菅江真澄

はしわのわかば 続(仮題)@



(天明六年)七月朔日 「めにはさやかに見えねとも、風の音にそおどろかれぬる」とくちすさみて、とに出づれば、かぜ涼しくうちそよぎて、雨は晴たり。
  旅衣うらめつらしく明かへてきのふにかはる秋のはつ風雨ひるふりて、又はれたれど、うちくもりがちに、かぜ涼し。

二日 あめもよにくもりたり。垣のとのみちを、男女通りてけるにいたちとび出たるを、「おかみちきりたり。わざはひにあふらん」とて、まづ石ひとつ投て、「比いしにおはせて」といひてすぐる。いたちをおかといひ、きつねのおかともいふめれ。はづれはづれのよしなしでとも、なかばはさとり行くここちせられたり。夕ぐれのはしいに初秋夕といふことを、
  旅衣つゆけき袖をしるへにて此夕くれに秋やきぬらし

三日 ここを出たつといふにのぞんであるじ慶明の云
  あさつゆとともにたち出て行人の袖吹かへせ秋のはつ風となん聞へたりしかへし、
  たひころもたちこそいつれこのあさげおきわかれ行袖の露けき
笹の田といへる崎をこへて気仙郡矢作の庄に至りぬ。山川のきしに、早乙女石といふは、いにしへ、神の田うへ給ひしなど、人のかたれり。二俣といふ村口に、いしふみに(注 此間紙一枚抜けたる如し?)くれたり。

七日 よべより雨ふる。けふの雨は車をあらふといひて、いみたるためしにや。このとし人の身まかりたる家は、茶幡といひて、五色の紙に、仏のみな、実りのこと葉を書て、軒にかけて、人々通るを呼て、ものくはせ、茶のませける、三とせがあいだ、すべきならはしといふ也。
  こよひふる雨にことさらあまの河なみとくわたせつまむかひふね
又星の手向とて、人々まといして、歌よむにわれも
  銀河ふかきちきりやおしむらん又のあふせもとおきわたりに

八日 釜江といふきしよりむかへは、ここらのふねのかかりたるあはひより、鳥居の浪ごしに立たるは、うなり穴といひて、やよひ三日とらひとつ斗に、もののしらべする声、屈(ママ)のうちに聞へける。かかるゆへ、からのうたには、管絃屈といふを聞て
  いと竹のいはやの神やまもるらんなみのしらへの音もし

九日 このゆふべ、薄といふことをさぐりえて、
  むしのねもうつす斗にうへ置て友うちまねくしののおすすき

十日 浜づらに声どよめきさけぶは、大船にふしたる帆ばしらを、おし立てんとて、おも車にくりかへしかへし、えいでずして猶をれり。戌のとき斗、かど火つけたり。大なるついまつをおしたてたれば、雨のいたくふるにもまけず、あめつちをかがやかして、ひるよりもまさりたり。市の中に、細き川のながるるが、水あふれて、みちなかも水になれるに、火のかげさしうつりて、なかなかの見もの也けり。やがてまつもきへ行バ、軒ごとにともし火かけなどせり。たかとうろうは、雨風におそりて、あけざりけり。

十五日 日のほのかにさせば、けふこそは、いでなんずと、あしたより思ひたてば、あるじ、みちのぬかり、かはきて、ちかきあたりまでうつれなど、ねもごろに聞へたれば、今しばしやあらんなど、いひありてあるに、辰ひとつ斗に、いでといふに、あるじのいはく、
  秋そともまたしらつゆの置ぬまにぬるるや袖の別といふらん
といふうたを、老いたる手にて、かいいだしけるに、
  ことのはの露の情に袖ぬれておき別れ行旅そものうきかくかへしたれば、惟長てふ人の云、
  昨夜東西始喜逢、今朝惜別事情濃、佩刀不譲将気、何処澄潭欲化竜、この濃のもんじをとりて、かへしたり。
  わかれちにかくたまつさのうすきこきいろやなみたの落るとそしれ
おなじ里なる、熊谷直剛のやにとまる。

十六日 
十六日 雨いたくふりぬ。けふなきたま送るとて、たままつりの具、みな菰につつみて、その菰をふなかたちにつくりて、帆柱をはじめ、それぞれのことをそなへて、川に持出て、かひ流したり。

十七日 雨はねにいふれば、川々の水たかくながれ、橋々も落て、あげ田、くぼ田もながれて、たのみ、はたつものも、とらじとこぞりて世中をなげひてくれぬ、かどかどにけふはたえまつも見えず。

十八日 計仙麻大島神にまふで奉らんとて、けふの市にたちたる。帰り舟にたよりもとめて昌信といふ人と共に乗りぬ。ともろわきろとて、三ところにかけて、いれはらも、おるるばかり、つむぎの縄も、とけん計りに、おし出されたれば、いとくらき霧のなかにこぎいる。おくれたる舟は、かなた、こなたに声のみ聞へて過る。舟子「かかるもやの日は、ゆうれい船の出なん。いそげいそげ」といふに、「こはいかなるものにて、何のさまたをし侍るや」といへば、舟子こたへて、ここらのふねの、あやまちて浪にとられ、海に死たる者の、たましひとどまりて、かかるもやのなか、又夜船こぎありけば、いづこともなふ海のうへに舟あらはれて、あまたのこえして、おめきさけんでよばふに、のがれんかたなければ、ひさくかせかせといふめるとき、そこを放ちてやりぬ。さることはしらで、ひたもの水をくんで、こなたの船にいれんとするに、舟とく、にげのくことにこそあなれ。
 ちかきころ、鰹つり船、沖にとまりもとめたるに、あやしき船に、人あまたのり出て、
「わ船にのせてよ、いざのらん」といふとき「さ、ゆふれい船にこそあれ、おくすまじ人々よ」といふまま、とびのるかしらをおさへおさへ、なまといふところへおし入れて、夜あくるをまちにまちてな、みぢほのみぢほの明行ころ、板子引あげて見ば、「海月をいくらともなふとらへて入たり、くらげもばけるものにやありけむ」とかたるに、今ひとり「くらげは風にさかのぼりて、はしるものなれば、さるけうのわざもやし侍らん」、などかたりつつ行に、あまのわざする船、ここかしこに見へたり。
  さらぬたにおほつか浪のあまの原霧の海こくち船百船大島にあがりて、ここの長なる、小野寺なにがしのもとにつく。熊谷のやより、しかしかのことしるしたれば、いといとねもごろに、ものしなせり、けちかき浪の音に、ぬるとなふ明けぬ。

十九日 かくて神のおましにとて出ぬ。みやしろは亀が森といふ、山の尾にあがめ奉る。保食神也、かかるゆへにや、おおたの神、太田神とは、となへ奉るならん。山の頂には、あたごの社をたてり。麓のしら洲に、松のむらたちたるは、袖はまといふ。たもとに似たるにはあらで、外といふことを「そで」とはいへり。又「とかひ」ともいふ也。きりの中に、色とるごとき山は、尾崎の神のおまし也。ある人の云「いにしへ、牡鹿郡につきて、おさきの社は、計仙麻の神にて、さる田彦を祭り奉るとなん。この神は、御とこいみじくおましまして、ちかきころ大船のかしぎのわらば、帆あしにさらはれて、海に落たるを、あなあさまし、いかがと思ふに、はたひろ斗の鯨の頭にいただきて、もたげたり。あなたふさまの、かたじけなしといふに、かしぎやがて、小舟にのりて、からきいのちたすかりぬ。」なべてくじらのことを、たふとさまといふ也。あるとし、いさほの郡の男、まつしきまま、人のわざ苗を、ぬすみてうふるに、此ことあらはれてければ、いかがはせんとて、いそぎ尾崎にいのりていふやう「あれ心をぞく、人のなへをぬすみたり、いで、こたび斗の、このおかしをゆるしたまへ、今よりのちは、ゆめゆめつゆも、し侍らじ」と、なみだながらにいのりたり。けにやあらん、わせみのらで過るに、人々あやしみ見るに、やがておしねの穂に出たり。「こはいかに、いみじきそらことにやありけん。ぬす人はいづこにかありぬらん。心きよらかなる人を、さがなふいひたりと、人々くひけり」といへり。
 やがてのぼりえたり。又神の御前に出て、おなじすじをとて、さがしきみねを、ただひとときに真くだりにおりぬ、ここに、やくしぶちの御堂ありけるにまうでぬ。御醍醐天皇の院宣を、いたくひめて、「みほけ」とはいへり、此庵建そめし、うばそくは、おこなる兵にて、君のいくさに、つからまつりてのち、世をいとひて、ここに来しとなん、しりたる里の子のいへり。

二十日 ここをいでんとて、此家の軒より舟出す。かつうををつる船、いくらともなく沖をさしてこぎ行、かかる舟にてのしわざは、かもししの角を、はりにすりてふくめの皮を、ちのもとにつきて、はるけき沖に出て、三尺四尺のいとをくだす、是を「角かけ」といふ、又くろかねのはりに、いわしをさして、竿に付てくだし、かひへらといふものにて、水をうちかけうちかけ、雨このむ魚なれば、あめやふる思けん。えをかぐはしみ、すみやかにより来て、とびかかるを、左の手して、いだきかかへけるといへり。鮪のいろ見る男、たかのうへにいて、白布の幡をおし立てひるかへすは、しびのよりたるを、あみ子にかくとしらせたる也、あみ子ら小舟のり出て、引きまはしてけり。
 けふのあつさ、たへがたければ、えひここちに舟そこにのみ伏してつきぬ。やをら、有文のやに入りて、しばしものがたり、直剛のやにかへるに、神ここらなりて、雨ふりいでて、夕にいたる、けふはうらぼんえとて、又ついまつものしたり。

廿一日 けふも又、なる神聞へて、あめいたくふりて、夕も霧深く、月のひかりも見へず更ぬれば、いよいよくらし。

廿二日 ことなふくれたり。

廿三日 夕、なにがしの山の、地蔵ぼさちを祭る日也とて、人のうちむれてまうでぬ。

廿四日 海岸山普門院観音寺といふみてらに入て、日のななめになるまで、あるじの法印にかたり奉るに、慈覚大師、この山ひらき給ひしころ、持給ひし石の独古あり、こは出羽の国の山寺、ひえの山、いまひとつは、この寺ならではあらじ。
 又よし経のふる笈、ここにも見へたり。そのゆへをとへば、鬼一方眼の娘、みなつるひめ、義経に心通はし給ふを、父ねたく思ひて、うつほ舟にいれてながしぬ。いかがしけん、此うらにつきたり。浦人とりて、舟うち破りしかば、女の死したるあり。此こと義経きこしめして、いそぎ磯におりて見たまへば、うつはな(ママ)にくり、見ならひ給ひし、みなつる姫と見さだみ給ひて、御涙ながら、なきがらを、かしこにうづみ給ひて、寺を建給ふといふ。そこを、ふなつきといふ、今は田はたけとなれり。寺を大寺といひしが、いまはここにうつしたり。此笈もさるころより、おさめ給ふならんか。昔のことをいひおしへ給ふ。やがて、かへさになりて、
  萩すすき手向の草のそれたにもつゆけき増る秋の山寺

廿五日 有文のやに行て、人々うたよみけるを見て、萩のしたつゆということあれば
  ふるさとにほさてやゆかん宮城のの萩のした露わけし袂を

廿六日 てひけいとよく、あつさつよし。

廿七日 あしたより、なるかみしきりて、雨ふりぬ。

廿八日 雨はひるはれたり。

廿九日 きのふの午のときより、はれたるそらにひとしくて、あつさたへがたし。

三十日 ある女かどに立ちてものいふは、『この里の、おしらといふものに、つかふる女なり。姫しらといひては、女のかしら、むましらとは、こまのかしら、鳥しらは觜あり。かかる形なるを木にてつくりて、綿につつみ、又いろいろのきぬを、引さきかけていのるに、物のけ、病をいやす。このおしらをあそばせるとて、三月十六日祭をせり。いつのころにやありけん。ちか隣の里におしらこ使ふ、老たる女のありて、とみなることに、ととに出たるひまに、やのおさなきもの、このおしら子をとりいだして、たわむれてあそぶに、かの女かへりて、こはいかにぞや。たふとさまを、いかにしていだし持たる、をぞのわらばへやと、いかりののしりて、箱の中にひそめてあなたふと、あがあやまちをゆるしてたびたまへと、ももたびたびひてわび、拝みてふしたりける。夜の夢に、「たまたまあがうれしくあそびたるを、ましはとりて、などかくは、くるしめてはおくぞ」と見へて、此女こころみだれて、やがて死けりと、人のいへり。』、夕くれちかきころ、安場となん言ふなる山にのぼりて、うみやま島かげのけしきを見て、うたよみ詩をなせりけるは、もらしぬ。


八月朔日 たかかやのくきを折て、ものくふためしとて、家毎にせり。田うへの日も、かかことすれば、けふのたのも祭にとりあはして、又あをはしのつかふことならんか。けふをここをいでたつといふに人々あるじをはじめ、むまのはなむけをせんとて、かうがへてあるじ直剛
  いましはしたちもととめてみちのくの思ひを人はしら川のせき
  わすれすは又もとひこせあふせ川袖つく斗浪はたつともと書いたしけるかへし
  みちのくの人のなさけに越へゆかん思ひもいさやしら河の関
  わすれしなたとりて又もあふせ川わたらん水のいやまさるとも
あるじの女なりける、ちら女のいはく
  かへるとも又とひてましみやきのの萩咲こうはまつむしのこえ
返し
  まつむしの声わすられす旅衣又もとひきく宮城ののはらやのむすめなる、くを女のうたに、
  又ここにきても見よかし藤袴つゆけき野辺の色薄とも
返し
  幾秋をかけてやここにふち袴色なる露にぬれてとはまし道剛てふ人のもとより
  ことの葉もさそなしけらんめつらしき野行山越わくる旅路は
  名残りあれやよせてほとなく帰り行くわかの浦波たちもとまらて
返し
  ことの葉のえやはおよはんめつらしとあかぬ野山を分めくりても
  たよりあるきしをしるへにいくたひかたちかへりこんわかの浦波
昌信のいへりける
  わかれての末の松山かひあらはへたても波のこゆるをやみん
返し
  末の松山のかひなくわかれ行袖に波こすけさそものうき義方のいはく
  又もとへ玉造江にこくふねのよせてはかへるならひありとも
返し
  こきかへり袖やぬらさんあまをふね玉造江のふかき情に木村なにがしのもとより名取川の埋木をからくしてとりえしなど、包紙に書付ていささか贈りければ
  名取川ふかきこころのまことよりあらはれにけりそこの埋木
と書きてやれば、そのあるじうまのはなむけにとて
  わかれちのかたはらにまたあは穂かな
と聞へければ
  にくるましらの眼さへつゆけき
又山犬の句に、
  一夜一夜月や紅葉にそめなさん
  露しきて寝む尾毎尾毎に
  ひいといふこえ猶きかんあきのかせ
  かかしの笠にしふく山風、とつけたり
それとはかり見せてあなたを染しくれ、女蘭山、ぬれてをわけんすすき萩原、といへば、又ふでをとりて、広忠といふ人のいへり、
  秋風のさそいしままに旅衣かへるたもとをうらみてそやる
この返し、
  秋風は袖に涼しき旅衣、みにしみ通る人のことの葉
ふたたび、くを子のいはく
  いましはしととめてもかなさしよするほとさへ浪にかへる友舟
返し、
  又ここにさしてたのまんみたれさほへなれにし磯はこぎはなれうし
むまのくたちに、けふもなりぬれば、あすはとくせんとてやむ。

二日 あしたより雨をやみなければ、なにくれかたりて、え出たたずくれたり。

三日 あるじ直剛、昌信、木村なにがし、ちかとなりの里まで、送りせんとて、月館といふ処なる直慶てふ人のやまで来けり、この夜はこ(ママ)、にとまりぬ。あめもよに見へたれば、直剛、木村、とみにかへりぬ。昌信、ふたたびのたいめひ、いかがなどいひつつおなじところに居る。

四日 よべより雨ふれば、けふもいでたたず。かたりてくれぬ。
 又あるじ直慶、わかれのうたとて
  別れても思ひこそやれしら雲のさかひはるかによしへたつとも
返し、
  おもひやるかたはそこともしら雲のかけてわすれしみちのくの空
馬にてものせよ、といひつつ、ひきいだせるに乗りぬ。あるじあるく。又あふときちぎらんとて、酒もていでませり。いざとてすすむるに、むらいながら、馬の上にてといへば、女のわらば、あぐらにのりて酒つぐ。ささやかのかはらげに、いたくもりたれば、みちみちて、馬のかしらの毛もぬれたり。あるじ、昼九、夜八、船七、馬六、といふことば、しらざる、かたほの女にてありけるよとわらふ。わらば、つらあかみてしきりたり、昌信、あたりちかきかたませ、いざ送らんとて、ともに土陸川、角力沢、不動尊の堂の軒より臨みて、はるかに見くだすは、おかしき滝川なり。まひ木、なき沢、など過て、いはいの郡になりぬ。おその袋の社といふあり、むろねの神の、いろはの神にてわたらせ給ふ、むろむねの神は、こ(ママ)、にて生れ給ふといふ。長月の、中の九日のかんわざは、ひと夜はたとて、うみつむぎをることを、一日のうちにせり、此麻布を持ちて、神をおひ奉るとて、うしほをはこびて、身うちきよめ、神木をきりて、此あらたへのきぬともろとも、むろね山にもり行奉るといへり。折壁、くまくら、千厩といふところに来りけり。いにしへ秀衡、千匹の馬を飼て、ちちのうまやのありしゆへ、此名聞へしといふは、いづこにかありけん。里人の云、いざ給へとて、川つたひに、千厩の趾、見に行たりしかば、石室ありけるをおしへたり。こはそのころ、造り給ひしなめり。うはつかたに蹄のあと残り侍るなど、あやしきことどもいひあへり。薄衣といふ処につく。ここに紺野なにがしといふ検断あり。頼朝くだり給ひしころより、此こといとなみていまに伝へたり。ちかきころまで、金売橘次が、こがねはからひし日記など持たりしを、火のためうせぬなど、くひてかたれり。検断ということは、笠置のいくさのころ、六波羅の両検断、糟谷三郎宗秋、隅田治良左衛門、五百あまりのもののふをひきて、宇治の平等院にいたると、軍のふみには書たれど、ここには、ひまちのをさをこそいへ、むかしくにぐにの座頭の坊、ゆききしげく、むまをこふゆへに、けんだんといふところを定めて、馬をいたしぬ。あまりうちしきるをりをりは、馬などはなくて、馬のかはりにとて、銭とらせける。其ことはに、「此うまやせて侍る」とて、つかわして、今も睦月の比、松の枝にぜにつらぬきて、人のもとにもていき、「やせ馬ながら」などいふことの、ここにあるのは、かのうまのしろに、ぜにすけなふやることはりに、やせる馬といひたるより、ことおこれりと、人のかたりぬ。此すくのいほそく、あまの衣といふものを、いたくひめて持たり。このゆへ、ここをうすきぬといふともいひ、又うすきぬ、をりいだしたりとも、ゆへまちまちに聞へたり。この紺野の長がやにとまりたり。あくるあした、やのあるじに書てやる。
  旅衣みはうすきぬの袖ながら床のよさむもしらて明ぬる

六日 朝とく面白川といふ処に行く。蛭石といふ真砂をひろひて火にうちくべたれば、ひとき、ふたきのひるとなりぬ。なべてこのあたり、はたつきたてむらの山をくの蛇形石、いしごとに、つぶつぶと、鱗かさなりぬ。けせんの松葉石、さくら石、ことなるものにこそ。この川のいろくずを見つついへり。
  秋風にさはしる鮎のすかたまておもしろ川の名にそおへぬる
よべのやにかへりて、ここを出たつ。屋毎に女ならびて、わくらといふものに、こもれるまゆの糸引て、くりかへしくりかへし、右のたふさもて、打音かまびすし。
 葛西城の址を、ゆん手に見つつ、小川ひとつこえて川崎といふ処に行て、清悦の墳たづぬれば、「斉藤なにがしといふ人の軒ちかく白檀の生ひしけり下也」とおしへたり。かくて、其ところに至れば、ある人、あないして、「この清悦坊は、義経につきそひ奉りてよりあやしのいろくすをくひて、いのちながらへて、寛永七年の夏まで世にありて、ここにいたりて身まかりて侍るよしを伝へ聞て侍る。
 又こと処にも、清悦の塚あれど、いつはりにてやんはんべらん」といひて別たり。門崎といふ処にいでて、松川のうまや、相川の村を過て、■(にんべん+舞)草村にかかりて、■(にんべん+舞)草社をとへば、山の頂に、くわんおむぼさちの御堂なりとも、又こと処にもと、さたせり。かみ川を船より渡りて、作の瀬といふところに来けり。くれちかふなりて、山の目の里に出で、大槻のやにつく。

七日 よべよりて雨いたくふりてひねもすふりてけり。清古とみなることありて垣のとなりに行てやにはあらざりければ、つれづれとおもひつつけぬ。
  聞やいかに籬へたててゆふまくれ人まつむしのぬれてなく音を
といふうたやうたるかへしに清古、
  きくたひにえやはしのはん此ゆふべ人まつむしの雨になく音を

八日 道遠の翁、住かたに行とて、ここに来けり、此夕歌よむで、夜もいたくふけぬ。

九日 道遠「雨やふりこん、とくせなん」とて帰行けり。

十日 あした、きのふより雨猶ふる。ちかとなりのかたなりける、つわ子のもとより、立ふみに書て、
  よすかなき衣の里の草まくらむすふかりねの露やこぼれん
といふこと聞へければ、かへし、
  たよりある衣の里のたひまくらむすぶもあかす幾夜かさねて

十一日 松島の月見んと、かねてものしたれば、けふはいてたたんとおもふに、桃生郡なりける。有隣のかりより、猶そのこといひて、文の来りければ、いとうれしともうれしく、いざといふに、あるじ清雄、清古など、なが月のつきはかならず、かみ川にのぞまんになど、ねもころに聞へて、きよふるの云、しばしの別かれながら、ほいなく侍るとてかく、
  立かへりほす日をかそへまつしまやよるへも浪に袖ぬるるとも
  いさともにゆかましものをいたつらに身のうき雲のかかるわりなさ
といへるこころを聞て、
  月やどすおしまのあまのぬれ衣ほすまも浪のたちかへりこん
  おもひやれこころ斗はいさなはん名残おしまのけさの旅出に
 一の関のうまやの、清井川といふ小河をわたりて、鬼死骸といへる処にて、道ふみあやまちて、竹沢より、まめやかなる男あるをたのんで、あなひながら馬ひかせて、細みちをくれば、真萩、むら萩、みだれ咲たる中を、此馬に、あぶ、はへ、いたくかかりたるを、くるしみて、身をふるはして、おどりおどり行ほどに、花も露もしどろにこぼれたり。
  行駒よこころしてふめ秣かる人たにわけぬ野辺のはきはら
金沢のうまやに出たり。馬よりおりて、いとほそきみちをくれば、うないら塘のうへにはらばへおりて、いざここの、こがね花とらんといひて、女郎花をいたく折たるはおかし。ここのならひとて、をみなへしをこがね花といへりければ、
  みちのくの山いかならんここにしも秋をときとやこかね花咲く
はたみちまよひて、それとわけかたく、身もいたくころじたればいこふ。
  秋の野にかたふくくさのそれだにも猶わけゆかんたよりとそみる
涌津といふ名をくれば、あやしのやどに、女のいとくりかへして、いとなみければ、
  しつの女かかへすちちわくつきせしな手ひきの糸の絶えぬかきりは
日くれはて、たとるたとる石越村に至りて、道遠のすみかに入りて、夕のうたありしをかたる。
  くれにけり里はいつことたたすめはいとと身にしむ野路の秋風
あるじ聞ておなじすぢをとて、
  秋霧のたちかくすにそ入相の、かねをたよりにたとる旅人
かかるこころにやあらん、などいひあへり。くすし千葉胤?と聞へし人のいへりけるうたに、
  思ひやる秋のゆふへのさひしきに野路ふみわくる人のこころを
この返し、
  夕間くれわけこしうさもわすられて、こころなくさむわかのともとち

十二日 いまたまくらもはたで、
  草まくら旅とはいへどしるへあれはこころもとけてむすふ嬉しさ
とこたへは、道遠、まくらもたげてこたへに云、
  われも又、をなじたひねの草まくらとはれて友にむすふうれしさ
あれもかりにふすところなれば、かくはいたしといへり。
やおらおきいづれば、雨ふり来ければ、えいでたたずしておれり。

十三日 このところを出んといへば、道遠しはしと庭もせにさきたるわすれ草を見つつ、
  くさの名のそのわするてふ名におはで又とひ来ませしつか庵に
となんいへりければかへし
  うき旅のおもひもここにわすれ草からはや又もあかぬひと夜よ
広道てふ人、月見はてなば必ずここになどいひて
  又ここにとひこん人を松島やおしまの月にさそはるるとも
かへし
  旅衣日数かさねすかへりこんおしまの月におもひたつとも
村の長なりける、小野寺なにがしのかきねの中に、はこいし、又石神と唱ふは、遠流志別石神といへばまうでぬ。風のさと吹き来れば、よみて奉る。
  たてまつるぬさはいづこにさそはれしやま風おろし石わけの神
いとわかき女の立るに、そでなしきたる男、手してすべきやうを、おしへたるは、耳聞へず、口かたらざる、いみじきかたはなりけり、ここの名を口梨といふと聞きて
  よそめにはいろこそわかぬ女郎花そのくちなしのなれるすかたは
石森といふむまやをいでて、登米の郡に入て山路にかかりて、さくら岡といふところにくれば、花ことにおもしろくて、
  春はいかに秋もちくさのさくら岡すむ里の子にいさこととわん
北上川をわたりて、桃生郡につく、六のみやしろをとへば、飯埜山の神は飯野村、日高見神は紫大明神と申て、太田村にと里人のいへり。けふひねもす、ひちりこをわたりて、くれ近にからくして、寺崎といふ処に宿つく、(紫明神宮城郡にも在り)

十四日 朝とく風出て、ふり来ければ、雨つつみしていでたり。みちいささか出て、鹿股(カノマタ)にくれば、有隣は石の巻てふ処にと聞へぬれば、いで其やとて、しばしありてここを出たり、籬のとまで萩のこぼれ出で、おかしくさきたれば、かのまたといふことをよめる。
  あかさりし此萩のとはいつるともなれしおしかのまたやとひこん
やや雨もはれて、蛇田といふ村に来けり。牡鹿郡十のおましのひとつ、曾波の神といふみやまは、ひらかま伏せたるがごとし、かくて石の巻になりぬ、
  雨露にぬれしもうれし旅衣そてのわたりの月やとさなん
こよひの月を、佐藤暉道のやに、有隣の翁と共に見たり、
  あすも又月にしきねん旅衣そてのわたりのまつよひのそら

十五日 はくろの神にまうで奉る。是なん鳥屋神社にておましませり。又零羊崎(ヒツチサキ)の神は、直野のむらといふといへば、今は摩鬼てふ山のいたたきにあがめてけり。鹿島御児(カシマミコ)は、門脇というなる、日好(ヒヨリ)山におましぬなど、人に聞たり。里のかたはらの、たかとの、やうなるものに、けぶりあがりたるは、仙台通宝といふめるけたなるぜにをものせり。こよひの月をまつしまに見むとかねておもふに、はれたるは、ほいとげたるおもひしていづるに、有隣よんべのかへしとて、
  思ひ出は又とめこかし庭せはみまかきの萩のいろうすくとも
かくいへり、相模のうたと聞へしは、
  みちのくの袖のわたりのなみた川こころのうちになかれてそすむ
かかるところは、此すみよし(大島神社)みまへのわたりといひ、桃生郡横川村に衣川の裾に、袖の山、袖の渡、あるもにつかはし、又あふくま川の辺、藤湯の渡をいふといへり。柳目矢本小野にいたる。三股神社はここにありといへど、鹿股にいふ熊野の社とて、川へたいとふるき槻の、ここら立たるを、ぜにせんとある人のいへり。
 馬とくはせて、高城といふ、すくをへて、松島かはかり見つつ、かくて竜月庵といふ御寺にしるべし入ば、あるじのぜしは、大寺にといへば、青竜山瑞厳寺にまうでて、こよひはここにと、ねもころに聞へ給へど、月にまほならぬところなれば、夕より雄島にいかんと、霧けきあし原のみちをかい分て、渡月橋と名のりし橋ひとつわたりて、庵二つあるひとつには、そみかくだねんぶちをとなへ、かねをならしてをれり。かしこの板じきに居てむかへば、月は雲がくりて、のぼりたるとおもふに、島松のはさまよりあらはれたるは、えもいはんかたなし。
  見る人はいかにおしまのこよひかなたくひもくまもなみのへの月
松島やおしまのあまの秋の袖と、ふるきことのは、おもはれて、
  こころあるおしまのあまの数ならてなみかけ衣月そやとれる
しまかげのほのぐらきかたには、いさり火もやして、小舟さしめぐるは、すずき釣りありくといふめるに、
  月こよひつりするあまのいとすちもあらはれわたるかけのくまなき
この月てれるかぎりは、ひとりなめらかなる笞のうへに箕居して、こは、松島やおしまのちどり声うらむらん。おちかへりなくに、むら雲のひまより、もれ出る月のあはれさ。いく夕こと処に見たらんに、つゆ似るべうけしきもなふ、ただ此夜の長かれとのみおもふに、月は島かげにかぐろへば、ほいなふ、もりこんかたもやと、おなじすぢをいで来て、又橋の上に、もの思ひこころひかるるは、此月のあればなりけり。磯や磯やの戸ぼそも、いまだささで、人のけはひしたるは、月やおしむらんと、こころにくし、やをら、空のくらくなれば、しばしのまくらとらんと、みてらのかど、をとづれていれば、あけんと告るとりがねに、みずきやうやがてはしまりぬ。

十六日 つとめて、あたり見ありく。此御寺はいにしへ、天台の僧侶すんで、松島寺といひけるを、時頼入道すぎやうのころ、ある夕ぐれここにとひて、ひと夜をこひ給ふに、あるじの僧たよりなふいひなして、ゆるさざりければ、御寺の軒をくだり給ふに、あやしのいはやの中に、だるまのながれをしとふ法師ならん。あさの衣の袖をかづきて、ひざをむすんですみけるに、時頼とぶらひて、こはたそ、しかしかにさぶらふとのたまへば、法師の衣、雨露のをそれ侍らん。こよひはここにひざを入てあかし給へとて、夜と共にかたらひて、あくれば別れ給ふ。此法師は、まかべといふ処に生れて、平四郎と聞へし人にて、みづからかみをきりて法身となのり給ふ。やがて、もろこしにわたりて帰給ふければ、時頼入道はからひ給ひて、天台の僧侶、のこりなふ追ひ出して、此法身上人をすませ給ふ。上人はじめてみてらに入給ふの日、まつすひをとりてこえうちあげて、遠上経山分風月、皈開円満大道場、法身透得無一物、元是真壁平四郎、かくとなへ給ひしとなん。庭の面に、みてらをおほふ年ふる松は、くんづかさ政宗きみと聞へ給ひしが植給ひて、
  松島の松の齢もこの寺の末さかへなんとしはふるとも
となんよみ給ひけるとか。法身屈又無相といふいはやは、かの上人のふる蹟にして、今はみほとけを入たり、かかる岩穴は、よね調度のたぐひを納るまで、いはほをきりわかち、戸びらをかけてならびたり。かく見ありきて、帰さ、ふたたびといひて、円仁の作給ふ五大堂にまうでん。
 みまへに二ツわたしたる、二つある梭橋を松陰の橋といふとも、又おしまの、よんべわたりし板橋をともいへり。松島にかかれるなみのしがらみと、見ゆるは、藤のさかりなりけり、と聞へたる処にて、藤もいと多く、島もさかへて、ここをのみ松島といひしか、いにしへは、此あたりは、山にて、今のしまじまなきところに、ここらの島いで来て、はるけきいにしへのながめに及べうもあらじと、ふるきうつしえにたくへて、人のいへど、天のなせるわざにて、かかる処も、世中にあるかなと、かなたこなたをありきて、天童庵といふ寺に入ば、ひんがしの面は、かたのうらとて、つるのあそびたるは、うたみたらんがことし、又浜路に出て、しまじまの見やらるるは、いとまばゆきまで目をおどろかしたり。
 かかるみる離めるべうここちもなけれど、今ことかたよりとて出ぬ。観瀾亭とて、あしがき、めぐりにいひまはしなるは、秀吉ぎみ、ふじみのあづまやと聞へたるを、むさしの君より国のかみに給はりしを、今ここにうつし給ふけるといへり。うちうちのしつらひ、きよらをつくして、雨奇晴好といふめる額、ありけるよしを人のいへり。又雄島にいたれり、日本武尊此島に入給ひてより、御島と記し来けり、見仏上人このしまに、ほくえきやう六万部すんじ給ふたる比かまくらより、ちもとの松をたまはりしより松島と書たり。いにしへは待島とか、かの松は、かばかり残りぬ、もろこしの寧一山禅師書給ひし、草行の碑あり、こはかまくらに住給ふの比、見仏の身まかりしのち、上人のうへを書たるを、■孤雲の二人の僧立てたりしとか。見るものの眼を、うちおどろかひたり。高さ七尺あまりにして、文字のいと多ければ、みなかひもらしたり。
 この庵にやすらへば、たふとげに、ぬかづくかたはくろくすすけたるやくしぶちの立給ふは、此みぐし計り、円仁作り給ふとなん。かかる人、多くこころざし、まうでたるにはあらじ、此島のながめにひかれて、いやをがみたるもおかし。
 待えたる小舟の、きしによせたるにのりて、なに島、かしまと、島の名をかぞへつつちひさき島のあはひあはひ漕めぐらして見つつ行に、年頃の願果したり。まことに世中にたとへつべうかたもなふ、かかるしづ山賤らが、ながめには、ゆるさるまじきところかなと、おそれつつしみふすここちせられて、舟のうちにこぞりて、ものいふ人もなふ、まもりつつただしれにしれて、来しかた行末の浪路を、はるばると見やれば、画かくはこころのいたりすくなからん。まなこのいたらんかぎりは、いささかのくまものこらず、こぎめぐらして、かたくななるこころのながめさへ、めをおどろかすばかり。
ふねのときことを、ねたう思うに、しほがまのうらちかづき、籬が島とて、神垣あるささやかの島をいへり。今は、きしたかく、梅の花貝もなしといへり。又ある人のいはく、しまてふしまも、みな波にやぶれてささやかになりて、梅の花貝も、いまは内裏島にのみ、うちあげぬ。ここに七浦八崎八島といへり、たかのすの浦、ふたまたの浦、笹の入浦、まないたの浦、大木戸の浦、もとよしの浦、藤倉の浦、これを七浦といひしが、今はあげ田、くぼ田となれり、てらが崎、尾島が崎、びわがさき、はらひがさき、大黒崎、小黒崎、小黒崎、鳶がさき、女郎が崎、八崎といふ、八ツの崎とは、まがきがしま、みるの小島、ひきの小島、又一疋しまともいふとか、内裏島、きささきしま、へびしま、みやこ島、はたが島、こは、よろひしまにつづきて、旗が島ならんと、その人のかたりぬ。ほどなふ磯やちかくなりぬ。ここをいにしへは、七曲の水門(ミト)といひて、神の渡給ひしといへり。
 漂濡の中にふねを入ておりぬ、まづ神にまうでんとて、うしほをむすんで、みちのかたはらのみやしろ有けるに、ぬか奉れば、み垣の中に、大なる釜四つをすへたり。其いにしへ、七つありけるを、いづちにかぬすみもて行て、今は此よつになれり。西南のあはひなる、かばかりちいさきを、御台のかまといへり。おだいとは、ここのならひにて、たふとむかたにいひならはしたり。
 あがりたる世に、うちよる藻をかひあつめて、藻塩を焼そめ給ひて、又此釜にうしほを煎給ふことを、かうがへたまひ、今の世まで国々にしけり。
 
 

はしわのわかば 続(仮題) 続
 



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2002.12.24
2002.12.27  Hsato