川村渇真の「知性の泉」

発言の根拠を追求しない無能報道が多い


根拠のない発言でも無条件に報道する

 テレビなどのマスメディアでは、ニュース番組を中心に、政治家や評論家などの発言をときどき取り上げる。特にテレビの場合は、発言の結論部分だけを抜き出して放映しがちだ。結論だけしか取り上げないので、その発言の根拠がまったく見えてこない。
 取り上げられる発言には、「〜がアイスクリームみたい」とか「〜氏は〜分野について分かっていない」というような、他の組織や人物への批判が多い。批判であるなら、その根拠を明確に示すことは必須である。批判だということは、発言の内容を見ればハッキリと分かる。にもかかわらず、批判の根拠を一緒に放映するケースはほとんどない。
 批判の発言者の中には、非論理的をモットーとする人もいる。このような人は、物事を論理的に考える能力が低いため、根拠などなくても批判を言ってしまう。自分が気に入らない対象に関しては、根拠の有無に関係なく、批判的な内容を発言するだけだ。
 しかし、根拠を言わないからといって、根拠のないままの批判発言を、テレビで放映しても構わないのだろうか。そんな行為を許すとしたら、根拠のない批判者にとって好都合なだけである。批判する人はどんどんと悪口を言って、テレビを中心としたマスメディアに取り上げさせ、苦労せずに批判を広めてもらえる。こんな状態は、根拠のない批判者をマスメディアが手助けしているのに等しい。
 このような内容は、非常に残念だが、日本のテレビのニュース番組で実際に起こっている。取材記者も含め、番組を作っている人は、根拠のない批判者を手助けしているなどとは思っていないだろう。しかし、番組を通じてやっている行為は、それに等しいのだ。知らなかったで済まされる問題ではない。根拠のない批判を広めるのは、何も放映しないよりも悪いので、やればやるほどマイナスの行為だからだ。
 もしかしたら根拠のない批判者は、以上のようなニュース番組の特徴を理解し、自分たちの意見を広めるために、意識して利用しているのかも知れない。だとしたら、ニュース番組の制作者は、さらに情けないことになる。
 批判者が意識して利用しているかどうかは別にしても、根拠のない批判を広めるのは、明らかにダメな行為である。そんなことは、ジャーナリズムにとって“恥”以外の何者でもない。

意見の根拠を追求して、その評価も加えるべき

 では、根拠のない批判発言を、どのように報道すればよいのであろうか。重要な問題なので、きちんと整理してみよう。
 まず最初に、意見の中で批判の根拠を示しているかどうかを確認する。もし根拠を示さずに批判だけしているなら、レベルが相当に低い発言だと評価するしかない。報道として取り上げる際には、「根拠を示さずに批判するような、レベルの低い発言内容でした」との解説を加えるべきだ。こう報道することで、発言者は恥ずかしく感じ、根拠を示さずに批判しづらくなる。また視聴者も、根拠を示さずに批判する人だと知ることができ、信用しなくなるだろう。
 根拠を示さずに批判した人には、根拠を尋ねることも忘れてはならない。きちんとした根拠を持っているなら、正々堂々と答えられるはずだ。逆に根拠がなければ、テキトーなことを言って誤魔化すだろう。どちらにしても、その経過を含めて報道すべきである。根拠を示したなら「根拠を示さずに批判したので、番組で根拠を尋ねてみた。すると、〜の回答を得た」とする。これにより、根拠が明らかになるだけでなく、根拠を示さずに批判をしていた点も示せる。次回からは、根拠を示した発言に変わるだろう。根拠が答えられない場合は、「根拠を示さずに批判したので、番組で根拠を尋ねてみた。案の定、明確な根拠は回答できなかった」と報道する。これにより、根拠のない批判をしたことと、根拠がないことが明らかになる。
 もう1つ重要なのは、根拠が示されたからといって、そのまま鵜呑みにしてはいけない点だ。説明された根拠が、納得できるレベルに達しているかどうか検証する必要がある。たとえば、科学的な測定結果や評価方法用いているのか、出された統計数値が正しいのか、根拠から結論までが論理的かどうかなど、検査すべき項目はいろいろある。内容が難しいなら、その分野の専門家に尋ねる必要がある。ただし、専門家といってもピンからキリまでいるので、論理的な思考能力の高い人を選ばなければならない。
 検証した結果も、視聴者に伝えるべき重要な内容となる。正しくない統計を引用していたとか、科学的な評価方法を用いていないとか、論理的におかしいとか、検証した結果も含めて報道すべきである。そうすると、論理的な思考が苦手とか、ウソが多いとか、個々の発言者の特徴が視聴者にも伝わる。
 ここまでの話は、説明のしやすさを考慮して、批判の意見だけに絞ってきた。実際には、組織や個人を賞賛する意見に対しても、同様の行動を取るべきである。賞賛の根拠を求めるとともに、根拠が適切かどうかを見極めなければならない。

良い報道が世の中を改善させる基礎となる

 以上のような報道を真面目に実行しようとすると、慣れるまではかなり大変である。しかし、根拠のない批判や賞賛を減らすことは、社会の進歩にとって非常に大きな価値がある。それを支援できる一番手が、ジャーナリズムなのだ。それだけ大きな責任を持っているため、やらずに済ませることは許されない。
 根拠を求めるような論理的な報道は、社会を改善する基礎となるものだ。根拠のないテキトーな内容で批判する人は、問題点を指摘されることで、批判を言い続けられなくなる。同時に、そんな批判を信じる人も減らせる。二重の効果で、根拠のない批判や賞賛が減っていく。根拠を示したとしても、それが適切でないなら、批判されるし信用されない。論理的で科学的な根拠を示すようなプレッシャーとなり、低レベルな内容が出しづらい状況へと向かう。
 逆に、適切な根拠を示せる人の意見は、高い評価を受けるようになる。全体な傾向としては、発言内容を適切に吟味してから発言する人が増える。当然の結果として、発言内容の質が向上する。このような状況は、レベルの低い発言に時間を割かれるといった、無駄な時間を大きく減らす。その分だけ、問題の本質の検討へと時間を割けるので、より深い検討が可能になり、解決案の質も向上させられる。相乗効果で、どんどんと良い方向へ向かうのだ。
 このような改善の基礎は、ジャーナリズムが大きく関係している。それだけに、根拠のない批判者を手助けするような、垂れ流しの報道を止めなければならない。少しぐらいは頭を使い、根拠があるかどうか、その根拠が適切かどうかを見極めることが、ジャーナリストに求められている。
 非常に残念なことだが、日本の既存の報道は、何事も深く考えずに行動してきたのだろう。誰かの発言を右から左へ流すだけで、その影響など検討しようとしない。頭をまったく使わない人ばかりが揃っているようだ。マトモなジャーナリストが少しはいないのだろうか。あまりにも情けなく、本当に悲しむべき状況である。一人でも多くの関係者に気付いてほしいものの、改善される見込みは非常に少ないと思われる。

(1999年1月24日)


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