川村渇真の「知性の泉」

悪い教育内容のために人生を狂わされる人もいる


成績が悪いと言われ続ければ、悲しい人生の原因になる

 現在の学校では、何種類かの学問を何年もかけて教える。単に教えるだけでなく、試験などを実施して点数を調べ、その結果から生徒全員に成績を付ける。試験の点数が高いと良い成績となり、点数が低ければ悪い成績と言われる。
 小学校から大学までで教えている内容は、難しさの違いはあるものの、基本的には同じ分野である。この種の勉強が得意なら高い成績を取り続け、不得意だと低い成績が続く。成績によって、優秀な生徒と優秀でない生徒に分けられ、同じぐらいの位置に居続ける人が多い。
 成績が低いと、教師と親の両方から勉強しろと言われる。また、頭が悪いと言われる機会も多い。学校の勉強ができると小さい頃から誉められ続けるので、生徒どうしでも、成績の善し悪しで人を評価するようになる。
 このような環境に何年もいたら、学校で教えている学問が得意でない生徒は、成績という評価を通して、劣等感をどうしても持ってしまう。教師や親だけでなく同じクラスの生徒まで含め、周囲のほぼ全員が、成績が低いことを“悪く”言うからだ。
 悪い評価を受け続ければ、面白くないと感じて当然である。勉強する気にもならないし、学校へも行きたくない。非行に走る生徒が現れるのも当然だ。そのうちの何人かは、重大な犯罪を犯す人も出る。人を傷つけるだけでなく、最悪では殺すこともあるだろう。
 非行に走らない生徒でも、心に大きな傷が残る。自分はダメな人間だと感じ、勉強以外のこともやる気を失いやすい。生きていくこと自体を前向きに考えれないため、勉強以外で持っている才能を生かせず、悲しく苦しい人生を送る可能性が高まる。心に傷を負った人まで含めたら、相当な人数の生徒が悲しい目にあっている。

不適切な評価基準を用いて悪く言うのは不当

 ここで考えなければならないのは、現在の学校で教えている勉強ができないのが、それほど悪いことなのだろうか。何しろ、学校で勉強した内容のうち、ごく一部しか社会に出て役立たない現実がある。役立たない勉強が苦手だからという理由で、本人を悪く言っても構わないのだろうか。
 社会で生きていく際には、いろいろな方法から選べる。スポーツが得意なら、プロのスポーツ選手になるとか、スポーツジムのトレーナーになるとか、いくつかの仕事が選べる。芸術が得意なら、有名な芸術家だけでなく、いろいろなものをデザインする仕事は何種類もある。同様に、人と話すのが得意だとか、人を使うのが得意だとか、子供や動物の世話が好きだとか、生徒ごとに違った才能がある。もし才能が大きくなくても、好きな分野で努力すれば、その分野で仕事する程度の能力は身に付けられることが多い。
 このような仕事を、学校の勉強と照らし合わせると興味深い。算数や国語の基礎的な部分だけは、どの仕事でも必要だろう。しかし、より高学年の算数や国語と、それ以外の科目は、選んだ仕事によって必要かどうかが違う。個々の仕事ごとに細かく見れば、必要なのはごく一部だけで、必要のない科目のほうが圧倒的に多い。また、学校で教えてくれない勉強が格段に必要となる。そんな状況にも関わらず、なぜ学校の成績だけで悪く言われなければならないのだろうか。
 真剣に考えれば考えるほど、学校の成績の低いことが、悪いとはどうしても思えない。狭い意味の学問しか教えていない現状では、学校の成績はごくごく一部の能力しか評価しておらず、評価基準としては不適切である。そんな基準なのに悪く言われるのは、絶対に納得できない。明らかに不当行為だ。
 おそらく、教師や親は深く考えずに、成績の低いことが悪いと思っている。いわば、社会や文部省から押しつけられた概念だ。押しつけられたのに疑問を持たないので、そのまま鵜呑みにして、成績が低いと悪く言ってしまう。もちろん、悪気などない。しかし、悪気がないから何の責任もないのだろうか。生徒の一生に関わることなので、悪気はなかったで済まされる問題ではないのだ。

社会全体で多くの人を不幸にする

 よく考えてみると、これは凄い状況である。本来なら学校は、人々がより良く生きるのを手助けするのが主な目的だ。しかし、精神的に不幸になったり、犯罪者になったりする生徒を生んでしまう。あまりにも悲惨であり、ある意味で“極めて滑稽”であり、何かが根本的に間違っている。
 現在の学校と教育内容は、どのような存在なのだろうか。それを決めたり実施している関係者達は、こういった面を真剣に考えているのだろうか。それ以前に、不幸を生んでいる状況を知っているのだろうか。また、学校教育の効果だけでなく悪影響に関しても、日頃から幅広く考えているのだろうか。この件に関しては、次々と疑問が出てくる。
 学校というのは、社会が人々に提供しているサービスである。それが原因で悲惨なことが発生するとしたら、社会全体の問題である。本来は良いことだと思って教育を実施しているが、それ自体が不幸を生む原因になるなんて、あまり考えてもいないだろう。そんな状況だから、真剣な対策も打たれない。
 この件では、被害者の数は相当な数に上る。その中には、間接的な被害者も含まれる。たとえば、学校で悪く言われ続けたことが原因で、非行に走って殺人を犯したとする。その場合、殺人を犯した人も被害者だが、殺された人も、間接的に学校教育の被害者といえる。殺された人に家族がいる場合、その人達も被害者となる。
 このような不幸な状況に、多くの教育関係者は気付くべきである。狭い意味の学問が苦手だからといって、その人を“不幸にする権利”など“誰にもない”のだ。それなのに、そんな悲しいことが現実に起こっている。被害者の数が多いのに加え、社会全体に大きな悪影響を及ぼしているだけに、本当に何とかしなければならない。非常に重大な“社会問題”である。

教育内容を変えない限り、状況は改善されない

 教師や親の中には、成績が低いのを悪く言う原因が、教育内容ではなく、教育意識にあると考える人もいるだろう。ハッキリ言うが、それは間違った考え方である。
 たいていの人は、成績などの評価基準を提示されると、その結果の高低で人を評価してしまう。学校全体が狭い意味の学問だけで成績を付け、それが何年も続くと、多くの教師や親は「成績が低いのは悪いこと」と考えて当然だ。「成績が低くても大丈夫」といくら説得しても、その評価基準を実際の学校で採用している限り、納得する人は少ない。「やってることと言ってることが、矛盾しているじゃないか」と突っ込まれるだけだ。そんな意見に反論できないため、言えばかえって信用を失ってしまう。また「成績が低くても大丈夫」との考えが広まったら、生徒が勉強しなくなるので、教師としては絶対に言えない事情もある。
 以上のことを総合的に考えると、「現在の学校の勉強ができなくても悪くない」と納得させるためには、成績を付けるのを止めるか、教育内容を大幅に変えるしかない。前者よりは、後者のほうが適切な対処方法である。それができないうちは、いくら真剣に説明したとしても、説得力はほとんどない。
 こうしている間にも、既存の教育内容によって、日本中で(正確には世界中で)多くの生徒が不幸になっていく。その中には、誰かを殺す人や、殺されて死ぬ人もいる。少しでも早く対策を打たないと、その分だけ不幸な人が増えてしまうのだ。可能な限り早目に対処することが、現在の社会に求められている。
 念のために補足するが、「こんな状況だから学校は不要だ」と言っているわけではない。将来の社会では、学校の役割が今以上に重要となる。その意味で、教育内容を根本的に改善しなければならない。以上のことに気付いている教育関係者は、いったいどれぐらいいるのだろうか?
 今後の対応としては、ここで説明した内容を肝に銘じて、新しい教育内容を少しでも早く構築するしかない。それまでの間は、現在の教育内容によって不幸になる人が生まれ続けるだろう。こんな状況は、社会にとって大きな損失だし、人間として恥ずかしいことでもある。

(1999年1月31日)


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