骨寺の田植え風景


ー今年世界遺産に登録される(?!)奥州の田園風景ー


佐藤弘弥



栗駒山を枕に休憩(タバゴ)をする本寺の人々

(佐藤弘弥 08年5月17日10時半頃 撮影)

 1 奇跡の田園「本寺」を行 く

5月17日早朝、一関駅からレンタカーを飛ばして本寺の田園地帯に行った。車を降りた途端、水を満々と湛えた田んぼからは、愛らしい蛙たちのコーラスが聞 こえてきた。

本寺は骨寺とも書き、「ほんでら」と読む。中世には、中尊寺経蔵別当の領地(荘園)だったところで、平泉世界遺産のコア・ゾーンのひとつに選ばれた田園地 帯である。


何があるかというと、はっきり言って何もない。あるのは、中世からほとんど景色が変わらない農村風景だ。昔、この土地で収穫する米は、中尊寺に運ばれた。 その後、黄金文化を誇った奥州藤原氏は、関東の武士を束ねる源頼朝によって滅ぼされた。文治5年8月21日のことだった。

その時、白河から青森十三湊まで広大な領土の政治経済の中心都市「平泉」の栄華は一瞬のうちに消えた。そして後には、中尊寺や毛越寺など寺院と骨寺の田園 だけが遺されたのである。

中尊寺は、幸いなことに、初代藤原清衡によって、鳥羽上皇(1103−1158)が発願して造営された「御願寺」(ごがんじ)という形を整えていた。この ため、関東武者の棟梁である頼朝も、うかつに院の威光を無視して、私領とすることが出来なかった。

日本では、こうした形を遺すことが非常に大事である。その意味では、中尊寺を中興した奥州藤原氏藤原清衡の深謀遠慮はさすがというしかない。このために、 中尊寺や毛越寺などを中心とした祈りの都市「平泉」を、丸ごと領有しようとした頼朝の奥州の国盗みの企みは叶わなかったのである。

岩手の県民詩人とも言うべき宮沢賢治(1896ー1933)は、このエピソードを文語詩(※注)で次のように表現した。

「文語詩 中尊寺〔一〕

 七重の舎利の小塔に
 蓋なすや緑の燐光
 大盗は銀のかたびら
 おろがむとまづ膝だてば
 赭のまなこたゞつぶらにて
 もろの肱映えかゞやけり
 手触れ得ね舎利の宝塔
 大盗は礼して没(き)ゆる 」

目映いばかりに輝く、中尊寺金色堂に入った時、奥州をこの手にという下心いっぱいだった頼朝は、形ばかりの祈りを上げようと、片膝をついて、拝む格好をし た時、阿弥陀さまの眼が、キラリと光って、頼朝の目を射ったのである。仏の威光に恐れおののいた大泥棒(大盗)頼朝は、その為、何も取れずに、中尊寺を後 にしたというのである。

 <※注> 宮沢賢治の文語詩「中尊寺」 について

実際の歴史では、頼朝が平泉に入った時、平泉経蔵別当「心蓮」という人物が、頼朝と直談判をして、この中尊寺という寺が、そもそも院の発願によって、出来 た寺であるから、武士であるあなたは、手を出す筋ではない、と申し述べたのである。もちろん、命がけの交渉であった。このことは、鎌倉時代の正史「吾妻 鏡」の文治5年9月10日の項に明確に記されている。

その時、骨寺の住民たちは、頼朝によって、土地が奪われる、場合によっては、命さえも奪われると思い、逃げてしまった。しかし中尊寺の心蓮さんの頼朝との 命がけの交渉によって、骨寺の領地は守られたのである。その結果、「骨寺の住民は、安心して戻ってくるように」とのお触れ書きが、都市平泉の入口ともいう べき毛越寺の大門の前に立てられた。その時の農村風景が、今日まで、ほとんど姿形を変えずに、遺されてきたのは、ひとつの奇跡ではないだろうか。

その意味で、この本寺(骨寺)地区の景観そのものが、世界人類共通の文化遺産として平泉世界遺産のコア・ゾーンとして登録されることは、本当に素晴らしい ことだ。浄土について、英語では、「THE PURE LAND」(ザ・ピュア・ランド)と言うらしい。まさに、私たちは、初代清衡の深謀遠慮(智慧)と 浄土信仰の持つピュア(清浄)な力によって、二十一世紀において、骨寺という奇跡の田園を目にすることができるのである。



田植えも今は機械の時代

 2  本寺の田植え風景

中尊寺には、中世に描かれた本寺の荘園の様子を描いた貴重な絵図が遺されて いて、当時の村の景観や信仰、習俗などを知ることができる。私は、この絵図を持ち、今回本寺の田植え時の風景を写真に収めながら、本寺という農村の価値に 考えてみたいと思った。

本寺の田園の西端の丘陵に駒形根神社がある。駒形根神社の奥社は、栗駒山の頂付近に鎮座している。神社境内に登り、駒形根大明神に手を合わせた後、釣鐘越 しに、しみじみと本寺の田んぼの景色を眺めた。遙か東の稜線 の彼方まで、田んぼが地形に合わせこしらえたパッチワークのようにして拡がり、それが水を湛えて、きらきらと輝いている。

思えば、今日本の農業は、危機にある。米 余りが深刻で、生産者が放出する時点では、同量のペットボトルの水より安価な存在に成り下がっている。そこで「米余り水より安い米価かな」との戯れ歌まで 広まる始末だ。

それにしても、農業従事者が、一年を掛け、丹精を込めて一俵の米を収穫しても、六十キロもある米が、生産者の手を離れる時には、一万円もしない有様なの だ。米を生産するためには、大量の真水を必要とする。そのために、古来より、水利権というものは、各村々では、それこそ命がけで確保されるものだった。

今年になって、世界的に穀物価格が暴騰し、国際的に米価も値上がりが予想さ れているが、簡単に日本の米が国際競争力も持つ商品に育つとは思われない。

どんな美味い米を作っても、それが同じ重さの水よりも安い状況では、農業就労者は、やる気をそがれることは、ごく自然の成り行きだ。それでも、農業を続け ているのは、農村に暮らす人々の心理から言えば、父祖伝来の土地を放棄して、簡単に米作りを捨てる訳にはいかないということから来ているのではないだろう か。

もちろん、農業専業では、食えない状況であるから、兼業するしかない。そのために、日本の農村の一年の景色は様変わりをしてしまった。第一に、昔は結い (ゆい、東北弁で はよいっこ=互いに労働を貸し合うこと)のやり方で隣近所総出で、田植えなどをしていたが、今は、各戸ごとに、家族単位で、田植えをする。大体普段の日 は、務めに出ているから、土日に田植えをするケースが多い。

この本寺でも、同じようなことが起こっていた。各農家ごとに、小さな田植え機械を中心に、苗を一気に植えていくのである。昔は、若い娘たちが、並んで田植 え歌などを歌いながら、植えていったもので、その光景を思い浮かべただけで感動を覚えるのである。

確かに、実りの秋の黄金色に実った稲が風にそよぐ風景も良いが、水を張って光り輝く田んぼに、若い女性たちが、早苗を植えていく光景は、それ自体が一枚の 動く絵のようなものだ。

飛騨にある世界遺産白川郷は、合掌造りの家々が、世界遺産である。しかし世界遺産委員会が評価したのは、この二千人にも満たない白川郷の集落の人々が「結 い」を通じて、互いに助け合い、あの合掌造りの家を支え合っていることが評価されたものだ。もっと言えば、「結い」という習俗が世界遺産入りのキーだった のである。

奇跡のようにして遺った本寺の田園風景であるが、現在多くの問題を抱えていることは否めない。水より安くなってしまった米という生産物を抱えながら、その 田園 風景を維持することは、並大抵のことではない。今年の7月、運良く筋書き通りに世界遺産に登録されたとしても、今後ユネスコ世界遺産委員会の厳しい監視の 目があるということを忘れてはならない。

今、一関市は、本寺地区の米作りを支える仕組みとして「荘園オーナー制度」を創設した。これは、都会に住む人々が、一口三万二千円でオーナーとなり、現地 での田植えや稲刈りの参加の外に、四十キロの米が送られるというものだ。岩手日報の報道によれば、今年は四十名の予定のところ、倍以上にあたる八十五名の 応募があったそうだ。その内訳は、地元一関市から二十二名、盛岡市10名など県内合計四十二名。その他、仙台市や首都圏など四十三名の応募だそうだ。

これなど、考え方によっては、「本寺田植え祭り」などに発展させられないものだろうか。先に挙げた白川郷でも、合掌造りの大屋根を葺く時は、全国からボラ ンティアが集まり、一大イベントとなる。同じように、本寺の田植え祭りを恒例の祭りとして、かつての奥州の田植えを再現してみてはどうだろう。昔ながらの 田植えの風俗そのままに、老若男女が、田植え歌などを歌いながら、田植えなどをする様は、考えただけで、ワクワクするものがある。これこそ世界遺産の地に 相応しい祭りだ。日本中いや世界中の注目を浴びることになるかもしれない。

そう言えば、奥の細道の旅で、芭蕉は、田植えの句を三句遺している。

 田一枚植えて立ち去る柳かな

これは白河に至る直前、蘆野の里(栃木県那須町)にある遊行柳の田んぼの前で遺した句だ。次に、

 風流の初めや奥の田植歌

これは福島の須賀川で遺した句だ。東北の田植え歌に芭蕉が風流を感じたことがよく伝わってくる。

 早苗とる手元や昔しのぶ摺(ずり)

これは、信夫の里(福島市)で詠んだ句だ。芭蕉は、ここでも田植えをする若い女性の手の器用さに焦点を当て、昔この地方の名産品だった反物の「しのぶ摺」 を染め付けた手もきっとこのようにして作られたのであろうと、地元に敬意を表する挨拶の句としている。

本寺の田植え機械での田植えを見ながら、さまざまなことを思った。特に、文明の進歩というものについて、便利になることを否定するものではないが、何か味 気のないもののように思われた。


 3  本寺川の自然環境と日本農業の未来

本寺の田園地帯の中央を本寺川が流れていて、これが本寺地区の農業用水の役割を果たしている。

水源は、駒形神社の北西二,五キロほどの地点にある山王山(標高572、3m)と見られる。元々、駒形神社のある一帯は、右手前の山王山と左奥の西に聳え る駒形神社の奥宮(栗駒山)と山王山の山王社の遙拝所だったと言われる。山王社は、天台宗の修験道と深い関わりを持ち日吉神社の別称もある。

古地図でも、この本寺川の存在が一際目立っている。ただ今非常に残念なのは、この川が両岸と川底がコンクリートで固められていることだ。その為か、流れに も淀みがなく、流れも早すぎる。川を見る限りでは、ドジョウやフナなどが、棲息する環境ではないようだ。

ただ、これも決して悲観するような状況にはない。大事なことは、本寺の地形にままに、なだらかにうねった形状がそのままになっていることだ。これに、数年 前に成立した自然再生推進法(2002)を適用させることができそうだ。

できれば、世界遺産に登録されるこのタイミングで、この川を自然再生推進法を活用して、かつての生態系を取り戻し、上流からはイワナやヤマメが、下流で合 流する磐井川からは、ハヤ(アカハラ)やウナギなどが遡上してこれるようにしてはどうだろう。出来れば、田んぼと本寺川にも魚が通れる細工をし、フナやド ジョウなどが、田んぼが乾くまでは、田んぼに居るような環境ができれば最高だ。

もちろん本寺の米作りが、無農薬の段階まで、一気に移行できるとは思えない。しかし段階を追って、自然農法を取り入れていくことは決して不可能ではないは ずだ。そうすれば、日本農業の大きな構造転換が叫ばれている中で、世界遺産入りする本寺は、東西六キロ、南北に二キロほどの大きさで、日本の米作りのモデ ル地区になれには、ジャストサイズではないだろうか。

春の「田植え祭り」に秋の「稲刈り祭り」を二大イベントにして、荘園オーナー制度を越えた大きな国民的(国際的)な拡がりを持つ動きに発展することだって 夢ではない。


 4  消えた馬の文化と馬頭観音

かつて奥州は、馬の産地であった。たくさんの軍馬や農耕馬、馬車馬などが生産されたはずだ。本寺の駒形根神社には、本殿の右手に高さ1mほどの「御馬様」 を象った木像(?)を安置した小さな祠(ほこら)がある。また社の周辺には、「馬頭観音」を掘った石碑がいくつかある。そればかりか、田んぼの脇にも、馬 頭観音の石碑が二基並んで立っていた。

馬というものは、奥州の農民にとって、極めて大切な動物だった。馬の神(馬頭観音)は、山の神、田の神と並ぶほどの神だった。「駒形根神社」の「駒形」そ のものが、馬というものを神とするひとつの象徴である。

栗駒山には、宮城県側の栗駒地方に、白馬の雪形が現れると、稲の種まきの時期とする俗信がある。人々は、霊峰栗駒山に顕れる白馬を、一種の農事カレンダー として活用し、常に馬という動物に対する感謝と敬意を忘れなかった。馬頭観音への信仰心は、広く奥州全域に渡って拡がっていたのである。

岩手の滝沢村には、「ちゃぐちゃぐ馬っこ」という祭が伝えられている。この祭は、毎年六月半ばの頃、派手な飾り付けをした農耕馬百頭余りが、鈴を付け、子 供たちを乗せて、やや丈の伸びた早苗が風にそよぐ中を「チャグ、チャグ」と音を立てながら、滝沢村の蒼前神社から盛岡市の八幡宮までのおよそ15キロの道 のりを、道中する南部地方の風物詩である。この「蒼前神社」の蒼前様も、馬の神さま、もしくは馬の病気を平癒する力を持つ神さまとされる。この「ちゃぐ ちゃぐ馬っこ」祭は、まさに無事、田植えを終えたことを、馬の神に感謝をし、生きた馬たちの活躍を讃える言うならば、「馬への感謝祭」とも言うべきお祭で ある。

しかしながら今、時は移り、この本寺の周辺で、馬の姿を見かけることはない。馬は機械にとって代わられ、村には、若者が少なくなり、さらに米の価値が大幅 に下がってしまった。磐井川の下流の厳美渓(げんびけい)では、観光馬車が、観光客を乗せて、周辺を回遊するのを見かける時がある。この本寺周辺でも、か つての馬と農民の関わりを思い出させるような仕掛けが何かあってもよいのではないかと思われた。



駒形根神社境内より南に骨寺の田園を眺める

 5 イコモスの登録延期勧告と「骨寺」の価値

本寺の田園について、最後の節に入ろうとしている最中の5月23日、 「平泉の世界遺産入り」を審議していた 「イコモス」(国際記念物・遺産会議)が、「登録延期」の勧告を「ユネスコ」(国連教育科学文化機関)にするという衝撃的なニュースが入った。

イコモスは、ユネスコの諮問機関である。通常、世界遺産に相応しいものであるか、提出された「推薦書」を下に、考古学や都市工学の専門家であるイコモス委 員が現地調査を踏まえて、四段階の勧告を出すことになっている。

イコモスの勧告には、「登録」「情報照会」「登録延期」「不登録」の四つの段階があり、平泉は「不登録」の次に厳しい「登録延期」勧告ということになっ た。これによって、7月にカナダのケベックで開催される予定の「ユネスコ委員会」で正式に「登録延期」が決定されれば、日本政府は、平泉についての推薦書 の見直しをし、推薦書の再提出の必要が生じる。そこから、もう一度、イコモスの現地調査を受けることになり、最短での平泉の世界遺産入りは、2010年に なることになる。

但し、イコモスの「登録延期」の勧告があっても、昨年度の石見銀山のような「逆転登録」の可能性がないわけではない。これは、イコモス勧告から、ユネスコ 委員会の開催される一ヶ月半ほどの間に、文化庁、外務省、地元関係者が、ユネスコ委員会委員の立場を最大限に生かして、各国のユネスコ委員に猛烈な外交交 渉を展開したことによるものだ。昨年の石見銀山のことを考えれば、決して、逆転登録も実現不可能ではないということになる。

しかしながら今回は、昨年と大きく違う点がふたつある。ひとつは、日本が21ヶ国で構成されているユネスコ委員会国ではなくなっていて、ただのオブザー バー国に過ぎないことだ。ふたつ目は、昨年度日本にメンツを潰された形のイコモスが、今回の平泉の「登録延期」の勧告書には、平泉世界遺産登録の「基本コ ンセ プト」あるいは「キー概念」としての「浄土思想」そのものを、問題視している点だ。

私たち(平泉を世界遺産にする会)は、今回の平泉の推薦書(2006年12月ユネスコ提出)については、必要以上に、「浄土思想」を強調しすぎであると再 三にわたり述 べてきた。理由については、昨年6月、世界各国のイコモス委員が平泉に集まって議論を交わした時に、会として、記者会見を通じ、以下のようなコメントで明 確に述べている通りだ。

『平泉は奥州藤原氏初代藤原清衡が、恒久平和を祈念して建都した鎮魂の宗教都市である。この初代清衡の建都精神が十分周知されていない。この理念が盛られ ている「中尊寺落慶供養願文」の精神をユネスコ世界遺産に登録されるに当たって、内外に周知徹底すべきである。(中略)奥州の美しき古都「平泉」のレーゾ ン・デートル(存在理由)は、単なる「仏教的理念」ではなく、「平和を希求する理念」にある。最愛の妻子さえも目の前で失った清衡の戦争体験が、平泉を生 む原動力であった。』(「平泉世界遺産入りへの三つの 提言」より引用)


この平和の理念を盛り込むことによって、坂上田村麻呂の時代達谷窟遺跡、安倍氏の時代の長者原廃寺跡、白鳥舘も、辛うじて戦争遺跡として、平泉の世界遺産 に包含することができるのである。

今回の勧告書では、明確にこの推薦書の矛盾をついて、「浄土思想の観点からの範囲について再検討が必要」と指摘されているのである。もし仮に、今後も「浄 土思想」という概念で、平泉世界遺産をそのまま押し切るというのであれば、少なくても、この達谷窟、長者原廃寺跡、白鳥舘跡は、推薦書から削るしかなくな ると思われる。

さて、問題は、イコモスの勧告書の中で、骨寺荘園遺跡が、どのように論じられているか、である。今回のイコモスの勧告は、大雑把に言って7つに集約され る。その3番目に、「骨寺」のことが触れられている。

内容は、骨寺荘園遺跡の空間配置と浄土思想の関連についての証明が不十分だ、というものだ。細かく言えば、骨寺村荘園(農村景観)が、「人間とその環境の 相互作用の例外的な事例」であることを十分に証明できていない。「荘園の地域は中尊寺の経蔵に関係しているが、その空間配置に浄土思想が反映されているこ とを十分に証明しきれていない。」としている。

つまりここでも、浄土思想が問題視されているのである。もちろん骨寺は中尊寺経蔵別当の荘園である。これを疑うものではないが、この地域が、人間と環境の 特別な農村という訳ではないとして、更にどこに浄土思想の配置があるのか、と疑っているのである。私はこの問題について、通常中尊寺の荘園であったもの が、鎌倉勢力によって、強奪されようとしたにも関わらず、その所有権について、寺社側が所有権を源頼朝と直談判によって主張したことによって、そのままの 景観のまま、農村景観が保持されたことに意味があると考える。つまり鎌倉時代の正史「吾妻鏡」に記載されていることが、現実の農村空間の空間配置から分か るということである。ここには、中世日本において、土地の権利について、明確な遵法意識が存在したこと、同時にそこには収奪される一方だった東北地方にも 権利意識が芽生えていたことを物語るものである。それは地方分権の先駆けのような意識だったと推測されるのである。

イコモスの浄土思想の配置は、どこに存在したかというものは、もっともな指摘だ。私は、まず現在の駒形根神社を付近に在ったとされる六所宮を里宮(遙拝 所)として、やや南西の彼方に栗駒山を、そしておよそ2キロの距離にある北西に位置する山王社を、この周辺に沈む日輪を拝む浄土的配置があったと考えられ る。

これは無量光院で、左に金鶏山を、右に関山中尊寺を拝む空間配置と酷似している。無量光院は、金鶏山と中尊寺の周辺に日が沈むのを拝み、浄土を観想する装 置と考えられるが、同じ事が、骨寺周辺でも、行われていたはずである。中尊寺に遺されている往時の骨寺を描いた二枚の古地図「骨寺村絵図」でも、西を上方 にして最上位に栗駒山が駒形嶽として、手前に山王窟、六所宮、そして下方に田園の順に描かれている。この絵図自身が、一種の浄土思想に基づく浄土曼荼羅と もいうべき空間配置をしており、こうした説明を、イコモス側にすることによって、骨寺荘園遺跡の世界遺産入りの証明は、容易にできると考えられる。さら に、本寺の東に逆柴山(さかしばやま)というところがあり、その丘陵に
慈恵塚(じえづ か)がある。駒形根神社から1キロ半ほどの距離だが、ここに西行に仮託して書かれたと言われる「撰集妙」(1250年頃の成立か?)にも記されている奇談がある。仏心に目覚めた一人の娘 に、慈恵大師(じえだ いし)の髑髏(されこうべ)が、法華経を説くというエピソードである。

この慈覚大師によく間違われる
慈恵大師良源(912ー985)は、天台宗の座主だった僧だ。慈覚大師円仁 が持ち帰った浄土信仰を受け継ぎ、これを弟子の源信に伝えた高僧である。後に彼の弟子源信(942−1017)は、往生要集(985年成立)という日本の 浄土信仰の普及拡大にとって画期的な書物を書いて、中国に逆輸入されたほどだった。この慈恵大師の塚と言われるのが「慈恵塚」があり、ここから西方を拝む と、骨寺荘園絵図そのままの西方に浄土を望む景観を目にすることができる。円仁→良源→源信と受け継がれた浄土信仰は、奥州の地に位置した骨寺でも、その 空間配置の中に、浄土的空間として表現されていたのである。以上のことを、平泉の世界遺 産登録に関わる関係者は、イコモスの「登録延期」勧告に対する反論として提出して欲しいものだ。

ただ、最後に言いたいことは、本寺の価値は、今年世界遺産に登録されようが、されまいが、その普遍的価値は変わるものではない。その根拠は、本寺遺跡とい うものは、単に「美しい」とか、「稀少だ」などと、それを眺めるだけの遺跡ではなく、今尚、そこに住む住民たちが、米価の下落に苦しみながらも、毎年米と いう日本人の主食である穀物を生産し続ける生きた農民の生活空間だからである。まあ、それにつけても、本寺の長閑な田園風景には、何かにつけて慌ただしい 都会生活に疲れた人間の心を癒す何らかの力があるように思われる。


 6「骨寺大田植え祭」構想と新しい「結い」の精神

最後に、5月25日(日)、本寺において、本寺地区地域づくり推進協議会主催の「骨寺村荘園お田植え祭」が、開催されたことを聞いた。雨天にも関わらず、 主催者の努力によって、荘園オーナーなど、200名の参加者があったとの報道を、岩手日々新聞社のサイトで拝見した。素晴らしい取組であるが、これをもう 少し工夫して、大きなイベントにしてもらいたい。そのポイントは、単なる田植え参加型のイベントだけではなく、かつての田植え風景の復元をすることが肝心 なような気がする。

具体的なイメージで言えば、京都の葵祭の農業版である。つまり本寺の田んぼを舞台、栗駒山を借景として、早乙女たちが、もんぺを履き、菅笠や、頬被りなど しながら、田植え歌を歌い、田植えをするのである。できれば鎌倉期、江戸期、明治期、昭和初期、などの風俗の考証を踏まえて、京都の葵祭のような田植え歴 史絵巻を繰り広げてはどうだろう。

この為には、県や市は、もちろんのこと、個人のボランティアや企業の協賛は不可欠だ。これには新しい「結い」の精神が必要かもしれない。理由は極めて簡単 だ。今、田植えをするという一般参加型の田植え祭なら、日本中で行っている。そうではなく、奥州旧中尊寺荘園領骨寺でしか出来ない、一流の精神を持つ祭で なければ意味がない。意味がないところはつまらないから、人も集まって来ない。それこそ、将来においては、ユネスコ無形遺産に登録される位の夢と美意識を 持って「骨寺大田植え祭」にまで昇華させてもらいたい。

そして最後に、この祭の豊穣さに感動を覚えた人の心に、「一生のうちに、自分の田んぼ(農場)を持って、米や野菜を作ってみたい」という思いの種が芽生え るようにしたい。おそらく、そこまでできたら、日本の農業にも明るい展望は見えて来るのではあるまいか。了



 
一 関骨寺の田植え風景スライドショー



2008.5.19-26 佐藤弘弥

義経伝説
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