川村渇真の「知性の泉」

時代に適した変化が求められるジャーナリズム


ジャーナリズムが情報革命に揺さぶられる

 インターネットが登場する前のジャーナリズムは、報道する道具をほぼ独占していた。かなりヤバイことをしたとしても、それを非難する力は小さく、よほどのことでないと困った状況にはならなかった。また、ジャーナリズムに被害を受けた人は、あきらめるしかない場合が多かった。ジャーナリズムにとって、非常に有利な環境だった。
 こんな状況を変えたのがインターネットだ。ウェブページを開設して意見を述べるとか、メーリングリストなどの電子会議室で発言するとか、メールマガジンを発行するとか、発言する道具が次々に生まれている。誰もが発言の機会を持てるし、報道内容への反論も可能だ。ジャーナリズムの特権はなくなり、まだ力は弱いものの、一般市民も発言の道具を得た。
 この変化は、ジャーナリズムにとって非常に厳しい。理由は簡単だ。一般市民の中には、すべての分野で相当な専門家がいる。単なる一般の人ではないのだ。コンピュータの専門家、医療の専門家、経済の専門家、人権の専門家など、まさに専門家だらけである。こういう専門家たちが、ジャーナリストの書いた内容に対して意見を述べる。自分の専門であれば、かなり突っ込んだ意見が言えるので、ジャーナリストにとっては相当に厳しい相手だ。
 ジャーナリスト本人に対して意見を述べるだけなら、まだ良い。ウェブページや電子会議室で意見を述べると、他の人も読めてしまう。その分野の専門家の意見だけに、述べている内容の重みは大きい。また、専門家が理路整然と説明する能力が高ければ、説得力はさらに増す。
 一般市民の中に全分野の専門家がいるため、どんな分野のジャーナリストにとっても厳しい状況となる。日本のように無署名の記事が多いと、個々のジャーナリストの信用度でなく、媒体自体の信用度が低下して、その媒体全体が信用されなくなる。レベルの低いジャーナリストが、レベルの高いジャーナリストの足まで引っ張るわけだ。
 インターネットを利用していない人のほうがまだ多いので、救われている面もある。ほとんどの人が利用するようになれば、今より厳しい状況に陥る。また、言いたいことを上手に表現できない人が多い点でも救われている。この点でも、作文技術などをインターネット上で教える人が現れ、上手に説明できる発言者が増えれば、さらに厳しい状況となる。

社会問題の複雑化もジャーナリズムに圧力をかける

 変化しているのは、インターネットに関わる部分だけではない。社会に発生する問題も、昔とは変わりつつある。簡単に答を出せない困難な問題が、だんだんと増えているのだ。
 まず、様々な技術が進歩したため、対象となる分野の知識を持っていなければ、適切に判断できなくなった。ジャーナリストがある程度まで勉強しなければ、取材対象の中身を理解できない。報道する場合でも、きちんとしたデータを含めるとか、論理的に流れを示すなどの工夫が必要だ。取材前の勉強でも、取材するときも、記事を書くときも、今までより高いレベルが求められる。
 2つ目の問題は、価値観の多様化した点だ。価値観が一致していないと、何が正しいのか判断するのが難しい。複数の意見を取り上げるにしても、公平さを確保しなければならない。しかし、単に公平に取り上げればよいわけでもない。相反する意見の中には、どちらかが明らかに間違っている部分も含んでいることもある。その部分の扱いをどうするのか、ジャーナリストとして判断する必要がある。
 3つ目の問題は、人権に対する意識が高まっている点だ。報道被害を起こしても今までなら何とか逃れていたが、今後の社会では無視できない問題として取り上げるようになる。時代が進むほど、大きく取り上げられるだろう。その分だけ、誤った記事は書きづらい。これも圧力として作用し、ジャーナリストを悩ませる。
 このような変化のために、ジャーナリストが書く記事の内容は、全体としてレベルが低くなりやすい。さらに、レベルの低い記事は、一般市民の中の専門家から突っ込まれてしまう。ジャーナリズムにとっては、社会問題の複雑化と専門家の評価という、二重に厳しい圧力が生まれつつあるわけだ。

ジャーナリズム本来の役割を再確認すべき

 こんな変化が起こっているにもかかわらず、ほとんどのジャーナリストは以前と同じ方法で活動している。表面的な現象だけを見て、それをそのまま報道する。また、警察が発表した内容を、何の吟味もせずに報道する。まるで、自分たちの頭脳を迂回させて作業しているようだ。
 こんなことを続けていたら、ジャーナリズムへの信頼は本当になくなってしまう。優秀なジャーナリストを目指すのであれば、そろそろ考え直す時期に来ている。いや、遅すぎるぐらいだ。今からでも、とにかくやるしかない。
 まず理解すべきなのは、今までと同じ方法で報道していてはダメな点だ。問題が複雑化しているので、見た現象をそのまま伝えたのでは、不適切なこともある。自分で評価できないなら、きちんと評価できる専門家の意見を聞く。ただし、専門家の意見が論理的かつ科学的なのかは、ジャーナリスト自身がチェックしなければならない。
 こういった個々の注意点だけでなく、ジャーナリズムの役割について根本的に見直す必要もある。ジャーナリズム本来の役割とは何なのか、改めて考えてみる。社会で発生した問題を多くの人に知らせるだけではダメで、解決を手助けするのが役割ではないだろうか。問題が複雑なだけに、誰もが納得する解決方法を見付けるのは難しい。そのため、解決案の評価も含めて読者に提示するとか、きちんと理解させるための工夫が求められる。どんな風に工夫したらよいのか、ジャーナリズム本来の役割を基準に考えるべきだ。
 報道方法だけを見直すだけでは済まない。記事が適切だったか評価してもらうとか、読者の助言を取り入れるとか、ジャーナリズム自体を改善し続ける仕組みも必要だ。世の中の価値観が変化し続けるだけに、ジャーナリズムも継続した対応が求められる。

 ジャーナリズムにとって、非常に厳しい時代が来つつある。しかし、社会の問題が複雑化するだけに、優秀なジャーナリズムの必要性も今まで以上に高まっている。だからこそ、ジャーナリズムがより良い形で変化しなければならない。それが成功しなければ、ジャーナリズムへの信頼度は低下し続けるだろう。

(1999年11月25日)


下の飾り