川村渇真の「知性の泉」

ダメ意見:完璧なXXXなんて不可能だから


意見の使われ方:相手が支持する何かに対して用いる

 何かの手法や方法論を批判するとき、「完璧なXXXなんて不可能だから」という表現を聞いた(読んだ)ことがないだろうか。たとえば、「完璧な教育方法なんて提供できないんだから」とか「完璧なシステムなんて設計できないんだから」といった意見だ。
 こうした表現は、自分が支持する何かではなく、相手が支持する何かに対して使われる。話題がシステム設計であれば、相手が支持する開発手法や開発方法論が対象となり、それを用いても完璧なシステムを設計できないと言う。教育であれば、教育方法や教育システムが対象となり、それを用いても完璧な教育が提供できないことを主張する。どんな対象であっても、完璧でないことを強調するのが目的だ。
 こうした表現を用いた後には、必ず続きがある。自分が支持するもの(自分支持物)を取りあげ、それが相手が支持するもの(相手支持物:上記の表現に使われた対象)よりも良いと主張する。ただし、似たようなものであれば、同じように完璧にはできないため、かなり特殊なものを支持する。その特徴は、とりあえず試してみて、ダメだったらやり直すという、試行錯誤的な方法の場合が多い。さらに、良いものができることを保証できない(良いものができると論理的に説明できない)ことも多い。試行錯誤を続ければ凄く良くなるだろうという期待が背景にあるだけで、それで何でも改善できるわけではない。期待が中心なので、そうなる根拠を説明できないわけだ。

意見の特徴:相手支持物にだけ完璧さを求める

 こうした使われ方を第三者的に見ると、不公平な感じを受ける。相手支持物には完璧さを求める形の表現を使っているのに、自分支持物には完璧さを求めてはいない。また、なぜ完璧さを求める必要があるかという根拠を説明することもない。唐突な形で完璧さが登場し、それを相手支持物に対してだけ適用している。
 もう1つ考えなければならないのは、完璧なものが世の中に存在するかだ。完璧と判断するからには、判断基準が必要となる。その基準を誰が示せるというのだろうか。もし仮に、完璧の基準ができたとしよう。その基準を満たすような形で作れれば、完璧なものが完成する。しかし実際には、さらに良いものを目指すため、新しい目標が自動的に生まれる。それが新しい基準となり、それに照らし合わせると、完璧とは言えなくなる。現実には、このような形で繰り返され、いつまで経っても完璧なものが得られない。さらに、完璧の判断基準が人によって異なると、その全部を満たさなければ完璧とは言えないはずだ。
 こうして考えていくと、完璧といえるものなど、存在しないことに気付く。ということは、完璧な何かが作れるかという意見は、実際には作れないレベルと比較していることになる。こうした比較なら、どんなに良いものでも悪く言われてしまう。つまり、「評価対象が劣っている」と絶対に言える意見なのだ。しかも、それを相手支持物にだけ適用するとなれば、どれだけ不公平な考え方なのか理解できるだろう。

意見がダメな理由:良し悪しの程度が重要なのに無視してる

 それでは、自分支持物にも完璧さを求めたら、問題点は解消するのだろうか。残念ながら、自分支持物の評価も「完璧なものより劣っている」という結果にしかならない。完璧なものと比べている限り、「どちらも劣っている」という結果しか得られない。こんな比較に意味がないことぐらい、誰でも理解できるはずだ。
 もし完璧なものを持ち出すなら、「完璧なものができるかどうか」ではなく、「完璧なものと比べて、どんな点がどれだけ劣っているかを調べ、その結果を両者で比較する」というのがマトモな方法である。この場合、評価する項目を何個か洗い出し、それぞれで評価基準を設定し、良し悪しのレベルを判断することとなる。
 この考え方を、別な方向から見てみよう。完璧でないものは、全部が同じなのではなく、良し悪しに差がある。相当良いものから、まあまあ良いもの、少し劣るもの、かなり劣るもの、無茶苦茶に劣るものなど、いろいろなレベルに分けられる。それを完璧かそうでないかだけで判断するという考え方は、物事の良し悪しの程度を完全に無視していることに等しい。かなり無謀な考え方だというのが、よく分かるだろう。
 さらに、完璧さを求める対象がいろいろあるのに、どれか1つだけにしか求めていない点も注目すべきだ。システム設計の例なら、設計されたシステムの質以外にも、プログラムの質、仕様書の質、テストの質などが考えられる。実際には、さらに細かく適用できる。プログラムなら、ソースコードの読みやすさ、変更のしやすさ、エラー処理の豊富さなどが挙げられる。
 このように様々な対象で完璧さを求められるはずなのに、なぜか特定の1つだけにしか求めていない。その大きな理由は、相手支持物を悪く言うのが目的だからだ。もし様々な対象に完璧さを求めたら、大変な事態になる。たとえば、「完璧なプログラムなんて作れないから」とか、「完璧なエラー処理なんてできないから」とか、次々に挙げて考えてみたらどうなるだろうか。そもそも、この問いかけ自体、完璧に作れなかったら、どうしろというのだろうか。「完璧なプログラムなんて作れないから、テキトーに作っておけばいいさ」とか、「完璧なエラー処理なんてできないから、エラー処理なんて組み込まないでおこう」とでもしたいのだろうか。相当に不思議な考え方といえる。
 こうした異常さは、同じ考え方を普段の生活に適用してみると、さらに強く感じられる。ちょっと極端な例を挙げると、「完璧な報告などできないから、テキトーに何か言っておけばいいや」、「完璧な出社などできないから、テキトーな時間に行けばいいや。いや、出社しなくていいかも」、「完璧な洗濯などできないから、洗濯せずに着続けよう。新品を何着も買えないし」、「完璧に大便するなんてできないから、トイレに行かず、ズボンをはいたまま出してしまおう」など、変な例がどんどん出てくる。現実には、こんな風に考えず、少しでも良い方法を選んで(良し悪しを比べて選んで)行っているはずだ。こうした例なら、多くの人に異常さが理解できるのではないだろうか。

より良く改善:適切な評価基準を採用する

 ここまでの解説で、完璧にできるかどうかだけを問題にする考え方が、どれほど変なのか理解できたと思う。では、その代わりとして、どのように改善すべきかを検討しよう。
 前述のように、大切なのは、「完璧かどうか」ではなく「良し悪しの度合い」である。どれだけ良いものができるかどうかで比較し、優劣を付ければよい。当然、優れている度合いが判断できる評価基準を用意し、それに照らし合わせて評価することになる。
 実際に評価すると、「1つの評価結果が全面的に優れている」という結論に達するわけではない。人間の能力が実施結果に大きく関係する場合、能力の違いによって評価結果が異なったりする。システム開発なら、システム設計能力が高い人に適した方法と、あまり高くない人に適した方法がある。システム設計能力が相当に高ければ、試行錯誤を必要とせずに、高いレベルのシステムを最初から設計できる。逆に設計能力が高くなければ、試行錯誤を盛り込んだ方法によって、能力の低さをある程度は補える。ただし、補えるのはある程度であって、設計能力を高めなければ、質の高いシステムは設計できない。
 このように、良し悪しが生じる原因を分析することが、評価対象の特徴や質を見極めるのに役立つ。こうした点を知れば、評価対象の優劣だけを単純に評価すると、不適切な評価になることも理解できるだろう。
 また、成果物の質が担当者の能力に関係する場合は、どのような能力を身に付けたら、より良い成果が達成できるかも、少しは明らかにできる。そのような視点で議論を続ければ、お互いの支持しているものの特徴が分かる以外に、もっと重要な何かを得られる可能性が高い。

発言者の特徴:物事を公平に評価できない

 「完璧なXXXなんて不可能だから」というダメ意見を使いたがる人の、思考の特徴も知っておきたい。上記のように、この考え方では、自分に都合の良い箇所にだけ完璧さを求めている。これは不公平な比べ方であり、マトモな評価からはほど遠い。
 こうした考え方をする人は、残念ながら、適切に評価する能力があまり高くない。相手支持物と自分支持物の両方を、公平な扱いで評価できていないからだ。また、公平に評価できない人は、自分にとって都合の良い材料ばかり集め、それで評価結果を作りたがる傾向が強い。加えて、相手から出された悪い材料を無視する傾向も強い。
 検討対象に必要な能力に関しても、緩やかな特徴がある。完璧さを求めた要素に関して、能力が劣っている場合が多い点だ。たとえば、「完璧なシステムなんて設計できない」という表現では、必要な能力として、システム設計能力が挙げられる。その能力が高くないから、設計結果の質が能力に大きく関わることを理解できず、こうした発言を使ってしまうわけだ。逆に、対象となる設計能力の高い人は、こうした表現を使わない。

対処方法:適切な評価方法の採用へ導く

 このダメ意見の利用者を相手にする場合は、上に挙げた特徴を理解して対応しなければならない。まず最初に、「完璧なXXXなんて不可能だから」という意見が、いかにダメかを説明する。ただし、こうした説明が通じない可能性もあり得る。
 次に試みるのは、お互いの支持物に関して、良い材料と悪い材料を全部挙げる方法だ。単に挙げるだけだと、一部が無視されやすいので、整理して見せなければならない。一覧表の形が一番適している。テキストしか使えない状況なら、箇条書きの形で一覧表を作ればよい。より良い検討のためには、重要度や影響度なども考慮する必要がある。これも一覧表と一緒に見せた方がよいので、一覧表の中に含める。
 こうした形で見せれば、評価対象の全体像を整理した形で伝えられる。全体像が見えるため、自分にだけ都合の良い解釈が難しくなり、より良い検討へと導ける。全体像を把握するのは、物事を総合的に評価する際の基本なので、絶対に欠かせない点だ。それを理解してもらうためにも、総合的に評価しないと意味がないことを、一覧表で示しながら強く訴えよう。
 総合的な評価が伝わったら、評価基準を話を持ち出す。その際には、適切な評価方法とはどうあるべきなのかも、一緒に説明する。それを理解させた後で、評価基準の作成へと進む。良い評価基準が作れれば、適切な評価がある程度確保できたに等しい。
 こうした流れで進めるわけだが、途中で予想外の反応もいろいろ出てくるだろう。しかし、ねばり強く導かないと、より良い評価や議論は実現できない。実際にはマトモな話が通じない人も意外に多くいるので、そう判断したときには、説得をあきらめるしかないが。

(2001年11月6日)


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