春の藤原祭り

(2009年5月3日撮影)
大震災の今年は春の藤原祭りは中止された!!
 
1 平泉へ遷都

今から885年前の春3月、奥州藤原氏初代清衡は、平泉中尊寺において、京の都から多くの客人を迎えて、40年に及ぶ戦争によって傷ついた国土の復旧と復興を祝い、千人の僧侶を集めて、前代未聞の大法要を敢行した。その時、高らかに読み上げられたのが、清衡の思いを伝える中尊寺供養願文だった。

戦争とは、言うまでもなく、前九年・後三年の役のことである。中尊寺供養願文は、奥州の地が、全土を巻き込んで展開された戦争から27年が経ち、やっと復興の目途が立ったことを内外に伝える宣言文であった。復旧・復興への道は、容易ではなかった。広大な奥州全土は焦土と化し、長閑だった大地には、敵味方なく膨大な兵士たちの遺骸が埋もれていた。死者たちは、思いを生者に伝えることもできず、山野に白骨となって残っていた。夥しい鳥獣たちも戦の犠牲となった。

清衡自身、この忌まわしい戦争によって、父を殺され、最初の妻と子を目の前で、焼き殺された経験をしている。しかもその加害者は、実の弟であった。戦争に敵も味方もない。

清衡は、復興のために大転換(パラダイムシフト)を計画した。戦争経済からの脱却である。それは戦に勝つために膨らんでしまった軍事優先の政治から、奥州の砂金をテコにしながら、疲弊した人々の心を癒すため、仏教文化を主眼にした宗教都市「平泉」建設に全力を傾ける政治への転換だった。清衡が、そのために行ったのは、宗教都市に相応しい聖地「平泉」への遷都だった。


2 資源としての黄金

何故、平泉が奥州の都として選ばれたのか。そのナゾを解く鍵は、平泉の置かれた立地にあったと思われる。

衣川を隔てて、平泉その南方にある。衣川には、平泉に先行する安倍一族の都があったと言われている。事実、今でも安倍一族の名の付いた宿館が地名として点在し、何度か発掘調査も行われている。北上川の支流「衣川」は、川幅10mほどの小さな川である。だが、衣川一帯は、南に中尊寺、西に北上川を隔てて、国境と呼ぶに相応しい要衝地帯であったのだ。おそらく清衡は、衣川の安倍氏の居館から、南に平泉の地を眺めた経験があったと思われる。

中尊寺供養願文の中に、次の下りがある。
占いで吉と出た土地に、堂塔を建て、純金を溶かして、仏教経典を書写させた次第です。 さらに経蔵、鐘樓、大門、大垣などを建て、高い所には築山を施し、窪地には池を掘りました。このようにして平泉の地は、「龍虎は宜しきに叶う」という「四神」が揃う聖地となりました。

様々な候補地の中から、奥州の首都に相応しい適地を厳選した結果、平泉の地が選ばれたようだ。

また鎌倉幕府の正史に当たる吾妻鏡には、こんな記述がある。
清衡公が、奥六郡を管領した当初に、これを創建いたしました。奥州は、白河関より、外浜(そとがはま)に至るまで、徒歩にて二十数日に及ぶ道程の国でございます。清衡公は、この路の、一町(約108m)ごとに、笠率都婆(かさそとば)を立てまして、その面には、金色の阿弥陀像が描かれておりました。また当国の中心を計りまして、山の頂上に一基の塔を建てました。

この記述から、清衡の国家建設の過程がほぼ明らかになる。まず清衡は、国のスケールを明確にし、奥州全体の生産力(国力)を把握したのである。

清衡は現在の福島県白河市から青森県青森市外ヶ浜町までの距離を測り、その中央に「中尊寺」を建て、道を整備した。更に清衡は、それぞれの一村一村に、寺を建て、寺には寺領に田畑などを寄進し、毎年灯明代を援助したという。

奥州で40年に及ぶ戦争が終わったのが、寛治元年(1087)11月である。この時、清衡は31歳。豊田柵から平泉への遷都は、終戦から8年後の嘉保2年(1095、清衡39歳)頃と言われている。

奥州にとって、産金(砂金)は最大の資源である。ただ奥州にとって、黄金とは、マッチポンプである。丁度そのことは、現代世界で、産油国周辺が戦争の常習になっていることを連想させるのに似ている。奥州における40年に及ぶ長い戦争のきっかけになったのも、この豊富に採取される砂金であったと言われている。

清衡は、この黄金を復興資金として、戦争経済からの転換を大規模に進めた。平泉への遷都に続く、清衡の復興構想は、平泉を京都に負けない美しい宗教都市(仏国土)にするというものであった。


3 奥州復興のブレーン「蓮光」という人物

清衡の奥州復興計画の根本には、常に仏教精神があった。

清衡にも、現在政府が起ち上げた「復興構想会議」のような組織があったと考えられる。その中で、特に重要な存在だったと思われる人物がいる。中尊寺の経蔵別当「自在坊 蓮光」という僧侶だ。

この人物が、奥州を復興させた藤原清衡の最大のアドバイザーだった可能性が極めて高い。この人物は、経蔵別当にして、大長寿院の住職という立場である。

中尊寺の大長寿院は、白山神社の南に面した地点に建つかつて頼朝が平泉に侵攻した際、そのスケールと美しさに声を失い、鎌倉の地に、この寺を模して「永福寺(ようふくじ)」を建設させたほどの2階建ての御堂であった。何しろ、御堂の高さは15m、本尊は9mもある金色の阿弥陀如来。その脇には5m弱の脇士が9体並んで、頼朝を睨んでいたのである。この大きさは、平安から鎌倉期にかけて、阿弥陀堂として、最大規模と見なされている。

これは私見であるが、この大長寿院が、金色堂と対をなして、大金色堂、小金色堂が中尊寺の中心に並んでいたのではと考えられる。

また金色堂の脇には、経蔵がある。経蔵には、5300巻ほどあったとされる一切経(中尊寺経)を納めていた御堂である。この一切経の書写事業は、奥州復興の最大の文化事業である。別名は中尊寺経、紺紙の料紙に金と銀で一行ずつ交互に書かれているため、金銀泥一切経とも呼ばれる。尚、現在、中尊寺経のほとんどは、豊臣秀吉の奥州仕置きの際、持ち出され、高野山金剛峯寺に置かれている。

この一切経のテキスト取得のため、清衡は、膨大な黄金を中国に送ってこれを購入し、蓮光は、この書写事業を指揮したとされる。

また2011年ユネスコ世界遺産入りの推薦書からは、外されたが、2008年の推薦書では、9つのコアゾーンのひとつであった「骨寺村荘園遺跡」は、この経蔵別当の所有する荘園であった。

この清衡と蓮光の出会いによって生み出された平泉の建都精神は、崩壊の危機においても、結果として平泉を護ることになった。

文治5年(1189)9月、頼朝が、奥州に侵攻した際、すでに清衡から四代目になる藤原泰衡は、自身の居館にのみ、火を放って、北方に逃亡したのである。だが、蓮光の意思を汲む経蔵別当第三代「義城坊 蓮心」は、侵略者「源頼朝」に向かい、このように言い放った。

中尊寺は、経蔵以下、仏閣塔婆など、みな藤原清衡公が建設されたものです。ありがたいことに鳥羽院の御願寺として長年の間、寺領をご寄附くださり、また国家鎮護の御祈祷をする場所となって来ました。経蔵には、金銀泥行交りの一切経を納められております。まさに(中尊寺は)厳粛な霊場ですので、どうか、今後とも苦境に陥ることなどのないようにお取りはからいください。今回の奥州合戦により、中尊寺領(骨寺)に住んでおりました民百姓らは、恐れをなして、みなどこかへ逃亡してしまいました。ですからできるだけ早く、寺領安堵するとの御命令を出していただくようお願い申し上げる次第でございます。」(吾妻鏡 文治五年九月十日の条 現代語訳佐藤)

頼朝は、これを了承し、毛越寺の南大門の前に、高札を立てた。
平泉内の寺領においては、先例に任せて、寄附する所となった。堂塔はたとえ荒廃の地であったとしても、聖なる仏の法灯を絶やさぬための務めであるから、地頭らはくれぐれもそれを妨害することのないようにせよ。
(吾妻鏡 文治五年九月十七日の条)

以上、初代清衡が、築いた奥州復興のプランは、中尊寺の名僧「蓮光」僧都との邂逅(かいこう)によって、実現したものであることは明白であろう。

先頃、日本への帰化を明言されたドナルド・キーン氏が「平泉は一度も死ななかった。・・・金色堂だけが滅びなかったことは奇跡であると思ってもいい。」(高橋富雄編「シンポジウム平泉」小学館 昭和60年刊 所収)と語ったことを思い出す。鋭い指摘だ。確かに平泉は不滅かもしれない。

つづく

2011.6.27 佐藤弘弥

義経伝説

思いつきエッセイ