川村渇真の「知性の泉」

浮遊思考記録−2002年04月


●2002年4月7日

説明になってない説明内容

 登山に関する有名な言葉に、「そこに山があるから」がある。これは、「なぜ山に登るか」と尋ねられたときの回答だ。いろいろな意味を連想させ、何となく気持ちが伝わる言葉である。
 しかし、言葉が表す内容をマトモに考えると、細かな内容はまったく含んでいない。何も説明していない言葉である。それだけに、この言葉を聞いた人は、思い思いの理由を頭に浮かべる。その結果、上手に説明した印象を持つ。あくまで印象を持つだけであって、実際には何も説明していない。
 こうした表現方法が通じるのは、登山という趣味の世界だからだ。趣味だけに、本当の理由などなくても何も困らない。本当の理由が明らかにならなくても困らない場合にだけ、細かな内容を含んでない表現でも通じる。

 こうした表現を、もっと切実な分野に適用したらどうなるだろうか。たとえば、銀行強盗の犯人に動機を尋ねた場合だ。「そこに大金があるから」と言われても納得しないだろう。さらに分かりやすくするなら、犯人の動機を調べた検察官が報告したときを考えればよい。「犯人が銀行強盗をしたのは、銀行に大金があるからです」と報告したらどうだろうか。マトモな上司なら、調査のやり直しを命じるはずだ。大金は別な場所にもあるし、強盗した時点以外にもあり続けているのだから。
 もう1つの例として、不特定多数を対象とした殺人事件の動機を取り上げてみよう。通りすがりの人を何人も殺した犯人が、殺した理由を「そこに人がいたから」と言っても、納得できないだろう。殺人を犯したとき以外にも、犯人の周囲には人がいたからだ。
 銀行強盗や殺人事件以外でも同様に、こうした形の理由では、納得する人がほとんどいない。もっとも大事な部分、つまり知りたい内容が含まれていないためだ。なぜ強盗しようと思ったのか、なぜ人を殺そうと思ったのか、などだ。そのような内容を明らかにすれば、納得できる内容に仕上がる。そのためには、何を明らかにすればよいのかを最初に検討し、そのために何を調べればよいのかと考え進む。

 上記のような説明になってない内容は、銀行強盗や殺人事件のような場合だと分かりやすい。しかし、そうでない対象に関しては分かりにくいようで、意外に多く見受けられる。おそらく、本人たちは気付いてないのであろう。
 説明になってない内容が数多く見受けられるのは、インターネット上の電子会議室だ。取り上げた話題に関して、誰かが「それは○○だから」(○○には単語または短い表現が入る)などと発言する。すると、参加者の多くが賛成や納得の発言をして、その話題は終わってしまう。
 こうした短い表現自体は悪くないのだが、それで検討や分析が終わってしまい、大事な点に触れられず、しかも参加者がそのことに気付いていない点が問題なのだ。大事な点に達しないまま、思考が停止したのに等しい。
 にもかかわらず、参加者は何となく説明できたと思っているので、他の場所でも同じ表現を用いてしまう。こうして、説明になってない内容が広まっていく。この種の広まりは、誰かが「それって、説明になってないんじゃないの」と指摘するまで続く。

 以上のような状況に気付くためには、短い表現による説明が、対象に関する大事な点を取り上げているかを検査するしかない。自分の発言も他人の発言も含めて。
 一般的な傾向として、短い表現だけの説明では、大事な点に触れているか判断しにくい。もっと多くの言葉を使って説明してみないと、大事な点かどうか調べられない。つまり、納得できる説明に仕上げるためには、短い表現の良し悪しに関係なく、ある程度の長い説明が必要だと言うことだ。これは、短い表現で終わらすのは無理なことを意味している。
 こうした特徴が理解できると、短い表現に対して感覚的に納得することはなくなる。本当だろうかと疑うようになり、それを明らかにする質問をしたり、意見を述べたりする。何が大事なのだろうかと考えながら。こうした行為が当たり前になると、思考能力がだんだんと高まるはずだ。


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