宮沢賢治の文語詩「中尊寺」について   

−宮沢賢治の二篇の文語詩−


宮沢賢治にとって文学的を始めるきっかけは短歌という古典的な定型詩の創作から始まった。賢治は、15才から、ほぼ10年間、25才まで、短歌作りに精出した。そして突然の如く、短歌創作を止めて、自由詩や童話を書くようになっていった。しかし晩年になると、不思議なことに再び5・7調の文語詩を書き始めるようになる。亡くなる数年前から、文語詩の創作に取り組んだ賢治は、以前に作った短歌や口語詩を再び文語詩に置き換える作業をした。文語詩について、賢治自身よほど、自信があったらしく、妹のクニに対し、何が駄目になっても、「これがあるもや」と言っていたようだ。この賢治の文語詩に、平泉を表現した「中尊寺」という作品が、二篇あるのでそれぞれ見てみよう。

 1 
宮沢賢治 文語詩 中尊寺〔一〕

 七重の舎利の小塔に    
 蓋なすや緑の燐光     
 大盗は銀のかたびら    
 おろがむとまづ膝だてば  
 赭のまなこたゞつぶらにて  
 もろの肱映えかゞやけり  
 手触れ得ね舎利の宝塔   
 大盗は礼して没(き)ゆる  
(『文語詩稿 一百篇』)下書稿(三)

「七重の舎利の小塔」は金色堂を指す。「蓋」(がい)は、「舎利の小塔」に懸かっていると同時に「大盗」に懸かり「害」の意味も持たせている。「蓋」の本来の意味は、インドで、師や身分の高い人などにさし掛ける傘蓋を意味し、金色堂に護られて、舎利の骨ならぬ平泉を楽土として造った奥州藤原三代の骨が眠っている様を表現していると考えられる。また広辞苑によれば、この「蓋」一字で、人間の煩悩そのものを表すこともあると言う。緑の燐光(りんこう)は、薄暗い金色堂の堂内で、まさに奥州藤原氏の魂が、未だそこに浮遊しているということを象徴させる言葉と思われる。つまり燐光は、奥州藤原三代の鬼火(火の玉)なのである。

この燐光は、芭蕉が「奧の細道」の旅において、金色堂に訪れた時に詠みながら、没とした句「蛍火の昼に消えつゝ柱かな 」のイメージに似ている感性が伺える。芭蕉は螺鈿の貝の柱に光りが反射して青白く光る神秘的な情景を、「蛍火」という言葉をもって表現したが、賢治の選んだ「燐光」は、まさにこの小さなお堂に、奥州三代の魂とも言うべき青白い光りが堂内に浮遊しており、一切の不正を許さない厳格さに満ちていることを象徴的に表現しようとしたのであろう。また賢治は、どこかで、芭蕉の「蛍火」の句を意識していたフシも伺える。

さて問題なのは、「大盗」という言葉である。「大盗」は音として「大塔」として「小塔」に懸かっており、このことから想像以上の大物(大権力者)という考え方もできる。そしてまた「大盗」というからには、この金色堂にやってきて、本尊か、それ以上のとてつもない大きなものを盗んでやろうとする者を指しているはずだ。以上のようなことからこの「大盗」を奥州という国盗りの大盗を働いた源頼朝と考える説ある。

また「大盗」を「大統」とみれば、これを「天皇の系統」(広辞苑)とする考え方もあり、常に奥州を簒奪の対象としてきた大和朝廷。あるいは奥州仕置きによってやはり国盗り行為を行った豊臣秀吉とする見方も可能性として残る。この秀吉説に関しては、天正九年(1159年)に九戸政実攻略の際に、秀吉の意を受けた浅野長政が中尊寺の宝とも言うべき中尊寺経の中の金銀字交書一切経のほとんどを持ち去って、高野山に寄進してしまったということもあり、そのことを史実として賢治が知っていたことは十分に考えられる。

しかしながら賢治のこの詩では、大盗は、仏の威厳の前に目的を遂げられず、ただ礼をして去っていくのである。さてこの大盗が何を盗もうとしたかとすれば、それはこの「舎利の宝塔」(金色堂)そのものであったと思われる。しかし金色堂という「小塔」は物質であって、金色堂の建立の精神性は、別の次元に存在するけっして俗人には触れ得ぬものとして存在しているものなのである。

さて昭和34年(1959)、金色堂建立850年を記念して中尊寺閼伽堂横に建てられた詩碑の刻印は、上で紹介したように「下書稿(三)」である。実は、本稿(決定稿)では「手触れ得ね舎利の宝塔」部分が「手触れ得ね十字の燐光」と変更されている。

私はこの「宝塔」から「燐光」への変更は、実に意味のある推敲であったと思う。つまり先験的に手に触れ得る物としての「宝塔」から、どんなに望んでも決して触れ得ぬ「燐光」に言葉を変更したことによって、奥州文化の象徴(中尊)としての中尊寺の魂(金色堂)が、どのような大きな力を持つ者(大盗)が来たとしても、決してその簒奪は無理なのだ、ということを賢治は、この短い文語詩の中で高らかに詠っていることとなったからだ。
 

さてこの「中尊寺」という詩のリズムとしては、5・7調を8回繰り返し、終わっている訳だが、どこかにまだこの詩がまだ次ぎに続いて行くような余韻を残している。形式的には、賢治の文語詩は、万葉時代の長歌の形式を踏襲している詩形とみるべきであろう。長歌は一般的に、5.7の流れを3回以上繰り返し、最後を7で終わらせるようであるが、賢治はこの文語詩で、5・7調を単純に8回繰り返している。賢治は他の文語詩でも、この「5・7×8」の形式を多く使用している。

 2
宮沢賢治 文語詩 中尊寺〔二〕

きそらいと近くして   
みねの方鐘さらに鳴り  
青葉もて埋もる堂の    
ひそけくも暮れにまぢかし 

僧ひとり縁にうちゐて   
ふくれたるうなじめぐらし 
義経の彩ある像を      
ゆびさしてそらごとを云ふ

(文語詩未定稿)

この文語詩は、明らかに賢治が中学3年に訪れた時の短歌「中尊寺青葉に曇る夕暮のそらふるはして青き鐘なる」を文語詩の形式に直したものに違いない。短歌では、なかなか意味がはっきりしなかった「青葉に曇る夕暮れ」のフレーズの情景も、よく分かるようになった。ただ言葉の並びは、実に複雑になっている。例えば最初の「白いそらいと近くして」に懸かるのは「青葉もて埋もる堂」であるが、その中に「みねの方鐘さらに鳴り」というフレーズが挿入されている構造になっている。またここで私が感じるのは、色についての印象が、「青」というものから「白」に変化しているというものだ。初五においていきなり「白いそら」という言葉を置き、春の夕暮れであるにも拘わらず、どこか秋の夕暮れにも似た閑寂な印象が漂うようになった。

この「青」から「白」への全体のトーンの変化は、20年近い歳月が、賢治の内にある「中尊寺」の記憶そのものの変化させたことを意味している。中尊寺の印象が、16才で詠んだ短歌では、全体が「青」の統一され鐘が鳴り響き境内全体がふるえるような動的で賑やかだった印象が、二十年後の文語詩では、白のトーンに包まれて、いっぺんに静謐な印象になってしまった。もちろんそれは賢治の中で、「中尊寺」あるいは平泉に象徴される奥州文化全般に関する認識が深まったということであろう。また法華経を熟読していた賢治にとっては、「白」は、白蓮の色ということもできる。

さて最後の四行であるが、これは中尊寺というからには弁慶堂のことを指しているのであろうか。弁慶堂には、後ろの控えた小さな義経像を護ろうと長刀を大地に突きつけて憤怒の顔をしている弁慶像がある。誰が見ても、あの堂に入ると、義経の印象が薄く、弁慶の方ばかりみてしまうのであるが、そんな堂内を説明する僧侶のことを印象深く表現している。しかし義経の像を「彩ある像」と表現しながら、弁慶像を触れていない謎については、その後の「そらごとを云ふ」という言葉が、ヒントを与えてくれている。おそらくこの僧侶は、一生懸命、義経の誇張された伝説的な部分ばかり、大袈裟に賢治たちに説明したのであろう。早熟な賢治にとっては、それが非常に退屈な話だったのかもしれないし、弁慶という存在そのものを賢治が疑っていたことも想像される。また最後の四行詩が、高館を詠った可能性もあることは可能性として捨てきれない。つづく

まとめ
 

 


2001.7.1

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