川村渇真の「知性の泉」

書く機会が増えて作文や説明の能力が求められる


社会全体で書く機会がかなり増える

 情報技術が発達した社会では、口頭でなく書いて仕事をする比率が向上する。代表的なのは、グループウェアのソフトを使っての仕事だ。細かな報告はもちろん、打合せも電子会議を利用する。グループウェアを本格的に用いるなら、プロジェクト管理、提案、レビュー、ノウハウ蓄積など、非常に広い範囲の仕事に適用する。範囲が広がるほど、文章を作成する機会が増える。
 もちろん、書く機会の多さは、仕事の内容にも大きく関係する。何かを提案したり設計する仕事なら、今まで書いていた書類だけでなく、それ以外の作業でも書く資料が増す。それとは正反対の体を動かす仕事でも、仕事の質を上げるために提案や報告が求められ、書く機会が増加する。
 組織に属していない一般の人でも、電子会議に参加したり、情報を発信したりするようになる。また、質問やクレームに対し、電話では受け付けない組織が増えるので、電子メールが当たり前になり、どうしても書かなければならない。以上を社会全体として見たとき、昔よりも書く機会が確実に増えていく。
 ワープロや電子メールを使えない人は、今はまだかなり多いが、近い将来は当たり前になる。パソコンやモバイル機器は低価格化し、使い勝手も向上する。電話を持つのと同じぐらいの感覚で、インターネットへアクセス可能な機器を使うように変わる。そんな時代では、ワープロや電子メールを使えない人というのは、非常に珍しい存在となる。

最低限求められるのが作文能力

 書いた内容を理解してもらうためには、意味が通じるレベルで書く必要がある。伝えたいことが簡単な内容なら、それほど問題にならないだろう。しかし、少しでも難しくなると、内容を相手にきちんと伝えるは難しい。分かりやすく書く必要があり、それを助けるのが作文能力だ。
 作文能力は、残念ながら簡単に身に付く種類のものではない。きちんと理解している人から教えてもらい、一定以上の練習をしながら、だんだんと向上させるしかない。実際に書いてみて、悪い部分を直されながら、少しずつ上達するのが一番だ。悪い箇所を単に指摘するだけでなく、なぜ悪いのかを説明して、良い書き方を教える。こうした方法なら、たいていの人が“ある程度の”作文技術を身に付けられる。通常の仕事や生活では、ある程度で十分であり、それ以上は必要な人だけが習得すればよい。
 では、作文技術を身に付ける機会はあるのだろうか。本来なら、その役割は学校が持つべきだ。しかし、日本のほとんどの学校では、作文技術の初歩すら教えてくれない。これは重要な問題ではあるが、問題点だと認識している様子すら見られないので、当分は改善されないだろう。仕方がないので、自分で何とかするしかない。身に付けた人が近くにいれば教えてもらうのが一番だ。もしいなければ、関連する本を買って独学する以外にないだろう。現在の日本は、非常にお寒い状況にある。
 通常の仕事に仕方でも、他の先進国に比べて日本は遅れている。契約書を交わさずに仕事を依頼するとか(とくに下請け企業へ依頼するとき)、細かな仕様書を書いて仕事をしないとか、できるだけ書かない場面が多い。本来なら、重要な内容ほど書くのが当然なのに。こんな状況なので、きちんと書いて仕事する社会への移行には、大きなハードルが待っている。

文章による記述は口頭で伝えるよりも厳しく評価される

 書類として書く行為には、直接対話や電話のような口頭で伝える行為と比べて、大きく異なる特徴がある。書く機会が増える社会では重要な点なので、簡単に比べてみよう。
 口頭で伝える場合は、話した内容がその場で消えてしまう。聞く側がメモすれば残るが、全部の内容を正確に記録するのは困難だ。細かな点が食い違ってたとき、言った言わないの争いになりやすい。テープレコーダーで録音すれば解消できるが、面倒なのでそこまでやる人はほとんどいない。もう1つの特徴は、相手に向かって直接話すことで説得力を高められること。こういった特徴があるため、内容が少しぐらい悪くても、何とかごまかして相手を納得させやすい。逆に言えば、的確に判断しにくい伝え方である。
 これとは正反対の特徴を持つのが、文章による記述だ。記録として残るので、どのように発言したのか後から簡単に調べられる。言った言わないの争いは起こらない。また、どの部分でも好きなだけ繰り返して読めるため、全体の整合性があるかとか、適切な分析や設計がされているかとか、書いてある内容を高いレベルで評価できる。ごまかしにくい方法といえる。
 全体的に比べると、文章による記述の方が圧倒的に優れている。しかし、1つだけ欠点がある。作る際のに手間がかかる点だ。最大の理由は、内容の欠点が見えやすいことにつながっている。口頭ならば少しぐらい正確でなくても大丈夫だが、文章で書くとなると正確さを要求される。その分だけ深く検討しなければならないし、きちんとした形式でまとめなければならない。要求されるレベルが高いので、時間がかかって当然といえる。もう1つの理由は、文章を書くこと自体に慣れてない人が多い点だ。考えがまとまったとしても、それを文章として書くのが遅いので、全体で時間がかかってしまう。この点は書き慣れれば解消できるのだが、書く機会が少ないためか、苦手に感じている人が多い。もし慣れたとしても、口で話すよりは時間がかかるので、最終的には同じ速度にならない。
 実際には、考えながら書く場合は、考えている時間が一番長い。そのため、文章をタイプするのに慣れて打ち込み時間が短くなと、内容を検討する時間の比率が高まるので、書くのが話すより遅い欠点は、あまり気にならなくなる。また、検討する時間を削るのは難しいので、小さなテーマに時間を割かず、大きなテーマに集中することが求められる。簡単な話題は口頭で、重要な話題はテキストで話すのが、将来は理想的なスタイルとなる。以上のような理由から、タイピングの速度を向上させるのは必須の能力といえる。
 余談だが、音声データのままでやりとりする方法もある。しかし、テキストに比べると、一覧表示や検索が難しいので劣っている。話した内容をテキスト化する技術が確立すれば、入力の1つの方法としては使える。この場合でも、最終的にはテキストとして提出するのが大前提だ。文章の手直しまで考えると、タイピング速度を向上するのが、当面の現実的な対処といえるだろう。

仕事によっては説明や分析の能力も必要に

 文章として記述した内容が増え、口頭よりも厳しく評価される状況になれば、書いた内容を充実させることが求められる。問題点を指摘したり、解決案を提案したりといった、重要度の高いテーマほど内容の質が重視される。
 このような要望を満たすには、説明や分析などの能力が必要だ。これらは作文技術の上に位置するもので、作文技術の次に身に付けるとよい。この種の能力は、仕事の種類によって必要かどうかが異なる。必要とされる仕事の人は、身に付けなければならない。
 説明や分析の能力は、一気に身に付くものではない。まず最初に作文能力を身に付け、それを向上させながら、説明能力なども身に付けていく。大切なのは、ある程度の作文能力が身に付いた人を増やすことである。そんな人が増えることで、もっと上位の能力を身に付ける人が出てきやすい。
 国家や組織の知的レベルを評価する際に、高等教育を受けた人の数や比率を挙げることがある。この方法で問題なのは、高等教育の中身である。単に知識を詰め込むだけなら、情報技術が発達した社会では価値が低い。難しい知識でも簡単に入手でき、細かな部分まで暗記する必要がなくなるからだ。また、知識の量が膨大に増えて、習った知識が役立つ確率は相当に低下する。そんな状況だと、考えた内容をきちんと説明するとか分析する能力が重要となる。今後の社会では、知識でなく能力を身に付けさせているのか、高等教育の中身が問われる。
 学校などの公的機関が支援してくれない悲惨な現状では、自分で何とかするしかない。本来なら学校のカリキュラムに含めるべきだ。また、社会人の多くが身に付けていないので、作文技術の教育だけは一般の人々に開放しなければならない。そうなる見込みは非常に少ないので、世間やマスメディアの的を射てない意見に左右されず、本当に重要な能力を身に付けたほうがよい。

(1999年2月26日)


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