菅江真澄

はしわのわかば 続(仮題)A


ふん月六日 まがきが島より汐をくんで、かかる四つのかまの、水くみかへ給ふける。其あらふ時は、藤かづらにてとぎみがくとぞ、側のちまたに、うすつく女の、うたふを聞ば、「しほがまは、もとは七口の釜なれど、三口ひかれて、しくの塩がま」と、こえごえにうちあげたるもおかしふおぼゆ。
やごとの軒には、花にひろめを作り、いろいろに、しとぎをそめてうる。はるかなるみさかをのぼりて、みまへにいたる。かしこくも、此みづがきのうちにあがめ奉るは、いざなぎのみことのみこにましまして、みくまのの浦なる、塩屋の王子にひとしくわたらせ給ひて、其みなは、猿田彦岐神、■勝国勝長狭神と、をなじくとなへ奉る。はじめて世中に、しほ焼ことをつたへ給ひしいさおしより、しほづづのおぢとあがめ奉れり。
 此神のおほんとこにて、海なき国々、たか山の末、みじか山のすえまでも、あら汐をやきて、もてはこびあさな、ゆふなめやすくなめて、いのちをのぶるはみなこれ、しほづづのおぢの、おほんめぐみにあらずや。今は人のこころもまめならず、ことごとのおしへにひかれて、あらぬすじをのみたふとみて、かかる神のおましもよそに、かみのおほん名さへしる人まれなり。
 嵯峨のみかどのおほんとき、弘仁三年壬辰七月十日、しほがまの神に、従二位を給はりぬ。こはこの国の一つの宮にましまして、今は正一位を給ふ。
 ひんがしのかたには太田命、岐神、猿田彦、塩土翁、事勝国勝命を六所明神といはひ、北の方の左りには、武甕槌命、右ハ経津主命なり、末のみやしろといふは東宮(花淵のはまにちかし)鼻節神、(武内の神にして、あら磯へた、花ぶぢのはままします)柏木南宮、(里の名にいふ)冠川神、(式内の神、志波彦といふなる、岩切といふところなる、冠川のへに在り)北宮籬の島社、大根社、荒脛の神、梅の宮、浮島社、小刀社、大臣社、(河原の左り、おほいもうちきみのみたまをうつし祭る)
 是を、十四の社とて、此玉がきのとにおましあり。ぬさとりはててみ坂をくだる。てちの宝塔あり、ひらきたる戸の右おもてに、文治三年和泉三郎寄進としるしたり。こはいをとせのむかし、おもひ出られたり。ここを右手に、七曲といふ坂をくだりて、五大堂に見し橋にひとしく、おさあめるごとく、横木間遠にならべたる橋をわたる。是を御台の橋、をたへのはしといふ。
 志田郡古川のむまやと聞へしは、いづれかあらん。かかるいとまなみ、ひきかふ馬うしもことはしよりわたして、いにしへより、ことなる橋を、つくりもかへず、のこりたるもあやし。やのうちに藤策(フヂムチ)の社、むちさせる処、又塩つけはこびし牛の、ふして石となれり。人ごとにうし石といへり。おふたるふぢのむちをさしたるが、枝葉いでしと、今は枯たり。ここを嘉森甫出波摩とて、波のよりたる処なりけり。今は町なみたちて、家居しげうなりたるなど、うしひきし童を、和賀佐彦とて、七つのおのこなり。よだれかけてふものに、袖はちまきといふものをし給ひしゆへ、今も、此浦のわらべに、袖はち巻、よだれかけをせずとなん、人のいへり。
 此夕、月のためよければ、磯辺ちかふ宿とる。猶、海へたに出ありきて、今はしほやくあまもなければ、月はいにしへの空に、かけまさりたらんとおぼゆ。
  しほかまのけふりくもらていさよひの月こそみつれちかのうらなみ
猶磯ちかくめぐりありきて
  めもはるにたどりしなみのをちかたも月にはちかのしほかまの浦
やの女のわらば、しらなみのおそ川あれば、やごとにとくふし侍る。いまは戸さしぬなど、いひ来りければ、せんすべなふかへりぬ。

十七日 あしたにぬさたいまつる。おほんかんわざは、いついつにありきと、みやつこにとへば、正月廿八日、三月十日、七月十日に侍れど、むつきのかんわざは、しほみのみちくるときをかぎりて、みてぐらのつかにて、水垣のうちに塩まき給ふ。是をおもきいもひして奉り給ふとならん。藤塚知明のやをとふらひてまみへぬ。金華楼といふたかどのに、のほりて見れば、黄金山のいたたきは、小笠ふせたらんごとく、山あひにすりたるかたにひとしく、雲きりのうへに、はるけく見やりたり。
  軒ちかくこかねの花をみちのくの山のかひある宿のたのしさ
此神につかうまつり給ふ金光明山法蓮密寺のみまへを、右にくだりてよべの宿にかへりぬ。なべてこのあたりの御山を、一森といへりとか。

十八日 ふたたびここにといひて、けふ萩見にいでんとて出たつ。知明の云
  宮城野の月にそおもふ旅衣かたしく袖の萩かはなすり
と聞へたるかへしをせり
  みやきのの萩のさかりのつゆわけん人のことはの花をしるへに
やがて奏社のみまへにぬさとりぬ。此みまへをいささかあゆみて、市川村に至りて、壺碑はいづこといへば、菱うるわらばの、みちびきせり。
「うけひのかは遠からめやはみちのくの、つぼのいしぶみ」などずしかへしかへして、かくてつきぬれば、浮島邑のさかひに、ちまたの仏の御堂見たらんがごとに、かわらふきたるあつまやに、こうしたてて鎖ざせり。その内をのぞけば、『去京一千五百里、去蝦夷国界一百二十里、去常陸国界四百十二里、去下野国界二百七十四里、去靺鞨国三千里、此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将軍従四位上、勲四等大野朝臣東人之置所也、天平宝宇六年歳次壬寅参議東海東山節度使、四位上仁部省卿、兼按察使鎮守府将軍藤原恵美朝臣朝■(アサカリ)修造也、天平宝字六年十一月一日』うへなるところには西といふ文字をすへて多賀城と書たり。
 神亀のはじめは、聖武天皇のみくらいにつき給ふのとし也。大野東人は大野あそ多賀麻呂の子なりけるゆへ、たがの城なりけるか。又いふ、
 多賀城ありし処は、今は賀瀬といふところにして大野の東人鎮守府将軍たりしとき、ちかつあふみの国、大上郡多賀のみやしろを、うつし祭りしゆへ、その名聞へしとも、天平宝宇六年は、あはぢの廃帝の四とせにあたりけり。あさかりは、恵美押勝の五男にあたれり、此城の壺の中に建たる石ふみ也、鴻の名ありし処はいづこならん。
  いまも世につぼの石文見てそ思ふかきもつくさてのこるいにしへ
此のほとりの小川を玉川といひき。玉川寺といふ寺の聞へたればなり。南部にながるるは、いかがあらん。
 岩といふところより山際に十■(くさかんむり+府)の菅生ありけると聞て、尋ねたるに、十膚ヶ入といふ処にしげりたる菅のかたはらにささやかなる家ありけるは菅守がやにて、くにのかみ、さだめおき給ふとか、「みちのくのとふのすかこもならふには、きみをねさせて」とは、竹かるわらばもくちづさみぬ。
  みちのくのとふの菅守やとからんいふせき庵のみふにぬるとも
ある人の云、利府は「みちのくや春松島のうは霞しはしなこその関路にそ見」るこのうたあれば、なこその関といひ、又十府ならん。利のもんじとしとよめば、利根てふ川の名もしかり、かく聞ふれば利府をとふといふことうべならんとか。
 冠川の神のおましのこなたに、青麻(アヲサ)ごんげんとて、ひたち房海尊を祭る社あるに行みちにささやかなる橋二つありて三つといはんを
  あやうしと見ゆるとたへの丸木はしまつほとかかるもの思ふらん
と聞へしを、今は戸絶のはしといはで、ととろきのみおしへたり、燕沢といふ処の小竹おほひしげりし中に牧島のくわんおんとて、ちいさき御堂のかたはらに、松島の瑞厳寺の五世天嶺和尚みずきやうくやうのこと書たる碑のうらおもてに、めとをき文字をあつめて、
『夫呂ノ直宜(フカ)兼巣也足益■■の、人北刺中砥弔止鬼元舟鹿牛後殞矣弘安五玄野新祥仲秋二十日彼岸終里末清俊謹撰』と書て、一円桐のうちに、梵字をえりたるなりけり。こは元のいくさあまたわがくにに来り、ほろびたるそのためとてその国の法師此国に来りてかまくらに行て円覚寺に至り、仏光禅師、元の人にておましければ、世をしのび書き給へとて兵らがあととふらいしならんとぞ。よみがたきをかうがへて、知明のよみし文あり。天嶺上人もそのこころをしりて、あととぶらひ給ふこころにや。そかうちにものかひ給ひならん。あないの男、「此石ふみの、ななめにむきたるは、もろこしゆかしとやおもふらん、なをしてもしても、かくよこざまにのみむかはせ給ふ」といへり。小鶴といふ処あり。むかし小つるが池といひしは、あとかたもなくて、仙台になりて原の町より宮城野に出たり。今はいきすのはらといふ。むかしは真萩、しらはぎ、みだり咲て、めざましきあまりに、根こしもて、十二合のうつほに入て都にもてのぼり給ひしといひつたふるに今はしら萩もいろまじりたるもいろよきもなふただおばなにまじりて咲たる、かなたこなたに見えたるは、つねに見ならひたるいろながらも、うちすぎがたくいこふ。
  家つとにかざざん萩のはなさかりおりもこそあれ宮城野の原
今すぎける原の町といふ里も、むかしは宮城野にて、又もとあらのこはぎありし処は、本荒町てふ里となりてけり。その外はみな、はたけとなりてけり。その外はみな、はたけとなりて、あは穂稗穂に、袖をすりぬ。そらのうちくもりたる。げにやくるるおもひして、虫のここら聞へたるに、花のいろいろ虫のこえごえと、うちすぎがたきに秋風さと吹来て萩おみなへしもゆらゆらとなびくにすずむしの二声三声鳴出たるにうたひこちて草かる男ありければ
  みやき野をかりなつくしそ鈴虫のふるえの萩やめてて鳴まし
文月はじめの比は此あたりいつくしうしてすず虫をとりえて、むさしに奉り給ふとて、人に守せ給へば、なかなか旅人などのめやすくさし入らんことかたしなど草刈のかたれり。
 野間が前、梅塚といふ処を、細道をあゆみ、木の下にいたる。薬師ぶちの御堂あり。天平九年に建たるとかや。いにしへは御堂あまたと聞へしが今わづかに白山社薬師堂ばかり見へたり。このあたりは、木々おほひ枝さしかはし、しげりあひて日かげいささかもるかたなふまことや「みさむらい、みかさと申せみやきのの木の下つゆは雨にまされり」といへば、つらゆきのしるしたりける古今集に聞へしは、ならの落葉の雨にまされりといひて、肥後の国なにかしはちかきころ此処のならの実ひろひ家づとにもて行けるよし、人のいへり、しばし見めぐりて
  たび衣木のした露にいさぬれん菅のおかさもとらてきにけり
神明社あり。天神の社、釈迦仏あり。ここをさして躑躅が岡といふ、「あぜみ花さく」と聞へしは馬酔木又羊躑躅といふ。あせみはたまたま此あたりの人のやにうへたり。玉田横野は小田原とて、五智のみほとけのおましの辺に、わづかに田となれり。「ぬさとめぬ玉田よこ野の秋風にみたるる露をみかく月がけ」と聞へしが、ばせをの辻といふなる処に出て、市中を来はてて、へだててながるるを、青葉川といひ又の名を翠羽川といへり。
  この河名さへ広瀬にところえて、魚もたのしむこころをやしる
かく聞えしは、中院中納言通躬卿のよみ給ふけるとなん。へたなる厳のつらに、不動尊をえりてけり。里人これはよし家のし給ふなどいひあへり。畠中盛雄のぬしを、とふらひて、やがてかへらむといふに、あるじ、
  わかれ行くみかはにわたす八橋のしもてにものをなほやおもはん
といふを聞てかへし、
  かへるともおもひわたらん八橋のしもてにかけし人のこころを
八幡の社に騎射ありけると聞て見に行たれば雨ふり出て、とくものしてはててければ、いそぎ国分町といふ処に出て宿とる。

十九日 きのふのすぢを来て
  けふも又あさ露わけてみやきのこはきにぬれん旅の衣手今市のほとりに、本の松ありと聞しはいづこにかありけん。くれちかきころ塩竈の浦に来けり。例の磯へたに出て、月まちをれり。六条の川原にたかどのをたてて、なにはの浦より汐をはこばせ給ひて、もてあそび給ひしも此浦のめでたさにやありけん。みちのくのいづくはあれど(ママ)ど、いにしへの人のことのはも、げにとやおもふ。今はしほやきてもはかばかしからねばさるわざもせねばと、あまのいへり。
  しほかまの浦のけふりに幾よよをたへてくもらぬ秋の夜の月

廿日 雨ふれば見んところも見でけふはくれたり。

廿一日 江塵が山といふにのぼれば、あつま屋のありけるを、畑波亭といふは雲の波けふりのこころにやあらん。又けぶりのなみにかすみしくのこころにやありけん。この屋のいたしきの中なる処に、なにの木のへんく(ママ)えたるに、をのづからなれる石の硯をすへたり。こは、こころのほりするごとに、ものかかん料にとて、知明のおきてけり。ここにのぞめば、うらこぐふねのほのみえてけるは、夕ぎりの籬のしまや是ならん。ただいづこはあれどと、ここにくれたり。
  秋の夜の月のひかりに雲もなみ霞もなみのしほかまのうら
あたこの社、あま神の社、いなりの社に、ぬきとりてかへりぬ。

廿二日 鴻羽の屋をとぶらはんとて牛石のほとりを過るとて、
  神垣にひかれしうしもふしておもふなれるいはほのうこきなき世を
かくて其家にいりてくれたり。

廿三日 あたり見ありく。むかし塩やき給ひし浦は、今香津といふ。又ひわが崎、藤浦にもしほやき場といふ処あり。雨いよよふれり。猶おちかたを見やりつつ
  あめの日はうらなみくらくほかまのありしむかしの俤そたつ

廿四日 成昭と共にちかきかぎり見に出たり、奥の細道といひしは、今のあづまみちといひて、「霧深き秋の野中のたまり水たへまかちなるこころにもあるかな」と、坂上是則の聞へ給ひし野中清水にかかりて松島に通ひたりしとなん。

廿五日 又いたらん、けふはここをかへらんといふに、知明、からうたつくりておくらんとていはく
 探勝遠游東奥州、奥東明月竟君留、覇図写去古今異、陳蹟詠来歌調幽、客夜嘗労江海夢、帰装既見雁鴻秋、遙知貴価洛陽紙、新着相伝不易求
 かくなんありける末の求といふ文字をことばの下におきてかへしを
  あまのかるみるめはつかしかへるなみ秋きり深く猶つつままく
又知明のいへらく
  家さくる旅にはあれとしかす賀のわたりも千家の浦とみらくに
此かへしをす。
  波とをくたちかへるともしかすかに通ふこころはちかのしほかま
知明の妻なりける瑤子のうたに
  きてかへる紅葉のにしきそれよりも月にそてらせ花のことのは
かへし、
  かへるさのつとにはいかかかたらなん月よ紅葉よ人のことのは
知明のいひけらく
 謝履虞登終不難 羽山奥水路漫漫 萍蹟元耳漂海内 鴻書未見下雲端 合浦題詩玉相映 狭江為客衣転単 回首瘴癘秋風少 遮莫明朝■(さんずい+足)別鞍
 このことの返しながらに
  かへりつつまたんおふちの駒もかなあしとくわたせきみかしつくら
知恵のうたありけるは
  行人をいかかととめん萩の山秋もにしきのはなのふるさと
返し
  萩の山はなのにしきのいろはあれとちかの浦波立はなれうき
ふたたび知明のいはく
  くさまくらたひ行人とおもへともまねくおはなに又かへりみつ
とありければ
  帰るともいかかわすれん秋の野にまねくおばなかもとの心は
又多賀城の瓦のやぶりたるを家づとにとて瓦にそへて知明
  風流たれかほりするいし瓦硯のうみの見るかひなくに
かく聞へたるに返し
  よしをなみかけてわすれし石かはら硯のうみのふかきこころを
維則てふ人からうたつくりて
  千里雲山駅路深 羨君本目好勝心 郷家反照墻前没 野寺鐘声楓外沈 明月誰知添客思 秋風幾処入行吟 白河城畔何時到 到(ママ)日依然滞■
 かくありける■の字もてかへし
  たのしさにこころとまりてふるさとのかへさはいつとしら川のせき
あるじ鴻羽ことはに
 秋夜道行塩竈浜、参州万里遠游人、石津親侶如相問、為報折腰苦世塵、といふなる人といふもてかへし、
  ふるさとの空に見るともあかさりし月にしのばんちかの浦人
此里のなごりとて、かなた、こなた、見ありくとて、磯輪をめぐれば、しほのひきしぞきたるあとにはあま人(かんじき)といふ、けたなる木の沓さしはきて、すじき、はも、たこのひぢりこの中に、ひれふりてありくをひろふにしほはひながら、ここらの人の、磯をかけてみちみてり。いろくずの、沖にいでんと、おどりあがれど、あし垣を、あなたよりこなたのきしに、わたいたれば、いをは、いささかもり行かたもなく、みなあぢかのうちにとりいれて、磯屋に持いづれば、里人あつまりてひとつふたつとて、あが家あが家にかひもていにけり。雨のふり出たれば、けふもえいでたたず、鴻羽のやにもの語してくれたり。

廿六日 あしたの間、ふるきあとみさぐらんとて、まづ尾島見に行に、おほん憩息(コシカケ)石、うしほの中に、ませゆひまわしたり。
 はらひがさきとは、しほづづのおぢ、日向の国、笠矢のみさきより、鰐にのりて、此ななわたのみとに、八重のくまぢを、はるばると、わけくだり給ひて、まづおほんはらひをし給ひしとなん。
 又けきやうし給ふたるところを、降臨石とてのこりぬ。尾島に行に、橋より行、又山かげよりも行と、みやこのつとには見へたれど、今は橋てふものなしといへば、汐のひきたらんにわたり給へ、弁才天女のほくらありけるなど人のいへり。
 ここを南にわけて、行行見れば、ここにも玉川とて、土橋のちいさきをいへり。過し比もありしにはいづれならむ。とふの菅こもいでし処を、つかころのはまにいひ、又なんぶにもあり、はた此郡にもいふたぐひ、いづこも多し。田の中なる道を行ば、くちたるあしのくきに、かへるのかはきたるを、つらぬきたるは、百舌鳥のはやにへといひけるものならん。
 沓さしてかへそふする、しほうりの翁の、ものしなすならん。むかし尋ねごといふ女の、ところまとひしも、かかるものにこそあなれ。里のわらば、是とらんとて来るを、しりなるうなひ、いざわれせんとあらそふ。おやのの翁ならん。
「なせぞ。いみじきぶすでこそあれ、露、身にたちても、つまはらみといふ。やまひいで来て、手の、むこむこと、はれあがりて、死ぬべうわずらうに、はやとりすてて」と、杖をふりてとどむ。
  をみなへしたてるをたれにしるへしてまつにくちぬるもすの草くき
かくいひつつ思和久の橋ちかしといへる。
 ほどなく留谷といふ村に来けり。ここにかへでの木、めぐりに立たるところあり。こは国のかみ、よしむらのきみとかや、植おかせ給ふたるとぞ、処の人のいへり。ここをいささかあゆみて、安倍のまつ橋とて、細きなかれにかけたるしばはしをさして、人のおしへたるは、安倍の軍おこりしころ、松をきりてわたしたるよりといふは是ならん。
  ふむもおし紅葉のにしきちりしきて人もかよはぬ慮(オモハク)のはし
とぞ、此しるしに、楓の三本たちぬ。ここを八幡邑に出て、末の松山を尋ね行ば、末の松山宝国寺といふ、臨済のみてらのしりべに、しかばね埋みたる処に、赤松五六本たてり。これをむかしのふる木の残りたる也。外はみなこと松也といひけるなり。
 見しなんぶの、なみうち坂といひしは、いかがあらん。むかしおなかたの原に、都の男来りて、
  みやこなる雄山へはほと遠したれにあはせんおなかたの原
とよみたりしかば、いとわかき女の、かほよきが、いづことなふあらはれて、こなたにといふまま、一夜やとりてより、いもせのかたらいをしてすみけるに、此男いつまでかかくあらんといへば、女末の松山に、なみのこへなんことあらば、別れなんといふに、しらさぎの一むら過るを、こはなみのこしぬらん、いかがせんとうちおどろけば、かたらひし女も、住みし家居もうせて、見し野はらとなりぬと聞へし。此ことの物語をおもひ出て、男女のあととぶらはんとて、清原元輔の、
  ちきりきなかたみに袖をしほりつつ末の松山浪こさしとはと
よみたりしなど、これかれのふみに、いろいろと聞へたり。おなかたてふはらは、末の松山の辺にありといへど、桃生郡深谷といふところの、広淵村にあり。いにしへここに、みやこよりひめみや、ひとところ来給ひて、井に落ちて死給ふを埋たる。そこをおなかたの原といふと、人のいへり。沖の石とて、ここらの岩の集たる、めぐりは沼水ふかく、みくり草あささに、水の面も見へず、おほひかくしたり。ここを
  おきのいし身をやくよりもかなしきは都嶌辺のわかれなりけり
と聞へし処ともいひ、南部にいふみやこなりとも、ちかの浦に、をくろ崎の辺に、都嶌ありてけれど、いとささやかなれば、宮戸といふはまならんと、人のいへり。やがて塩がまにかへりぬ。ここの東園寺に入たり、こは、いにしへ、多賀城のひんがしに、東園寺とて、あみだ仏をあがめたるとて、いま笠神といふ邑にあり。又ここを寺が崎というも、この東園寺あればなり。此のあたりの巌(イワヲ)も、みなうがちもちて、庫となせり。ここかしこ見ありくに、むら雨ふりてければ、やに入たり、舟子の出来て汐のみちきて侍る、とくとくといふままのりぬ。夕霧いささかたちて、あなたなる、松か浦島のほのみへたり。こは西院の后の、みくしおろさせ給ひて、をこなはせ給ひけるときかの院の中島の松をけづりて書つけ侍るとて、素性法師のよみ給ふけるうたに、
  音に聞く松か浦島けふそ見るむへ心あるあまも住ける
かくたとへ聞へ給ひしも、あなる島なりとおもふに、今はもはら松か浜とのみいひならはしたり。なみくらく立て、仄に見やらるるかたは、花淵の浜といふ。かかる処は、此郡の四の社、鼻節の神のおまし也。伊豆佐売ノ神社は、飯土井にありき。志波彦は冠川、多賀神社は坪の碑の辺におましあり。
 ふねとくおし出たるに、けぶり立のぼるは、よりさき、しみづはま、かつら島、藻塩をやくなるといふを、あなおかしと思ふに、舟子櫓おしまはして、「見たまへ、こは流寄たる磯藻、かい集て灰となし、汐くみ入てたりながるるを煎て侍るなるを、もしほといふ。此藻をやくけぶりにて侍る、いと、くらく見へたるは、といへば、のりあひたる中に、かへしかへし然こととふ女あれが、男のいはく、わこせハしほやきの女になり給ふや。そのすちを根深くものし給ふはといへばふねこぞりてどよめきわらふに、みさほとる翁「あがつまになりてよ、まだ奥ふかきわざもおしへ侍らん」といひつつ歯もなき口の、おとがひをはなちて笑ふ。日くれにくれて、しまなかをたどりたどり、船こげば、霧にへだだりて、こなた、かなたに、火かげ見へたるはいづこ。
  まつしまやおしまのいそに舟うけていさりやすらんあまの篝火
雄島、月見崎、びやうぶしま、おひはてて、この磯屋にとまる。

廿七日 大白峯天童庵にいたる。こよひはここにと、あるじのたまへば、この処に居る。この寺のむかしは、松島のもともはじめた、田村将軍の建給ひて、月見崎の坊、汀の坊とて、いらか二処にありて、是を松島の二つ寺と、人ごとにいひし汀の坊ならんか。みやちよといふわらば、あめよりやくだりけん。御島の庵の、見仏上人につかうまつりて、上人世をさり給へば、宮千代もかひけちたり。其童の塚あれ、いほりを天童といふとなん。又西行上人ここにいたりて、
  月にそふかつらおのこのかよひちに薄はらむはたか子なるらん
とよみ給ふを、わらばあらはれて「こはいかにぞや、われせばかく思ふと
  雨もふり霞もかかり霧もふるすすきはらむはたか子なるらん」
といひて、いづこにかさりぬ。このわらばへは、山王の神にて、わたらせ給ひしとなん。其みやちよも、此神にてぞおましましけるとぞ。ここに山王の御祠、石にて作れり。いつのころにか、ちりにうづみて、あともなかりしを、近きころ、ふみにのこしたる、ことばをしるべに尋ねて、ほり起し奉るといへり。又みやぎののひんがしに、ちいさきつかあり。是を「ちごかつか」といへり。いかなるちごにてかありしといへば、「松島寺に、いと、けさうなるちごあり、名をみやちよといふが、此野に来りて、ものおもひて死たりけるを、里人集りて、あといつくしく、かくしてここにしるしを建しかば、人、塚のほとりを過るごとに、ものいふ声のしければ、あやしみとどまりて聞に、「月はつゆ、つゆは草葉に宿かりて」と、いくたびもいひてやみぬ。あたりちかき人は、此ことを聞おぢて、通らざりけり。
 松島寺の徹翁上人、此塚のかたわらに休らひ給ふに、例のをさなき声に、「月はつゆ、つゆは草葉に宿かりて」と、ひたぶろにいひて、息ぐるしげに聞へたれば、徹翁口塚にあてて、「それこそそれよ宮城原のはら」と、のたまひければ、其声ふつに絶うせたりといへり。ここの、みやちよの物語とは、いづれがまめならん。此山おくに、西行もどしといふ処あるは、かつら男のうたゆへ、都にはぢてかへり給ひしと、童までいひてけり。

廿八日 小雨そぼふりて、はるべくけしきもなふ、島のかたを見れば、雁のはじめて鳴きたるは、いづこと思ふに、ここらのしほにへだてられて、声のみしたり。
  まちかきと声さへ見へずはつ雁のかぐろひわたる千松島山

廿九日 あしたより雨ふり、風おこりて、いなさより、ならひといふ風に、木のうら吹とばして、いみじきさはぎ也。あまたの島も、このかぜにしぶかれて行ここちせり、葉月もけふにくれし。


九月朔日 はれたり、瑞厳寺にまうでたり、此みてらは、いにしへ円仁ひらき給ひて、松島寺といひ、法身禅師入給ひしよりは、円福寺と聞へたり、其ころ、聖一国師、かたつかたの御眼、くらくおましましければ、此禅師のよみ給ふ、
  本来の面目えたら水母との蝦の眼に用事なかりけりやなこは、水母は、海蝦を仮りて眼とすと、ある経に書たるこころを、のたまひしとなり、又其こころ、たふれうた、聞へ給ひしは、
  あしなくて雲のはしるもあやしきに何をふまひて霞たつらん
とか、又不昧禅師(雲居和尚)のひらき給ひて、今のみてらとなりけるとなん。
 けふは僧達あまた、千島のくさひら、かりにいかんとて、いざなひ給ふ。其船にのる、やがて島てふ島に船よせて、まつだけ、はつたけ、しやうたんぬらりてふものなどいれて、あぢかにみちたり。ふねの中にて、あはせなどものして、湯づけくふ。さかづきとりどりに、塩がまの浦ちかくまで、こぎ出て、浜田といふ処にあがりて、水もらひて、茶ふちふちと煎つつくれば、夕くれちかく長浜を見やりたるに、世にたとへんかたもなきに、ゆくりなふ鹿の鳴出たるに
  松島の磯山かけにやどもかないさふねよせんさをしかのこえ
ふたたび、かかるたのしさは、いかがなどいふにこころなふ、したをやみなふ引に、おどろかされて、声とどめたり。此磯あがるとて
  ながめ捨てかへらんもおしなかなかにきりたちこめよ雄島松島
僧達のからうたあれども、ここにもらしぬ。

二日 しまの夕なぎ、いとおもしろし。

三日 けふは大沢てふ処なる海無量寺に、文溟禅師の、七とせの忌にあたり給ふを、とふらひの給ふにまうでんとて、あるじの上人とともに、雨つづみして出たり。
 浪あれ、浜の解脱院の真山地蔵大士は、むかし山の上に御堂ありし。中納言まさむねのきみ、島見に、船よそひし給ふて、「あなるいたたきのほとけはいかに」とのたまひければ、舟子ら「こは真山何かしといふもの、国々おひめぐりて、かしこの山にをさめたり」といふを聞給ひて、「かかるいやしきものも、こころざしありて、かくいみしきことしたり、われもいささかのくどこせん」とて、円福寺の、すたれたるをおこし建て、瑞厳寺とのたまひしとかや、今は道引地蔵といへり、そのゆへにや。
 竹の浦、法性院に、石女の塚といふあり。いかにといへば、享保の比、石髄禅師、たかむらの中より、長やかなる石ひとつとりて、やり水の橋にわたし給ふ。其夜ふし給ふむねをおさへて、「われはいはみの国の女なり、三十三年前なるとしここに死たり、其しるしの石はあがすがたなるを、いかに師は、わたして人にふませ給ふ」とて、いかりののしりて、おびやかしたり。禅師偈をつくりて、喝一こえし給へば、うちおどろき、あかしやうじけやぶりて、庭の面なる柏の梢にのぼり、かみうちみだれ、身をふるはして、あたりをにらみてさりぬ。禅師あくるを待て、ありとある法師を集て、女のなきたまをとぶらひ給ひしとなん。
 梅か浦の一華庵、梅の木いと多し、天神の祠あり。おしまにかかりて、見仏上人のつかのほとり見めぐれば、ほくえきやうすんじ給ひし、いはやのうちに、上人のみかたち、いけるが如く、石のつらにきざみなせるが、苔にとぢられてけり、見仏庵松■(口+金)庵にいたりぬ。俳諧の句ども記したる石ふみも、雨にそぼちて立たり。
 かすみが浦小石浜さくら岡にいたる、五葉庵に、十六の阿羅漢を瑪瑠もてつくりたるはめてたし。かくて福聚山につきたり。海無量寺の額は国のかみ綱村公かき給ふといふはいみじ。此寺の北なる、熊耳といふみねは、達磨大師あまくだりて八耳のみこ生れ給ふを、みそとせがほど、このところに待給ひ、のちいかるかやのうたよみ給ひしとなん。又さか仏くだり給ふ峯を、鷲が森といふ。かかるふることは、大聖経のこころならんか。
 ややおこなひもはてぬれば、かへるさに、三聖(天神、観音、達摩)堂の観音の御前を過る。軒端の梅といふありけるは、なみあれ浜に掃部といふとみうとありて、しなのの国の、善光寺にまうでかへるさに、白河のすくに宿る。相宿りのあき人は、いではの国、きさかたの男なり。なにくれと夜かたるに、かもんの云「あれに小太郎とて、十五になる男子ひとり」持たりといふ、あき人「あれも、わどの持給ひし年にひとしき娘あり。かほかたちいとよし」といふ、かもん「ねがはくば、むすめをわれに給ひ、小太郎にあはせん」といふに、「さあらばたばせん」とて、ちぎりてわかれぬ。あき人、やにかへりて、「よきむこがねをまうけたり、とくとくすべし」とすすむ、かもん家にかへるを、其妻「ただ待ちまちたり」とて、うちふして泣くことかぎりなし。「こはいかなること」と問へば、「小太郎いたはりつきて、身まかりし」とかたる。かもんおどろき、ともにふしまろび、おきもあがらずなきぬ。おりふしにいではの女、人にぐせられ来りて、此ことを聞きて、いかがせんとなみだにむせびたり。かもん「あがむすめにせん、小太郎あらじともここに」といへば、女「いまだあひ見ぬつまながら、かくおくれはて、世にあるここちなし」とて、やがて、かみをきりて、紅蓮といふ尼になりて、此観音のみまへに、小太郎が植たる梅のもとに、庵たてて住みけり。あるとし、
  うへおきしそのあるしこそ世にあらめ軒場の梅はさかずともあれ
といふうたよみければ、春ふかくなれど、花の咲かざりけるに、又うらみていはく、
  よし咲や花をあるじとなかむへし軒端の梅のあらんかきりは
といひけるに、もとのごとく、花いたく咲きてといへり。其尻のいとなみに、いつも冬くれば豆の粉に、よねをあはしたる仙袂(センヘイ)の、色青やかなるをうる、其ゆへならん。出羽みちのおくに、煎餅の名を、いま紅蓮といふなり。其梅もかれて、こと梅をうへたり。くれちかきころ、天童庵にいたりてむしの鳴たるを、
  嶋の名のまつとなのりてなく虫の声は千とせの秋もつかせし

四日 雨をやみなふひねもすふりて、くれ行ころ、しりなる山に鹿の鳴たればよそふ。

五日 申ひとつ斗に、雨はれたれば、五大明王のすかしはしにのぼりて、遠かに見やりたるはいとよし。此鐘に書きたるを見れば、越人恒一の手にて、雲居禅師の言葉なり。
 寺久廃兮境之荒地僻人稀古道場境大開兮寺大光地霊人傑古道場時未到機末応寂ヒ寥ヒ一仏乗鐘未鋳兮、楼未成夢裏明と有四生、楼巳架兮、鐘巳鳴、覚後空ヒ無四生、一声巨大界大千百八徹三十三天、流転夢覚打安眠昏■念滅得坐禅御島陰兮、瑞巌陽燿月映波、五大堂高歌一曲、祠君王千秋万歳、久昌ヒ寛永十九壬午孟春十五日、大檀越松平陸奥大守伊達華冑藤原朝臣忠宗公、前住妙心現住当山雲居製、大明国学士林天沢恒一居書、又明王の前に、ことなる鰐口あり、其めぐりに、乾元二年辛卯閏四月十日、松島五大堂草壁助安為災延命同勧進又五郎入道為息災延命敬白と書たりけるはめでたし。
 洲崎といふ処のやに男女の、仏のみまへにあつまりて、手毎にかねうちて「書瀉寺の僕のころものしらみとる。むかしのお僧今そ恋しきなもあみぶつ」とうたふは、雲居ねぶつとて、不昧禅師のつくり給ふとなん、此夕ぐれに、とりませていとあはれなり。

六日 あめはひるはれたり。五大明王のみまへの松のなかより見たる、いとまばゆし。やに桃かふ旅人あり、こは、もとめ安からじといへば、「ここは山王の神といひ給ふゆへ、桃麻はいでき侍らねば、よそよりもてきぬ。其ゆへは、此神幼とき、桃の木に麻のつなもて、たぶさとられたまへば、今の世までも、いみ侍る」といひあへりと。

七日 よんべより雨いたくふり、風は北より吹てはげし。けふここをいでいかんといへば、あるじの象外上人たまはりけることばに、
 愛君郷国路漫々 勝地探来此倚欄 泉石膏盲攀大白 風流豪傑厭人丸 隋珠趙璧■中掲 越水呉山掌上看 茣把朱絃催別去 知音遭遇古今難
となんありけるに、
  いくたひもこころひかれてとふらはんなにかないとのあふをかたきと
又上人わかれのうた作りていはく
  たちかへるなこりをしまの磯なみにぬるるたもとをいかにほさまし
  松島のはしの板間のへたつともおもひそわたれ月のゆふべは
  残しおく玉のことはのかすかすはこころをみかくたねとこそみぬ
かくあるにかへし、
  おもひ出て袖やぬらさんいかはかりなこりをしまの波のたちいに
  てる月におもひわたらん松島のはしの板間のへたてありとも
西風をやみなければ、えいかでやみぬ、此夕なぎに、福浦島に行といふ人あれば、ともにわたる。日は海にかたぶくに虹のたちたるはいふべくもあらで、おもしろければ
  むらさめのはれまを見せてちまつしま、いろとりわたる虹のかけ橋
からろおすわらば、「おんみしらぎく、うつろひやすいに、おれはうす雪、ふられても、あへばこころのみだるるに、いや、恋にいわえひ、そりや」とうたひ、ろほうしとりて、ふなばたをならすに、前なる子は、いききかのこともせず、こは、いかでかしちまにといへば、にしはおさなきより、おふな歌聞覚へてあれば、うたひてん、われはしらじとこたふ。国のかみ、おほんふなよそほひ、あるときは、とよめて、かちとりをはじめ、うたふを、聞ならひたる、をこのわらばなり。
 此さほのうたを聞つつ、福浦につく。此島のめくりは竹おひしげりたり。毒竜といふ庵あり。此庵に徂徠のことばとて、書のこしたるは、
 瓢笠軽乗一葉風 平砂扶杖興無窮 誰言清隠多枯淡 幾万琅■福浦中
 此くしのあるじの父、あが国、萩生邑より出たる人など、おもひつつくれば、ふるさとしきりにしのばれて、かかる島のながめもなににかせんとおもふに、あるじの僧、「見たまへ、是は天台の僧侶あつまりて、時頼入道を咒咀し奉りし地なり」など、くまぐまおしへたり。やをら畠つもの、舟に入て出ぬ。又「そなた思へば雨ふるよも、風のたつよも、おぼろ月夜も、やみの夜も、かよや名がたつ、かよはにやしんき」と、さほのうたうたふ。雄島の橋の上に、旅人三、四人、遠方みたるさま、いとおかし。
  うちつとひあさましきまて旅人の目をおとろかす千島松島
崎ちかくなれば、上弦の月さし出たるに、しまじまはうす墨にかきたらんにひとしく見やられて、八日空いとよければ、ふたたびとて天竜庵を出る、竜月庵なる臥雲上人、
  月ならば又めくりこんたひ人の、行衛もしらぬはなそのの山
とあるにかへし、
  旅衣うらかなしくもおもふかななれしおしまの月の余波に
高城の市をすぐる。此あたりに紫明神といふおましあり、松島をもり給ふおほん神とか、沖津彦をまつれり。ここにまうづる人、又あたりのものを、紫、露斗つけても、たたり給ふとて、せずなりぬ。
  しろたへのとよみてくらをとりもちていはひそ祭るむらさきののに
と、長能の聞へたるこころとは、ことなるか、しらじかし。ある男のさきに立てつつ、ささへやうなるに、うるしぬり、まきえしたるもの、おほひて持行、何の料にかといへばあがおやかた(兄のことをいふ也)の娘かんな月のころむかはされて行侍る、そのうつわ也。ここのならひとて、みなかかる油壺をさきにもち、けちかき処なりとも、菅笠をかつがせて娘をやりぬ。むこの家に至れば、まづ水を持出る。是を二口三口ものみて入るは、わが里のならはしとかたりもて、手樽といふに来る。ここを過て、右のかたの細路に入て、富山といふ処にいで、坂のぼりて、大仰寺といふ。みてらの軒よりのぞみたるに、しまてふ島は、沖つ鳥の波の上に集たるやう也。花ふし、松か浦島、あふくまがだけなどは、みどりにかすみたり。ありとあるかぎり、一目にみなしたるは、たくみたるつくりえに、いろどりたるさま、ひとしくめでたさは、たとへつべうかたなし。かかるいみじきながめにとみてや、つけたる名ならんといふ。裘きたる翁聞て、南にあたりて、すめる日は、ぶじの見ゆといふめる。富山のもんじ、書きけるとなん。又ことわざに松島の景は富にありといひならはしたり。このあぐらにとすすめけるまま、しばらくとどまりてかへらんぞとも、おぼへず見やられたり。
  松島やおしま塩竈うちつとひなみにたゆとふ遠の海面
むかし此寺の松下庵といふに、青山禅師すみ給ひけるに、国のかみ獅山公、入給ふよし聞へければ、ただまちに待給ふに、こたびはとどめ給ふといふ、おほんつかひ給ふければ、かかるあたら花をとて、
  花もよもあすしらつゆのうき身にもなにかさねてと松の下庵
とかきつかうまつり給へば、とのは、はらくろにのたまひて、「退院すべしとくとく」と仰あれば、上人つねに、杖わらくつを、床のはしらに掛給へば、これをとりて、さしはきて、小舟にさほさして、出行給ふに、ひんがしの山のいただきに、月の出たるを見たまひつつ、
  あこかれてわれはいている柴の戸に月こそやがていりかわるらめ
石浜といふ処に、しばし住給ひて、やがて都に行給ひしとなん、あるじの上人かたり給ふ。観音ぼさちのみまへをくだりて、上下堤といふ処を、もとのすちにいづれば、河水増りて、小野てふ処に、行ことかたしとて、家ひとつあるまへよりわたしたり。あらぬ山路を、人の行にまかせて行行に、何といふところならん。鳥居のもとにくれたり。いかなる神にておましありけるかと、かたはらの家にさし入りとふ。
「こは道祖神にて、いみじふたうとし」とこたふ、ゆくさきも見へず、宿とらんにも、かすべき人もなければ、ただいはくらの辺に、あかしもしてん、さちあらせたまへと、蹲りて、
  とるぬさのいろさへ見えすくれにけりみちひきたまへ神のまにまに
とよみて奉りて、笠しきてをれば、馬ひきくる男あり。いづちに行ならんとおもふに、あが行すぢをわくる嬉しさ、こをしるべにせよとて、神のたすけ給ふにやあらんと、此馬に、つつみなどあふせて、鈴のかすかなる音をたよりに、たどたどあゆみこうじて、戌ひとつ斗に、広淵てふすくにいでで此馬にわかれて、からくして宿とる。
  たれもけふたかきにのぼる袖ぬれんつゆおかのへに匂ふ白菊
家六、七あるは、おなかたの原といひしならん、女形の井とて清らなる水くむ女あり。昔ちぎりし女、此井にしづみたれば、男うちなげきつつ、此井の中を見れば、かの女のかたちあらわれしより、この水をおなかたの井、又原の名もしかりとか。此まへなるやに、例ならぬことあれば、井の水のいろ、ことになれりとぞ。ここをいささか、はなりて、末といふ村あるは、此ことは、末の松山にいひしふることなりけるに、又末といふところの、このちかとなりにありたるもおかし、こも末の松山といひしか。われ末の松山を見しことふたつ、又ここをさしていはばみつとやいはん。此あたりの山も、むかしもてはやせしか、さらに知る人もなし。又一戸の郡、なみうち坂といひて、みやきの郡にもあり、又此郡、此末は、いまだいふ人なけれど、ここをいはば本中末と、みちいはんも、おかしからんか。しかはあれど、われ、しりがほにせんも、かたはらいたければ、人にひめたり。やがて、つちわたといふと来けり。ここは牡鹿郡なれば、
  秋もややす衛野の真萩ふみしたき鳴やおしかの里に来にけり
ほどなふ石の巻にいでたり、けふは湊なる牧山の、おほんかんわざありて、行人みちもさりあへずしたり。このゆふべ、暉道のやにいねたり。

十日 ていけ、きのふにひとし。此夜もうたよみてふけたり。

十一日 ひねもす雨ふりてけり。

十二日 かの里なる有隣いたれり、こよひも雨降り来りぬ。

十三日 名におふこよひの月を、袖の渡に見んとて、いまだくれはてぬより、かしこにいかんとて、有隣(アリチカ)、暉道(ヨシミチ)、義質(ヨシマサ)にいざなはれて至りぬ、すみえの神、すさのおの神の水垣あり。ちいさき島には、弁才天女の祠あり。かたはらの巌には、なみ荒くうちあげてければ、行かふふねの、みなそこにまきいれぬべきここちせり。かかる渚あれば、ここを石の巻の名にながれたりけるとか。
 まづ大島の神(住吉をいう)にぬさとる。此北上のすそを。袖の渡といふ。あなたのきしを、みなとといふ。川づらのやにたく火は、星ほたるのごとし。そのあたりより、ふねよばふたび人の声、きぬたの音に、夜さむの衣しられたり。鮭とるあごのふね、あまたささと、波うちわけて、をしありくに、かひやられたるなみは、こがね、しらかねをくだきてのぼるやうに、そこの石ふしのすみかまで、あらわれたる月のくまなきに、
  長月のなにおふ月を旅衣袖の渡にやとしてそ見る
  つつむにもあまるこよひのうれしさは、袖のわたりの月見てそしる
ありちかいひけらく
  なかめ捨てねやにもいらし名にしおふ月も梢の秋のこよひは
  ぬるるともはらはてやみんおく露の袖の渡の秋の夜の月
てるみちのいへらく、
  秋ふくることのみおしと思ひきにこよひの月のなかめありしを
  川水のそこさへきよくうつろいて月やなかるる行末の秋
よしまさのいふ、
  おしめただ秋もこよひは長月の、名におふ月のはれてくまなき
いづことなふ、笛の聞へたるに、いかなるすきもののありてか、ものしてん、あなこころにくしといへば、ありちか、とりあへず、
  たれ秋の月のこよひ松風のひまより落るみねの笛の音
ととなへけるを聞て、われも
  こよひたれ月にこかれてふく笛の声すみわたる秋の川面
又川へたちかふ嘯出て
  なかき夜の名になかれても見るからに袖の渡の月そかたふく
ありちか、あがうちをおもひて聞えしは、
  ふる里の秋しのはましみちのくの袖の渡の月のよころは
と聞つつかへし、
  旅衣たちかへるともみちのくの袖の渡の月やしのはん
又よしまさの、
  旅衣いくめくりきてみちのくの袖の渡の月やみるらん
といへるにことふ、
  旅衣袖の渡の月みむといく春秋をかさね来にけり
いざかへりなん、とりやなきなんといひもて、住吉のみまへちかくいたりて、
  むかひみる月にこころはすみよしの神も嬉しとみそなはすらん
やおらやに入たり。

十四日 巳ひとつ斗、なへいたくふるふ。人々真野の萓原見に行にとて、いざなはれて、袖のわたりを舟よりして、井内をすぎて、大瓜といふ処あるは、むかし東善庵といふところにすみたる法師、軒につばくらめの、巣つくるを見おりて、ひとりくそまるを打まもりて、ましは年毎にいづこよりか来りて、かくはすむぞ、又のとしきなば、めづらかなる家つどを、つばさにかけてくべし、うつばりかしたるしろにせんと、つれづれのあまりいひたるに、その年いにて、又のはる、つばくらはねをふためかして、法師のかしらにさらず、はかぜ吹たててまふを、こはこぞたぶれごと、いひたる鳥ならん。そのこと知りたるにやあらん。觜に何ならんもて来るはとおもふに、をゆびの爪のおほきさの、瓜のたねをおとしたり、こは、いかなるもののはひなん、植て見よとて、小法師ばらに、おしへてければ、やがて、そのなへ出来て、庭もせにはいわたりて、花咲てけり。此つるに、ちいさき瓜のなるとおもふ、手まりほどになりぬ。又まくらほどになりて、又たはらほどになりて、是を七、八人してひとつの瓜をくらふに、うまきことものににず。此ことよもにきこへたれば、いざ寺の大瓜見む見むと、人来りて、ただ大瓜大瓜といひしまま、ここの名におへり。此ひとつ、里人ぬすみて、からうじてとりえて、その中なるところに、かつらを結び、竹をよこたへて、二人して持出ぬ。今の川ここになければ、やるべき舟もなふ、やや石の巻に持て出る。かたをはづらかして、うち落してやぶりしかば、その中より、ささやかなるくちなは、かずしらずはひ出てければ、ここらの人々うちおどろきて、とりあつめてつちにうづみ、つかにこめたり。そこをへびのたんといふ。今は蛇田といふ、村の名にいふとぞ。
 むかふ方の、山のかひよりかづの木のもみぢたるは、いとはやなどいひて、
  露時雨ふるよは幾夜旅まくらぬるての紅葉いろつきにけり
此山くろに、馬場てふむらに、零羊崎(ヒツチサキ)神の社あり、みちのかなた、こなたみな真野の萓原なりしを、かかる田畠となりにし、むかしをいへり。舎那山長谷寺とて、安倍貞任、又藤原秀衡の、建たるといふ観音のみまへに、ささやかなる池のうちの、こたかき処に、片葉の芦、たかかや、など残りたり、俊頼の「よもすからままのかや原さへさへて池の汀も」など聞へしも、かくありしにや、又ふるきうたに、
  みちのくのまののかやはらとをけれとおもかけにしてみゆといふものを
と、ひとりこたれてうたふ、
  わけえすはつゆふかくともしら菅の真野のかやはらをもかけにみん
  ふるさとを夢にもこよひみちのくの真野のかやはらいさかりねせん
又いはく、  有隣
  俤の残るはかりに秋きりの、たちこめてけりまののかやはら
又、      暉道
  つゆしきて一夜はここにかりねせん、俤そふる真野のかやはら
又、      義質
  たれも世にむかしをしのぶならはしと真野のかや原わけつくすらん
かく人々のよめるを聞て、われもまた、
  かへるさの月をもやどせつゆふかき真野のかやはらわけしたもとに
 ここに日のくれたれば、みてらに入て、あるじの上人に音つれて、軒ちかくありて、月の見へしをめでで、
  てる月に真夏のかやはら分けくれし、世々のむかしの俤そたつ
又ありちかのいへりけるうたに、
  おく露の葉ことに月をいかて見んまののかやはらわけつくさすは
戌のくたちあまりに、やにかへりたり。

十五日 あらたに作りたる船を、海におろすとて、中瀬といふ洲崎より、舟に縄をかまへて、人あまたのりて、やぐら、うち叩て、どよめきよばふ。ふねのしたには、しゆらといふものをしき、ころばしてふものに、めぐらして、やをら、水の面にうかべたり。やがて鳥屋神社にまうで、鹿島御児神社にまうづ。ここを日好山まで、いとよきながめなり、葛西三郎清重の鋳たるかね、いまもかけたり。夕日かげひかりて、いくちむら、尾花の生ひしげり中を、はるはるとわくる人あれば、
  秋風ほのかにわたるはなすすきまねかぬかたにわくるたひ人
夕ぐれちかう、やにかへれば、ある家ちかふ、旅人ならん、いたく集りて、こよひのしろ、いくらいくらせにいふに、
  ただ人の宿もとふらし軒ちかく真菅のをかさつとひ来にけり
此夜義質のやにいきて、うたよむに、鹿の鳴たりけるに、
  明らけき月にかくろふくまやありて雄鹿つまこふ秋の山かけ
このみなとより、小竹といふ処のふね、風にふかれて、もろこしにわたり、福州といふくにに至りて、佐五平といふ舟子、やまひにて死たりけるといふ、ものかたりせり。

十六日 くもりたり、けふここをいでたつに、またかんな月のころ、かへさには、かならずなどいひつつ、義質のいへり、
  わかるともほとなくかへれたび衣きつつなれにし袖の渡に
と聞へしかへし、
  たひ衣袖のわたりにぬれそめし露もほさすてたちかへりこん
暉道、義質送り来けるに別たり、堤のうへをつたひくれは、行人「是は音に聞へたる処にて侍るいかにといふに、むさし坊べんけい、衣川にながれたりしとき、さいづちのここにととくまりたるを、こはいかなるたくみか、ながしてんとあやしみてければ、べんけひのもち給ひしうつは也とて、ここらの人もてはやしぬそ(ママ)。れよりここの名を、木槌土手といふ」と、えまひしてかたる。
 曾波の神の御山のかたちは、蕎麦のかたちに似たれば、しかいふとか。此あたりの家の、かまどのはしらに、土をつかねて眼には貝をこみて、いかる人のつらを作りたり。是を「かまおとこ」といひて、「耳のみこのふるごとありと」いひつとふ。山かげに、栗ひろふうなひあれば、
  うたひつれ裾かかけてて女子が、落くりひろふ秋の山里かの又の家にいたりて、有隣のやにとまる。

十七日 北上川を越て、飯野川のすくに至りぬ。ここの里は、神のみなをとなふ。本吉郡柳津(ヤナイツ)を過て、登米(トヨマ)郡黄牛(キウシ)といふ処あり。むかし遠田郡に牛飼(キウシ)といふ処のうし、ここに死たるいはれあれば、牛死(キウシ)といふふるごととなん。おなじ川をわたり、とよまといふ里にいたりぬ。いにしへ、とよみ郡、とよめの里といひし処也。吉田邑に、善王寺といへる処あるは、石神といふありて、いにしかみにをさめしならん。雨の後ひろへば、鉄の箭の根、又矢の根石などもありける。はたよし家のいくさのあともありきといへり。森といふ処に来て、伊藤なにがしのやにとまる。

十八日 あさとくくれば、霧ふかくおほひかくして、かのも、このものけじめなふ、たどりたどり、加賀野とやらんにいたれり。いづこならん、人のものいふに、
  きりふかみ行末しらす旅人のみちたかへそと友よばふこえ
野中のみちを、馬ひきありくを見つついふ、
  まくさかり野地のわらはのあさまたきひきかふ駒のこえいさむなり
石の森、涌浜、会沢をわけて、くれはてて、山の目にいたり大槻のやに来けり。

十九日 屋ごとに、ところせく、ものならべてうり、見物など、ささやかのやに、こもをまとひて、かまびすしくうたふ。かかることを、たかまつりといひて、此月の十六日、配志波神の、おほんかむわざありてより、かくうちつづき、うりかふもの、持てありくといふめる、二とせに一度あるなる祭也。此始は、日本武尊、この神のみたまをしづめ祭り給ひて、天孫降臨のふることを、まねび給ふたるを、今も伝ふたる。此長月十五日の、子ひとつ斗、立矛の社(今立津といへり)こは武甕槌、経津主の二神ましませば、此みまへより、此神をはじめ、童まねびて、ほこをもち、よろひ、かぶときて、明る十六日の朝とく、大己貴の神より給りたる広矛を、瓊々杵尊に奉りて、あまのいはくらおしはなち、天の八重雲をおしわけて、三十二神いざなひ給ひて、あまくだり給ふよそひ也。まづさきはらひの神、かへりもふす、一人の神あり。あめのやちまたに居り、其鼻の長さ七あた、そびらのながさ七ひろあまり、まさに七尋といふべし、またくちかくれ、あかりてれり。眼はやたのかがみのごとくにして、てりかがやけること、あかかがちに似れり。八十万神も、みたまかちて、相とふことをえし給はず、天鈿目の神にのたまはく、「いましは是、目人すぐれたる神なり、よろしく往てとふべし」とのたまふ。うずめの神すなはち、むな乳をあらはにかきたて、たれひもを、ほぞのしたにおし、あさわらひて、むかひたち給ふに、ちまたの神とひたまふは、『あめのうぞめ、いまし、かくすることは、何のゆへぞや』こたへていはく、「天照大神の御子の、いでまするみちに、かくおることあるは、たれかあへてとふ」ちまたのかみこたへていはく、「天照大神のみ子、いでますべしと聞き奉る。かれむかひ奉りて相まつ。あが名は是、猿田彦太神」ときにうずめ、復たとひてのたまはく、「いましまさに、われにさきたちてゆかんや。はたわれいましに先たちてゆかんや」対ていはく、「われ、さひたつて、みちひらきゆかん」うずめまた、とつてのたまはく、「いづれの処に、いたりまさんぞや、すめみま、いづれにいたりましまさんぞや」こたへてのたまはく、「あまのかみのみこは、まさに、筑紫日向の高千穂、串触(クシフレ)のだけにいたりますべし。ちまたの神われは、伊せの狭長田、五十鈴川にいたるべし」とて、かくてさきにすすみてわけたまふ。やがて、いはくら山より称る、みなをさなきもののしたれば、このちまたの神斗は、おとなびたる人まねびたり。あまたの神は、手毎に梅、桜、菊の作花を持給へり。やをら、盤井川のへたに、とばりかけたるに称る、童ばかり入たり。是を妃幸(キサキメシ)とて、ひめかくしてけるわざ也。根岸といふ処につき給へば、少彦名の神出むかひ給ひて、かくて、いたりいたり給ふて、おほんかへるさにも、少彦名の神おほん送りし給ふ。かかるわらはべの、さうぞくも、むかしは紙を折てかうぶりとし、麻のひたたれに過ぎざりけるを、今は、あやにしきに、きよらをつくしけるとぞ。
かかる神々の社、かなた、こなたに、百あまりもおましまししかど、今はただ、三十二の末のおましのみ残りぬ。十七日子のとき斗、神司のいほそく、刃蔵山(いはくら山をいう)にのぼりて、ささやかの無戸室(ウツムロ)を造りて、火をはなつてもやし給ふ。こは、吾田鹿葦津姫、一夜のうちにはらめることをうたかはし給ふを、うらびたまふまにねびて、是をむろ焼の行ひとて、いとひめたるかんわざにて、更にしれる人なし。
 此はしはの神の、おまします処の名は、小萩庄山要(ヤマメノ)中里とそいふめる。いにしへは、栗原郡、此盤井郡、みな吾勝郷なるを、中津としただみ、いまは、もはら中里といひうつり来ぬ、「来らんとし過なば、申の長月来給へ、此梅森の御かんわざあらん」と、ある翁のいへりけり。

廿日 この月の八日、大樹公かくれさせ給ふとて、めぐらしふみもちて来るを見て、こはいかなることにかとて、世の中いまいましうなり行くここちに、
 ひのもとの人のなけきに山賤の身のしろころも今朝は露けき

廿一日 遠村擣衣といふこころ、清古のいはく、
  夕けふりひとむら見ゆるをちかたにうつやきぬたの音たててけり
そむ女のうたに、
  をちかたに衣うつなりみよしのの里のよさむも余所にしられて
かくなん、人々のいひけるを見て、
  霜むすふ野辺のおはなのほのかにも見へにし里に衣うつなり

廿二日 初紅葉を、
  里はまたそれともわかて小倉山いつしくれけんみねのもみち葉  清雄
  露霜の消へにしあとのはつしほは時雨もしらぬ峯のもみち葉    清古
  いとはやもそめて紅葉のはつせ山みねの梢やいつしくれけん   秀雄

廿三日 雨ふりつれづれなれば、れいのことものしてんとて、まといせりけるに、いとちかうものうつ音の聞へければ、とりあへず、隣擣衣といふ題をとて、いひけるは、
かたりあふこえもへたてず中垣のあなたのやどに衣うつなり
といへば、清ふるのいへりけるは、
あし垣のへたつはかりにあなたそと聞こそわくれ衣うつこえ

廿四日 そらうすくもりて、雨もよにくれたり。

廿五日 清古と共に五串の滝見んとて行に、赤萩(アカウキ)といふ村あり、いにしへここに、配志和神の末社ありて、若火杵(ワカホキ)の社といひしを、あかうきといひしならん。今は、わかみや八幡といへり。かうやうのたぐひいと多し。はた延喜の帝のさきなるころは、配志和の神も、火石輪(ホシワ)といひしとなん。
 此火石輪のころは、玉剱鏡のとこ、ありけるよしをいひ伝ふたり。此郷の北に、つらなれる山々のみねは、むかし通ひたるふる道にして、すくのあとなどのこれりとか、ここも、おくのほそみちとやいひつべけん。やがて、さし入る田の中に、人のかた、かきたる石あり。ゆへをとへば、なかむかし、つみありし人、ここに切られき。其俤をとて、里人のものしなせるとそ。其滝(タキ)の流にのそめば、水おち、石もあらはにみなしたり。春見しには、ことかはれるものから、きしにたてる、なにくれのもみちたるいろの、たきなみにうつりたるは、えもいはんかたなし。この名も、あたら滝とかいひあへり。
  人知らぬ名になかれけむ谷かげにおつるはあたら滝のなかめを
又珠の滝とて、なかれたる処に、
  紅葉はのこすえのにしきうつろひて秋はいろなる玉のたきなみ
また、をかせの滝と聞へしを見やりて、ほふれたること、ひとついふ。
  いとくちのみたれにけりな秋かせに滝のをかせはくるとしもなく
この山奥の逆柴山に、円位法師尋ね給ひし、女の立たる石、今ものこりて、此石に口の病ある人、ねぎごとをすれば、すみやかにいゆと、里の子のいへり。骨寺のふるごとなれば、かかることもいひけるにや。此こと、春の日記に書たればもらしつ。
  ここを出て日くれて、山の目に出きぬ

廿七日 あるみねの紅葉をとて、
  むら時雨ふるもしられてもみち葉のちしほ初汐染(ママ)ませてけり

廿八日 ことなふくれたり。

廿九日 暮秋霜をよまんとて、人々のものしけるに、
  冬ちかきほとをしられて白露のむすひかへたる野辺のあさしも
家ごとに臼のおと聞えたるは、田の実のこりなふ、かりおさめたるいはひとて、かりあげ餅ちふものをせしなりけり。

三十日 けふかぜとくおこるも、秋のなごりのここちして、冬にいたらんとほりす。
 

はしわのわかば 続(仮題) 終



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2002.12.27
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