源義経Q&A集
○当サイトの掲示板にお寄せいただいた投稿の中で、ユニークな質問や疑問をお寄せいただいたものに関するQ&A集です。今後とも、少 しずつ付け加えて行くようにいたします。

○掲載する場合、実名(ハンドルネームは記載させていただく場合があり)は伏せさせていただきます。

○ユニークなご質問をいただいた皆さまに感謝いたします。
 


1 義経忌の命日について   2 義経=ジンギスカン説の虚妄     3 義経さんはブッダのように偏在する    4 弁慶伝説覚え書き    5 もし義経が生まれてい ないとしたら?!

6 義経二人説をめぐって     7  天の橋立の義経と静の悲恋伝説    8 義経さん東下りの真相  9 弁慶さんは、実在したか?10.義経さんの女性関係 と実子について

11.義経公の逃亡ルート再考12.史実と伝説との関係を考える13.義経公(牛若)の鞍馬寺入りは何歳か? 14 鞍馬寺で修行に励んで居た頃の義経さんを知りた い?

15.義経さんの性格を教えて16.銚子義経伝説の根拠 について 17. 平治物語は義経伝説のはじまりか? 18.何故、 頼朝は義経に朝廷を攻めさせなかったか?!

19.義経さんのふたりの兄はどうなった のか?  20.奥州 藤原氏がどんな理由で源義経を受け入れたのか?   21. 勧進帳は何故作られた か?!

22.義 経は自分の弓に銘を入れていたかどうか?



1 義経忌の命日について 2000 年4月30日(日)

   通常義経公の命日は、文治五年閏四月三十日と言われています。
   現在は、陽暦のため命日が桜の頃になりますが、陰暦で考えれば、もう少し入梅時と言う勘定になる。

   そこで、
  ○○さんから義経公の命日について、「旧暦で考えれば、もう少し後ではと?」という質問があり、
    
       Oさんなかなかごもっともな疑問かと思います。
        結論から先に申します。

        とくに陰暦を厳密に、太陽暦に直して、忌日を実行する決まりはないので、
        陰暦の日時をそのまま忌日として、実行してもいいのではと思います。

        例えば、赤穂浪士の大石忌や義士忌は陰暦で言えば、2月4日で、多くの
        赤穂浪士ファンは、そのまま2月4日に花を手向けに泉岳寺に向かうよう
        ですが、泉岳寺側では、別に4月1日から7日まで祭事を催していますが、
        12月の討ち入りの日と一緒で、陰暦の日をそのまま受け止める方が一般的です。

        また蓮如忌も、東本願寺では、陰暦の暦通り、3月25日に当てて、3月2
        4、25日を忌日としていますが、一方西本願寺では、5月13、14日に
        法要を催します。つまり各人各様、決まりはありません。
        まあ、陰暦にしても陽暦にしても、明治以降に替わったものであり、厳密に
        古式を守り通すならば、陰暦に陽暦を引き直して、毎年陰暦通りにやればい
        いし、亡くなった人を忘れなければ、それでいいという方々は、陰暦を忌日
        そのまま実行してもいいのではないでしょうか。私は後者の方で十分だと
        思います。第一その方が分かり易くていい。

        さて文化史的側面から義経忌を考えるために、日本大歳時記(講談社昭和5
        8年)を開いてみます。すると義経忌は、初夏の季語に分類されており、俳
        句において初夏とは立夏の、5月6日頃から6月5日ですから、実際の義経
        公の亡くなった季節として、花で言えば桜(春)というよりは、皐月や菖蒲
        (ともに季語は仲夏)に近い頃だったと思います。

        俳句で大事なのは、旬という季節感ですが、私が大事にしたいのも、漠然と
        した季節感のようなものです。私が陰暦の忌日をそのまま受け止めて、陽暦
        4月30日を義経公の命日と考えたい訳は、桜の頃に逝ったという桜と義経
        公の自刃という滅びを結びつけたいという気持ちがあるからに他なりません。
        これは一種の滅びの美学ですね。
        以上簡単に書きましたが、これはあくまでも私の意見であり、多様な意見を
        聞いてみたいものですね。

        いずれにしても明日高舘義経堂を管理する毛越寺さんに電話して見たいと思います。

    毛越寺さんの回答は、全てを承知した上で、平泉の藤原祭りにあわせ四月三十日に
    高舘にて毎年供養するように陽暦でやるようにしています。という明解なお答えをいただきました。

○尚、少し話はずれるかも知れませんが、判官森の供養塔(江戸後期、または明治期に入ってからの創建と言われる。
これは郷土史家千葉光男氏談)の義経公の命日四月二八日と記されているのは、義経北行伝説の影響があるという
見方と同時に、もっと単純に、「四月は閏年が四年に一回回ってきて、供養出来ない年もでるので、毎年供養する事
が出来るようにと、四月二十八日になったのでは?!」という菅原次男氏の説もありますので、併記しておきます。

○また義経公の位牌は、衣川村雲際寺(所在地 胆沢郡衣川村下衣川字張山63−1)にあり、
その位牌には、「捐館通山源公大居士神儀」(えんかんつうざんげんこうだいこじしんぎ:裏、文治
五年閏四月二八日源義経公)と記載されてあります。

○これと全く同じ「捐館通山源公大居士神儀」と陰刻された位牌が、金売吉次の屋敷跡と言われる金田八幡神社( 住所 宮城県金成町字
館下十二通称:東舘)にも保存されています。

○藤沢の白旗神社の別当寺だった荘厳寺(しょうごんじ:住所 藤沢市本町4−6−12)には、
江戸時代からと伝えられる義経公の位牌が安置されています。(高さ53.5cm、巾11.2cm、台座奥9.4cm。木製。黒漆塗)

その表面には、
笹竜胆の家紋 白旗大明神 神儀」、
裏面は「清和天皇十代御末源義経公 御誕生平治元年乙卯歳 
文治五年乙卯歳閏四月三十日卒御歳三十七 崇 白旗大明神 天保三辰歳 法印宥全調之

と、刻まれている。何故か、この位牌では、義経公の享年は、三十七歳と記されています。理由は不明です。



 


2 義経=ジンギスカン説の虚妄(高 木彬光「成吉思汗の秘密」の読まれ方) 2000年7月13日(水)

○○さんより、義経=ジンギスカン説を裏付けるとされる偽書(?!、)『図書輯勘録』の質問を受けて、
はじめまして、

        高木彬光氏の引用ですね。
        高木氏の原典資料の把握は大したものです。
        きちんと所謂、「義公即成吉思汗論」の肯定論と否定論を併記されています。

        ところが世間は、どうしても義公に贔屓の思い入れがあり、否定論はあまり注目しないか、
        頭に入れないような傾向があります。
        この傾向は、明治以降盛んに論議された小谷部氏の「義公即成吉思汗論」出版以降、
        何度も繰り返され、蒸し返されてきた、議論そのものです。
        小谷部氏の論争は、ある意味で、論拠としては、非常に稀薄なもので、これ以上
        議論の余地が無いほど、その論理の否定されています。
        とりわけ現在でも手に入りやすいものであれば、金田一京助氏の「アイヌ文化論」所載の
        小谷部批判論文「英雄不死伝説の見地から」をお勧めします。
        金田一論文は、金田一氏の著作権明けがまだ当分無いものですから、子息の春彦氏に
        お願いして、当デジタル文庫に近い将来掲載させていただこうか、とも考えております。

        また仰せの「図書輯勘録」を引き合いに出したのは、森助右衛門の『国学忘貝』(1783年)のようですが
        この説については、当デジタル文庫に掲載している相原友直翁が「平泉雑記」(1773年)より後の成立で
        もっぱら相原翁の批判は、「鎌倉実記」の原典批判や蝦夷風土考之説に及んでいますが、成立年代が
        前後しているので、相原翁の舌鋒鋭い批判は見れません。
        しかしながら、荒唐無稽な「義公即成吉思汗論」は大凡、この辺りで形成されたことは明らかとなります。
        したがって「義公即成吉思汗論」の成立は、大体220年位遡れるということになりましょうか。

        どうしてこんなにも義経公の不死説が、幾多の変転を遂げつつ成長していくのでしょう。
        まあこれが伝説というものの本質かもしれません。
        いつの間、論理の通っているはずの学者の論文は、忘れ去られ、かえって旗色の悪い
        小谷部氏の著作の「一行」(義公即成吉思汗)に光が当てられ、残るというのはまったくもって不可思議です。
        私はここに伝説の何たるかを見るのです。
        すなわち義経伝説は、明らかにこのようにして、虚構が積み上げられて、民衆の心の中で
        育まれ発展生成してきた一種の虚構の結晶なのであります。
        私はそのようにして形成された伝説を端から否定する立場は採りません。
        私は伝説の中にも、幾多の真実があり、また民衆自身の志半ばで亡くなった英雄に対する
        限りない思慕の情のようなものを感じますし、これは日本人の美風として、素晴らしいと考えています。
        しかしそのような伝説が、あたかも歴史的真実として、歴史の一断片として、語られることには反対いたします。
        伝説は、歴史学ではありません。それは民話などと同様、民俗学的見地からあるいは日本人の精神史の側面から
        語られ論じられるようなものだと考えております。

        結論です。高木氏のベストセラーの読まれ方に、すでに民衆の義経伝説
        の生成の秘密が隠されています。
        高木氏がいかに肯定否定の両論を併記しようとも、それを読む人の心は
        知らぬ間に義経不死説に惹かれているのですから・・・。
 

義経さん不死説について

2000年11月14日、GCさんより再び義経さん=ジンギスカン説についての問い合わせがありました。
義経さんとジンギスカン同一人物であるという説は、江戸時代に考えられた奇なる説だとおもいます。そもそも義経が高館で亡くならないで、蝦夷(北海道)に 渡ったという説に関しては、芸能などで創作      され義経伝説として、長い年月をかけて成立したものです。それが江戸期に入って、北海道から大陸渡り、更に西に行って、ついには元の祖ジンギスカン辿り着 いたことになります。私はこの中には、日本人のある種の西方浄土を目指す無意識もこの荒唐無稽な伝説を作り上げる原動力になっているのかな?ともおもって おります。また義経さん不死伝説は、一般的に言われているように日本民衆の判官びいきの現れとして考えることができるともおもいます。

特に江戸期に入り、北海道の拓殖が進むにつれて、義経さんは一種の日本民族のイデオロギーとして利用され、北海道の平取のような土地には、義経神社 のような日本民族北進のための宗教的メルクマークが造られましたね。不思議なことにこの不死伝説は、登場するたびに精緻な理論を持って否定され続けまし た。しかしながら、幾度否定されても、妖怪かお化けのようにこの説が誠しやかな容貌で登場するのは、それを意図的に利用する力が働いているのと、やはりそ こに義経さんを生かしておきたいという素朴な民衆の間の「判官びいき」や「歴史ロマン」があることは否めないとおもいます。

この問題を、一般的に分かりやすく書いているのは、やはり高木彬光氏「成吉思汗の秘密」(角川文庫、ハルキ文庫等)が宜しいかとおもいます。後は図 書館に行かれて是非、金田一京助博士の「アイヌ文化論」所収の論文をお読みになることをお勧めします。またこのことについて、私が書いたもので、高木彬光 「成吉思汗の秘密」の読まれ方という小文がありますので、是非読んみてください。また義経Q&Aにも少し書いて居りますのでご覧下さい。これからもどうぞ よろしく願いいたします。



3 義経さんはブッダのように偏在する 2000 年 8月 6日(日)

○○さんから 「義経は何人いたのでしょう」という質問をいただき、

    義経さんが何人とは面白い!!

        面白い質問ではあるが・・・
        はて義経は何人と聞かれても
        現実にはひとりであったとしか答えられないでしょうね。

        質問された方が、どのような意味で言われたことか?
        分からないので、推測でお答えするしかないのですが・・・

        きっと伝説としての義経さんのことでしょうね
        それなら分かります

        伝説上の義経さんならば、
        日本中には、それこそ義経さんを慕う人の分だけ
        存在したといえるのではないでしょうか

        死して後、義経さんを死なせたくない人々が大勢おりました
        義経さんのエピソードは、その人たちの心の中で
        膨らみ代々語り継がれながら、物語となり、伝説となりました
        その中には当然、事実も虚偽もあったでしょう
        事実は大袈裟に拡大解釈され
        虚偽は虚偽で年月を経るごとに真実味を加える工夫や脚色が進んで
        事実と虚偽は、複雑に絡み合って義経伝説を形成するに至りました
        そんな義経伝説は、時代に翻弄されある時は時の為政者の思惑により
        利用されたりもしました

        だから義経伝説には、本当に様々な形があります
        実にリアリティーのあるものから、あり得ないような珍説?まで
        実に巾が広いのですね

        ですから歴史として義経さんを見る時は、
        厳密に衣川で自刃した義経さんしかいないが、
        一方民俗学的な面から見た場合
        まさに日本人の居住する至るところに
        ”義経さんはブッダのように偏在する”
        ということになるのでしょうね・・・



4 弁慶伝説覚え書き 2000年8 月23日(水)

        ○○さんより、  「弁慶の資料について教えて下さい。」というご質問をいただきました。
        細かいご質問意味が分からないので大雑把に私の弁慶についての考
        え方と参考文献を述べさせていただきます。

        弁慶は義経以上に伝説化された人物で、その為に、吾妻鏡にその名が記されてい
        るにも関わらず、その実在性を疑う研究者もいるほどです。私は弁慶の存在につ
        いて、肯定的に考えています。
        だたやはり弁慶伝説というものも、義経伝説の中で派生し、鎌倉から室町、そして
        江戸時代と受け継がれ、民衆の求める英雄像として、その存在が大きく誇張化さ
        れて、あのような奇想天外な怪物のごとき怪僧として変化(へんげ)したものと思い
        ます。ですからここまで行きますと、義経公同様に武蔵坊弁慶もユングの言う所の
        集合的無意識(元型=アーキタイプ)ということになるかと思われます。

        弁慶の伝説は、周知のように語りとしての平家物語の中で、はじめて登場しました。
        彼が義経の影で、異彩を放つのは、まず義経一行が頼朝に追わ れて、大物浦より
        西海に逃亡逃げる場面ですね。これが種となって、その虚構は徐々に膨らんでんで
        行きます。平家物語の亜種としての源平盛衰記になると、さらに弁慶の存在に光が当
        たりはじめます。さらに能が始まると謡曲「安宅」や「船弁慶」となって所謂弁慶物が一
        人歩きをはじめて行きます。そして義経主従の中でも弁慶の存在感が 際立って強調
        されるようになりますね。
        このようにして弁慶伝説は義経伝説の発展の影で発展していったものと言っていいと思います。

        ご存じのように現在平泉の中尊寺には弁慶堂が在りますが、そのお堂の中には、ごつごつとまさに荒法
        師のような巨大な弁慶像があり、その背後にちょこんと腰をおろしている品の良い義経像があり
        ます。尚平泉には、弁慶の墓所と伝えられる場所があります。
        また義経の首塚のある藤沢にも彼の墳墓との伝承のある場所があります。
        やはり義経伝説あるところに弁慶伝説もあるのですね。
        そしてその人気は時として、義経公を凌ぐ場合があるようです。
        藤沢の人々は言っています。弁慶の御輿を担ぐと人は、気が荒くなって
        義経さんを凌ぐ勢いで、担ぎまくり、人気は明らかに義経公を凌ぐと言います。

        怪物のごとき弁慶伝説ではあるが、その底流には、やはり貴種の後胤という共通
        項があります。このあたりに日本の民衆の弁慶さんに寄せる暖かい思いがあり、また
        判官贔屓を生んだ想像力の特徴があるのかもしれません。

        当サイトの「奥州デジタル文庫」の中に「平泉雑記」があります。
        その目次を見れば、弁慶にまつわる伝説から、筆跡、性格、容貌など触れている
        箇所がありますので、是非お読みください。

        ○現在入手しやすい文献としては、次のものを推薦致します。

                日本架空伝承人名辞典 平凡社 1986年巻の弁慶の項
                義経記 第三巻 東洋文庫 平凡社 
                義経記 〃   岩波書店 日本古典文学大系新装版
                室町物語(下) の中の「弁慶物語」岩波書店 新日本古典文学体系

                柳田国男全集第9巻 「東北文学の研究」 ちくま文庫 

                この中で特に、最後に上げた柳田論文は、是非最初にお読みいただきたい基本文献
                です。よく義経主従の伝説が出来上がっていく過程が描かれています。
                その上で先の古典を読まれたら、一層分かりよいと思います。
                簡単に調べたいなら、第一の日本架空伝承人名辞典がお勧めですね。



 

5 もし義経が生まれていないとしたら?! 2000年8月31日(木)

もしも万が一源義経が生まれていなかったら、源平合戦は、どうなっていたと思いますか。

こんな質問をいただいた。「クレオパトラの鼻がもし、あと1cm低かったら」と同じ設問の仕方であるが、確かに、もしも天才戦術家の源義経が存在し なかったら、平家は、一ノ谷で、あんなにあっさりと、破れることはなかっただろうし、その後の屋島の合戦でも、義経なき源氏軍であれば、あのような嵐を追 い風にして敵の許に駆けつけたりは絶対にしないと思う。また平家の本拠地とも言える壇ノ浦に、何の躊躇もなく、船出したりしない。だから当然、源平合戦 は、義経という武者の出現によって、圧倒的に時間が収縮してしまったのである。まあ平家の側からすれば、あれよあれよの敗戦で、まさに青天の霹靂であった に違いない。

司馬遼太郎に言わせれば、国史上稀にしか現れない軍事的天才が源義経だそうだ。一人の天才が時代の扉をあっという間に開いてしまうことは、古今東西 の歴史ではよくあることだ。もしも義経なき源氏の鎌倉軍であれば、どのようなことが起こったか。そのことを証明する事件として、逆櫨(さかろ)論争で名高 い、嵐の海を前にした義経と梶原景時との論争を簡単に見ていくことにしよう。

冷静に見るならば、正論は梶原側にある。おそらくあの論争で、梶原は「逆櫓を付けるべき」と主張した訳ではあるまい。きっと鎌倉正規軍の戦いの有り 様を次のように主張したはずである。「この嵐で万が一、我々の船が難破でもする事があるかもしれませんよ。だからもう少し様子をみるべきではないですか」 このように大将の義経に主張したはずである。平家物語の逆櫓論争は、すでに船の反対側にも櫓を付けたらと、宿敵の梶原に言わせることによって、義経の勇猛 と大胆が切り開いたという英雄美化が始まっていると見るべきかもしれない。つまり梶原を敵役にするための誇張があの「逆櫓を付けて、万が一は、戻ってく る」という梶原の主張なのである。

梶原の主張は一理あるし常識論だ。あの場合、もしも運悪く、鎌倉正規軍が、嵐によって、その多くが難破していたならば、歴史はまったく逆の方向に動 きかねない情勢だった。逆に言えば、平家は、西海に逃げた、という言い方もあるが、別の見方をすれば、平家は源氏を西海へ誘って、得意の舟戦で、源氏を一 網打尽にしようとしていたのである。しかし義経の天才は、得手も不得手もない。時の勢いから言っても負けるわけがないと感じていた。それはもう神懸かった 絶対的な自信のようなものであったかもしれない。

まあ、梶原の目からすれば、源義経という大将は、実に危ない人物に見えていたに違いない。まず目が据わっている。自分の運気というものに絶対の自信 を持っており、自らの宿意である平家打倒を遂げるためには、死ぬことも厭わない。怖いものがまったくない人間が、目前にいて、梶原は間違いなく面食らって いる。言うことを聞かない梶原を残して、さっさと義経は、わずかな手勢で、嵐の海をついて屋島に向かう。そして民家に火を放つなどして、自軍を大軍に見せ かけたり、それこそ奇策の限りを尽くし、梶原らが大軍を率いて来る頃には、ほとんど大勢を決していて、梶原は大恥を掻かされる。宇治川での英雄も、八島で はとんだ三枚目である。義経に対して、面白くない感情を持っても無理からぬことだ。その後、八島で平家を破った義経は、その驚異の速度で壇ノ浦を席巻し、 平家の一族郎党は呆気なく滅ぼされてしまう。

であるからこの質問の私なりの結論は、もしも源義経が生まれていなかったら、源平の対峙の時期は、少なくても十年位は、長引いていたはずであろう、 ということになる。



6 義経二人説をめぐって 2000年9月13日

 
Gさんより、次のような質問をいただいただきました。

 歴史上に「山本義経」という人がいるのをご存知ですか?

これは「義経二人説」についての質問ですね。

滋賀県東浅井郡湖北町には、山本山(325メ-トル)というお盆を伏せたような形の良い山があります。(もちろん山本山と言っても、日本橋の「山本 山」とは何の関係もありません。)

ここは、かつて山本義経の居城だったと伝えられる館跡です。後には浅井氏の家臣阿閉氏の居城となり、織田信長によって、浅井氏が滅ぼされると、後に は明智光秀の居城となり、最後には戦国の歴史に翻弄されつつ廃城となったところです。

山本氏は、源義家の弟新羅三郎義光の末裔です。大体義光の子孫達は、甲斐や信濃などの地に根を張りましたが、山本氏もその中のひとつですね。この地 に土着した源氏でした。生没年は不明ですが、おそらく九郎義経よりも最低一回り(12年)以上年配だったと思います。ですから生年月日で言えば、1145 年±5年(1140〜1150)の間ではないでしょうか。となると大体頼朝(1147年)と同じ年代か、それよりも少し上になるかと思います。

かつて歴史家の松本新八郎氏によって、いわゆる「義経二人説」が仮説として出されましたが、今ではまったく問題にされない状態ですね。松本氏は、 「玉葉」の中に義経二人説の根拠を見つけたようですが、どのように読んでも、私には松本氏が唱えている様には読めませんね。松本氏も魔が差したのでしょう か?

この山本を本拠とした山本義経は、玉葉に以下の7度登場します。

@安元二年十二月二十六日(1176)
可被行流人事。依延暦寺訴前兵衛尉源義経(為義一族)。依殺害根本中堂衆。可被配流佐渡国云々。

A安元二年十二月三十日(1176)
又被行流人事、上卿宗家云々。件流人。前兵衛尉源義経(近江国住人為義一家云々)依山僧訴。被流佐渡国云々。

B治承四年十一月二十一日(1180)
近江国又以属逆賊了(中略)被伐了云々。甲賀入道(年来住彼国、源氏之一族云々)并山下兵衛尉(同源氏云々)等 為張本云々。

C治承四年十二月九日(1180)
得山下兵衛尉義経語(近江国逆賊之張本、甲斐入道与件義経也)。以園城寺為城。六波羅可入夜打。又所進向近江国之官軍等。塞其後。自東西可攻落之由。成結 構云々。因茲経雅朝臣。清房(禅門息、淡路守云々)等。追可被遣云々
 
D治承四年十二月十五日(1180)
癸巳、天晴、一昨日。知盛。資盛等。攻敵城。甲賀入道並山下兵衛尉義経等。徒党千余騎。即時被追落了。二百余人梟首。四十余人捕得。所残併追散了。件首中 有甲賀入道云々(後聞無実)。
 
E治承四年十二月二十四日(1180)
伝聞。甲賀入道。山下兵衛尉等。未被伐。籠。山下城(やまもとじょう)。又尾張美濃等武士。欲相加彼云々、或不然云々。如此之説々。皆以相違。難信受事 歟。明日被攻南都。必定云々。

F寿永二年十月七日(1183)
国司山下兵衛尉義経、歴院奏所停廃云々、仍付泰経卿経院奏、今日以兼親、所示送也、

さて玉葉に九郎義経の方は、66回登場していますが、初見は寿永二年閏十月十七日(1183)の項で、「頼朝弟九郎(不知実名)」と義経という名前を知ら ずに「頼朝の弟の九郎」とだけ言っていますね。

要するに作者の兼実は、山下義経を最後に書き留めた寿永二年十月七日(1183)には後に山本義経という一人の義経しか知らなかった。
初めて兼実が九郎義経と明確に玉葉に記すのは、寿永三年二月十日の項で「而九郎義経、加羽範頼等申云、被渡義仲首」と、義仲の首を取った時です。
つまりこれは、兼実の中で義経という名についての認識的混同はまったくなく、最後に山本義経を記した寿永二年十月七日から九郎義経と初めて記した寿永三年 二月十日で、「義経」という名称に関する認識の転換がなされたとみるべきでしょう。
 
吾妻鏡では、山本義経は、以下の4度登場します。

@治承四年十二月一日(1180)
左兵衛督平知盛卿率数千官兵。下向近江国。与源氏山本前兵衛尉義経。同弟柏木冠者義兼等合戦。義経已下棄身忘命雖挑戦。知盛卿以多勢之計。放火焼廻彼等館 并郎従宅之間。義経義兼失度逃亡。是去八月。於東国。

A治承四年十二月十日(1180)
十日戊子。山本兵衛尉義経参着鎌倉。以土肥次郎啓案内云。日来運志於関東之由。達平家之聴。触事成阿党之刻。去一日。遂被攻落城郭之間。任素意参上。被追 討彼凶徒之日。必可奉一方先登者。最前参向尤神妙。於今者。可被聴関東祗候之旨。被仰云云。此義経者。自刑部丞義光以降。相継五代之跡。弓馬之両芸。人之 所聴也。而依平家之讒。去安元二年十二月卅日。配流佐渡国。去年適預于勅免之処。今又依彼攻牢籠。結宿意之条。更無御疑云々。

B治承五年二月十日(1181)
十二日己丑。左兵衛督知盛卿。左少将清経朝臣。左馬頭行盛等。自近江国上洛。是為追討源武衛従軍等発向之処。左武衛依所労如此云云。於美濃国所被討取之源 氏并相従之勇士等之頸。今日入洛。知盛卿相具之歟。所謂小河兵衛尉重清。蓑浦冠者義明(兵衛尉義経男)(後略)

C寿永三年一月二十日(1184)
二十日庚戌。蒲冠者範頼。源九郎義経等。為武衛御使。率数万騎入洛。是為追罰義仲也。今日。範頼自勢多参洛。義経入自宇治路。
(中略)検非違使右衛門権少尉源朝臣義広。伊賀守義経男。寿永二年十二月廿一日任右衛門権少尉(元無官)蒙使宣旨。

この二人義経説を見ていく上で大事なのは、Cの項でしょうね。
何故ならここでは、九郎義経と山本義経が併記されている項だからです。「吾妻鏡」の作者もまったく認識の混同はありません。検非違使右衛門権少尉に任じら れた山本義経の息子の義広の出自を説明しながら「伊賀守義経男」と。伊賀守山本義経の男(息子)とむしろ後の歴史の混同を避ける配慮さえしている記載の仕 方です。

面白いことがあります。山本義経と九郎義経は、会っている可能性が強いと思われます。吾妻鏡の治承四年十二月十日(1180)の項で明かなように、 山本義経は、鎌倉に頼朝を頼って逃げて行きますが、すでに同じ年の十月二十一日、九郎義経は、黄瀬川にて兄頼朝と劇的な対面をし、鎌倉に入っていました。 平家打倒の戦いをした一族の年長者の山本義経も同じ宿意を持っている者として心を打ち明けて話さない方が不自然です。

 
以上のことを総合して、山本義経の生涯を考えれば、このようになるでしょうか。

山本義経は、頼義の息子の新羅三郎義光の四代目に当たり、在所は近江の国の山本。山本冠者と称され、兵衛尉、伊賀守を任じられる。安元二年十二月三 十日(1176)には、平家の力によって、佐渡に流されたが、治承三年(1179)には、勅令によって、この罪を許された。翌年頼朝(八月十七日)、義仲 (九月七日)の反平氏挙兵を聞いて、一族を率いて、近江に立つも、平氏の知盛らにあえなく敗れ、治承四年十二月十日(1180)、鎌倉に頼朝を頼って、逃 れる。土肥実平の口添えにより、「関東祗候」を認められる。義仲が入洛する折の、道案内を果たしたという説もあるが、定かではありません。

これによって、山本義経の足取りは歴史から消えます。その後は、息子山本義広の出世を心の拠り所として隠居したかも知れないし、仏門に入ったかもし れない。平安末期、「義経」を名乗る人物は確かに二人いました。でもそれが直ちに「義経が二人いた」という事にはなりません。二人の義経の伝説が集合し て、ひとつとなったという確かな証拠もありません。歴史においては、同時代の歴史家たちの著述を見てもいささかの認識の混同も見られない以上、やはり源義 経というヒーローは一人しかいなかった。と私は結論付けたいと思いますね。まあ歴史としては、強すぎる平家に対して、源家のアイデンティティが高揚化して いた時期にたまたま同姓同名の源義経が居たということになるでしょうか。

参考文献

尊卑分脈(国史大系)吉川弘文館 昭和39年刊
日本系譜総覧 日置昌一編著 講談社学術文庫 1990年刊
吾妻鏡 第一巻 新人物往来社 1976年刊
玉葉 名著刊行会編 平成5年刊  
「二人の義経」永井路子著  歴史読本 特集「源義経」昭和41年5月号より
「義経は二人いた」邦光史郎著  歴史読本 特集悲運の英雄「源義経」昭和57年6月号より
鎌倉室町人名事典 「山本義経の項」(安田元久氏)新人物往来社 平成二年

二人の義経の系図
                     -頼朝
    義家→為義→義朝-範頼
    │               -義経
頼義  │
    │
    │                              義明
    義光→義業→義定→山本義経- │
                                          義弘
            



7.天橋立義経伝説 2000.11.18

P・Mさんから、「天橋立に源義経と静御前の悲恋の話が伝わってるというのをちらっと小耳にはさんだのですが」  というご質問をいただいた。

  2000年10月6日
おそらくその伝承は、京都府竹野郡網野町磯にある静神社にまつわる話ではないでしょうか。この伝承によれば、静はこの地の漁師の磯善次という者の娘でし た。あれと思われる人もいるでしょう。静の母は、磯の禅師ですからね。まあこの辺が伝説ですから、かなりいい加減です。
この磯から京の都に出て白拍子となった静は、時の人義経と出会います。しかしその後追われる身となった義経は、奥州平泉に下り、静は冬の吉野山で捕縛さ れ、鎌倉に送られてしまいます。そして義経の息子を産みながら、直ちに頼朝によって殺されてしまいます。その後、放免となった失意の静は、母磯の禅師と共 に歴史の闇に消えてしまいますね。実は、この後、全国各地で様々な静伝説が創られるのですが、この磯の里に帰ったというのもそのひとつの伝説ですね。この 母の故郷で、静は晩年を静かに暮らしたと云われています。

実は、「丹哥府志」という江戸期の地誌に、元和元年(1615年)、宮津藩主京極高広が、この地に訪れた時、義経が、礒の惣太という此の地の豪族に 送った手紙があったという記述があり、このことが様々な推測や憶測を生み、伝説化していったとも考えられます。さてこの義経の手紙なるもの、天明二年 (1782年)の火災にて焼失した、と云うことで今は伝説と伝承のみ残ってしまったということのようです。

まあ怪しいと言えば、怪しい伝説ですか、元々伝説伝承とは、そうしたものですよね。結論になりますが、私は天橋立における義経・静の伝説は知りませ んが、宮津藩主京極高広が、義経の手紙を観ながら、義経静の悲恋の物語を色々と思い巡らせたのかもしれませんね。現在も、網野町の磯には、静神社があり、 静の木像も祀られています。もちろん祭神は静御前です。元にあった位置からは200mほどずれているということです。



8.義経さん東下りの真相
 

アメリカに留学中のSKさんから、

      「どうゆう経緯で義経が鞍馬寺を出たのかが脱出だったのでしょうか?」
      という質問が参りましたので簡単にお答えします。

義経さんのレポートを書かれるとか、面白そうですね。

まず結論から申しますと、鞍馬寺から、義経さんが、奥州に下った理由は、義経記の記述によれば、自分が自ら金商人の金売吉次に頼んで、行ったという ことになっています。もちろんこれには歴史的事実としては、ほとんど信じられていませんが、ただ私は義経記の義経像として首尾一貫していることとして、自 分の出生の秘密を知ってからの義経さんは、親の敵である平家打倒しか頭にないほどの熱狂ぶりであり、これはアイデンティティを獲得した人間特有の熱狂であ り、その熱狂振りはあたかもあの聖地奪回の説を熱く語り、十字軍の必要を説いて回って短時間に十
字軍を組織した青年僧を思い出させます。

義経さんの天才振りは、そんな神懸かり的な熱狂振りからもたらされたものだとおもいます。これは病跡学(パトグラフィー)の立場からも分析してみれ ば面白いことがわかるかもしれません。私がアイデンティティについて、指摘する理由は、鞍馬寺を出たのも、自らの意志であれば、当時元服前で、幼名である 牛若であった自らの名前を、これまた自らで、「義経」と自分の父の一文字をとって、自ら命名し、元服そのものも自らで執り行ったことに象徴されています。 普通であれば、名を付けてくれるのは、縁の親戚縁者であるが、義経さんに限っては、もちろん様々な理由があったにせよ、自分で成し遂げてしまうのです。実 は、源姓に義経さんという人物がもう一人いて、もしも烏帽子親(えぼしおや)がいれば、こんなことは無かったはずであり、この義経記の記載は案外真実を伝 えている可能性もあります。

私はこの義経さんの型破りな、自己主張の中に、古代以来、ともすれば自意識というものが脆弱であった日本人の中に、新しい人間が生まれつつあったこ とを感じています。その意味で私は義経さんを研究する場合単に軍事的天才、平家を滅ぼした張本人という位置づけ以外に、自己主張を以て、歴史に関わり、そ れまでの常識を覆した独創の人と義経さんを見ており、今後様々な学問を総合して、義経学という学問を提唱しようと考えております。

今アメリカにいると分かるのですか、ともすれば日本人は、概して自分の主張をしない人間あるいは民族と見なされていますね。この日本人の国民的性格 は、長い歴史の中で形成されたものであり、例えば、義経さんや、信長さんのような強い個性と自己主張を持った人間が、時代の主流となり、これをお手本とし て、日本人の個性を重視する独創的な価値観を良しとする為政者が歴史に存在していたならば、今の日本人は、まったく別の個性在る民族となっていた可能性が あります。歴史は、必然ではなく、偶然の産物です。その意味で、「見ざる・言わざる・聞かざる」のような愚民政策を以て、平和を維持しようとした家康は愚 かな男でした。

ですから私は、現在の日本人に色濃く残っている封建的な価値観を払拭し、自己主張のある日本人となる意味でも、義経さんのような強い個性を持った人 物は注目されて良いと思っておりますが。いかがでしょう。

さて歴史学の最新成果を踏まえた立場では、義経さんが鞍馬寺を出たのは、母の常磐御前が再嫁した先が藤原長成という人物なのですが、この人物と陸奥 守の藤原基成は従兄弟同士で、、基成の娘は、奥州の覇者と言われる藤原秀衡の妻となり、最後に義経さんを殺害した張本人藤原泰衡を生むでおります。

************************************
◎義経東下り相関図
                  藤原秀衡
                    |−泰衡
        −基隆−基成−女子
         |
藤原長忠−|
         |
        −忠能−長成
               |
              常磐
               |−源義経
             源義朝
************************************

この長成に常磐が働きかけて、奥州に義経さんを預けたのではという説が有力です。また当時義朝の遺児として平氏より、義経さんは常に監視されており 危険だったとも思われます。同時に奥州は、金を商うことによって、莫大な富を蓄積しており、京の都に、平泉の大使館に当たるような「平泉第」を造っていた のではないかと見なされています。それが今は、京都の今出川通りにある大報恩寺や首途八幡神社の辺りと見なされています。伝説によれば、この首途神社は、 金売吉次の屋敷跡と言われ、この首途の井戸水を汲んで、義経さんと吉次は奥州に下り、また平家追討に出かけたことになっています。

何れにせよ単なる金商人と目されていた金売吉次が、実は奥州の覇者秀衡の重臣で、今で言えば、外務大臣兼通産大臣のような役割を果たしながら、東奔 西走していたことが考えられます。ですから、義経さんの東下りは、ある意味では、奥州にとって、極めて政治的な行動と考えて差し支えないと思われます。

以上簡単にレポートしてみました。


9.弁慶さんは、実在した か? 2001年2月27日

Wさんより「義経が弁慶と出会う五条の橋。あのシーンは実際あったのでしょうか?」 という質問がありました。
これは、弁慶さんは、果たして本当にいたのか?という質問だと思いますので、以下のようにお答えさせていただきます。
 

若紫さん

こんにちわ。
ご質問の趣旨は弁慶の実在性についてということでしょうが、大変面白い設問です。
もちろん吾妻鏡にも、弁慶の名は二度登場しますが、本当はどうでだったのでしょうか・・・。
少なくても、今我々が考えているような弁慶ではなかった気がします。
きっと現在のような荒々しい鬼神のような弁慶像は、人々の心の中でイメージが膨らんで来た結果かもしれませんね。

ご存じのように全ての義経伝説の源流としての「義経記」はありますが、
その成立年代は、室町初期と云われています。
つまりこの物語は、義経さんが亡くなってから、200年以上も経って、出来たことになります。
200年以上も、義経さんの悲しい生涯が、物語を伝える人々によって、全国津々浦々に伝えられました。
その中で、物語は様々な膨らみを持って行ったのです。つまり新たな物語が創作されていったのです。
もちろんその中には、荒唐無稽な咄もあれば、さもありなん、という咄もあったでしょうね。それは「語り」という形で広まりましたが、そうした語りの物語 を、ひとつの物語にしようとする人物が現れました。歴史の中では名前は出て参りませんが、明らかに物語を読み物にしようとした人物がいたはずです。様々な 膨らんだ伝説伝承を、本としてまとめた人ですね。

これは私の推測に過ぎませんが、義経一代記を成立させようとした作者は、特に義経さんを引き立てて最後まで、生涯を共にする人物として、弁慶を特に 指名し、脚色する必要を感じたことでしょう。つまり単なる語りの物語を、本として権威付けて遺す為には、物語によりリアリティーや実在性をもって伝えられ るような細工が必要だったと思われます。それが弁慶物語です。私の「義経記の構造」という小論に書いているごとく、巻三はほとんど弁慶記とも云える一章で す。これは構造として、明らかに物語の面白さを義経と弁慶を軸に展開させるためのものですね。

今全国には、弁慶の笈といわれるものが各地に残されており、その数は足すとおそらく大変な数になりそうです。弁慶伝説は、おそらく義経記成立後、ま すます各地で熱狂を持って受け入れられて行って膨らんで、時には義経さんを凌ぐほどの勢いになったこともあったでしょう。要するに全国各地で、我も我もと いう形で、土地に根ざした弁慶伝説が次々に形成されて行ったのではないでしょうか。

確か、歌舞伎の劇評で著名な渡辺保さんもその著「勧進帳」でその辺りの経緯を書いていたように思いますので一読されたら面白いと思います。

さて一応の結論ですが、私としては、弁慶さんという人物は一応供の者としては存在したが、我々が思っているようなヒーローの弁慶は、後で創られた虚 像であり、したがって五条の橋や清水寺の義経弁慶の出会いは、なかったと見ています。大変夢を奪う話で申し訳ありません。

弁慶伝説について、私が簡単に書いたものは、「弁慶伝説の虚実」として以下にありますのでご覧下さい。

http://www.st.rim.or.jp/~success/bennkei_ye.html



10.義経さんの女性関係と実 子について 2001年2月28日

Wさん
こんにちわ。
 

義経さんの女性関係についてのご質問と解させていただいてよろしいですか。

正史に登場する女性は、二人ですよね。
正妻の河越太郎重頼の娘と愛妾の静御前。

ご存じのように、河越太郎重頼の娘は、頼朝さんが世話をやいた正妻ですね。
この女性との間に女児をもうけています。高館で自刃する前に、この妻子を義経さんは自分で殺害しました。時に文治五年(1189年)閏四月三十日でした ね。今、金鶏山の麓に千手院という寺があり、二人の御霊がひっそりと眠っています。享年は4歳ということですから、京都に正妻が嫁いだ時になした子供では ないでしょうか。おそらく平泉に行った経路は、奥州藤原氏の手の者に守られて、義経さんとは別のルートで、平泉に向かったものと思われます。

次ぎに静御前。もう説明のしようがないほど、余りに有名な女性です。全国には、彼女の生まれ故郷と言われる場所があり、亡くなったと云われる場所が あり、弁慶伝説同様に、広がりが有りますね。彼女との間には、男児が出来ていますが、文治二年(1186年)閏7月29日、哀れにも生まれてすぐに由比ヶ 浜に捨てられましたね。

後は、遡って平泉に下った承安四年(1174年)、ある女性との間に女児をもうけているようです。これは、義経さんが、頼朝さんの下に馳せ参じた治 承四年(1180年当時六歳前後か?)以降、同盟関係を結ぶためか、摂津源氏の源仲綱の息子、源有綱に嫁がせた、という史実(吾妻鏡の文治2年6月28日 に「伊豆右衛門尉源有綱義経聟」とあり)らの推測です。このことによって、義経さんは、自分の人脈を拡 げ、協力者を得ようと工作したことになります。

我々はなにか、黄瀬川に参陣した折りの義経さんをあたかも初陣の若武者の如きイメージで考えがちですが、実は、それよりもずっと大人で、政治的な工 作も出来れば、女性の扱いにもかなりなれていたと見るべきではないでしょうか。

嫁がせた女児の母の出自については、定かではありませんが、佐藤継信、忠信兄弟の妹と見る向きがあります。信夫の里(福島の飯坂)に大鳥城という佐 藤氏の居城がありますが、そこにも多くの伝承が残されております。その佐藤氏の菩提寺の医王寺があり、多くの義経さんにまつわる宝物があります。佐藤氏 は、奥州藤原氏の一族ですから、源氏の血を受けるためにも、当主の湯の庄司佐藤基治が娘を嫁がせたのかもしれません。義経さんが頼朝さんの下に行く時に は、佐藤基治が、白河の関まで見送り、義経さんと息子の二人を盛大に送ったという伝承が残っています。

後は、義経記に出てくる、皆鶴姫ですか。これは例の鬼一法眼の娘で、この女性の手助けによって、秘伝の兵法書を手に入れたことになっていますが、物 語を面白くするための創作上の女性と思われますね。

同じく義経記に出てくる久我大臣の娘ですね。義経記ではこの女性が義経さんらと一行を供にし、亀割山で子をなしたなどとなっていますが、あれは涙腺 を弛ます為の脚色でしょうね。最愛の静を置いてきた、義経さんが、別の女性を連れて行くわけがないと思いますからね。

なお、この久我大臣の娘は、平家物語巻第11の「文之沙汰」の箇所で語られる平大納言時忠卿の娘と見られます。平時忠という人物は、姉時子が権力者 平清盛に嫁いだこともあり、栄達を極めて権大納言となり、「平氏にあらざれば人にあらず」と奢った言葉を吐いた人物として名を馳せています。しかしその権 勢もつかの間、壇ノ浦で義経さんに生捕りられました。そこで当時23歳だった自分の娘を義経さんに差し出し、間に入って、うまく取りなして貰い、九死に一 生を得たのでした。平家物語では、時忠の前妻との間にできた娘となっています。尚、時忠は、その後、能登の国に流されて、文治五年の二月でしたか?因縁な のか、義経さんの少し前に亡くなっていますね。(時忠の生没年1128−1189)

それから浄瑠璃という芸能の起源となったと言われる浄瑠璃姫ですが、これも典型的な義経伝説で、三河国矢矧宿(みかわのくにのやはぎしゅく)の長者 の女の娘と言われていますが、創作でしょうね。

さてこうして見ますと、正史に登場するの義経さんの子供は、正妻の河越太郎重頼の娘との間に女児一人。静御前との間に一人。それから佐藤氏の女性と 思われる女性との間に出来た女児一人の計三人ということになるでしょうか。

でも実際には、貴種の血である源の血を、自分の家に引き込む為、各国の豪族土豪の長の連中は、こぞって娘を義経さんに差し出したはずですから、義経 さんの子は、必ずこんなものではないと私は密かに思っています。

***********************

参考
吾妻鏡の源有綱の記載

○文治元年5月19日
次に伊豆守仲綱の男にて伊豆冠者有綱と号する者。廷尉(義経を指す)の聟(むこ)と為す。 多く近国の庄公を掠領すると云々。

○文治元年11月3日
三日壬午、前備前守行家、(桜威甲)伊予守義経(赤地錦直垂、萌黄威 甲)等は西海へ赴く。(中略)前中将時実、侍従良成(義経同母弟、一条大蔵卿長成男)伊豆 右衛門尉有綱、堀弥太郎景光、佐藤四郎兵衛尉忠信、伊勢三郎能盛、片岡八郎弘経、弁慶法師、已下相従ふ。彼此の勢、二百騎余と云々。

○文治2年6月28日
廿八日甲戌。左馬頭(能保)の飛脚参着す。去る十六日、平六兼仗時定、大和国宇多郡に於て、伊豆右衛門尉 源有綱(義経聟)と合戦す。然れども有綱敗北し、深山に入りて自殺す。郎従三人は傷死し了 んぬ。残党五人を搦め取り、右金吾(有綱のこと)首と相い具す。同廿日京師に伝ふと云々。是伊豆守仲綱の男也。


11.義経公の逃亡ルー ト再考

和歌山のMKさんより、非常に興味深い質問をいただきました。「追われる身となった義経さんの平泉までのルートを教えてください」というものです。 通常で在れば、「義経記」を見てください。ということになるのですが、和歌山にお住まいのMKさんからということに何か共時的なものを感じまして、改めて 考えてみることにしました。

何故なら、和歌山にはあの熊野三社があり、義経公は、当時熊野水軍の助けによって、屋島、壇ノ浦と不慣れであるはずの海戦を戦い抜いて、平家一門を 滅亡に追い込んだ、という考え方があります。また義経記によれば、武蔵坊弁慶の出自も熊野新宮別当藤原湛増の子ということになっていますよね。もちろん弁 慶の存在について、尊卑分脈において、藤原湛増の系統を引いても、出て参りません。ですから弁慶という人物は、確かにそのような名の人物は存在したが、義 経記の中で、義経公以上に活躍するあのような華々しいヒーロー弁慶という存在は、これまでも疑問を持たれてきたわけです。

さて私は義経記で描かれ、あらゆる歌舞音曲に好意的に描かれる弁慶という怪人物(?)に民衆がこれほどまでに興奮するのは、単に義経伝説を面白くす るための脇役としての存在を、無から創造したからではなく、何らかの歴史的現実を反映しているからと思うのです。つまりこのことは歴史的現実としても義経 公の栄光の日々を支え、また最後まで義経公を守って影のように従った熊野で育った「現実の弁慶」が存在したということを意味すると同時に、熊野社に関わり のある人物が義経記が出来上がる過程で、何らかの形で大きく介在していたのではないかと思えてくるのです。

熊野社と奥州藤原氏との関係は、結構深いものがあります。確か紀州の方の民話に、奥州の覇者藤原秀衡が、熊野社に詣でて、子を授かったというものが あったと思います。(また旧金売吉次宅と言われる金田八幡神社という古社が、平泉の目と鼻の先の金成町にありますが、そこの清水家文書にも、熊野三社との 深い結び付きを思わせる内容の話があります。この文書に関しては、金売吉次を紹介する時に詳しく説明したいと思います。)

このように考えますと、おそらく熊野社と奥州藤原氏との関係は、かなり深いものがあったことは事実でしょう。そしておそらく熊野社の力を借りなけれ ば、義経公は、屋島や壇ノ浦での勝利を決定づけることは出来なかったかもしれません。ですからもしも清盛公が健在であれば、熊野社を自身の味方に付けてお けた可能性が強いので、あのようにあっさり滅びてしまうことはなかったはずです。

さてここからが本番ですが、海に強い熊野社であれば、何も危険な北陸道の山道を通らなくても、太平洋岸を越えて、義経公を奥州に逃がすことができた はずです。この十年で平泉において柳の御所跡の発掘調査が進み、そこで出土した土器(かわらけ)や常滑焼き(とこなめやき)の研究から、奥州藤原氏が実 は、海路を使って、多くのものを畿内あるいはその他の地域と交流していたことが、次第に明らかにされつつあります。そうなると、モノを運べるのであれば、 当然人の行き来も考えられる訳であり、義経公の二度の東下りだって、実は海路を渡って奥州に入ったことは十分に考えられる訳です。

これまで、我々はまず吾妻鏡の義経公が、どの辺にいる、とかどこで捉えられた、という記事を見て、当然陸路をへ、北陸道を苦労をして、やっとの思い で、陸奥に入ったと思っています。ではこの吾妻鏡の噂を、逃がそうとする勢力の故意に流したデマだとしたらどうでしょう。まず吉野において、義経公は、忠 臣佐藤忠信の進言を取り入れて、自分が身代わりとて、義経公に成りすまし、敵の目を別の方に向けさせます。

当然、熊野の人々は、別ルートのデマを流しながら、実は熊野古道を越えて、本宮から田辺へと至った可能性が強いのではないかと思われます。地図を見 れば一目瞭然ですが、この逃亡ルートが一番現実的であり、熊野水軍の力を持ってすれば、一番確立の高いルートなのです。

もしかしたら、真実の歴史は、吉野から熊野古道をへて海に出て、大海原を奥州に向かったのかもしれません。近い将来、熊野三社の宝物殿の中から、そ のことを裏付ける文書が出てこないとも限りませんね。
義経公を乗せた船は、田辺湊か新宮湊を船出して、房総半島を遠巻きにして牡鹿湊(石巻)に着き、北上川を北上し、平泉に入ったのでしょう。また一旦福島に 降り、そこから佐藤継信忠信兄弟の父のいる飯坂の大鳥城に入って、自分の為に犠牲となった二人のことを弔ったかもしれません。いずれにしても、これはロマ ンというよりも十二分に可能性のある説です。



12.史実と伝説との関係を考 える 2001年6月17日(日)

     S子さん初めまして。
      義経さんの短編をお書きだとか。高校生ですか?
      義経さんに興味がおありでしたら、まず吾妻鏡と平家物語と義経記を参考にしてください。
      吾妻鏡は、いわば幕府公認の歴史書ですね。それに対して平家物語は、史実に近い形で整理
      された軍記物。義経記は、史実がかなり民衆の趣向によって、誇張化あるいは美化されてい
      る伝説の物語ですね。
      まず史実を知りたければ、吾妻鏡を丁寧に読んでみてください。学校の図書館になければ
      町の図書館でみてください。日付がうってあるから、いつのことか、わかれば、すぐに調
      べられます。義経公が亡くなって日は、文治5年4月30日ですから、その辺を開いてみます。
      今、HPでも吾妻鏡の全文を掲載しているサイトもあるようですから調べてみてください。

      すると「義経公は、衣河館にあって、泰衡が兵数百を従えて、合戦に及び、敗れ、持仏堂に入
      り、妻(22才)と女子(4才)を害して自殺す」と言うような事が出てきます。
      平家物語には、当然義経公の最期はでてきませんね。

      さて次に伝説としての義経記では、どうなっているか。
      話は長いので、短くしますが、義経公とその妻子の最期が、誰か見てきた者でもあるかの
      ようにドラマチックに語られます。それによると、義経公は、まず自分で腹を切り、妻子は
      兼房という妻の乳父(めのと)に殺させています。亡くなったのは、妻の他に五才の若君と
      生後七日の目の姫君の三人。もうこれで、吾妻鏡と義経記は、まるで違いますね。
      さてこの亡くなった妻子の墓が、平泉の金鶏山の麓に千手院に、ひっそりとあります。
      それによると、どうも吾妻鏡の記載の方があっているようですね。こうして史料を読み、
      そして現地に残っているものなどを手がかりに、事実関係を究明していけばいいのでは
      ないでしょうか。
      但し、伝説化された物語としての義経記の影響を受ける形で、全国津々浦々に義経公の
      腰掛け石やら弁慶の背負った笈などの形見が残っていますが、これらの多くは、民衆の
      想像力が生んだ産物とみるべきでしょう。
      ただ伝説と歴史は、違うので、そう目くじらを立てる必要もないとは思いますが念のため。

      Kさんこんばんわ。
      いい名前ですね。熊野と平泉、義経公と熊野は関係深いですね。
      さて上にも書きましたが、史実と伝説は分けて考える必要があります。
      私は基本的に、史実こそがもっともロマン溢れるものだという立場で物事を考える人間です。
      義経公が実は、死なずに北へ逃れて、蝦夷地に渡ったといういわゆる北行説を私は取りません。
      この北行説はやはり英雄に対する民衆の優しい心と想像力の物語と解すべきかと思います。

      義経公が亡くなって少しして、大河兼任の乱という乱が、北の方から起こりました。
      大河兼任は、その時数万の大軍を率いて、鎌倉勢が駐屯していた平泉まで迫ろうとしました。
      兼任は「吾は義経なり」と義経公が生きているというようなスローガンを立てて、鎌倉反乱
      軍を動員しようとしました。もしも義経公とその主従が生きていて、このような大軍を率い
      たならば、もしかして、鎌倉勢を打ち破ることも可能だったかもしれません。
      しかし義経公は、どこにもいませんでした。頼朝さんという人物は、そんなに甘い人物では
      ありません。残念ながら、兼任の最期も悲惨でした。宮城の北部の栗原寺に現れたところを
      キコリたちにあっさりたたき殺されてしまいました。この乱は、明治における西南戦争のよ
      うな役割を果たしたような気がします。つまり反鎌倉勢を完全に一蹴出来たのですからね。
      そう言えば、西南戦争の悲劇の英雄西郷隆盛公も、ロシアに逃げて、再び日本に帰ってくる
      という伝説があったようですね。今も昔も、やはり民衆は、英雄が好きなのですね。




13.義経公(牛若)の鞍馬寺入りは何歳か?平成13年8月2日
 
Sさんという若い女性の方とおぼしき人から、義経公が鞍馬寺に預けられた年齢についての質問が参りました。
はっきり言って、これについての確かな証拠となる史料はなく、7才か11才か、というのは、研究者の間でも意見の分かれている所です・・・。

Sさん。初めまして。
牛若と呼ばれた幼少の義経さんが鞍馬寺に預けられたのは7才か11才かという問題は、確かに大いに問題があります。

この年表を作る時点で、私が主に参考にしたのは、渡辺保著の「源義経」(吉川弘文館人物叢書)でした。この著書は、口承や伝説の部分を一切排除 し、「吾妻鏡」や「玉葉」「尊卑分脈」など信頼すべき史料を基に、源義経像を再構成するというスタンスで書かれたという本で大変貴重な著作です。この著書 が面白い面白くないという判断は、別にしてたとえ義経さんの伝説を考えてみるにしても、一切の虚飾を剥いだ義経さんの一生を頭に入れて考えることは大切だ と思っています。正史を重視する考え方からすれば、この著作の指摘する如く「尊卑分脈」などで明示されている11才説が有力のように思われます。奥富敬之 氏の編による「源義経のすべて」(新人物往来社刊)でも、やはりこの11才説を採っています。

ただ正直に言って、義経さんの幼少期については、11才説にしてもやはり想像の域を抜け出るものはありません。ですから、二歳の時、つまり平清 盛の前で尋問された後、すぐに鞍馬寺に預けられたという考え方もあれば、「義経記」のように、幼いために7才までは、母と暮らし、その後に鞍馬寺の東光坊 という僧の許に稚児として預けられたという考え方もあります。11才と言えば、ある意味では立派な男児ですから、清盛さんだって、義経さんの兄たちのよう に、もう少し早く寺に預けて、出家させようと考えるのが自然にも思えます。当サイトで、現在入力作業中の黒板勝美氏の「義経伝」では、「平治物語」の説を 「義経記」の説で補足した形を採って(?)、7才説をとっていますね。厳密に言えば、平治物語(「牛若奥州下りの事」の段にて)では、鞍馬山に入山した年 齢は7才とは明示されていません。でも黒板氏は、周知のように新訂増補「国史大系」を編纂した中心人物であり、歴史的文献に対する知識においては右に出る 人はいないような学者ですから、そんな人物が、7才説をとっているのですから、氏の説はそれなりの説得力はあると私は思います。ちなみに高橋富雄氏の「義 経伝説」(中公新書)では、この7才説を採っています。

以上、Sさんが、指摘されたように、当サイトで「義経関連年表」では、11才説を採り、「運命としての源義経」では、7才?16才という形で、 義経さんのライフステージを分類するためにより巾のある時間経緯で、区切っているのは、そのためです。ですから、今現時点で7才か11才か。どちらが真実 に近いか、と言う設問は、非常にお答えし辛いものが在りますね。強いて言えば、正史に合わせれば、11才説。伝説に合わせれば、7才説と言えるかと思いま す。どちらの説もそれなりの説得力はありますよね。お答えになったでしょうか?さやさん!!大変面白い質問ありがとうございました。




14 鞍馬寺で修行に励んで居た頃の義経 さんの詳細な史実を知りたい?平成14年8月11日

AKさま。
鞍馬寺で修行に励んで居た頃の義経さんの足取りを辿りたいのお気持ち、私も同じように思った時期もありました。伝説というものの本質を考える上で、とても 面白いご質問なので、「義経Q&A」に掲載させて戴きたいと思います。

しかし残念ですが、結論から言ってしまえば、それを史実として辿ることなど不可能であると言わざるを得ません。よっぽど、鞍馬寺の古い僧坊か ら、義経さんが書いたか、あるいは周辺の人物が書いたような文書でも出てくれば別ですが。

そもそもあなた様が知りたいと望まれている心の奥に、既に史実としてよりは、伝説としてのスーパーマンのような義経像をどっかで欲しておられる 心理があるように私には感じられます。(まあこれを判官贔屓と言って良いのかどうかは別にしてですが)

でも伝説の物語である「義経記」を種本にして、更にどんどんとエスカレートしていった天狗に剣術を習う義経さんですとか、あるいは鬼一法眼が持 つ六韜三略の兵法書を、彼の娘の助力を得て、これを読み身に着けてしまうような英雄の冒険活劇のヒーローのようなストーリーの中にも、一端の真実は隠され ているようには思うのですがどうでしょう。

さてここで伝説ということを、少しだけ真面目に考えて見たいと思います。伝説とは大辞林によれば、「口承文芸の分類の一」で「具体的な事物に結 びつけて語り伝えられ、かつては人々がその内容を事実と信じているもの。次第に歴史化・合理化される傾向をもつ。言い伝え。」という事になるそうです。こ のことを私なりに解釈するならば、伝説の中には事実あるいは史実が隠されて眠っているということになります。

例えば、トロイ遺跡を発掘したシュリーマン(1822−1890)というドイツの考古学者がおりましたね。彼はギリシャの神話伝説に過ぎないと 思われていたホメロスの「イリアス」の中に描かれた叙事詩を読んで、深い感動を覚え、「このトロイ戦争はきっと事実である。これは史実を反映したものであ る」と自分なりに確信をして、ついには、全財産を投資してトロイの発掘に挑みました。誰もが彼を馬鹿にしたと言います。特にアカデミズムに毒された研究者 は鼻で笑っていました。ところが彼は発掘に成功しました。伝説と思われていたことが、実は史実である、彼の功績により、ギリシャの考古学は一変しました。

往々にして、硬直した学者タイプの歴史家は、神話で伝説を馬鹿にしがちです。私はこれは間違った考えであると思っています。何度も言いますが、 伝説の中にも史実や事実の種は眠っているのです。もちろん「義経記」は事実や史実ではありません。多くは創作されたものに違い在りません。しかしその中に も、やはり事実は眠っているのです。

「行間を読む」という言葉をご存じですね。このことを通じて、興味をもったある作者の心の中で、伝説が立体的で現実的な膨らみをもって行く訳で す。物語としての「義経記」も、こうして多くの義経さんの生涯に興味をそそられる人物の心の中で、種となる本の「行間を読むことで」少しづつ出来上がって 行ったのです。

義経記の形成過程で言えば、先行する「平家物語」や「吾妻鏡」、あるいは「公家たちの日記」、また地域の言い伝えを元に、その「行間を読み進 む」ことから徐々に出来上がったと考えられます。その中に、「平家物語」や「吾妻鏡」でも取り上げられている「腰越状の伝説」があります。義経さんは、誰 にも真似の出来ないような平家討伐という一大功績を挙げながら、結局兄頼朝さんに官位を勝手に授かったということで、疎まれ、褒美を貰うどころか、会って も貰えないということになってしまいました。私はこの腰越状は、事実として近いけれども、かなりの部分で創作が入っていると考えています。でも腰越状は、 確かに冗長ですが、原腰越状のような極めて短い義経さんらしい文面のものは在ったと推測しています。これは吾妻鏡が書いているから事実であるという単純な 発想ではなく、史実に近い伝説ということになります。

さて、あなた様が、考えている鞍馬での修行ですが、当然鞍馬は、かつての大学のような所ですから、稚児として入った牛若の義経さんも、単に仏教 の勉強だけではなく、様々な勉強をし、その中で、剣術の厳しい修行に励んだこともあったでしょう。またたとえ鬼一法眼やその姫が居なくても、兵法書を読 み、戦の仕方、勝利を得るための戦術の立て方を、習ったことは当然あったと思います。その後、この鬼一法眼などの伝説を踏まえて、義経さんを忍術の祖とす る流れもありますね。このようなことを考え合わせる時、民俗学からのアプローチもそうなのですが、何が伝説で、その伝説の本質は何で、その伝説のどこにど んな真実で隠されているのか、またどこまでが創作なのかを、かぎ分ける嗅覚のようなものが必要かもしれせん。

但し、研究者でも難しいようなことを、一般の人がそこまで辿れましょうか。またそのことにどんなメリットがありましょうや。思うのですが、日本 人にも、義経さんのような異能を発揮した大天才が居たということ。そしてその義経さんの伝説とロマンに頭を柔らかくして、浸ることで、いいような気がしま すが、どうですか?




15 義経さんの性格を教えてください!! 平成15年2月3日
 

A美さん

面白い質問ですね。義経さんの精神分析、あるいは性格分析というものを前からしてみたいと思っていました。さてその方法ですが、「吾妻鏡」と 「平家物語」による義経さんの言行録を洗い出して、こんな状況の時には、こんな発言をし、このような決断あるいは行動をしたということを列挙すべきでしょ うね。

そうすると、義経さんの思考パターンや行動様式というものが、出てくると思います。何故吾妻鏡と平家物語からというと、この二つの書物は、義経 さんの言行が、伝説化して尾ひれ付で拡大する以前の義経さんが亡くなってから比較的新しい時代(大体50年前後でしょうか)に書かれたと推測されているか らです。つまり義経の人格に多くの人の思いが入って脚色される前と考えられるからです。

しかしそれでも、吾妻鏡を読むと、奥州から兄の決起に呼応して、黄瀬川の兄の陣にどんなことをしても駆け付けるシーン。また初対面の段の感動。 記載の中には、鎌倉方の文書でありながら、判官びいきの萌芽のようなものが随所に見えます。

平家物語では、一の谷の部分や屋島に渡る時の梶原景時との逆櫓論争、継信の死における言動など随分脚色されたような部分がありますが、それでも それは事実の反映でありますし、この二つの書物で共通に掲載されている義経さんの苦渋の心境を表した「腰越状」の文面は、時に注意して読めば、かなり義経 公の人間というものが浮き彫りになってきます。

そこには、現代の言葉にすれば何が義経さんの「トラウマ」になっていたかということも分かりますね。ただこの腰越状も、私から言わせれば、腰越 状にも誰かが、義経さんの心情に仮託して、付け足した部分があると思います。つまりこれはそれほど義経さんの生涯には、何とかして上げたい、あれだけの功 績のある人が、何で死ななければならないの、ということを鎌倉の連中もみんなどこかで思っていたということでしょうね。

ちょっと卑近な例をとると、生きながらも伝説化していく、巨人の前監督長島さんのような不思議な部分が義経さんの伝説化の過程でもあったことも 事実でしょう。例えば、長島さんのエピソードで、息子の一茂を試合に夢中で、球場に忘れてきたというのがありますが、これに尾ひれがついて、様々に誇張さ れていますが、実際にあったようで、その辺りがのことが、義経さんのエピソードに言える訳です。そこで長島さんの性格は、ひとつの事に集中すると、外の事 がまったく気が行かなくなって、たとえ最愛の息子であっても、忘れてしまうような性格ということになります。

気楽にここで簡単に私の思っていることを言いましょう。義経さんは、激情型の天才だと思いますね。一度集中したら、周囲のことはまったく目に入 らない。必ず達成するという強い意志の持ち主。反面非常に情に脆い部分を感じます。頼まれるとNOという言葉を発せられない。部下に対しては、徹底的に信 義を尽くすが、誤解されることも多い。言葉は、早口で、結論を先に言う性格で、内容について、理論立てていうのを好まない。黙って、ついて来いという性 格。後で座って作戦を練るのではなく、自分自身も最前線で、リスクを冒しながら、直感的なひらめくで戦術を立てるタイプです。

逆櫓での梶原との論争は、義経さんの性格分析をする上ではかなり大事なような気がします。時代を変える人物というものは、普通の人では無理です ね。常識を越えた判断を瞬間に出来ることでは、彼は間違いなく天才ですが、それを普通の人間が理解できるかと言えばできないでしょうね。そんな部分から、 義経さんという人が、天狗に剣術を習ったという伝説も後で徐々に形成されて行ったのでしょう。

まあ、素直な気持ちで、彼の行動に接すしていれば、本の行間の端々から、義経さんが飛び出して来るかも知れませんよ。



16  銚子義経伝説の根拠について
 
Tさんより、「銚子の義経伝説を知っていますか?」という書き込み頂きました。伝説の根拠について、思うことを書きたいと思います。
 

さて銚子に義経伝説があることは知っています。九十九里という浜にも様々あるようですね。根拠は、平治物語の以下の部分でしょうね。「牛若奥州 下りの事」の段を、簡単に現代訳をしますと、

「下総国の者で深栖(ふかす)注1の三郎光重が息子の陵助注 2頼重(みささぎのすけよりしげ)と申しまして、源氏の出の者です」と答ると、牛若は、「・・・それではまず下総まで連れて行ってくれ。そ れより先は金売吉次を連れて、奧州へ参ろうと思う」と云いました。「承知いたしました」と頼重は約束した。そして牛若十六才の承安四年三月三日の明方、 (ふたりは)鞍馬を出て、東海道を下って行かれたのであった。その若き牛若の心情を思うと、実に健気に思われることだ。 (中略、)こうしてここに一年ばかり忍んで暮らしてい・・・」とあります。

「ここに」のここが、上総の国の頼重の所領とは思いますが、ここに暮らして、強盗や悪い者を懲らしめたとありますからね。千葉には、深栖と書い て(ふかす)と読ませたり(ふかずみ)という姓の人がありますね。ですからこの平治物語を見ても、若き義経さんが、あるいは銚子の方にも足を伸ばした可能 性は十分にあります。義経記ですと、ぞんざいに扱ったことに義経が腹を立てて、頼重の館を焼いて去ったことになっていますね。物語のそもそもの表記が違い ますが、私としては、義経記よりも平治物語の方がよりリアリティのあるストーリーだと思います。
 

注1 深栖の場所については、千葉県東葛飾郡関宿町古布内付近?!ここに八幡神社があるが、調査が必要。
注2 朝廷ないし位の高い人物の御陵を管理する仕事に就いている者を差すと思われる。


17 平治物語は義経伝説のは じまりか?
義 経伝説の歴史」を読んだ、TC さんより、こんな質問を頂いた。
『平治物語』を読み返してみましたが、『義経記』同様、『平治物語』も源平合 戦で活躍する義経の姿が描かれていません。『義経記』に戦で活躍する義経が描かれていないのは、『平家物語』ですでに描かれているからだといわれています が、『平治物語』は『平家物語』より前に成立していたはず。何故『平治物語』には、戦で活躍する義経が描かれていないのでしょう?


面白いところに着眼されましたね。

私は義経記を、平家物語で、語られなかったことを中心でまとめた義経没落の記という定義をしました。で平治物語については、この定義は当てはま らない。これは当然ですね。何故なら、平治物語は、あくまでも平治の乱の顛末を扱うという明確な意図を持って書かれた物語で義経伝は付け足しに他ならない からです。

であなた様は、平治物語の特に、「牛若奥州下りの事」と義経記の中の巻一、巻二の描く「東下り」の事実表記の違いに気付かれましたか。そしてこ の違いというか、変化というか、発展というか、ここになにがあると思われますか?

ここにはまったく違う事実が掲載されていますね。例えば、我々一般の歴史認識としては、どうしても「義経記」のすり込みが強烈なために、牛若時 代の義経は、金商人の金売吉次に伴われて、奥州に行ったと思っている。ところが平治物語では、牛若自身が、主体的に吉次に、「連れて行ってくれ」と言う。 そして、何とか自分の力で、関東へ行き、ついには奥州に入り、吉次の金成の館で、彼に落ち合って、秀衡に会いに向かう。非常に主体的だ。しかもこの旅の過 程では、関東で兄頼朝とも会っている。この辺りの牛若放浪譚は、腰越状の苦労の記述を彷彿とさせるものがある。この辺りで私は、この平治物語の牛若生い立 ち物語こそ、義経伝説の原初の形ではないかと思うのです。そしてそこには生涯の郎等である佐藤兄弟とその母の出自にまで触れる。これは義経記の中の、巻八 の「継信兄弟御弔の事」に引き継がれていると思われます。 まさにオールスターキャストなのですね。

さてこの平治物語ですが、先行する保元物語の後を受け、院政時代の源平の攻防を描く訳ですが、古態の平治物語を想像するに、私見ではあります が、この義朝の遺児たちの動きを活写する中巻以降のストーリーは、後で付け加えられた気が致します。何故なら平治物語は、平治の乱の顛末記であり、義経の 生い立ちなど、入っている必要はないはずです。

で、平治物語の成立時期と平家物語の成立時期は、おそらく現在の研究によれば、10年ないし20年前後の間と見てよろしいのではないでしょう か。(1220年から1240年前後か?)そんな訳で、おそらく平治物語の作者は、義朝が敗北した段階で、ストーリーは完結させるつもりだったのではない かと思います。つまり、平治物語には、今伝わっている諸本の他に古態といえる形があったということです。もちろんこれは仮説です。でもそうとしか考えられ ない理由がそろっていますね。

ちょっとのタイム差ですが、古態の平治物語が成立し、そこにやはり古態の平家物語が、さっそうと登場する。すると、平治の乱(1159)以降 の、平家を滅亡させた主要人物(義経)の人間模様(生い立ち)は不明であって、どうしてあのような鬼神のような働きをする武者が誕生したのか。その人物の 生い立ちを知りたいという欲求が、自然に読み手の中に生まれた。そして巷の義経にまつわる話を挿入されたものが、平治物語の中巻以降の義経の生い立ちの物 語として創作され挿入されたのではないかと思うのです。もちろん付け足し部分は、作者は別であったかもしれません。

ともかく、そんな訳で、院政時代の始まりから平家物語までの人間模様を平家物語が語っていない部分を埋め合わせる形で、平治物語も原初の形から 変化したのではないかと思います。もちろん今後の各諸本の研究の成果を見なければ何とも結論的なことは言えませんが、義経伝説の発展として考えると実に面 白いですね。つまり義経伝説が義経記まで到達するまでに、平治物語の中巻以降の牛若物語的な挿入部(佐藤の仮説)は、義経の生い立ちの証言として重要だと 思われます。その意味でも、平治物語の説く牛若物語と義経記巻一、二の語る牛若物語の相違についての研究は、実に面白いテーマだと思いますね。平治物語? 平家物語?義経記までの過程は、義経伝説生成の過程を解き明かすことに通じます。この間、200年余りの歳月が経過しました。長い時間をかけて、義経にか かわる伝説が様々に変化変遷を遂げ、民衆というか、日本人が憧れの歴史的ヒーロー像を創りあげて、ついには単独の物語としての「義経記」という金字塔をう ち立ててしまうのです。これは凄いことですよね・・・。




18. 何故、頼朝は義経に朝廷を攻めさせなかったか?!

長野のMさんから、「何故、頼朝は、義経と範頼に、京都の朝廷と公家勢力を討つ指示をしなかったのか?」という趣旨の質問を頂きました。

とても難しい質問ですが、思うところをお話しします。当時誰も京都の朝廷の力そのものを解体しようとした政治家はおりませんでした。頼朝もその 例外ではありません。日本の歴史を称して「朝廷利用史」というような表現をする人もいます。その言い分によれば、日本の天皇制度は、中国の皇帝とは違っ て、力のあるものがその座に就くことを肯定せず、万世一系の血統で受け継がれる連続的な存在として、日本の国の統治の頂点に位置してきました。もちろん、 これが戦後、象徴天皇制になったのは周知の事実です。日本の朝廷は、地域の神々と集合した幻想的な神的存在として君臨する擬制の権力として、時の権力を握 りたい者あるいは握りつつある者が、これを利用し外戚などという形で、これを維持してきたのです。

このシステムを構想した人物は、藤原不比等ではないかというのが、梅原猛氏の説ですね。かつて日本の権力は、大王に過ぎなかった。これが、天皇 となることによって、強烈な求心力となった。畏怖的存在です。それで誰もこの壁には近づかない。清盛でも、頼朝でも、近づけない。清衡は、荘園の造営に よって、蓄積した富を背景に、それまで藤原一族(公家)に独占されていた感じの権力に入り込もうとして、朝廷の外戚の座を狙って、一時それが成功したかに 見えた。

結局、清盛が、福原に都を遷そうとした背景にも、自分の造営した都で、早く言えば、第二の藤原氏の座を虎視眈々と狙っていた可能性があります。

頼朝は、どうか?。彼は、関東に土着した平氏連合の長とも言える存在でした。しかもここが肝心かと思いますが、彼は北条氏の婿さんです。元来、 婿というものは、肩身の狭い存在で、歴史上では、頼朝という人間が、時のリーダーとして過大に評価されているように思えてなりません。つまり今の人が思う ほど、頼朝の権力基盤というものは盤石ではなかったということです。

思うに彼は、猜疑心の強い狭量な人物のように私には映ります。それは結局、「婿」という彼の背負ったものを考えればよく分かります。もっと分か りやすく言えば、彼は関東に土着し、荘園を開拓して、勢力を拡大しつつあった関東の土豪たちの利益代表としての旗印に過ぎなかった。もしも彼が、政治家と して本当に優秀であったならば、あのような奇妙な死に方はせず、その子どもたちも、あのように、次々と奇怪な死を遂げることはなかったはずです。

時代的な背景を考えれば、律令制度は、限界に来ていた。つまり朝廷方にはもはや、経済的な力も軍事的な力もなく、官位を与えて、ハクをつけるこ とで、武士勢力の台頭を見守るしかなかった。そこで各勢力の軍事バランスを巧みに利用しながら、綱渡りのようなことをやっていたのが、時の朝廷側の最高権 力者、後白河法皇でした。

ある意味、彼は、才気走った人物でしたが、非常に哀れな生涯を送った人物でもあります。彼は、権力を維持するために、時には、平清盛と源義朝を 利用し、またある時には、義経さんを味方に付けようとしました。

後白河法皇にとって、義経さんは、特別な人物でした。何故なら、義経さんは、一五才まで、京都で育っていますから、立ち居振る舞いからはじまっ て、京都のしきたりというものを知っています。彼は、京都を去って西海に逃れる時でも、京都の町を荒らさず整然として発ちました。彼は自分の中で、京都の 町を故郷の町としてとても大事にしていたと思います。これは京都の町で暴狼藉を働いた木曽義仲の軍とよく比較されるところですね、しかも決定的なのは、義 経さんの庇護者は、強大な資金力を背景にした十万の巨大都市を造営した奥州藤原氏であるという点です。

何しろ、京都が15乃至16万の都市で、奥州の首都(?)平泉は、10万から15万ほどの大都市だった。鎌倉は、おそらく、数万の規模だったで しょう。当時、都市から言って、京都や平泉と比べれば、鎌倉は、小都市に過ぎませんでした。ただ平泉と違いのは、地勢的に京都に近いという利を持っていま した。資金力でも、話にならない位の差はあります。また奥州藤原氏には、二代基衡の時代から藤原基成というバリバリの公家もに睨みを利かせていて、朝廷に もその奥州派(?)公家のネットワークは隅々まで及んでいました。

このようなわけで、朝廷の中の公家の派閥は、ふたつの勢力に分かれていたはずです。それは一見義経に味方する派と頼朝を味方する派のようにもみ えますが、中身は、奥州と鎌倉の両派と考えて差し支えないのでないでしょうか。

鎌倉にいる猜疑心の塊のような頼朝にとって、奥州藤原氏は、強烈な脅威だったと思いますす。いつ攻められるかもしれない。ましてや、そこに軍事 の天才義経さんが旗印として入ったら、これは手が付けられません。律令制の遺物で、日本を幻想的に支配するしかない朝廷と公家達は、当然、この奥州派と鎌 倉派に分かれて、暗闘を繰り広げます。

しかしある時期を境にこの暗闘には終止符が打たれます。それが、秀衡の死(1187)とそれに続く義経さんの死(1189)でした。これによっ て、恐いものがなくなった頼朝は一気呵成に、奥州の大都平泉の攻略を果たします。

さらにその勢いをもって、建久元年(1190)彼は、京都に上って、後白河法皇と対面します。もちろん、ここで彼は、朝廷制度そのものを無くす というようなことはまったく考えていません。彼が考えていたのは、自分の意に添う公家たちをうまく動かすことによって、日本の実質的な支配権を奪うことで した。

そこで彼は、武力をちらつかせて法皇に迫まり、日本国総追捕使(にほんこくそうついぶし)の座をもぎ取りました。この時彼は、きっと慇懃無礼 に、日本一の大天狗と思っていた法皇に、義経さんらに自分を追討する命令を与えたことなどをあげつらったことでしょう。これによって、彼は御家人を率いて 日本国全体を仕切る軍事権を手にしたのです。さらに彼は、鎌倉の権力にハクを付けるために、征夷大将軍の座を手中にします。

だから義経に頼朝追討の命が下り、その後、頼朝に逆に義経追討の命が下ったのは、単なる兄弟の私憤というものではなく、奥州派と鎌倉派の対立が あったとみるのが自然です。結局、義経が奥州で殺害されたことによって、この暗闘は終わり、鎌倉派が、残党のようになった奥州派を追い落としにかかりま す。鎌倉派の中でもっとも有名なのは、藤原兼実(九条)ですね。彼は「玉葉」という日記を遺したことでも知られる政治家ですが、彼は、建久二年 (1191)に、関白になっています。

こうして、鎌倉にいながら、頼朝は、朝廷や古い公家とも融和を計りつつ、武士の世の政治体制を作ったわけですね。


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2000.8.24ー2004.4.27 Hsato