《高齢者教室》   なごやか学級  移動研修会

「松倉城主・小野寺氏をたずねて」

平成3年9月19日(水)
講師
栗駒町文化財保護委員
千葉光男氏
 

研修日程
◎栗駒出発   午前8時

◎寒湯御番所  9時20分?9時35分(湯浜)

◎田代沼    10時

◎三本杉    10時4分

◎ 小安御番所

◎ 今昔館(稲川町)

◎ 昼食・休憩場所
   小安温泉「鶴峰館」?0183?47?5335

◎栗駒到着    午後5時



 

寒湯御番所(寒湯=ぬるゆと読ませた)

江戸時代慶長三年(一六〇五)に開設された。御境目守は一代目三浦藤五郎より十二代三浦陽之助まで約二百六十年も続けられた。
明治二年(一八六九)御番所廃止命が出され各番所は、取りこわしの通達を受けたが寒湯は山奥で不便の地であったから、役人の目が届かず取りこわされないまま今日に至っている。
今は国指定の重要文化財である。
 

田代沼

今から二百年ばかり前、今の愛知県豊橋市の人菅江真澄が書いた「雪の出羽路」に、「小安の山路に、上バ道、下夕道といふあり、上バ道は大湯の山路より田代長根を経てみちのく文字が沢、岩ヶ崎なンどへ出ぬ。下夕道おなじさまに行けど別れて、みちのくのぬる湯の沢、川口なンどいふ処に至る。みちに沼あり、そこを国堺といへるなり」。とありその沼を田代沼といふのである。
 

三本杉

源義家公が安倍貞任征伐のときこの道を通り戦勝祈願のため植えたものと伝えられている樹齢約九四〇年か?
 

小安番所

菅江真澄は「ここなむ東出口にといふ処にして陸奥国に山越え行く人をあらためたり」とある
 

小安温泉

「元和のはじめここを小安と云える也小安といふはもとアイヌ語にや、その後七代にして寛文六年に国の守にめされて佐藤久義なる人を湯守とさだめ久義を湯左ェ門とよぶべしと名付たまはりしといえり」
――菅江真澄――
 

稲庭小野寺城跡

稲川町では博物館を作り研究者に便利を計っている。パンフレットにて勉強され広(?)い。
小野寺道戒はここを頼って来たものであろうか。
 

今昔館

稲川町の今と昔を結ぶ
今昔館は、産業と歴史そして美しい自然に恵まれた稲川町の今と昔を見て、ふれて、体験できるタイムトンネル館です。縄文時代から産業の発達した今日までが各階に展示されています。特に純金でできた2階の黄金の間は見逃せません。

1階 町のプロフィールをご紹介
四季の景色や名産品などのイメージパノラマをメインに現在の稲川をお見せします。
発展する伝統産業、定着した誘致企業の様子に、未来の稲川がうかがえます。

2階 豪華絢爛!黄金の間
稲庭うどん、川連漆器、秋田仏壇など秋田県を代表する伝統産業の町、稲川ならではの充実したコーナー。
特に漆器と仏壇の技術を生かした純金箔張りの黄金の間は必見。この他、水不足から農家を守るための土地改良の歴史も、ビデオなどでわかりやすく紹介。

3階 小野寺氏と町の歴史
県南地方を支配した小野寺氏の興亡と、ゆかりの品々を展示。当時の山城の想像図などと共に昔(いにしえ)に思いをはせるコーナー。
また、縄文時代から江戸時代までの遺跡の発掘品なども町の歴史と共に見られるのが興味深い。

4階 町をのぞむ素晴らしい展望台
陽光を受けて光る皆瀬川、風になびく稲穂の波・・・。
県南を支配した小野寺氏の居城跡に建つ今昔館は、稲川の町はもちろん、はるか平鹿方面まで一望のもとに見渡せます。


県南地方を治めた戦国大名 小野寺一族


栄枯盛衰 華やかな興亡史
今昔館は、稲庭城二ノ丸跡に建てられました。この稲庭城は県南を支配した戦国大名小野寺一族の本拠地として県南文化の発祥の地となったところです。
小野寺氏は、下野国(栃木県)都賀郡小野寺郷(現岩舟町小野寺)の出身。
鎌倉時代に戦のほうびとして源頼朝から雄勝郡を賜りました。
その繁栄ぶりは県南一帯におよび城館は、仙北、平鹿、雄勝、由利、山形領まで入れると470もあったと記されています。
しかし、隣り合う領主と戦いをくり返したため勢力は次第に弱くなり、慶長5年(1600年)山形の最上義光(よしあき)の攻撃を受けて敗退。
さらに翌年の関ヶ原の合戦後、津和野(島根県)にお預けの身となりました。
小野寺一族の興亡は、日本統一の波が地方まで押し寄せてきたことをしのばせるものです。

産業の町のルーツ 小野寺氏
伝統工芸品として秋田を代表する川連漆器。その誕生は初代の稲庭城主・重道の弟、小野寺道則が武具に漆を塗らせたのが始まりといわれています。
また、中央の文化や技術を知る小野寺氏は、稲庭をはじめ県南の地域に大きな影響を与えました。
熊野信仰というのもそのひとつです。
当時、武士や町人に圧倒的な支持を得ていた熊野神社は全国各地に大変な数の社をもっていました。小野寺氏も信仰深く、大永5年(1525)に稲庭城周辺の三熊野神社に懸仏を奉納しています。

天然の要害 稲庭城
標高300メートルの古館前平にあった稲庭城は、山と川に守られた城でした。
しかし、1596年に落城。昭和61年より発掘調査の結果、古代から近世まで、地域の人々と深い関りがあったことを示す、土師器などの遺物が城跡から出土しています。



「なごやか学級研修資料」
  --松倉城と小野寺氏--  


 
千葉光男
 

松倉城主小野寺氏について

小野寺氏はその系図によれば新羅三郎義光よりおこり武田判官刑部三郎は信州佐久森山の住人であった。
その後判官清政が野州都賀の里小野寺村に住してより、小野寺氏を号した。これ小野寺氏の元祖といふ。

文治五年(一一八九)奥州藤原泰衡を征伐のとき、頼朝公に随身して軍功あり、
栗原郡松倉村に千五百貫の地を拝領して松倉城に城主となる。

松倉城は、天喜年中に源義家公の陣所でありこの城に居城したものであった。

初代 小野寺清國といふ。
二代目   義則 小野寺左ェ門尉
三代目   義冬 式部小輔
四代目   忠義 左衛門尉
正安三年(一三〇一)七月宇佐八幡の分霊を観請して西山に八幡宮を祭る。是当城の守護神なり
五代目   義成 七郎左ェ門 母は岩井郡東山長坂刑部女
六代目   義朝 六郎右ェ門
文保元年(一三一七)葛西三代の供養のため上落
七代目   義村 弾正小弼
八代目   義勝 蔵人
九代目   義朝 宮内小輔
貞和四年(一三三八)五月沼倉に開田する
十代目   義宗 大膳太夫
十一代目  義氏 右近亟
建武二年(一三三五)中尊寺出陣北畠顕家に随身同四年(一三三七)泉州阿部野の合戦に討死同年五月二十二日
十二代目  義長 平左ェ門
弟義高中野宮内民部祖
十三代目  義秀 弥左ェ門
応永十七年二月上洛
十四代目  義持 兵部
応永二十一年(一四一四)より葛西家随身会津永井庄に出陣軍功により葛西家より太刀拝領
十五代目  義尚 左京太夫
永享三年(一四三一)九月八幡宮焼失
十六代目  義晴 掃部介
文明元年(一四六九)二月愛宕宮焼失
十七代目  義広 隼人介
文明二年五月二十一日卒
十八代目  義行 小太郎 母、中野民部女
十九代目  義植 民部?
永正三年(一五〇六)九月八日八幡宮再建
二十代目  正義 式部
二十一代目 義安 道戒入道
天正十三年(一五八五)伊達政宗ノタメ所々合戦同年十二月二十九日、
松倉城落城に及び松倉大町皆兵火に羅り義安妻子皆六右ェ門方にあづけ以後羽州仙北に退去した。
 

「根際屋敷」小野寺氏

初代小野寺義仲
二十一代義安弟 永正八年(一五六五)館下に分地別家し家老後
二代目  義時 六右ェ門
元和元年(一六二〇)二月十日卒
三代目  義辰 弥左ェ門 肝入
四代目  義徳 六右ェ門 肝入
五代目  義則 六右ェ門 肝入
六代目     六右ェ門 肝入
七代目     六兵衛  肝入
八代目     弥右ェ門 肝入
是まで六代肝入続き
九代目     六右ェ門
 

「三丁屋敷」小野寺氏

初代 義為 因幡
慶長二年(一五九七)小野寺因幡三丁屋敷に三貫文分地外に鎗、具足、太刀持参

二代目 高光 近内
元和二年(一六二〇)二月五日卒

三代目 高義 源兵衛、因幡
早世(生)故、本家弥左ェ門孫女、因幡夫婦を三丁屋敷に再相続 
 



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2002.6.21 Hsato