川村渇真の「知性の泉」

日本人の意見というのは意味のない時代


メディアの発達が価値観を広げた

 マスメディアの発達によって、世界中のいろいろな考えを知る機会が増えている。そのおかげで、環境問題や人権問題などが広く知られるようになった。それらを認識する人が増えることで、環境保護や差別撤廃の運動が拡大している。とはいうものの、全員が環境保護や差別撤廃に賛成しているわけではない。環境破壊や女性差別を平気で行う人が、まだまだ多くいる。これら両者の考え方は、大きなギャップがあり、とても同じ人間とは思えないほどだ。
 このような現状を、かなり昔の社会と比べてみると面白い。環境問題など考えもしなかったし(環境破壊がそれほどひどくなかったことも理由だが)、性別や階級などによる差別は当たり前だった。理由は、マスメディアが発達してないことに加え、科学技術も未発達であり、教育も不十分な社会だったからだ。平均値を比較すれば、確かに環境保護や差別撤廃の方向に動いている。しかし、現在の社会の全員が同じ認識を持っているのではなく、差別する側の人は昔とあまり変わらない考え方だ。つまり、近代化によって考え方の範囲が広がったが、底辺は変わっていないといえる。
 考え方の範囲が広いことは、価値観に大きな差があることを意味する。両端に位置する人の間では、絶対に理解できないほどのギャップがある。現在の社会では、意見の差が昔よりも大きい。これこそ現代社会の特徴である。

世界中の国々で同じ傾向が見られる

 考え方の範囲が広がっている現象は、特定の国だけの話ではない。世界中のあらゆる国で、同じ傾向が確認できる。環境破壊を押し進める人と、保護を訴える人が争っているのは、多くの国で見受けられる。似たような争いは、人権問題や経済問題といった幅広い分野に及ぶ。どの問題でも、国による差よりも、国内の意見の差のほうが大きい。
 逆に見方をするなら、似たような主張をする人々は、所属する国家が違っても、価値観が非常に近い。そのため、国を越えて協力し合う傾向が強まっている。国際会議を開いたり、電子メールで情報交換したり、お互いの活動を手助けしている。言葉の違いも、英語を用いることで解決している。
 この現象は、別の大きな意味を示している。同じ民族かどうかよりも、同じ価値観を持つかどうかで、仲間かどうかを判断している点だ。先進国の社会では、同じ国家に属するとか、同じ民族であるかどうかは、それほど重要なことではなくなっている。大切なのは、考え方が同じだどうかなのだ。

国家の意見が1つのように表明すべきでない

 ところが多くの政府では、国家の意見が1つのように発言している。国連の会議などで、日本の意見とか、米国の意見といった具合に、まるで1枚岩のような意見の述べ方を続けている。このような発言方法は、実際の社会を理解しておらず、もはや時代遅れだ。
 そのため、いろいろと物議をかもしだす。最近の例としては、核兵器の使用が国際法上の違法であるかという問題が挙げられる。日本政府は、違法とは言えないと結論づけて発言した。ところが、被爆経験を持つ都市の市長は、反対の意見を述べた。また、日本政府の発言に反対の日本国民もかなりいる。
 この原因は、1つの意見として述べる方法にある。どんな問題でも、ほぼ全員が同じ意見を持つことは、現代の社会ではあり得ない。一部の特殊な問題を除き、意見が分かれるのが当たり前の時代なのだ。それは日本だけでなく、すべての国家で共通する傾向であり、先進国ほど意見の異なる度合いが大きい。先進国以外の国でも、情報化が進むに連れて傾向が強まる。
 したがって、「日本人の意見」とか「米国人の意見」という表現は、もはや意味を持たない。それどころか、使ってはならない種類の表現に含まれる。そう説明しても使う人はいる。たいていは、正攻法では説得力を確保できない人が、自分の意見に信頼性を持たせる目的でだ。その意味からも今後は、マトモな意見を述べる人なら使わないほうがよい。

比率入りで意見を述べる方法もある

 ここで考えなければならないのは、国家単位で意見を述べるという方法の良し悪しだ。各国で価値観の差が大きくなっている現状でも、国家という単位で意見を述べさせることが適しているだろうか。その質問には、ノーと答えたいのだが、意見を述べるための適当なグループ分けが見つからない。たとえ見つかったとしても、言語や居住場所の違いにより、意見を集めるのが難しい。結果として当分の間は、国家という単位を用いるしかない。将来的には、ほとんどの人がネットワークを利用する状況になったら、ネットワーク経由で意見を集めることが現実的となるだろう。
 意見を述べる単位が変わらないのなら、述べる方法を改良するしかない。1つ考えられるのは、各意見の比率を含めて述べる方法だ。各問題ごとに、賛成と反対を含めた意見を列挙する。そのどれに賛成するのかアンケートし、結果を比率付きで公表する。その数値をどのように扱うかのルールも決める必要がある。
 アンケートの公正さを確保するための工夫も重要だ。質問文や回答を英語で作成して公表し、それを各国語に翻訳して、複数の団体がアンケートを実施する。その際に翻訳文も公表し、意図的に誤訳してないかもチェックの対象とする。また、複数の団体が実施することと、その他の団体が自由に実施することも許すことで、結果の意図的な操作を難しくする。
 もちろん、これ以外の方法でも良い。大切なのは、国家ごとに1つの意見しか表明できない仕組みを止めて、異なる価値観が混在する現状に適した方法を用いることだ。それを用意すべき時期に、もはや来ている。多数決の多数決が、正しい多数決にはならいないのだから。

(1996年4月13日)


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