川村渇真の「知性の泉」

日本の官僚は優秀でなく運が良かっただけ


目標が明らかな時代なので優秀でなくても務まった

 官僚の不祥事や政策失敗が何件も発覚している昨今だが、それ以前は「日本の官僚は優秀だ」と言われていた。今まで優秀だったはずの官僚が、なぜこんなに失敗するのだろうか。その疑問を解明してみよう。
 まず最初に疑うべきなのは「本当に優秀だったのか?」である。それを検討するには、優秀の定義が重要だ。単純に表現するなら、優秀とは「難しい問題の解決能力を持つ」こと。普通の人でも何とかなる問題を解決できても、優秀とは言えない。やや難しい程度ではダメで、かなり難しい問題を解決できてこそ、優秀と呼ぶにふさわしい。
 官僚が優秀と言われたのは、高度成長時代を実現したからに他ならない。この時代は「欧米に追いつけ追い越せ」の精神で活動していた。実際には「追いつけ追い越せ」はかけ声だけで、「追い越せ」はほとんどなく「追いつけ」が中心であった。「追いつけ」という行為は、目標が既に存在する状況である。目標が明らかならば、それを達成するための政策を考えるだけで済む。また、人権や環境問題など、複雑なテーマは表面化していなかった。つまり、高い能力を要求されない時代だったから、優秀でなくても務まっただけである。
 本当に難しいのは、将来が見えない状況で舵取りすること。現在の状況こそ、まさに該当する。ところが、困難な時代になると、官僚の失敗が目立つようになる。薬害エイズ、金融政策の失敗、価値のないものまで作り、おまけに環境まで破壊する公共事業など、大きなテーマの失敗が多い。優秀なのか疑わしいレベルよりも落ち、人並み以下なのではと思われても仕方がないレベルの失敗が目立つ。
 官僚の所属する組織が悪いからだと言う人もいるだろう。しかし、本当に優秀な人材は、自分が所属する組織まで変えてしまう。誰かが火付け役になって、優秀な人材を優先的に巻き込み、新しい環境へ適応できる組織へと変身する。ところが、官僚の組織は、外からの圧力にも関わらず、頑固として古い体質を守ろうとしている。この点から評価しても、優秀な人材は少ないと言わざるを得ない。

学校の勉強ができても能力が高いとは言えない

 目標の明らかな問題とは、別な言い方をするなら、正解の存在する問題である。これこそ、日本の学校教育が何年もかけて教えている内容に等しい。つまり、学校の勉強ができることは、目標の明らかな問題を解決するのに適しているわけだ。
 東大は、日本の学校教育の頂点である。その意味で、正解の存在する問題を解くのには最適な人材を数多く輩出している。日本の官僚には東大卒の比率が高く、高度成長の時代には、このような人材が適していたのであり、だからこそ成功したのだ。
 ところが、時代は大きく変わった。目標が明らかでない問題を解決する能力が求められる時代にだ。この種の問題は、正解の存在しない問題であり、学校の勉強とは根本的に異なるだけでなく、何十倍も何百倍も難しい。それを解決するためには、本当に優秀な能力が求められる。ハッキリ言うなら、学校の勉強が得意であっても、問題解決能力の高さには関係ない。
 おかしなことだが、世の中の多くの人は、学校の勉強ができれば優秀だと思っている。これは大きな誤解である。正解の存在する問題をどんなに解けたとしても、正解のない問題を解く能力とは関係ない。正解のない問題を解く能力には、創造的な能力が大きく関係するからだ。東大卒は、「学校の勉強ができる」のであって、問題解決能力が高いこととは関係ない。その点を理解しておく必要がある。
 極度に優秀な人材は、学校の勉強の無意味さに、早い時期から気付く。そうなると「アホらしくて、やってられない」と思い、熱心には勉強しない。価値のない勉強を何年も続けるのは大きな苦痛だからだ。学校の勉強は暗記が求められるので、ある程度の時間をかけて勉強しなければ、成績が上がらない。その結果、極度に優秀な人材は成績が伸びず、東大には入れない。逆に、そこそこの優秀さなら、将来のためだと我慢して勉強することができる。これも現実の面白いところだ。
 もう1つ重要な点は、大学入試までの時間の使い方である。暗記中心の勉強ばかり続けると、創造的能力が伸びないばかりか、創造的に考える癖が消えてしまう。結果として、創造的能力が、何もしない場合よりも低下する。俗に言う「頭が固い」状態になるのだ。

本当の能力は現実の社会で身に付く

 学校で頭が固くなったとしても、社会に出てから様々なことを経験し、創造的に考える癖を取り戻せれば、優秀な人材になれる可能性がある。もちろん、創造的な能力が本来高い人材に限られるが。そんな人は、学校の勉強によって低下した能力を、社会に出て取り戻していることに等しい。冷静に見つめれば無駄な遠回りだが、現在の学校教育が変わりそうもないので、回避するのは難しい。
 ここで問題となるのは、どれだけ復帰できるかだ。復帰する程度は、社会に出てから入った組織の体質によって大きな差がある。実力主義で仕事を任され、失敗したら責任を取らされる組織ほど、創造的な能力は高まる。この種の組織では、仕事の範囲は明確であり、情報の公開度も高い。こんな組織に入って、責任ある仕事を任され、修羅場などを何度か経験することで、真の実力が身に付く。高い能力は、社会へ出てから身に付くものなのだ。
 それと逆の組織では、年功序列、集団主義、密室での意思決定、責任範囲が不明確、失敗しても責任を取らないなどの特徴を持つ。この種の組織に入ったら、創造的な能力は伸びない。伸びている人との差は、どんどんと開く。こんな特徴を持つのは安定した組織に多く、官僚の属する役所が代表的な例だ。
 以上のことは、基本的に確率論である。創造的能力を伸ばしにくい組織に所属していても、もともとの能力が高ければ、ある時点で目覚める可能性が高い。生活の中で、組織以外の人と話す機会もあるため、それがトリガーとなって目覚めるからだ。とはいっても古い体質の組織では、先進的な組織に比べて、確率が格段に低い。本当に優秀な人材は、めったに出ないと思ったほうがよい。
 話を整理すると、官僚とは、学校から役所までの長い間、創造的能力を伸ばしにくい環境ばかりで育っている。したがって、増えつつある難しい問題を解決する能力を持っている可能性は、かなり低い。だから、現代においては、政策の失敗が目立つようになっている。よく分析してみれば、当然の結果が出ただけなのだ。

何も対処しなければ、今後ますます悪くなる

 今後の世の中がどのようになるかも、非常に重要な点である。世界の変化の大きさが加速度的に増えるので、先が読めない度合いは段々と増加する。その分だけ、政策の決定には高い能力が要求される。
 ところが、官僚の組織、採用や教育の形態などは、以前とあまり変わっていない。このまま同じ方法を続ければ、失敗の確率はますます高まる。そのいくつかが、マスコミを通じて世間にバレるだろう。バレる数とは関係なく、失敗の数は段々と増加するはずだ。
 以上のことを回避するには、いくつかの改善策を実施しなければならない。主なものは2つある。最初の1つは、徹底した情報公開だ。倫理規定など作るよりも、格段に大きな効果が得られる。見られていると思えば、悪いことはできないだろう。また、見られると最初から分かっていれば、真面目に勤めようとする人が増え、セコイ考えで入ってくる人も減る。
 もう1つの改善策は、能力の高い人材の確保である。現在のように、新卒で入って、最後まで勤め続ける方式は最悪だ。関連ある分野での実務経験を最低5年と定め、中途採用だけに限るべきだ。また、3〜5年単位の契約制だけにして、永久就職はなくする。そうなると、長く続けるためには実績を残すことが必要となり、本当に優秀な人材しか集まらなくなる。のほほんと過ごしていたら、契約を継続してもらえないからだ。
 優秀な人材の確保には、能力に見合った報酬も必要となる。実績を評価して報酬を決めるようなルールに改訂し、良い人材が集まりやすくする。名誉を与えることも大切なので、価値の高い政策を提案して実施した人には、誰もが認めるような賞を与えるべきだ。なお、現在ある勲何等のような賞は、今までショーモナイ人が数多くもらっているので、別な賞を新設しなければならない。
 残念ながら現実には、以上のような改善策は実施されないだろう。その結果、バレるかバレないかに関わらず、政策の失敗が増える。我々としては、いろいろな形で改善策を訴えていくしかない。それとは別に、学校の勉強ができると優秀だとか、官僚が優秀などとは思わないようにしよう。

(1998年5月20日)


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