「義経伝説」の歴史



「義経伝説」というものの歴史を、少し追ってみたい。
 

義経伝説の定義について

その前にまず「義経伝説」という言葉についてまず定義しておきたい。この言葉は、ごく一般的な解釈で言えば、源義経という武将についての言い伝えと各地に伝わる伝承をひっくるめたもの、と定義することができる。確かに今日武将「源義経」については、様々な伝説と伝承が付加されて、どのように考えても、あり得ないような「義経=ジンギスカン説」のような途方もない話まで「義経伝説」として語られることもある。我々が、今日の社会で一般的に「義経伝説」という言葉を使用する時、そのような、現実的には事実としては認められないような話まで、伝説ととして許容した上で、論じていることになる。

何故これほど、義経に関する伝説伝承の類が、広まったかと言えば、やはり源義経という人物の個人的資質とそして辿った運命の悲劇性にあることは、異論の余地のないことであろう。すなわち、名門の家に生まれながら、幼い頃に父は、叛乱を起こして殺され、命からがら、母の胸に抱かれて、逃げまどう、挙げ句の果てには、父の命を奪った張本人である平清盛に情けを受けて何とか生き延びる。しかし母は、清盛の女性となる。幼い頃から、母とは離なされ、鞍馬寺にお稚児さんとして預けれる。まさに苦労の連続である。

義経伝説の原点

義経伝説の元々の種本と言えば、まず真っ先に上げられるのが、「義経記」であるが、私は敢えて、「平治物語」を上げておきたい。何故ならば、この「平治物語」の中の巻下にある「常葉落ちらるゝ事」と「常葉六波羅へ参る事」及び「牛若奥州下の事」の記載が、平家物語に先行し、大体頼朝が、石橋山で平家追討の兵を挙げた治承4年(1180年)の数年前後に成立していると見られているからである。

要するに義経伝説のまさにその原型に当たるものが、この「平治物語」であり、この物語を経て、源義経という人物の伝説伝承は、膨らんでいくのである。次ぎに成立する平家物語や吾妻鏡には、義経の嘆願状である「腰越状」が、全文記載されているが、今日もそれが実際に本人が書いたものかどうかの真偽は意見が分かれている。私は義経が書いた可能性が高いと思うが、仮に後世の人の創作だったとしたら、おそらくその原型は、平治物語の「常葉落ちらるゝ事」にあると思われる。

まず我々は、「平家物語」や「吾妻鏡」以前に、謀反人源義朝の御曹司である義経(牛若)の苦労の物語が成立していた事実を押さえておく必要がある。そしてその子が苦労に苦労を重ねて、ついには平家をあっという間に滅亡に追いやってしまうのである。しかし更にこの運命の子(義経)は、今度は兄の頼朝の手によって、逃亡者に仕立てられてしまう。何という悲運であろう。
 

平家物語における義経語りの中断

平家物語は、承久年間(1219−1221年)に原型となるものがが成立し、建長年間(1249−1256年)に完成されたと云われている。義経伝説が決定的に形成されるきっかけは、何と云っても、この平家物語における義経の活躍である。宇治川での初陣から、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と息もつかせぬ義経の活躍は、ほとんど神懸かりと言ってもいい。時代の神様が乗り移ったような奮戦振りだ。

平家の滅びる様を描いたこの物語で、誰が一番武将として、輝いているかと云えば、誰もが疑いなく義経と答えるであろう。とにかく平家を己の軍事的資質で滅ぼした義経の活躍は際立っている。しかし平家を滅ぼしたはずの義経にも、間違いなく滅びの影が忍び寄っていることを、「平家物語」は暗示しながら、義経のその後を語らぬままに筆を置く。そこに義経に関する伝説伝承が、新たに伝説と伝承が形成されていく要因があるように思われる。平家追討の最大の功労者が、突然逃亡者になる運命の皮肉、これが単なる物語ではなく実際にあったことなのだから、世の人が、耳目を奪われるのは、至極当然なことである。大衆としては、ここで筆を置かれたのでは、たまらない。いったい次に、この義経は、どのようになってしまうのだろう、と考えるのが人情というものだ。

おそらく日本中の人間が、語りによって、平家物語を聞きながら、次にはその後の義経の動向について、語って欲しいと思ったのである。実際、義経主従が、どのようにして、都を離れ、最後にはどのようにして奥州まで行ったのかは、分からないのだ。もちろん当時から、吾妻鏡などを読めば分かるように、様々な噂はあった。しかし事実については、謎なのである。そこで語りの作者達は、噂を基にして、自分なりの解釈で、その謎を埋めるべく、面白く、とにかく大衆受けのする話を創作して、謎を埋めて行ったのである。

ともかくそこに腰を落ち着けたのも束の間、庇護者である藤原秀衡は、あっけなく死んで、秀衡の嫡子である泰衡に攻められて、自害をし、首を取られるのである。この悲劇の一部始終を詳しく知りたい。

こうして人々は、義経の悲劇に満ちた人生に大いなる興味を持ち、平治物語や平家物語などを通して、自分の中にある義経像というものを形成していった。源平盛衰記などにおける一ノ谷辺りでの極めて綿密に計算された表現などは、人々が平家物語では飽き足らない部分を、作者がより聞き手にリアリティーを感じるように創作的工夫をした結果と思って間違いないであろう。
 

義経記の成立とその後の展開

「義経記」は、平家物語の原型が成立して後、200年以上も経て、作られたと見られている。年代にすると室町時代であり、あの能の世阿弥が活躍した時期に当たる。この200年の間に、おそらく多くの義経に関する伝説と伝承が形成され、それを綜合する形で、この「義経記」は成立したのであり、決して一人の作者の想像力によって、書かれたものではない。その意味では、「義経記」によって表現されている「義経伝説」というものは、一人の作者によって創造されたものではなく、日本国民が歴史的時間を労して形成した一人の英雄物語なのである。

ただしこの「義経記」も、能の題材になるなど、「義経伝説」の歴史において画期的な作品ではあったが、全ての義経ファンのを満足させるものではなかった。丁度、聖書において、十字架の上で亡くなったはずのキリストが、復活するように、どこかで稀代の英雄である義経を生かしておきたい人々の感覚が、「義経記」の最後の英雄の自刃に否定的感覚を持ったのである。この感覚が、更に200年以上を経て江戸時代になって、義経は、そこで死なずに、北へ向かったという伝説を形成し、いつしか義経北行伝説として結実していくことになるのである。

ある意味では、義経北行伝説は、第二の義経逃亡記とも云える綿密なものである。明らかにその逃亡ルートは、義経記における北陸道を北上した義経主従を意識して形成されたものであろう。またそのルート作成の協力者としては、修験(山伏)の人々の協力なしには考えられないと思われる。 

つづく



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2001.3.11Hsato