぼ二万人が戦死。生き残った約千人は、半死半生で戦え なくなり、捕虜 となったものだ。一方アメリカ軍は6千八百人が戦死。負傷兵は二万二千人に及んだ。

この映画は、アメリカの勝利を描くというよりは、戦争というものの真実を余さずに画面に描ききりたいというクリン ト・イーストウッド監督の執念が色濃くにじみ出ている作品となっている。そして国家によって英雄とされた三人の戦後の決して幸福とは言い難い生き様もフォ ローしている。これがアメリカンヒーローの偽らざる真実の姿だと言わんばかりの迫力で・・・。

三人の中で特に悲惨だったのは、アメリカ先住民ピマ族出身のアイラの生涯だ。はじめはピマ族の英雄となったもの の、戦時国債遊説途中から、拭いがたい先住民差別に傷つき、遊説途中で、酒浸りとなり、戦地に返されてしまう。戦後は居留地で農夫などをして低賃金に喘ぐ ようにして暮らした。1954年11月10日、アーリントン国立墓地(ワシントンD.C.)で、あのローゼンタールの写真「硫黄島に掲げられる星条旗」が 「アメリカ海兵隊戦争記念碑銅像」として鋳造され除幕式があった時には、他の二人と共に華々しく紹介されたこともあったが、最後は酒に溺れ、51回も逮捕 された挙げ句、1955年1月24日、大酒を飲み行き倒れて亡くなった。あの星条旗を硫黄島に掲げてからほぼ10年目にして彼は32歳の若さで旅立ったの である。

戦後のレイニーは、低い学歴キャリアも厄したのか、遊説中は有力企業の経営者から、「戦後は是非ウチの会社に」と 社交辞令を言われ、それを信じて就職活動をしたにも叶わず、結局希望は叶わず、ビル管理の雑役の仕事に就く。そして1979年の秋、54歳の若さで管理し ていたビルのボイラー室にて心臓発作に襲われたらしい。亡くなっているのを、同僚に発見されたのである。

唯一、硫黄島の戦以後、平穏な生活を送ったのは、この映画の原作を書いた作者の父ドクだった。務めていた葬儀社 を、自力で買い取り、家族を養った末に、家族に看取られながら、1994年1月、71年の波乱の生涯を終 えた。しかしながらドクは、子供たちに戦争のことをほとんど話そうとしなかったという。生々しい戦争の記憶を持つ経験者というものは、どうも子供に戦場で の 思い出など話す気分にはなれないもののようだ。

というのは、私の父も、中国戦線から戦後ソ連軍の捕虜となってシベリアに抑留された兵士だが、当時の話など一切話さなかった。目の前で、同志である人がど んどん死んで行くことを、平和のなかで育ったわが子に話して、どうなるものか。そのような歴史などない平和の世で、わが子には生きて欲しい。きっとドクも 私の父も、同じ思いだったのではなかっただろうか。


その意味で、「戦場を知らないものほど、戦争を語る」という趣旨の冒頭のテロップに、私は完全に同意するものであ る。

最後にこの映画を監督したクリント・イーストウッドという人物のモノの見方というものに敬服した。イーストウッド 監督は、当年76歳になる。かつての苦み走った二枚目も、ひとりの老人となり、その皺の一本一本に責任を持つ齢(よわい)となった。この映画を観て、クリ ント・イーストウッドという人物が何を人生の目的としていたか、ぼんやりと分かったような気がした。名声も富も得ているものの、彼にはまだ満たされていな い何ものかが、全身を溶岩のようにして流れているのである。それはおそらく自分の生きた時代というものが何だったのか。そして自国の歴史に、映画というコ ミュニケーション手段によって、良き影響を与えられたらという思いがあるでは、と強く感じた。彼の視線の先には、アメリカの良心というものを越えて、人類 愛あるいは人間の営みの真実というものに向いているのではないだろうか。彼は、アメリカ人でありながら、アメリカ人の自分に囚われていない。まさに私には 彼自身がアメリカ的知性の奥深さを体現しているように見える。

名画というものは、社会を覗く窓のようなものだ。それは丁度、タイムマシンに乗って、小窓から歴史の真実を垣間見 るような行為だ。私たちはひとつの作品を鑑賞することで、歴史の真実に近づく一歩となる。例えば「ベンハー」(米作品  1959年公開 ウィリアム・ワイラー監督)という映画によって、私は「キリスト」という人物に興味を持ち、ローマ時代という社会が、どんな社会であ るか、そしてユダヤ人とは、どんな歴史を持つ民であるかを学んだ。そこから私はずっと、このことを考え続けている。チャップリンの「独裁者」(米作品  1940年)から、ナチスドイツのヒトラーを知り、ナチズムとファシズムの時代のことを興味を持った。同じく「殺人狂時代」(米作品 1947年)では、 戦争で多く人を殺害すればするほど立派な勲章がもらえるという怖ろしい真実を学んだ。映画とは、もちろん歴史のすべてを伝えるものではない。しかしそれで も名作と言われる映画というものは、社会の真実を垣間見せてくれる小窓なのである。

私は、この映画を鑑賞した後、硫黄島の戦いのことがどうしても知りたくなった。そこでまずこの映画の原作の「父親 の星条旗」(ジェームズ・ブラッドリー著 大島英美訳 (株)イースト・プレス社刊 二〇〇六年刊)と、日本軍の総指揮官栗林忠道陸軍中将(1891− 1945)の「栗林忠道 硫黄島からの手紙」(解説半藤一利解説 文藝春秋社刊 2006年刊)を購求し、早速読み終えた。この本は、クリント・イースト ウッド監督の硫黄島二部作「硫黄島からの手紙」の原作のひとつであろう。

激戦となった硫黄島の戦が、圧倒的な日米の物量の差がありながら、アメリカ軍にあれほどの打撃を与えたのは、偏に 栗林大将の戦略戦術とリーダーシップによるところが大きかったことを知った。しかも彼は山本五十六海軍大将と同じく、アメリカで学んだ経験を持ち、アメリ カの力を熟知していた人物である。ここに悲劇がある。知というものが、過剰なナショナリズムの昂揚に抗しきれなかったのである。

戦争というものが、日本においては、六十一年起こっていない。この理由は、原爆を投下されるなどして、徹底的に打 ちのめされ、憲法9条を軸にする平和憲法が起草されたことに起因する。硫黄島の攻防は、一ヶ月に及び、島では日米五万の将兵が死傷した。大いなる犠牲者を 出しながら勝利を収めたアメリカは、東京までわずか千二百キロの地点に、硫黄島という浮沈空母を手にしたことになる。

その後、アメリカは日本本土への空襲を強める。東京大空襲(1945年3月10日夜)は、硫黄島終結直前に起こっ たが、B29は、この硫黄島から飛び立ったものである。東京大空襲は、市民への無差別攻撃であり、一夜だけで、8万人に上る市民が殺されたのである。これ は明らかな国際法違反の空襲である。アメリカ軍のB29は、硫黄島での憎悪がこの事件に反映されていたというのは私の考えすぎだろうか。日本の指導者たち が、もしももう少し早い時点で、本土決戦回避に向けて、終戦への外交的努力があったならばと涙が出る。

ただ救いとなるエピソードがある。1985年2月19日。つまり硫黄島の戦が開始された40年後、日米の兵士が 400名ほど集結して、合同慰霊祭が営まれたのである。

この模様はテレビのニュースでも流れた。かつては激しい攻防を繰り広げた兵士たちは、抱き合い双方の犠牲者を弔お うと、熱い涙を流したのである。

そして日本語と英語で慰霊碑が建立されたのであった。

その碑文に曰く。

再会の祈り(REUNION OF HONOR)

硫黄島戦闘四十周年に当たり、曾つての日米軍人は本日茲 に、平和と友好の裡に同じ砂浜の上に再会す。
(英 語原文:ON THE 40TH ANNIVERSARY OF THE BATTLE OF IWO JIMA, AMERICAN AND JAPANESE VETERANES MET AGAIN ON THESE SAME SANDS, THIS TIME IN PEACE AND FRIENDSHIP. )

我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦ったこと を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之を繰り返すことのないよう祈る次第である。
英語原文:WE COMMEMORATE OUR COMRADES, LIVING AND DEAD, WHO FOUGHT HERE WITH BRAVERY AND HONOR, AND WE PRAY TOGETHER THAT OUR SACRIFICES ON IWO JIMA, WILL ALWAYS BE REMEMBERED AND NEVER BE REPEATED. )

昭和六十年二月十九日

米国海兵隊
第三第四第五師団協会
硫黄島協会

言葉を選びに選んだ上での素晴らしい非戦の誓いだ。映画「父親たちの星条旗」でも、日本の観客の心証を意識したと 思われる微妙な表現があった。それは、ドクが戦場において目を離したわずかの時間に、イギーという若い兵士が、日本兵に捕まり、後日洞窟から虐殺体で発見 されたというものだ。イーストウッド監督は、日本兵によるリンチの表現をオブラートに包んで柔らかく表現した。互いの憎しみの憎悪をこれ以上かき立てない ための見識ある抑制された表現と私はみた。流石は世界的な名声を得るだけの配慮であると思った。何でもそのまま表現すれば良いというものではない。特に国 家間で意見対立の火種になりがちな戦争の表現には特に注意が必要だ。

戦争とは、人間の残虐な一面を晒し合う非道な一面がある。事実は事実として受け止めながら、硫黄島の「再会の祈りの碑」の精神を私たちはもう一度想起する べきである。それは罪を憎んで人を憎まずの精神をもう一歩踏み出して、「戦争を憎んで敵を憎まず」の心が必要なのである。61年前の硫黄島において、何の ために、いがみ合う必要も、殺し合う必然もない日米の未来ある若者たちが、祖国を遠く離れた小さな孤島に散らなければならなかったのか。これは不条理であ る。私たちはあらためその不条理極まりない悲劇を思い起こすべきだ。その上で、硫黄島で戦った日米の兵士たちは、永遠の平和を祈って非戦の誓いを行ったの である。何と崇高な誓いだろう。この考えに立てば、良く取りざたされる日中戦争の南京事件の問題もソフトな解決ができると私は確信するものである。


さて今、日米がつい60年前に戦争をしていたということを知らない子供がいる時代である。正しい歴史を教育できない昨今の日本の若者には、是非とも、この 映画を観て、戦争の何たるかを知ってもらいたいものである。この度「防衛庁」が「防衛省」に格上げされるような動きだ。しかし幾らなんでも性急過ぎはしな いか。その前に、私たち日本人は、日に日に風化していきが ちな戦争の記憶をもう一度想起し、しっかりとした大戦の反省の上に立って、今後の起こりうる有事や戦争の危険を議論し、そのことを決めるべきではないだろ うか。

 星条旗立てたる人も撮る人もみな死に給ひ写真遺れり
 硫黄島に六十有余の歳月は瞬く流れ慰霊碑の立つ

 硫黄島の土に帰らぬ遺骨あり平和日本の礎 の骨
 
慰霊碑に平和を祈る日米の生存兵の涙忘れ ず  


2006.11.27  佐藤弘弥


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