川村渇真の「知性の泉」

女性を差別する宗教にとって将来は相当な受難に


女性を差別する宗教が、情報技術によって強い圧力を受ける

 様々なテクノロジーの進歩によって、宗教も大きな影響を受ける。生物の進化が明らかになり、情報技術によって広く伝えられると、それと一致しない人類の起源を持つ宗教は、どうしても信頼度を低下させられる。ただし、人類の起源は明らかに証明するのが難しいので、屋台骨を揺るがすほどのインパクトは与えないだろう。それも大きいのは、男女平等を求める力だ。
 宗教の種類によって、女性の地位は大きく異なる。残念なことだが、一部の宗教では、女性を大きく差別している。好きな服を着れないとか、職業を自由に選べないとか、男性に比べて損をする。このような宗教を信じている女性が、男女が平等に生活している世界を見たら、たいていはうらやましいと思う。少し見るだけだと思わないかも知れないが、生活の細かな部分まで見てしまえば、多くの女性がうらやましく感じる。
 うらやましいと感じる程度は、技術や文化の進歩とも大きく関係する。教育する内容が高度になると、いろいろな人が何事でも深く考えるようになる。また、志も高まるので、やりたいことが明確になってくる。それが女性だった場合、差別による不満が以前よりも高まる。
 このような感情は、宗教にとって最大の脅威となる。女性を差別している部分に納得できなければ、宗教の教義全体を信用しないことにもつながりかねない。そんな人が増えたら、宗教の求心力が失われる。この種の宗教は、国家が安定するための基盤となるので、放っておくわけにはいかないのだ。

外から入る情報を完全にはカットできない

 活動の制限といった明らかな差別では、差別していない世界と差別している世界を比べて、どちらが良いのか簡単に判断できる。また、多くの人が同じように判断する。結果が明確なだけに、小手先の理由付けなどで対処できる性格のものではない。だからこそ、対応が非常に難しい。
 情報技術が発達するまでは、外の世界を簡単には知れなかった。マスメディアが外国の情報を伝えるが、それらは政府が統制しやすい。だから、メディアの数が少ないうちは、都合の悪い情報が入らないようにできる。しかし、メディアの数が多くなるにしたがって、すべてをカットするのは難しい。
 防ぐのがもっとも困難なのは、インターネットのようなコンピュータの世界的ネットワークだ。世界中のサイトとつながっていて、各サイトが自由に情報を発信しているため、都合の悪い情報だけを取り除くことなど不可能である。仕方がないので、一般の人がアクセスさせないような政策を実施する。しかし、これにも限界がある。パソコンとモデムと電話回線さえあれば、外国のアクセスポイントに接続できるからだ。
 インターネットへのアクセスを制限したり、男女平等といった内容を自由に発言できないのは、不自由な要素が多い世界である。不自由な点が多いほど、技術や芸術の発達を妨げる。その結果、情報や電子関連の機器、映画、演芸、食べ物など、外国のほうが種類が豊富で面白く見える。そんな映画や食べ物などが外国から入ってきて、自分の国のものと比べれる状況では、外国のほうが良いと感じてしまう。自国のほうが女性差別が大きいと感じている女性なら、ますます外国が良いと思うはずだ。つまり、いろいろと制限しても、技術や芸術の発展を遅くするのに加え、外国が良いと思う感情も長期的には大きくする。
 このように情報の流入の制限は、防ごうとしても実際には防げないし、差別を保持したい人々が望む結果も得られない。

情報の流入が防げないと悪印象を与えて対処する

 外部からの情報の流入が防げないので、別な方法で対処しようとする。しかし、効果的な方法はないため、姑息な方法を選ぶしかない。外国の文化への悪口を言い、悪い印象を与えるという方法だ。苦肉の策であるが、他に良い方法がないので強行する。
 悪口を言うにしても、きちんと比べられると困る。そんなときに使われるのが、抽象的な概念である「文化」とか「価値観」だ。外国の文化は我々と異なるので悪いものだと、とにかく繰り返す。もちろん、なぜ悪いのかという理由に関しては、論理的には説明しない。「心が邪悪になる」といった抽象的な理由をいくつも並べて誤魔化す。
 もし自分たちの文化や宗教に“確固たる自信”があれば、堂々と比べてもらう方法を取るはずだ。両者の長所や短所を一覧形式で明確に示し、多くの人に見せる。比較の説明を論理的にすれば、多くの人に納得してもらえる。もちろん、外部からの情報を制限するといった、公平でない方法は使わない。このようにしないのは、きちんと比較されれば負けると感じている可能性が高い。姑息な手をいろいろと使うのは、それだけ大きな不安があるからだ。
 多くの人にとって、信じている宗教は自分で選んだものではない。親と同じものを選んでいるケースがほとんどで、小さい頃から信じさせられたものである。きちんと比べた経験などなく、他の宗教のことはよく知らない。それだけに、比べるのは勇気がいるだろう。
 念のために補足するが、「文化」や「価値観」という言葉が悪いのではない。悪い中身を具体的かつ論理的に説明できれば、大いに使ってよい。姑息な論法を得意とする人は、文化や価値観の中身を語らずに、相手のものをただ悪いと繰り返すだけである。発言の中身を分析すれば、どちらなのかは簡単に判断できる。

男女平等は、人類が進歩したから出てきた考え方

 ここで明確にしておかなければならないのは、「男女平等が一部の文化の価値観ではない」点だ。人類や社会が進歩することで、他人のことも大切にする傾向が高まる。そんな考え方が基盤となって、男女平等の考え方が出てくる。つまり「人類の進歩によって出てきた考え方」である。
 その証拠に、男女平等を求めるのは、差別されている女性だけではない。差別されない側にいる男性の中からも、女性差別の撤廃を求める人が現れる。一般的には、知的レベルの高い男性が、差別を嫌う傾向が強い。差別があってもなくても良いのではなく、明確に“差別を嫌う”のだ。だからこそ、差別の撤廃に努力する。結果として、差別を維持しようとするのは、知的レベルの高くない男性が中心になる。教育レベルは上がるのが普通なので、差別の撤廃に賛成する男性の比率は増え続ける。
 差別撤廃への圧力は、差別が軽くなったとしても消えない。本当に平等になるまで続く。先進国でも完全には平等でないため、今でも改善を続けている。もし差別している宗教が、その状態を保てたとしたら、差別の完全撤廃へと向かっている社会と比べて、だんだんと差が開くことを意味する。その分だけ、宗教への差別撤廃の圧力は増す。
 こんな状況を認めないで、その場しのぎの対処ばかり続けると、問題は拡大するばかりだ。宗教への信頼度も低下し続けるので、何とかしなければならない。

女性差別を上手に撤廃することが最良の選択

 女性を差別している宗教でも、他の部分まで悪いわけではない。だとしたら、女性差別の部分だけを消し去り、他を残すのが賢い対処方法になる。そう思っても、大きな障害があるため、簡単には実現できない。
 まず考えられるのは、差別が当然だと信じている人の存在だ。時間の経過とともに、論理的に考えられる人は差別撤廃の側に行く。差別する側には、論理的な説明の通じない人が多く残るので、説得するのは難しい。自分たちの文化とか価値観を持ち出すため、議論がかみ合わない場合も多い。最終的には、差別撤廃の側に来る男性を少しずつ増やし、人数で圧倒して押し切るしかないだろう。
 次に問題となるのが、聖書といった書物の存在だ。正直なところ、これが一番大きな障害(このように表現すると怒る人も現状ではいるだろうが、実際にそうなのだから仕方がない)となる。長い歴史のある宗教では、かなり多くの内容を記述していて、その中には女性差別を意味する内容もある。聖書は宗教にとって原点ともいえる大切なものだけに、その記述を間違いだとは言えない。仕方がないので、上手に解釈を変えて納得させるしかないだろう。
 将来のことを考えると、どこかの時点で、新しい解釈を含んだ聖書を作るのが最良の方法だ。納得しやすい名前を付け、公式の聖書として採用すればよい。最初のうちは抵抗されるが、時間とともに解消するので、長い目で見れば成功となる。
 女性差別を続ける限り、その宗教に未来はない。差別を上手に撤廃するのが、最良の選択枝だ。それを達成しなければ信頼を失うので、何が何でもやるしかない。女性差別に限らず、大きな差別を含む宗教は、近い将来に大きな正念場を迎えるはずだ。以上のことを理解したなら、関係者は今から準備したほうがよい。最悪の状況を回避するために。
 宗教は、一部に例外はあるものの、多くの人が真面目かつ幸福に生きるための拠り所を提供する。ストレスなどの不安材料が増す未来社会においては、現在の宗教とは形態が異なるかも知れないが、今以上に大切なものとなる。その意味で、1つでも多くの宗教が、進歩した社会環境へ適応できることを、願わずにはいられない。

(1999年1月7日)


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