川村渇真の「知性の泉」

コンピュータ・リテラシーでなく情報リテラシーを


コンピュータ・リテラシーは重要ではない

 パソコンやネットワークが普及するにつれて、コンピュータを使える能力というのが注目されるようになった。コンピュータ・リテラシーと呼び、必要性を訴えている人もいる。しかし残念ながら、その内容は的を射ていない。
 コンピュータ・リテラシーで重視されているのは、コンピュータを使える能力、つまり広い意味での操作方法である。代表的なアプリケーションであるワープロ、表計算、電子メール、ウェブブラウザなどのソフトを、きちんと使えるようになるのが目的だ。
 この種の操作方法には1つの特徴がある。コンピュータの進歩は急速で、新しいテクノロジーが登場すると、操作方法を根本的に変えてしまう。また、ちょっとしたアイデアによっても、操作方法が大きく変わることもある。そのため、せっかく覚えたことが陳腐化しやすい。
 もう1つ注目すべきなのは、コンピュータが進歩すると、操作方法はどんどんと簡単になる点だ。それにより、何かを作成するのに必要な知識のうち、操作方法の占める割合は次第に低下する。その部分に焦点を当てても、せっかく身に付けたのに価値が下がるばかりだ。
 コンピュータ・リテラシーの一部として、簡単なプログラミングまで含まれると考える人がいるかも知れない。これも、段々とだが不要になっている。かなり昔はBASIC言語でプログラミングしていたが、表計算、初心者向けデータベース、プレゼンテーション、シミュレーションといったソフトの普及により、プログラミングの必要性は大きく低下した。まだ一部で必要性が残っているものの、通常の作業ではなくても済むことが多い。この傾向は今後も増し、プログラミングの必要性は現在よりも低下する。
 そもそも、コンピュータの操作方法とは、コンピュータを使ううえでの表面的な部分でしかない。何を作るときでも、操作方法が大事なのではなく、作る中身が重要なのだ。中身の向上には、操作方法はではなく、コンピュータ以外の知識や能力が大きく関係する。たとえば、テキスト中心の書類を作成する場合でさえ、分かりやすい文章を書くのに作文技術、ページを見やすく整えるのにレイアウト技術、見出しや脚注で内容を整える文書作成術などが必要だ。コンピュータの操作方法をマスターしても、コンピュータは上手に使えない。
 コンピュータ・リテラシーが登場した背景として、コンピュータを使うのが難しかったことが挙げられる。難しいからこそ、リテラシーが必要なように見えてしまう。まだ少しは難しいが、以前よりはかなり改善されてきた。将来はもっと簡単になるので、誰もが苦労せずに使えて当たり前に変わる。そうなったらコンピュータ・リテラシーはほとんど不要なので、なくならないにしても誰も気にしなくなる。

本当に重要なのは情報リテラシー

 コンピュータ・リテラシーが不要だとしたら、情報化社会ではどんなリテラシーが必要なのだろうか。それは、情報を上手に扱うための基本的な知識や能力を意味する「情報リテラシー」である。
 情報リテラシーの対象となる活動には、情報の入手、理解、評価、作成、公開などが含まれる。また、扱うデータの種類は、テキスト、図版、写真、動画、音や声、音楽と幅広い。これらを上手に使いこなせるようになるのが、情報リテラシーの最大の目的である。

情報リテラシーの対象となる活動(コンピュータ中心でまとめたもの)

情報の入手
 ・無駄な苦労をせずに、目的とする情報を得る
 ・複数の情報源のうち、適切なものを選ぶ

情報の理解と評価
 ・根拠として提示されている事実を、自分で確かめる
 ・書いてある説明が論理的で科学的かどうか、評価しながら読む
 ・異なる意見の中から最良なものを選ぶ

情報の的確な作成
 ・事実をきちんと調査したり、適切な方法で正しく実験する
 ・論理的かつ分かりやすい形で情報を作成する(ワープロなど)
 ・情報を加工し、評価しやすい形に整える(表計算など)
 ・情報を標準化やコード化して、使いやすく整える(データベース)
 ・正確かつ効率的に仲間と情報交換する(電子メール)

情報の公開
 ・ネットワーク上で広く公開する
 ・多くの人の前で発表する
 ・少人数を相手に説明する

 我々が接する情報の形態は、コンピュータだけとは限らない。雑誌や新聞などの紙媒体、テレビやラジオなどの映像や音声媒体、直接話を聞く人間も含まれる。それに、コンピュータ経由で得られる情報も、もともとは誰かが取材して書いたとか、必ずコンピュータ以外が介在している。逆に、紙に印刷された情報も、途中でコンピュータやネットワークを経由する。コンピュータで得られるかどうかは、ほとんど意味がない。
 このような理由から、情報リテラシーで扱う情報は、すべての媒体を対象とする。ただし、今後の情報環境はコンピュータが中心となり、最終的には全部の情報がコンピュータ経由になる。その意味から、情報リテラシーの教育では、情報そのものを上手に扱う技術を中心に置きながら、コンピュータ利用を前提としてカリキュラムを作成すべきである。

メディア・リテラシーでは不十分

 放送などのメディアに関する基本的な能力を「メディア・リテラシー」と呼び、必要性が叫ばれている。実は、これも情報リテラシーの一部である。メディア・リテラシーのほうは、メディアが提供する情報の特徴を知り、適切な理解を重視している。情報リテラシーのほうは、情報に関わる全部の活動を網羅し、情報の上手な作成から公開まで、仲間との情報交換をも含んでいる。情報リテラシーがあれば、メディア・リテラシーを唱える必要はない。
 これからの時代は、インターネットの普及により、誰もが発信者になれる。受け手側の立場を中心としたメディア・リテラシーよりも、送り手と受け手の両方の能力を身に付ける情報リテラシーのほうが、時代に合っている。
 情報リテラシーをきちんと教育すれば、情報の上手な作り方をマスターできる。そのレベルを、現在のメディアに照らし合わせると、いかに下手かが明らかになるはずだ。現在の新聞や雑誌は、論理的や科学的な面でレベルが低すぎる。それを教えるだけでなく直させることも、情報リテラシー教育の役割である。情報リテラシーを多くの人が身に付ければ、メディアが提供する情報の質もかなり良くなる。残念ながらメディア・リテラシーは、その部分を含んではいない。

情報リテラシーは情報化時代に必須

 コンピュータ・リテラシーは陳腐化しやすく、メディア・リテラシーは不十分。それらに比べて、情報リテラシーは対象が広く普遍的である。どんなメディアやツールに変わろうとも、情報を上手に扱う方法は変化が小さいので、ずっと役立つからだ。
 また、論理的で分かりやすい情報は、情報が中心となる時代には必須の条件でもある。分かりにくい情報が増えると、質問などで無駄なやり取りが発生する。さらには、誤解によって大きな問題へと発展しやすい。その意味から、情報リテラシーは情報化時代に必須であり、インフラの一部といえる。
 情報リテラシーの必要性は、もうすでに大きくなってしまった。ところが日本では、具体的な対策のほうはさっぱりだ。その点に気付いている人が少ないのだろうか。コンピュータ・リテラシーばかりに気を取られていると、パソコンは何とか操作できるものの、情報を上手に作れない人が増える。当分の間は、読んでもよく分からない情報(なぜか役人が作成する書類に多い)が数多く作り出され、作り手だけでなく読み手も無駄な時間を消費するしかないだろう。そうなりたくない人は、個人的な努力で情報リテラシーを身に付けよう。

(1998年7月28日)


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