川村渇真の「知性の泉」

正解のある問題が一番簡単


クイズ番組のチャンピオンは、頭の良さより記憶力

 テレビにはいくつものクイズ番組があり、数多く問題に正解した人は、非常に頭が良いと思われている。しかし、本当にそうだろうか。クイズ番組の中で出題される問題の多くには、1つの共通項がある。それは、正解が存在するということだ。加えて、ほとんどの問題では、調べることで正解が容易に得られる。
 調べてわかる内容を数多く答えられるのは、暗記している知識が多いことを意味する。覚えている知識が幅広くて多いほど、クイズに正解する可能性が高い。クイズ番組では、知識の量と幅広さを競い合っているにすぎない。
 もう1つの重要な点として、暗記している知識が表面的なものでしかないことだ。たとえば、料理の材料や調理方法に詳しくても、美味しい料理を作れるとは限らない。幅広い知識を持っているといっても、実際に使いこなせるのは一部の分野に限られ、残りの分野では単に言葉などを知っているだけにすぎない。つまり、表面的な知識が多いのだ。

将来は、幅広い知識が簡単に入手できる

 ここでちょっと、知識を入手する方法について考えてみよう。現在の環境でも、本や雑誌の種類が増えたことで、広い分野の知識を調べられるようになった。さらに最近では、インターネットや商用データベースなどを活用することで、かなりの内容まで居ながらにして調べられる。現状でさえ、これだけ情報入手が容易になっているのだから、ネットワークが発達する将来は、もっと便利で使いやすい環境になることは間違いない。有料のものだけでなく、無料で得られる情報も増えるだろう。それに加え、必要な知識がどこにあるのか検索する機能も充実し、入手にかかる時間は大幅に短縮されるはずだ。得たい内容が曖昧な場合でさえ、対話型の相談機能によって、目的の情報を素早く入手できる。
 そんな社会では、幅広い知識を持っていることの価値は大きく低下する。より正確には、単に暗記しているだけの知識の価値が激しく低下する。重要度が増すのは、その知識を使いこなせるかどうかだ。
 知識が多いことで頭が良いと思われているのは、過去の価値観によるものだ。印刷物が多量に流通する前は、物事が簡単に調べられなかった。そのため、ほとんどのことを覚えておかなければ仕事にならず、知識の量と能力が一致しているように見えた。ここで重要なのは、本当は一致していないにもかかわらず、一致しているように見えた点である。その理由は、知っていることで済むような仕事が多かったからだ。世の中の変化が小さかったことに加え、差別的な制度が当たり前だったので、多くの人が自由に競争する環境ではなく、工夫する必要性があまりなかった。現在とは、大きく異なる社会なので、知っていることが能力と信じられていた。

正解のない問題で答えを出せる能力が重要に

 話を本筋に戻そう。クイズ番組で出されるのは、正解のある問題だが、それとは逆の正解のない問題もある。その問題には、絶対に正しい答えというものが存在せず、数多くの答えから一番良いと思うものを選ぶ。一度選んだ答えよりも、もっと良い答えを考えついたら、今度はそれが選ばれる。
 たとえば、「美味しいジュースを作る」という問題なら、材料や製法の違いでいくつもの答えが考えられる。どれが正しいかは、評価方法によって異なり、簡単には決められない。さらに複雑なのは、問題の後ろに隠れている数々の条件だ。ジュースの例なら「衛生的で、低コストで、量産が可能で、季節に影響されず...」といった数多くの条件が含まれる。どのような条件があるかを考えることも問題の一部であり、選んだ条件から答えの評価方法が決まる。
 また、美味しいといった曖昧な評価項目では、どのような方法で評価したらよいかを決めるのも難しい。美味しいとは何を指すのか、どのようにして良い答えを選ぶのか、いろいろな方向から考える。このように、問題自体や解法が複雑な点も、正解のない問題の特徴といえる。
 現在の世の中に目を向けると、正解のある問題もない問題も数多くある。しかし、物事が簡単に調べられる世の中なので、正解のある問題は簡単に解決できてしまう。結果として、目立つのは、解決できずに残る、正解のない問題だ。そして、それをどれだけ解決できるかが、これからの時代の重要な能力になる。これは仕事だけに限らず、趣味や家庭などすべての分野に当てはまる。
 時代の方向は、知識よりも知恵を求めるように変化している。記憶した知識だけでは解決できない問題が、世間では待っているのだ。ところが現在の多くの人は、記憶知識の限界を理解してはいない。おそらくは、世の中が大きく変化するまで、気が付かないのではないだろうか。

多くの専門家が間違った判断を下す問題が、一番難しい

 ここでちょっと、問題の難しさをレベル分けしてみよう。まず最初は、正解のある問題とない問題で、大きく2つに分けられる。当然のことだが、正解のある問題のほうが簡単だ。その中でも、単に調べれば分かる問題が一番下に位置する。公式を当てはめて計算するとか、ある程度は考える問題のほうが、ほんの少しだけ難しい。とはいえ、解き方などが明確に分かっているため、正解を得るのはそれほど面倒ではない。

問題の難しさの5段階分け

 正解のない問題は、3つのレベルに分けてみた。正解が明らかでないため、出した答えに対して、いろいろな人が評価することになる。その分野に詳しい専門家の評価が、一番信頼されることが多い。レベル分けで重要なのは、出した答えに対する専門家の判断だ。将来正しいことが証明される答えに対して、答えを出した時点でどのように評価されるかを基準とした。
 もっとも下に位置するのが、専門家が的確に正しいと判断できる問題だ。出した答えと導き方を説明され、論理的に納得できたら、正しいと判断する。科学技術の多くの問題は、これに属するだろう。
 次のレベルは、専門家ですら正しいかどうか判断できない問題だ。何人かの人が、それぞれ違う答えを出すが、どれが正しいかは、その時点では判断できない。最先端技術に属する問題や、まったく新しい分野の問題が、これに該当する。何年とか何十年とか経過し、もっと技術や文明が進歩した時点になってようやく、どれが正しかったのか結果が出る。進歩的な誰かが最初に答えを導き出した時点では、ほとんど判断できない種類の問題である。また、新しい販売戦略のように、やってみなければ結論が出ないものも、これに属する問題といえる。当然のことだが、答えを出した人は、正しいと分かっている。しかし、周りの専門家が判断できないだけなのだ。専門家の迷いが大きいほど、答えを出した人が優秀だと言える。
 もっとも難しい問題は、将来に正解だと判明する答えに対して、多くの専門家が間違いだと判断する問題だ。昔の例では、地球が球体だと言って、誰にも信用されなかったガリレオが有名だ。現在のように科学が進歩した世の中では、科学技術の分野に限っては、この種の問題が非常に少ない。逆に科学技術以外の分野では、意外とあり得る。たとえば経営会議で、特定分野の市場が大きくなると一人が予測し、他の全員が違うと思うようなケースだ。結果は何年か後に明らかになり、多数派である反対者ために利益を失う。的中する人は、たまたま当たった場合もあるだろう。だが、論理的に分析して得た結論であれば、非常に優秀な能力を持っていると評価できる。
 将来には正しいと判明する答えを、多くの専門家が間違いだと判断する問題ほど、難しいといえる。その答えを導き出せるのは、本当の優秀な能力を持った人だけだ。

多くの試験問題は、記憶重視で時代遅れ

 このような視点に立って考えると、現在行われている多くの試験問題が、時代遅れだとわかる。学校の試験では、知識を広さを調べることがほとんどだ。とくに日本の学校教育では「数学まで暗記教科にしてしまった」と皮肉を言われるほど、記憶中心に偏向している。まるで、考えることをさせたくないかのような教育方法だ。
 資格試験にしても、ごく一部を除いて、知識の多さに重点が置かれている。「最低限の知識を持っているのかどうか、調べるのが目的だ」と言うかもしれないが、最も重要な問題解決能力を調べるための問題が含まれている試験は少ないので、言い訳にしか聞こえない。
 知識を調べる問題が多いのは、作る側の能力に大きく関係している。重要な能力を調べるための問題は、作りにくいだけでなく、採点が非常に難しいのだ。だから、もっとも容易である知識を調べる問題に落ち着く。試験本来の目的よりも、試験を運営する側の都合が優先するわけだ。将来の社会では、知識中心の試験の価値が大きく低下する。もし試験問題の質を変えなければ、その試験自体が無視されることにもなりかねない。
 クイズ番組も同様だ。記憶知識の価値が大きく低下すれば、現在のような形式は成り立たない。もし実施してチャンピオンになったとしても、「暇な人だなぁ。簡単に調べられることを一生懸命に暗記して。ほかにやることがなかったんだろうね。かわいそうに」と言われるのがオチだ。チャンピオンになっても自慢できないので、参加者も集まらないだろう。

これからは暗記せずに済ませる時代

 ここまでの説明から分かるように、将来の世の中で無駄になるようなことをしたくないのなら、暗記中心の勉強をできるだけやらないほうが賢明だ。もちろん例外はある。時代遅れの資格試験でも、仕事上の関係で合格する必要性があれば、とりあえず暗記するしかないだろう。これは悪い試験方法の犠牲者といえるが、仕方がない。
 その種の理由がないなら、覚えなくて済ませられるような環境を整えたい。まずは、調べる方法を確保することだ。必要になったら調べられるように、書名や情報所在場所を記録しておく。図書館などは積極的に利用したい。自分で本を持たなくてよいので、経済的にも賢い方法だ。最近では、商用BBSの専門会議室が重要な情報入手先となりうる。その分野の会議室で質問すれば、その道の専門家である誰かが教えてくれる。直接の答えを得られない場合でも、調べる方法や尋ねる相手などが分かることが多い。また、友人の中に各分野の専門家がいれば、より気軽に尋ねられるだろう。ここで述べた複数の方法を併用することで、たいていのことは調べられる。
 暗記しなくて済む環境には、コンピュータが大いに役立つ。デジタルデータとして入手した資料は、コンピュータ内で管理する。紙よりも検索しやすいし、検索の速度も速い。ただし、自分でデータベースを作ろうなどとは思わないことだ。作るのが大変なだけで、無駄な時間を費やすことになる。難しい機能の操作方法を覚えても、そのうち自動化されて使わなくなるので、簡単な方法で整理するのが一番だ。ワープロや表計算ソフトなど、基本的なソフトの基本機能だけで済ませたい。
 簡単に調べられるからといって、まったく覚えなくてもよいわけではない。調べるときに必要となる、最低限の知識だけは覚える必要がある。どの内容がどの分野に属するかは、もっとも基本的な情報だ。また、各分野ごとに、どのような基本要素が含まれていて、どんな関係を持っているのかも知っておきたい。つまり、枝葉は覚えず、全体の構成や範囲だけを知っておくのだ。そのうえで、自分が興味を持った分野だけは、深く追求すればよい。それも、知識を単に詰め込むのではなく、問題解決の応用力を身につけるようにだ。暗記する暇があったら、もっと重要なことに時間を使いたい。それが、将来に損をしない基本的なルールだ。

最後に:この内容でもっとも大きな影響を受けるのは、記憶中心の教育カリキュラムや教育方法なのだが...はたして教育関係者は理解しているのだろうか...。

(1995年7月28日)


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