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  ● パルミラの位置

 パルミラはシリア砂漠のほぼ中央にあります。シリアの首都ダマスカスから、東北へ距離にして約250キロ、車で約3時間の位置にあります。パルミラの遺跡は、10平方キロメートルの範囲にわたっています。パルミラの古名は、タドモールといいますが、現在でもシリアではこの呼び名のほうが一般的です。

  ● パルミラの歴史

 パルミラには、そのオアシスに7千年来人間が定着してきた跡が残っています。また、メソポタミア地方の数ヶ所の遺跡から出土した粘土板などに、前18世紀から11世紀にかけての記録として「タドメル」または「タドマル」の記述があることから、この地域にそのころ都市的な共同体があったことが推測されています。
 しかし、パルミラが歴史上に頻繁に登場するようになるのは、アレクサンドロス大王がペルシャ帝国を滅ぼし、その後シリア地域をセレウコス朝が支配するようになってからのことです。
 このころからパルミラは、ペルシャ湾岸と地中海を結ぶ交易都市として栄えました。砂漠の中の隔絶された町であったため、時にパルティア王国やローマ共和国の影響を受けながらも独立国家としての性格を強く持っていたと考えられています。
 紀元前64年に、パルミラは、ナバタイ王国やイスラエルと同様にローマの属州となり、ローマ帝国にとって経済的にも軍事的にも重要な位置を占めるようになりました。
 ローマ帝国の庇護の元に通商都市として発展したパルミラは、3世紀中ごろ、ゼノビア女王の出現により、独立王国として歩み始めますが、ローマの覇権を脅かしたことから、時のローマ皇帝アウレリアヌスによってその野望を打ち砕かれてしまいました。ゼノビアの統治はわずか5年であったとのことですが、その勇気と美貌は「ローマ帝国衰亡史」を著したギボンも「美においてクレオパトラに拮抗し、貞潔と勇気においてはるかにその女王を凌駕した」と書いています。

  ● パルミラの見どころ

パルミラ遺跡は、大きく三つの地区に分けられます。
第一には,周壁にかこまれたベル神殿や列柱道路などを含む都市遺跡地区。この地区は東西に2キロ・南北に1キロにわたって広がっています。第二には、第一地区の西側の墓の谷の地区。ここには、パルミラ人の塔墓群や地下墳墓などが点在しています。第三の地区は、アラブ城砦と呼ばれている西側山上のシタデルを中心とした区域です。それぞれの距離は数キロメートルも離れているので、一日のうちに徒歩ですべてを見学して回ることは難しく、ガイドの車などを手配する必要があります。

パルミラ都市遺跡

 遺跡の中心は、列柱道路でありベル神殿です。ベル神殿は、もともとシリア・パレスチナ地域で古くから信仰されていたバール神と同じで、ベルはそのバビロニア式発音ということです。レバノンのバールベックにもともと祀られていたバール神と根は同じなのでしょう。神殿の規模は壮大です。1辺が約200メートルのほぼ正方形の境内を持ち、その中央に本殿部分の建造物があります。本殿入り口には、美しい装飾の門があります。ベル神殿の創建は32年で、273年のローマ帝国のパルミラ占領により徐々に崩壊していきました。
 パルミラにはこのほか、列柱道路の南側、記念門の近くにナボー神殿、城壁に囲まれた遺跡のほぼ中央にあたる位置に、バールシャミン神殿があります。また、遺跡の西寄りディオクレティアヌス城砦の隣にアラート神殿の跡があります。この神殿で発見されたライオン像は、パルミラ博物館の屋外入り口に展示されていて、見るものを圧倒しています。
 列柱道路は、ベル神殿の正面入り口から北西にのび、記念門でやや北北西に折れて四面門をへて、アラート神殿跡までまっすぐに延び、そこでほぼ直角に南側に折れてダマスカス門に通じています。全長1.2キロに及ぶ道路ですが、よく復元保存されている部分は、記念門から四面門のあたりまでで、それより西側の部分は、道路部分に円柱が崩落したままで、道路に沿って歩くことすら困難に思えました。
 建造物もこの保存状態のよい道路の両側に集中しています。
 南側にはオデオンと思われる円形劇場、議場跡、商取引に使われたと思われるフォーラムなどがあります。また、道路の北側には浴場跡があります。
 列柱道路の北側には、住居跡とおぼしき広大な地域が広がっていますが、ところどころに建造物の名残りをとどめる円柱が無惨な姿をさらしているほかは、まさに荒野と呼ぶほうがふさわしく、今後の発掘の進展に期待するほかありません。
 ただ、バールシャミン神殿付近にたたずんで沈みゆく夕日を眺めていると、列柱がシルエットとなって悠久のときの流れのゆるやかさが胸にせまり、しばし茫然としてしまいました。

墓の谷

 現存する塔墓は約10基あります。その中でもエラベール塔墓がもっとも保存状態がよく、内部は入場料をとって公開されています。紀元103年の建立とされ、地下の墓室と地上4階の墓室からなっています。
 塔墓時代以降は、地下に墓室が作られました。墓の谷には、「3人兄弟の墓」と呼ばれる地下墓室を中心に50〜60基の存在が確認されているということです。「3人兄弟の墓」を見ると、階段を下りると正面に彫刻のある部屋、そして右側のコーナーに、壁画があります。

アラブ城砦

 パルミラ都市遺跡から見ると西北の山上にあるのが、アラブ城砦です。パルミラの町から車で20分くらいの距離にあります。要塞は山上にあるのに、深い堀で囲まれています。城の中は、要塞特有の複雑な通路が張り巡らされていますが、露台に上るとパルミラ遺跡や町が一望のもとに見渡せます。

  ● パルミラ遺跡に関するアラカルト

 ギボンは「ローマ帝国衰亡史」の中で、「現在のパルミラ住民は三四十戸からなり、彼らの泥土小屋を壮大な神殿の広々とした境内に建てている」と書いています。18世紀末のことですが、この状態は20世紀になっても変わらず、1929年までは、実際にベル神殿の境内に住居が密集していたとのことです。現在は都市遺跡の中にはゼノビアホテルを除いては住居はなく、シリア考古局の手で発掘や復元作業が進められているようです。住民などの生活の場は、都市遺跡の東北側に広がっており、緑濃いナツメヤシなどの林が起伏の少ない大地をおおっています。町の入り口のパルミラ博物館には、石棺彫刻などを中心に多くの展示品があります。
 パルミラは、先述のように砂漠の中のオアシスで、遺跡の南側にはきれいな水が湧き出る泉があります。古来より砂漠の民にとってこの泉を守ることは一族の生命と財産を守る上で最重要な課題であったのでしょう。パルミラ出身の若者によると、この町に住んでいる人々は、すべて同じ部族であるとのことでした。

ベル神殿 ベル神殿本殿 記念門 円形劇場 浴場 ナボー神殿 四面門 パールシャミン殿 列柱道路 列柱道路

 
山崎喜世雄(やまざききせお) Kiseo Yamazaki
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1996.5.31