平泉の秋 中尊寺



経 蔵
(08年11月9日 佐藤弘弥撮影)

秋の中尊寺には、どこか郷愁を誘うような美しさがある。紅葉は、日々赤みを増し、落ち葉となって、月見坂周辺にハラハラと落ちてくる。

この時期の中尊寺には、一瞬も目を離さない見所がある。

金色堂のすぐ西脇にある経蔵は、この時期の中尊寺の代表的な景色だろう。金色堂を拝観した後、一歩鞘堂を出ると眩しいばかりの紅葉が経蔵を愛しむように覆い掛かっている。

この経蔵は、中尊寺で金色堂と並んでもっとも古い建物だ。寺伝によれば、建立は天仁元年(1108)と言われる。

初代清衡が、前九年後三年の役という、ほぼ40年間に及ぶ戦乱によって、多くの命が奪われ、奥州の地が傷ついたことを憂い、二度とこの地に戦による混乱と悲劇が起きぬことを祈願し、中国から輸入した仏教経典を金銀を交えて書写し、この経蔵の奥に納めたものである。

「平泉」の中心に「中尊寺」を構え、この都市が「平和」の都市であることを高らかに謳った「中尊寺建立落慶供養願文」(1124)には、初代清衡の恒久平和への祈りが、切々と語られている。

しかし残念ながら、清衡の平和への祈りは、三代秀衡が急逝し、四代泰衡の代に、叶わぬ夢(1189)と終わった。しかしながら、中尊寺の寺僧は、清衡の平和の意味を覇者頼朝に堂々と語り、頼朝はその訴えを聞き入れ、今日まで中尊寺は、天台宗の寺として独立を保ってきたものである。

それから八百有余数年の歳月が流れた。かつて創建時、二階建てだった経蔵は、建武四年(1337)の火災により、二階部分が焼け、一階部分を活かして、修復したものと伝えられている。その際にも、本尊の「文殊菩薩像」や運慶作と言われる「千手観音像」や「中尊寺経」(五千三百巻に及ぶ金銀で彩られた経典)や「中尊寺供養願文」、「骨寺古図」は、寺僧たちによって、焼失することなく護られたのである。

多くの参拝者の人々たちが、バスで来て、駆け足のようにして、この経蔵の脇を通り過ぎ、バスで帰ってしまうのだが、実にもったいない気がするのだ。そろそろ日本人も、せっかちな旅の仕方を改めて、ゆったり、じっくり、その土地の歴史や独特の風土を味わうような旅を心がけてみてはどうだろう。




旧鞘堂前の松尾芭蕉像

経蔵の前を過ぎると、旧鞘堂の前に芭蕉のブロンズ像が立っている。この像は、平成元年(1989)「奥の細道三百年・芭蕉祭」を記念して、建てられたものだ。東京芸大の戸津圭之介氏の作である。何だか、歳月を経る度に、この地に根付いているような感じを受ける風格ある作品だ。杖を右手に持った芭蕉が正面をじっと見ている。その目は、近くを見るでもなく、遠くを見るでもなく、物事の本質を心の眼で見ているようにも感じる。それでいてどこには力が入っていない。今にも、書付と筆を出して、「秋の句」でも、捻りそうなリアリティがある。

おそらく作者の戸津氏は、芭蕉の到達した「軽み(かろみ)」の境地を、この作品の中で表現したかったのではないか。こうして、さまざまな角度から芭蕉像を見ていると、奥州藤原氏が没して後、五百年の歳月を越えて、やってきた時の松尾芭蕉という日本歴代有数の芸術家の高潔な精神性が見えて来る気がした。




散り紅葉と阿弥陀堂の尖塔?!

芭蕉像の前を過ぎ鞘堂を拝み、拝観出口の坂を下る。すると菊で拵(こしら)えた三重の塔が見える。例年この時期、中尊寺本堂の前では、菊祭りが催さる。金色堂の前にも、この黄色の菊の屋根を持つ三重の塔が据えられ、晩秋の古寺の風物詩となっているものだ。

出口を左に曲がると長寿院の門に入る。往時この奥には、大長寿院という巨大な伽藍が建っていた場所だ。これを見た頼朝は、この大寺院を模して、鎌倉に戻り、奥州遠征で亡くなった敵味方の慰霊を弔う目的で永福寺(ようふくじ)を建てたことで有名だ。

この門の脇から見る鞘堂と紅葉は、中尊寺の晩秋の最後のハイライトと密かに私は思っている。見れば11月9日現在では、ここから見る紅葉は、まだ紅く染まって居らず、おそらく11月の後半から12月にかけての時期が、見頃になるものと思われる。またこの長寿院の竹藪の下り、木の根道を降りて、弁天堂の周囲を廻る弁天池に真っ赤な紅葉が無数に散った時の光景は、圧巻である。その意味で、中尊寺の紅葉のクライマックスは、これからが最高潮となる。特に弁天池に日の光の移ろいで万華鏡のように見える時、私は余りの美しさに息を詰めて写真を撮るクセがついてしまっている。そんな時期がもうすぐ訪れるはずだ。

弁天堂を過ぎ、金色堂の前を通り過ぎて行くと、右に宝物館である讃衡蔵(さんこうぞう)の大きな建物があり、そこを通り過ぎて少し行くと、こんもりとした丘の上に鐘楼(しょうろう)が建っている。この時期、この鐘楼から見る紅葉も実に美しい。落葉が至るところにあって星のようにように、自分の存在を主張しているように感じる。ここから杉の大木越しにちらりと見える阿弥陀堂の尖塔が凛々しくカッコ良い。中尊寺という古寺の中にあって、以外に通り過ぎてしまいがちであるが、お勧めの場所だ。現在の鐘楼は奥州藤原氏が滅びた後、野火によって焼失し、後醍醐帝の時世に再建されたものと言う。この鐘楼の銘は、清衡の思いを伝えて「関山の暁鐘 無明の眠りを覚ます」と漢文で記されている。

清衡は、この中尊寺の鐘の音に、戦没したすべての命の成仏と恒久平和、そして人間という不可思議な存在の「無明からの目覚め」を期して、この鐘の音を世界に向かって響かせようと、思っていたはずだ。

清衡の思いを考えると、散った紅葉の一枚一枚が、とても愛おしく感じられて、しばし足を止めた。少し間を置き、馬の背のような参道を、本堂へ向かった。




鐘楼と紅葉

本堂の前に、峯薬師堂がある。ここも秋の紅葉シーズンのスポットのひとつだ。ここから脇にそれ裏門より本堂に参詣した。菊祭りが行われていた。出品されている菊は、どれも「私を見て」とこちらをじっと見ているような凄みがある。花屋の店先で見かける菊とはかなり違うようだ。さまざまな種類があり、しかも艶やかである。確かに菊愛好家が、この一年この祭りのために丹精を込めた花だけのことはある。私は透き通るような大輪の白菊が気に入った。



峯薬師堂

本堂を出ると参道に戻って、寺の宝物館にあたる讃衡蔵(さんこうぞう)に入館した。今「『平泉』伝承の諸仏」というテーマ展を開催中だった。

今回は、中尊寺の仏様が、仙台市で開催中の「特別展 平泉〜みちのくの浄土〜」(2008年11月14日〜12月21日)に出張中とのことで、中尊寺ゆかりの諸仏が、全国から14体結集しているというので、是非とも拝んでみたいと思って楽しみにしてきたものだ。

折りから11月9日(日)は、日曜日と紅葉シーズンが重なったこともあり、大変な人だかりだった。

結集した諸仏には、初代清衡の娘が嫁ぎ先(茨城太田市)で建立したとされる西光寺の本尊「薬師如来坐像」があった。

西光寺の薬師如来は、ごつごつとまるでミケランジェロがシスティナ礼拝堂の天井に描いた天地創造のキリストのように堂々とした肉体美を持ち、かつ内面に強い意志を持つ仏として座っていて、周囲には威風堂々とした風格が漂っていた。

一方、二代基衡が奥州市黒石寺に寄進したと言われる「日光・月光菩薩立像」の二体の仏像は、立像ながら1mに満たない小ぶりな仏だった。しかし仏は大きさではない。この二体の繊細にして縦長のしなやかなフォルムの仏像に私は、百済観音にも似た優美さを感じ惹かれた。



讃衡蔵と紅葉

もうひとつ、私が感動を覚えたものがある。それは実物ではなく、パネル展示の紹介だったが、三代秀衡にまつわる仏像だった。その仏は、岐阜県郡上市白鳥町石徹白(いとしろ)の白山中居神社(はくさんちゅうきょじんじゃ)にある「虚空蔵菩薩坐像」である。

やはり高さは1mにも満たないような小さな仏像である。パネルながら、只ならぬ威光のようなものを感じ、案内板を覗くと、「石徹白」の漢字が目に入った時は、「ええーっ」と息が止まりそうになった。

私がそのようになるのは、理由がある。この仏は、元暦元年(1184年)というから、今から824年前、奥州藤原氏三代秀衡が、自らの白山信仰のために寄進したものとされる仏だ。秀衡は、この時、この仏を守るために、選りすぐりの上村12人衆という武士を、この仏に半永久的に付随させて付けて白山中居神社に遣わしたのである。そして驚くべきは、今でも、その子孫たちが、この「仏を永代に渡り守護せよ」との秀衡の意思を守り続けているという現実だ。

上村12人衆の子孫たちは、それから八百数十年間、さまざまな政変、天変地異などの障害物を乗り越えて、この仏を今でも護り伝えているのだ。例えば、明治維新直後に吹き荒れた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐があった。この時、上村12人衆の子孫たちは、仏像を打ち壊される危険から護るために、密かにこの仏像を、この神社から担いで運びだし、別の地に観音堂と大師堂を建立し、ついに虚空蔵菩薩像を後世へと伝える大役を見事に果たしたのである。

平泉側で、この仏像の存在を知ったのは、昭和55年(1980年)というからつい最近のことである。何というエピソードだろう。おそらくは、今中尊寺に集結した14体の仏像一体一体に、石徹白の虚空蔵菩薩に近いドラマがあるかもしれない。そんなことを思いながら、後ろ髪を引かれる思いで、讃衡蔵を後にしたのであった。晩秋の中尊寺のもの寂しい風景は、いつもながら心に滲みるものがある。(了)



金色堂

月見坂おち葉踏みしめ三代の御廟到れば息上がるなり

2008.11.11 佐藤弘弥

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