川村渇真の「知性の泉」

論理的思考の役割と位置付け


論理的思考の特徴を改めて整理

 論理的思考の全体像が理解できると、その役割も見えてくる。さらに、その位置付けも導き出せる。このような観点で、論理的思考を少し整理してみよう。

 まず最初は、論理的思考の特徴だ。本コーナーで紹介している論理的思考は、必要となる条件を定めてから、それを満たすような工夫を盛り込んで設計してある。こうした形なので、論理的思考の条件自体が、その特徴と等しい。以前に示したように、主なものは次のとおりだ。

論理的思考が満たすべき主な条件(=特徴)
・可能な限りの最良解を求められる
 (対立意見の優劣を決めるのではなく)
・解決方法などでは効果を適切に評価する
 (効果を無視した検討が意外に多いので:政策や教育など)
・邪魔行為を上手に排除できる
・重要な事柄の漏れを発見しやすくする
・仮定などの不確定要素を上手に扱う
・意見や価値観の本当の姿を明らかにできる
・思考内容を第三者がレビューできる(途中でも終了後でも)
・難しい課題でも何とか打開できる
・思考内容の全体像を容易に把握できる
・思考内容の細かな部分も容易に把握できる
・より多くの人が使える形に仕上げる

 論理的思考には、これら全部を満たすように、様々な工夫を盛り込んである。その結果、論理的思考の全体には、非常に多くの要素が含まれている。少しでも理解しやすいようにと、基本要素、実用要素、強化要素、各種支援技術の4つに分けた。この4つを総合して、上記の条件を全部満たす。

役割は、可能な限り適切に検討する道具

 論理的思考の特徴から、その役割を考えてみよう。論理的思考は、問題を解決したり、新しい商品を考えたりなど、何かの課題を検討するために用いる。
 ただし、どんな風に検討してもよいわけではない。良い検討結果を得ることが大切で、そのためにも検討の質が問われる。この点で大きく貢献するのが論理的思考だ。当然、可能な限り良い検討結果が期待される。
 この「可能な限り」という部分が非常に重要。昔に比べると科学技術などが大きく進歩したものの、世の中には、まだ不明なことが数多く残っている。そのため、後の時代から見れば最良ではないと簡単に分かる内容でも、検討した時点では最良の検討結果として導き出されることは、どうしても起こってしまう。この点まで考慮すると、「その時点で可能な限り」という条件を付けるしかない。
 実際に検討してみると、この「可能な限り」の実現は意外に難しい。他人が気付いているのに、自分では気付かない事柄が漏れていたとき、「可能な限り」を満たしたと言えるだろうか。漏れをまったく探さないなら、満たしてはいない。また、必死で探したとしても、探し方が悪かったために漏れたらどうだろうか。別の人が探して簡単に見付かるなら、満たしていると言えない。そのため「可能な限り」というのは、「自分にとって可能な限り」ではなく、「多くの人にとって可能な限り」が求められる。「本人が頑張ったので、悪い検討結果でも構わない」とはならない。
 論理的思考の中身は、こうした点も考慮して設計してある。漏れの検査を作業に含めたり、第三者によるレビューを容易にしてレビュー実施を求めたり、漏れの発見を外部に手助けしてもらったり、思考材料の本当の姿を明らかにする形で。こうした工夫を盛り込むことで「可能な限り」を実現する。
 以上を踏まえ、論理的思考の役割を言葉で表現するなら、「物事を、可能な限り適切に検討する道具」となる。

どんな課題にでも利用可能

 可能な限り適切に検討する道具であるなら、利用できる対象、つまり扱える課題の種類や範囲に何か制限があるのだろうか。
 汎用的な思考方法なので、どのような課題にでも利用できる。社会の様々な問題、個人の悩みの解決、学問上の課題、すぐに回答できる問題など、何でも扱える。ただし、あまりにも簡単な課題では、利用するのが面倒なだけで、利点よりも手間の方が大きい。利用しなくても分かる課題なら(より正確には、絶対に簡単だと判明しているなら)、無理して利用しない。
 利用する範囲に関しても、とくに制限はない。作業全体に利用することも、一部の作業に利用することもできる。問題解決であれば、問題解決全体に利用することも、問題点を明らかにする作業や、原因を見付けだす作業など、含まれる個別の作業に利用できる。ただし、一部の作業にだけ利用すると、全体としての検討結果の質は保証できないので、全体に適用するのが必須だ。

課題の難しさに関係なく役立つ

 課題の難しさとの関係も、少し考えてみよう。簡単な課題なら、論理的思考の方法を用いなくても、適切な検討結果を得られる。ただし、課題が簡単かどうかは、ある程度の深さで思考しなければ判断できない。一見簡単に見えて、実は難しい課題だったこともあるからだ。
 このような場合、頭の中だけで考えるような方法では、判断を間違う可能性が高い。論理的思考の道具を用いて思考内容を整理し、漏れがないかなどを確認してからでないと、正しい判断ができにくい。どんな課題でも論理的思考を利用するのが、賢い選択といえる。つまり、課題が難しいか判断するのにも、論理的思考が役立つというわけだ。
 難しい課題の場合はどうだろうか。内容を整理して思考できるとともに、漏れの発見、適切な評価、第三者によるレビューなどの効果によって、利用しない場合よりも格段に良い検討結果が得られやすい。つまり、課題が難しいほど、論理的思考を利用する効果が大きいわけだ。
 こうした特徴は、検討結果の質として現れる。簡単な課題に利用した場合、最良解かそれに近い解が得られやすい。思考内容が整理できて漏れも減るので、思考結果の質が良くなるからだ。現実の世の中を見ると、それがよく分かる。簡単な課題でも、自分に都合の良い材料だけで考えて結果を出している人が、いかに多いことか。
 難しい課題の場合は、最良解またはそれに近い解が常に得られるとは限らない(詳しくは後述)。それでも、論理的思考を利用しない検討結果と比べれば、相当によい結果が得られやすい。利用しない場合、とんでもない結果を出したりするので、その差は非常に大きい。
 以上を総合的に見ると、課題の難しさに関係なく、良い思考結果に近付くことが理解できる。

万能ではないが、最良解に近づく最善の道具

 難しい課題での利用を、もう少し詳しく見てみよう。まずは、難しくなる原因の洗い出しだ。代表的なものは、不明な点が解消できない、不確定要素がある、価値観が異なる、表向きと本音の意見が異なる、利害の対立で邪魔する行為が発生するなどだ。これらに対しては、個別に対処する必要がある。
 不明な点や不確定要素が残っている状況では、得られた情報を用いながら適切に検討する必要がある。不明や不確定の度合いを考慮しつつ、総合的な思考結果を導き出す。また、仮定のどれかが間違いだったとき、大きな失敗につながらない配慮も検討結果に含める。
 価値観の違いに関しては、それぞれの価値観の本当の姿を明らかにする。こうすれば明らかにダメな部分が見えるので、該当する箇所を修正してもらう。その後、個々の価値観を少しでも多く満たすような解を、注意深く設計する。たとえば、1つの固定するのではなく、利用者が個々に選べるようにするとかだ。このような工夫を盛り込むことで、多くの価値観に受け入れられる検討結果が出せる。
 表向きのスローガンに関しては、それらの本当の姿を明らかにする。その内容を評価した上で、採用するかどうかを検討する。こうすれば、一見良い意見のようだが、実は悪い意見を取り除ける。悪い意見を見破りやすくするわけだ。
 邪魔する行為に関しては、行った人に注意して記録する。余りにひどい場合には、検討作業から退場させたり、悪い行為を公表したりする。こうした厳しい態度も、検討の質を確保するためには必要である。
 他にも、漏れを発見するための工夫、第三者によるレビューなどが利用できる。だが、以上のような工夫を実施しても、良い検討結果が必ず得られるとは限らない。とくに漏れに関しては、防げない場合もある。たとえば、地球環境を保護する視点など、100年前にはなかった。今なら漏れだと気付くが、100年前では誰も気付かない。こうした点は、どんなに工夫しても防げない点だ。
 だとしても、論理的思考が悪い理由にはならない。もっとも注目すべきなのは、最良解が必ず得られることではなく、どの方法が最良解に近づけるかなのだ。他の方法による思考結果と比べてどうなのかを、評価しなければならない。論理的思考よりも優れた思考方法は、残念ながら存在しない。その意味で、論理的思考は「最良解に近づく最善の道具」といえる。

論理的思考の中身を知らないで語る人ばかり

 論理的思考の役割や効果が理解できたので、現実の世の中に目を向けてみよう。論理的思考の達成度や扱われ方を中心に。
 議論の場を中心に、論理的思考という言葉を耳にする機会は意外と多い。自分の検討結果を提示するとき、「論理的に考えると、こんな結果になる」などと言う人もいる。また、他の人の意見に対して「〜が論理的におかしい」などと指摘する人もいる。このような場合、言っている内容は適切であろうか。
 この設問への回答は、論理的思考の達成度を抜きにして語れない。達成度を分かりやすく表現するなら「どの程度まで論理的か」となるだろう。適切かの判定基準として、達成度をどのレベルに設定するかにより、判定結果は異なる。
 たとえば、論理的思考の基本要素を満たしているかを判定基準に設定すると、ほとんどの判定結果が適してないに属する。そうなるのは、論理的思考の中身をよく知らないからだ。「論理的思考」の言葉の意味を深く考えず、何となく感覚的に使っているのが現状だろう。当然、言葉の中身を細かく規定したりしない。その結果、自分に都合の良い材料ばかり用いたり、相手の良い点を無視して弱点ばかり指摘したり、劣勢になると価値観の近いとして逃げたりなど、論理的思考にはほど遠い行為を繰り返している。そんな人が圧倒的に多い。逆に、基本要素をすべて満たしている人は、めったに見かけない。
 こうした状況なので、「論理的な思考結果」と言いながら、そうでない思考結果が溢れている。それを見て「論理的な思考結果が正しいとは限らない」などと言う人まで登場する。本当は、論理的に思考できてないことが原因なのに、論理的思考自体が悪いように主張しているわけだ。もちろん、主張している当人も、論理的思考を理解してはいない。このように、論理的思考の中身を知らないのに、論理的思考に関して意見を述べている。しかも、中身を調べようともせずに。
 こうした人が数多くいるため、論理的思考を悪く思う人を生んでしまった。本来なら、高等教育機関が論理的思考を教えるべきだが、まったく扱っていない。それどころか、教官自体も論理的思考を身に付けてはいない。「数学を勉強すると、論理的な思考能力が高まる」という間違った意見を、未だに主張する教官もいるほどだ。こんな状態なので、状況が改善される見込みは極めて低い。
 今後は、論理的思考の習得者を少しずつ増やし、間違った意見を少しずつ否定していくしかないだろう。道のりは長いが、それ以外の方法を思い付かない。論理的思考が、高等教育機関の必修科目として採用されるのは、相当に先だろうから。

論理的思考は、既存学問の上位に位置付けられる

 世の中にとって、論理的思考はどのように位置付けられるのであろうか。これも非常に重要なテーマなので、簡単に検討してみよう。
 論理的思考と関係が深いと信じられている数学を、最初に取り上げる。論理的思考の課題が数学の課題なら、どうなるだろうか。もちろん利用できる。ただし、あまりにも簡単な課題だと、わざわざ使うほどのことはない。数学の知識だけで解けるからだ。
 数学の課題に利用できるかではなく、数学との関係はどうなるのだろうか。社会全般の課題を扱う論理的思考の中では、必要な箇所に数学を利用する。また、数学側に属する複雑な課題でも、“狭い意味での数学”(数式や配列など言葉以外で表現する部分)に含まれない箇所で、論理的思考を利用する。この場合、検討全体を統括しているのが論理的思考となり、その中の各部で、狭い意味での数学が使われる。つまり、数学の範囲内でも範囲外でも、論理的思考は数学の上位に位置付けられる。
 数学との関係を、数学が扱っている課題の側から、もう少し深く考えてみよう。数学で扱っている課題は、狭い意味の数学だけで済まない。言葉による説明は必須で、数式の前後に加えることが多い。また、条件や組合せが複雑になったり、プログラミングで実現するような複雑な論理も、数式だけで表現するのは難しい。そのため、数学の中には言葉による説明が昔から存在していた。そうした説明まで含めたものが、数学だと思われている。
 この考え方は、汎用的に利用可能な論理的思考が、独立して存在しない状態での認識といえる。論理的思考が構築された後では「論理的思考の一部(とくに基本要素)を数学でも利用している」と捉えることが可能になる。ただし、物事の範囲は明確に区切れるとは限らないので、両者の区切りを深く分析してもあまり意味はない。大事なのは、社会全般の課題でも数学の課題でも、全体を統括しているのが論理的思考の側だという点だ。
 同じことは、数学以外の学問との関係にもいえる。すべての学問には論理的思考が含まれていて、全体を統括している。もちろん、文系に属する学問も該当する。その意味で、論理的思考は、すべての既存学問の上位に位置付けられる。
 数学などの学問に論理的思考が含まれるなら、そうした学問を学ぶことで、論理的思考が身に付きそうなものだ。しかし、教育内容に欠点があるため、そうはならない。たとえば数学なら、狭い意味の数学に含まれる内容は、公式や定理として示しているので、学習者は明確に理解できる。ところが、論理的思考に関わる内容に関しては、公式や定理など用いず、あいまいなまま使っている。その結果、該当する学問の範囲でしか論理的思考が使えず、一般の問題に利用できるレベルには達しない。達するためには、論理的思考の内容に関しても、公式や定理の形か、それに相当する何かを提供する必要がある。

社会における論理的思考は、理系学問の数学に相当

 以上の話は、学問での課題を検討している限り、たいして意味はない。大きな意味を持つのは、数学などの学問を実社会の課題に適用する場合だ。
 分かりやすいように、例として数学を取り上げよう。実社会を例にした数学の課題では、かなり単純化した状態を取り扱う。実社会の数多い要素の中から、重要な要素だけを抜き出して、単純な数学上のモデル(抽象化した論理的な構造)を構築する。そのモデルに対して数学を適用し、課題の解を得る。
 こうした方法なので、数学に関する部分に関しては、特殊な場合を除いて間違う可能性が低い。間違う可能性が非常に多いのは、モデルを作る段階だ。良いモデルを作れなければ、数学的にいくら正しくても意味がない。「採用したモデルが、実際の課題を解いていることになるのか」が、もっとも大きな意味を持つ。モデルの適切さこそが、検討結果の良し悪しの鍵となるわけだ。つまり、良い検討結果を得るためには、良いモデルの採用が重要となる。
 良いモデルの作成は、数学の範囲外である。一番役立つのは論理的思考であり、良いモデルを作る際にも、モデルの良し悪しを評価する際にも使える。作る際の作業の流れは、次のようになるだろう。実社会の中から含まれる要素を抜き出し、省略して構わない要素と、残さなければならない要素を識別して、良いモデルを設計する。この流れに合わせて作成物を残すと、第三者によるレビューも容易となる。
 モデルの話は、数学以外の学問でも同じだ。検討結果の良し悪しは、採用したモデルの良し悪しでほぼ決まる。さらに論理的思考は、モデル以外の箇所でも利用され、検討結果の良し悪しに大きな影響を与える。総合的に見て、論理的思考が検討の重要な鍵を握っている。

 ここで一旦、理系の学問に目を向けてみよう。理系学問での基盤は数学であり、他の全部の学問で利用される。数学だけは特殊であり、他の学問が適切に行えるような基礎を提供している。
 同じことが、論理的思考にもいえる。物事を検討するための基盤であり、すべての思考活動が適切に行えるような基礎を提供している。その対象には、既存の学問が全部含まれる。当然、数学も。
 以上の点が理解できると、次のように表現を導き出せる。「論理的思考は、物事を適切に考える上での普遍的な基盤である」と。さらに「社会における論理的思考は、理系学問の数学に相当する」とも。これこそ、論理的思考の位置付けを的確に表した表現だ。

(2002年9月30日)


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