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カルタゴの位置
 チュニジアの首都チュニスの中心街から車で東北に約30分、およそ12キロの郊外にカルタゴ遺跡は展開しています。遺跡はかなり広範囲にわたって、古代カルタゴの遺跡とローマ帝国時代の遺跡が混在しています。ポエニ時代の古代カルタゴ遺跡はカルタゴ博物館付近にあり、発掘された住宅遺構などが比較的よく保存されています。この丘はビュルサの丘と呼ばれていて、古代からアラブ人の侵入時までカルタゴの中心地であったと考えられています。

カルタゴの歴史
 古代カルタゴは、地中海交易で栄えたフェニキア人の殖民都市でした。伝説では、紀元前814年に、フェニキアの王女エリッサ・ディドが町を建設したとされています。そのときから、ここはカルタゴ(カルト・ハダシュト)=「新しい町」と呼ばれるようになったということです。
 地中海の東から興ったフェニキア人は、地中海の沿岸各地に植民地を作りましたが、カルタゴはその中でも西地中海交易の中心地として栄えました。やがて地中海の覇権をめぐってローマ人と対立するようになり、3度のポエニ戦争で敗北後、古代カルタゴは滅亡しました。
 カルタゴに替わって地中海を支配するようになったローマは、紀元前29年以後アウグスツスの時代に殖民都市カルタゴを建設しました。ポエニ戦争後ことごとく破壊され、土地には塩さえ撒かれて草木も生えないといわれていましたが、破壊したローマ人によって町はよみがえり、2〜3世紀には絶頂期を迎えるにいたりました。
 ローマ領カルタゴは、ローマ帝国のアフリカ属領の中でも穀倉地として重要な位置を占めていましたが、5世紀にゲルマン民族のヴァンダル族が侵攻した後、それを掃討した東ローマ帝国領となって、遂には紀元697年に侵攻したイスラム帝国により町は破壊され、二度と町がよみがえることはありませんでした。

ビュルサの丘
 ポエニ時代のカルタゴの中心地が、現在「ビュルサの丘」と呼ばれている区域です。現在ここには、カルタゴ博物館とサンルイ教会が寄り添うように建っています。博物館の南前庭からは、ポエニ時代の住宅跡が望めます。
 博物館には、遺跡からの出土品やモザイクがそれぞれの支配時代別に展示されています。

古代カルタゴ軍港
 シディブサイドへ通じるハビブギバ通の入り口近くに古代カルタゴ港があります。一見して池のようにも見えますが、中央に島を配置したドーナツ形の軍港とその南側に商業用の港の跡が今も残っています。

ローマ人住宅跡
 ビュルサの丘から北の方向1キロ以内のゆるやかな斜面に、海側に向けてテラス跡が残るローマ人の邸宅跡があります。テラスのモザイク画は露天にさらされていますが、よく保存されています。近くには円形劇場跡もあります。


円形闘技場跡
 ビュルサの丘よりさらに内陸部には、円形闘技場の跡があります。ローマ帝国時代にあっては、最も大きい闘技場の一つであったようです。中世期にここを訪れた人たちは、そのアーチを生かした建築に驚嘆したということです。その後数世紀にわたって、闘技場に使われていた石材が持ち出されたので、現在は遺構を見て、往時を想像するしかありません。

ラ・マルガの貯水場跡
 ローマ時代の都市遺跡には必ずあるのが水道と貯水池です。ラ・マルガの貯水場はかなり大規模で、縦100メートルの細長い貯水池が20本以上もあったといいます。現在はそのうちの15本が残っています。すべてアーチ型の天蓋で覆われています。

 
山崎喜世雄(やまざききせお) Kiseo Yamazaki
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1996.5.31