ブックレビュー 

仲間裕子著C.D.フリードリヒを読む

ドイツロマン派の画家フリードリヒ再評価の兆しか?!


著者:仲間裕子
出版社:三元社
定価:3200円+税
 1  現代とフリードリヒ芸術

現代は良きにつけ悪しきにつけポップ・カルチャーの時代である。この社会では、あらゆるものにポップな感覚と感性が要求・優先されるきらいがある。

そのためか、世相は自然と、分かりにくいもの、難解なもの、一筋縄ではいかないものは、後回しにされる。もっと言えば、ポップな感覚がないと見なされたも のは、店晒しにされ、忘れ去られてしまう対象となる。

19世紀から20世紀にかけて、世界の芸術の中心地は、フランスパリにあった。そんな時代にあって、ドイツ・ロマン派の画家「カスパー・ダーヴィト・フ リードリヒ」(1774−1840)は、なかなか取り上げられることの少ないアーチストである。

そのような人物に焦点を当て、その生涯と作品を微に入り細にわたって、論じた本書「C.D.フリードリヒ」は、21世紀に入り、この稀有な個性と魅力を もった画家の再評価の時代が到来したことを暗示させる(?)労作である。

私はこの本を読みながら、フリードリヒという人物の作品を概観しながらも、日本の近代に大きな影響を与えてきた「ドイツ文化」(ドイツ的感覚・感性)とい うものを絶えず考えさせられた。どのような芸術作品も、必ず時代というものの制約から逃れることは出来ず、そこには必ず時代性というものが反映するはず だ。同時に優れた芸術作品というものは、時代の制約を遙かに越える普遍性というものを有しているものである。フリードリヒの作品には、この時代性と普遍性 が程よく入り交じり、言葉としては容易に表現できない深い味わいが潜在しているのである。



虹のある風景
(1810、油彩、59cm×84.5cm)


 2  フリードリヒと文豪ゲーテの邂逅

この本を読みながら、気づいた面白いエピソードがある。それはこの画家フリードリヒの生まれた1774年は、ドイツを代表する文豪ゲーテ(1749ー 1832)が、青年の恋の苦悩を書簡形式をとってリアルに書き上げた傑作「若きウェルテルの悩み」を世に出した年だったということだ。

ちなみにゲーテは25歳だった。この時代のドイツは、フランスとの七年戦争(1756−1763)で敗北する。しかしながらこの敗北は、ドイツ人のナショ ナリズムを鼓舞する意味では、それなりの意味を持つものであったと思われる。

「若きウェルテルの悩み」に一貫して流れるメランコリックな空気は、このような時代背景があったものと推測される。しかも恋愛というものに宿る魔のような 感覚は、国や時代を越えて人間誰しも罹る「麻疹」(はしか)あるいは「通過儀礼」のようなもので、私もこの小説にのめり込んだ時期があった。

その頃、存命だった寺山修司(1935ー1983)が、「若きウェルテルの悩み」などに没頭する気持が分からんという趣旨の発言を寺山一流の言い回しで 行ったことがある。私は寺山を感性として「麻疹」に罹ったことのない変態的感性を持つ人間だ、と切り返して、寺山好きの友人と大激論になったことを思い出 す。

私は、このフリードリヒの絵画の根底に流れるメランコリックなものの正体が、もしかするとこの時代を象徴する空気のようなものがあるのではないかと思うよ うになった。どこかで、画家フリードリヒと作家ゲーテの魂は、ドイツ的な集合的無意識の中で交錯しているのではないかということも想定しうる。

事実、フリードリヒとゲーテは、運命的な邂逅をしていることが本書により分かった。

フリードリヒの代表作のひとつに「虹のある風景」(1810 油彩 59×84.5)という作品がある。これはゲーテの「羊飼いの嘆きの歌」という詩を下 に描かれた作品ということだ。

作品の地となったリューゲン島は、ドイツの最北部にあり、バルト海に面した976平方キロメートル、人口7万3千人(2001)ほどの、ドイツ最大の島で ある。現在、島は観光化され、石灰岩による白い砂浜と松やブナの森、劇的な断崖の景色などを特徴とする風光明媚なところである。

ゲーテは、この詩以下の詩「羊飼いの嘆きの歌」をドイツ最大の島リューゲン島で詠んだ。

 向こうのあの山に
 ぼくは何回となく立ち
 杖で身を支えながら
 谷底を見下ろす

 それから草を食む羊たちの群れの後を
 追う、群れは犬が見張ってくれて
 ぼくは下までおりて来た
 でも、もうやって来たのかわからない

 この牧場に
 きれいな花が咲き乱れている
 ぼくはそれを摘む
 でも、だれにあげていいのかわからない

 雨やあらしや、雷光は、木陰で凌ぐ
 あの扉は閉じたまま
 すべては悲しいけれど
 夢なのだ

 虹がかかった
 あの家の屋根の上に!
 だがあの子は行ってしまった
 遠い国へ

 遠い、遠い国へ
 海を越えて行ったかもしれない
 おしまいだ、羊たちよ、おしまいだ!
 羊飼いのぼくはこんなにも悲しい
 (仲間裕子氏がゲーテ全集第一巻人文書院1968年などを参考に訳出)

これは仲間氏の注によれば、民謡を題材にして、ゲーテが創作し、これにシューベルト(1797−1828)が曲をつけて、素晴らしい歌曲となっている。

フリードリヒの作品は、丁度、天と地はカンバスの半分ほどの地点で分割されている。虹という一件希望を思わせる題材でありながら、極めて陰鬱な雰囲気のも のとなっている。厚い雲が重くたれ込めている。海の彼方に白い虹が今にも消え入りそうに見えている。羊飼いと思われる人物が雲によって光を遮られた丘の上 に立って、羊の群れを見ている。羊たちは牧羊犬に追われるままに、なだらかなスロープを下り緑の野原の方に向かっているようにも見える。

歌詞によれば、この歌は、遠くに行ってしまった子に対する悲しみを詠った詩である。おそらくこれは死を意味し、虹が出ているにもかかわらず、羊飼いの心は 少しも晴れず、メランコリックなイメージが、画面そのものからもひしひしと伝わってくるのである。

周知のように、ゲーテは、少年時代に、グレートヘンという少女に大失恋をして、後にこの時の精神的なショックが、「若きウェルテルの悩み」や最高傑作とい われる「ファウスト」として結実したと言われる。ゲーテのロマン主義の背景には、このような少年時代のメランコリックな経験というものがあるのかもしれな い。

この作品は、ゲーテの仲介によって、ワイマール(ヴァイマール)のある公爵が購入したということである。


 3 ゲーテを拒絶するフリードリヒの芸術哲学

後に文豪ゲーテと画家フリードリヒの関係はあるきっかけによって切れてしまう。それはゲーテが雲の類型を描くようにフリードリヒに依頼したことだった。 ゲーテには、周知のように「色彩論」(1790−1810)という大著がある。これは「光」と「色」に興味を持ったゲーテが20年をかけて上梓したもので ある。おそらくゲーテは、この研究の過程で、雲の様々な類型を、フリードリヒの観察眼によって、標本化しようとしたものであろう。

しかしフリードリヒは、この世紀の文豪の依頼を断った。その理由が実に面白い。第一に「風景画をシステムへと覆す」、第二に「光と自由な雲が将来この厳格 な秩序に奴隷的に強制されてしまう」という理由だった。

しかし私はここには、ふたりの芸術家の間には、大変な誤解があったと推測する。ゲーテは、光の研究の中で、色彩の移り変わるサンプルを、しっかりとした観 察眼を持つ、フリードリヒに頼みたかった。しかしフリードリヒからすれば、それは芸術家の創作過程をシステム化するものであり、私は自然観察のために作品 を描いているのではないと言いたかったのである。もっと言えば、創作的な作品でない写真のような作品には意味がないとフリードリヒは、思ったのである。

ゲーテにしてみれば、ダヴィンチの手記にある科学的研究にあるように、雲の類型を観察することは、フリードリヒの今後の作品の展開にも必ず好影響をもたら すと考えていたと思われる。そして当然、フリードリヒは二つ返事で、引き受けてくれるものだと思っていた。しかしフリードリヒは、これを明確に拒絶した。 ここに私は、フリードリヒにも、そしてゲーテにも、良い意味で非常に生真面目で頑固なドイツ人気質があることを感じた。


 4 フリードリヒの創造の源泉だった(?)妻カローネ

フリードリヒには、同じくリューゲン島を題材として描いた「海辺の修道士」(1809 油彩 110.4×171cm)と「リューゲン島の白亜岩」 (1818 油彩 90.5×71cm)という代表作がある。ふたつの作品の間には、9年の時間的距たりがある。前者は茫洋と海辺の景色のなかに、ひとりの修道士が光 にとけ込んでしまいそうなイメージの絵である。それに対し後者の方は、無機質というよりも太陽の光を強い反射する白く輝く石灰岩の断崖の脇に樹木が生い茂 り、彼方の海には、二艘の帆船が浮かんでいる。生と死の淵を連想させる絵である。ここに描かれているのは作者自身とその妻、そして弟の3人である。この時 1818年6月から8月にかけて、作者フリードリヒは44歳になっていたが、新妻のカローネ・ポマーと、このリューゲン島まで、足を伸ばしていた時期で、 希望というか、生命の躍動のようなものを感じる。一年後には、長女エマが生まれている。

おそらく、かなりの年配となったフリードリヒにとって、新妻カローネの存在は、創造力の源泉となったのであろう。1922年の作品に「窓辺の女性」という ものがある。これはアトリエの窓辺に妻カローネと思われる女性が佇んで、外を見つめる絵である。画家フリードリヒは、その背後にいて、愛する妻と窓から拡 がる世界を静かに眺めている。ここにはメランコリックというよりは、フリードリヒが最後に辿り着いた安堵の思いが作品と結晶していると思えてならない。




大狩猟場
(1832、油彩、73.5cm×102.5cm)



 5  代表作「大狩猟場」に見えるフリードリヒ芸術の完成

最後に、この本の表紙カバーとなっているのは、1932年に描かれた傑作「大狩猟場」(油彩 73.5×103cm)について、少し触れたい。仲間氏は、 この絵を次のように評している。これは一般にドイツドレスデンの北西部に広がる「オストラ・ゲヘーゲ」を描いたものとされる。

仲間氏は、この作品を次のように評している。

「<<大狩猟場>>には動と静、対立と統一、有限と無限、脅威と穏和の<対立>構造を通して、全体的志向が貫かれて いる。・・・フリードリヒの「感覚」によって創出された夕べの空のえもいえぬ美しい階調は、われわれの存在を脅かす水とともに、至福のひと時を表している のだ。」(本著第二章『フリードリヒの「抽象」』P98)

この絵画の特徴は狩猟場の夕暮れの一瞬を捉えた黄金色に見える空の色だ。地平線の雲も、もう少し前には、黄金色に輝いていたはずだ。しかしそこはすでに紫 色に変化をしている。夜は刻一刻と近づいているのだ。

私は、この作品にフリードリヒ芸術の完成と到達を見るのである。さてこの絵をゲーテが見たならば、自慢の大著「色彩論」を楯にして、ゲーテは何と論じるだ ろう・・・。実はこの絵が作成された1932年は、当のゲーテが「もっと光を」という謎の言葉を残して亡くなった年に当たっているのである。

私はこの作品にフリードリヒが、ゲーテからの依頼への回答のようにも感じる。というのは、この作品には、光が刻々と変化することによって、雲の色、空の色 が移り変わることを明確に感じさせる「光の移ろい」が表現されているからだ。もちろんこれは私の勝手な推測である。しかしフリードリヒが、若気の至りとも いうべき、たわいないきっかけで疎通はなくなったものの、敬愛する大人物ゲーテの魂の鎮魂のために描いたものかもしれないという観念を拭いきれないのであ る。

◇ ◇ ◇

C.D.フリードリヒの全貌を知りたいと思う人にとって、この本は素晴らしい贈り物 だ。年表があるのも助かる。その年表を読み、フリードリヒ13歳の時に、氷の割れ目に落ち込んだ彼を助けようとした弟のヨハンが溺死したという出来事に衝 撃を受けた。彼の自画像を見ると、その人生の負い目のような傷が、風貌にも反映しているように見えて仕方がなかった。このようなクオリティの高い著作を、 この値で世に出した出版社にも敬意を表したい。

2007.5.13 佐藤弘弥

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