奥羽沿革史論 第三
 前九年役と後三年役

 
 
凡例
  • 底本には、「奥羽沿革史論」所収(元版大正5年6月刊の復刻本−昭和47年刊 蒲史図書社)である。
  • 原文をそのまま維持するようにした。
  • 但し、小見出しについては、原本になきものも一部附してある。
  • 小見出しについて、各節ごとに連番を附したが、これはデジタル化の便宜上、佐藤が附したものである。
  • 一部差別に通じる表現があるが、歴史的表現であり、原文に差し障りのない範囲で尚した箇所がある。(土人−土地の人という表記である)
  • 当文章は、大正4年夏に、平泉の中尊寺で開催された歴史地理学会での講演記録である。
  • 一年後の大正五年六月に、日本歴史地理学会編として「奥羽沿革史論」に納められ刊行された。
2002.1.25 佐藤弘弥
          文学士 岡部精一
第一 緒論

私の演題は「前九年役と後三年役」と云うのを与えられましたが、一昨日と昨日との諸講師の御演説が丁度今回の講演会に於いて演ぜらるる奥羽沿革史の概説を形づくった事になりますので、私の講演から其の各論に入る事になるだろうと思います。さて此の前九後三の二大戦役は奥羽沿革史上に重大なる関係を持って居りますのは申すまでもない事であります。元来戦争と云うものは、これを概括的に申せば人事の最も大なるものである。人事には云うまでもなく色々ありますけれども中にも人間の争い――殊に権力の優劣を決する最後の手段たる戦争ほど大きなものはありますまい。夫故に歴史の上に於いても戦争なるものは自然に時期を区劃する所の目標となるのであります。或一つの時代が継続してそれが盛え、次でそれが衰える頃に至らば権力の争奪が起こって来る。そして其の争奪を決するものは戦争であります。だから大きな且つ長い時代の末には殆ど必ず戦争があるのであります。其処でこの奥羽即ち我が東北地方の経営と申すものは、まず弘仁桓武の頃に坂上田村麿の征伐があり降って清和陽成の朝に藤原保則・小野春風という様な人々の征伐がありまして、此等の征伐に依って蝦夷が次第に鎮定に帰しまして、段々と東北拓殖の歩を進めて参ったのであります。然るに冷泉天皇の御代に至りまして前九年役が起こり、続いて後三年役が起こりました。此の二つの戦役は詰まり日本中央政府の東北に発展せんとする勢力と奥羽に於ける民族の次第に発達せんとする勢力との衝突であります。この衝突の勝敗を決して一方の勢力が他方の勢力を圧し、東北の拓殖が次第に発展して参ったのです。それで此の戦役が奥羽発達史の一時期を区劃する所のものとなるのであります。

それで国史を按じて見ますると日本の中央政府の権力が古来段々と四方に拡がって大きな波を及ぼしました。其の大きな波浪がこの奥羽即ち東北地方に波及して参ったものが国史の上下二千余年を通じて六つあります。今はこの六大波を一々論ずるの余裕を持ちませんが、先ず第一の波が坂上田村麿将軍の東北征伐であります。第二の波が即ちこの前九年の役と後三年の役であります。其次即ち第三の波が源頼朝の奥州征伐であります。こういう工合に第四・第五・第六と中央の波が東北に押し寄せて参り、其のたび毎に中央の文明が偉大なる力を東北に加えてこれを同化したのである。即ち奥羽の地が段々と中央の政権に服し中央の文明を受けて開化の境に向ったのであります。

抑も奈良朝及平安朝の頃に当たり我が中央政府がこの東北地方に対する感念はこれを今日の例に引き当てて見れば丁度今日我々が西比利亜に対する様なものであったろうと思われます。実に奈良及平安朝に於ける奥羽は今日の西比利亜であります。この西比利亜たる奥羽に勢力を得た豪族――第一が阿倍氏、第二が清原氏、第三が藤原氏――が恰も今日の露西亜に相当するものである。最近の日露戦争は露西亜の次第に東洋に勢力を伸ばして南下せんとする慾望と日本の勢力が次第に膨脹して大陸に派及せるものと衝突して起こった現象であります。これを平安朝の古に於いて見ますると、前九年には阿倍氏、後三年には清原氏の勢力が奥羽に繁衍して次第に南方に向って発展せんとするの勢を呈した。これと中央政府の東北を拓殖せんとする力と衝突して、この二大戦役となったのであります。而して前九年役に於いて主なる戦場となったのは陸奥の地であります。後三年役に於いて主なる戦場となったのは出羽の地であります。それから其次に生じた頼朝の奥州征伐に於いては奥羽両国の地が戦場となりました。前九年役は申すまでもなく奥州の豪族阿倍氏の強大となった結果から生じたものでこれを討平したのが源氏であります。此時出羽の豪族なる清原武則の一族が源頼義に援助を与えたので始めて阿倍氏を征伏することが出来たのですが、若し清原氏が頼義の方に属せないで阿倍氏と一所になって源氏に当たったならば、言葉を換えて云えば奥羽両国が相連合して源氏に抵抗したならば前九年役は或は容易に平定が出来なかったかも知れない。或は更に長く戦役が続いたかも知れない。が羽州の勢力が源氏に属した為めに陸奥を平定することが出来たのであります。それから又後三年役では源義家が先ず第一に陸奥の勢力を其手に収めて而して後に全力を出羽の方に注いだ、其為めに出羽を平定することが出来たのであります。それから又続いて藤原氏が三代引きつづいて栄えましたが、此の藤原氏は奥羽両国を合併し其の上に築き上げた勢力は以前の阿倍清原両氏よりも更に大なるものがあったのです。故にこれは容易に滅ぼすことが出来なかったが、さすが源頼朝が天下の政権を掌握した大勢力を以て遂にこれを討滅したのです。即ち奥羽両国は頼朝の力に因って事実上全く平定せられて真に日本の土となったのであります。

さて前九後三の両役は源氏の力に依って平げられたのですが、此の事が後年源氏をして大勢力を得、遂に天下の政権を握らしむるの基となったのであります。そこで一寸と一言源氏の勃興のことに触れますが、平安朝の末葉源平二氏が並び興って其の中央政壇に於ける勢力が暫く均衡を得て進んで参ったのですが、元来源平両氏ともいずれも関東の野に基を開いて居る。両家の先祖はいずれも東国の守介となって関東に下り、そこに土着して次第に勢力を扶植したものです。

で、初めは平氏の方が専ら此地方に優勢なる地位を占めて居ったのです。即ち初めは東国は平氏の根拠地であった。所が後に源氏が代って此地方に優勢となって参った。彼の平将門の天慶の乱は此地方に於ける平氏の勢力が汪溢した証拠である。然るに将門を滅ぼして其の反乱を平げたものは平良盛であるから、即ち同族のものが同族の横暴を鎮圧したから矢張り東国に於ける平氏の勢力は依然として変更しなかった。そこで又続いて此地方に平家の乱が生じた。それは平忠常の叛である。然るに今度この叛乱を平定したものは源頼信である。頼信の威名は此時非常なものであって、忠常は頼信が征伐の大将として下向して来たという事を聞いた丈けで、一つの戦をも交えずして降参したのであります。それよりして東国に於ける平氏の威力は噸に地に墜ち、源氏がこれに代わって勢力を得ることとなったのであります。

それへ引きつづいて頼信の子なる源頼義が前九年役を平定し、又其子義家が後三年役に大勝を博したので、東国に於ける源氏の勢力はいやが上にも盛になって、従来平家の風下に伏して居った東国の諸族は皆相率いて源氏に従属するに至った。平家の子孫でも自然に源氏に従うという風になったのであります。かかる根拠があればこそ頼朝も東国にて事を挙げてマンマと成功したのである。そして遂には征夷大将軍という職に就いて天下の政権を執り行うこととなったのであります。諸君、この征夷大将軍という言葉に特に御注意なさって戴きたい。大将軍という職名は大宝令にも規定せられて居るもので、凡そ軍には将軍一人、軍が三つとなった時即ち三軍には大将軍一人を置くのが大宝令の規定であります。然るに夷を制するの将軍という職名は、大宝令中にも無い。所謂令外の職であって、頼朝に至って初めて起ったものであります。尤も其の以前桓武天皇の朝に坂上田村麿が此職に補せられたのが、初めで御座いますが、それは臨時のもので征夷の事が終わるや直ちに廃せられました。頼朝に至って再興せられたわけであります。夫のみならず頼朝以来は臨時的のものではなくて全く常設のものとなった。然かも征夷の実は田村麿の時のみで、頼朝以後は一つも征夷の実はなくて全く名義のみのものと変じたのであります。然し頼朝の祖先たる頼義義家は前九後三の役に於いてたしかに夷を征して所謂征夷の実を挙げて居るのであります。

頼朝が征夷大将軍となったのも畢竟は頼義義家の勲功を樹てた結果に外ならないのですから所謂「征夷」という事と源氏との縁因は実に深しというべしである。而してその夷即ち「えびす」とは申すまでもなく当時の蝦夷を指したもので、名こそ「えびす」といって嘲りますけれども其実当時の日本中央政府に取っては大敵であったのです。日露戦争当時に於いての露西亜と見ても差支ないと思う位であります。そして其の征夷という言葉が遂に六七百年間を通じて日本の政権を執り行う人の職名となったというも誠に不思議な次第であります。蝦夷たるもの亦是に至っては人意を強うして可なりとでも云いたいです。要するに源氏をして征夷大将軍という名目の下に永く天下の権を握らしめた根源は頼義父子の前九後三の役にありというも敢えて過当ではあるまいと思います。

第二 前九後三両役の史料としての絵巻物

以上に述べ来りました次第で、この前九後三の両役が平安朝以後の我が社会に如何なる響影を及ぼして居るかを見て見ますると余程面白い現象を呈して居ります。凡そ其以後の軍記物語の様な書を見ますると、この両役が如何に重大視せられたかという事がわかります。即ち凡そ勇士が陣頭に立って戦を挑むときには必ず自分の家の祖先の高名手柄を陳べ立てるのが其頃の風でありますが、其言葉の中に己れの先祖は前九か又は後三の役に従軍して奥州の強敵を打ち平げたと云うことを一の大なる誇として居る。即ち前九後三の役に先祖が従軍したということが其家の名誉となって戦場に於ける勇士の威望を拡大ならしむるものとなって居る。それで此両役が如何に重大視せられたかが能くわかります。又此両役が我が中古に於ける大戦役であったということも知られます。丁度今日でいうならば日清・日露の両大戦役を見る様なものであったろうと思われます。

斯様な訳でありますから此両役は後の軍記物語の好材料として、始終文学上に用いられて居ります。後に源平両家の戦争が起こって其の幾多の出来事が大に人の興味を引き人心を支配して、幾多文学上の好材料となったが、それ以前には文学上の材料といえば必ず前九後三の役であったという様な時代があったのであります。例えば足利時代に出来た文学即ち謡曲を見ますと其材料の大部分は源平両家の戦若しくは両家の人々の事蹟でありますが、謡曲以前の文学に於いて戦争の事を云うときには、いつも前九後三の役の事が材料となって居るのであります。即ちたしかに前九後三の役の出来事が人心を支配して居った時代があったという事がいえるのであります。そこで又この両役中の主なる事柄や、面白き出来事を絵に画いて、それを見て喜んだのであります。絵画も広き意味に於ける文学でありますから、両役の事柄が自然に此の画かれたる文学の材料となったのであります。而して又此絵画が比較的後世まで存続して両役を後人に物語って居りますから、識らず知らずの裡にこれが両役の好史料となって両役の経過が能く後人に知られたのであります。それで両役に関する如何なる絵巻物が存して居るかを御話申してそれから本論に入りたいと思います。が、今謡曲の事が一寸出ましたから、茲で少しばかりの脱線を御許しを願って謡曲について一言申して見たいのです。

謡曲は申すまでもなく足利時代の産物ですが、其の材料として使用せられて居るものを見ますると大部分は源平時代のものであります。義経とか、弁慶とか、静とか、巴とか、源平ものが非常に沢山あります。尤も源平以前即ち王朝時代のもの乃至神代のものも又支那のものもないではないが、兎に角材料の大部分を占めて居るのは源平時代のものである。して見ると足利時代の人心には源平の戦争が如何に影響して居ったかということが知られます。極く単純に考えると足利時代の事であるから南北朝時代の事蹟が最も多く文学上の材料を占めて居る様に思われますけれども、不思議にも南北朝のものがない楠木氏でも新田氏でも謡曲中には一つも顕われて参りません。試みに謡曲中で最も新しい材料を調べて見ますと、彼の「鉢の木」及「藤栄」が最も足利時代に近い材料であると思います。この二曲は申すまでもなく北條時頼の諸国遊歴を演ずるのである。それから更に新しいものを求むれば脇能として有名なる「壇風」であります。これは実に太平記に載って居る所の日野資朝と其の子阿新丸を材料としたものである。此等の謡曲はいずれも比較的に新しい時代に出来たもので単純なる謡曲ではなく、余程劇曲的の性質を帯びて居る。其点から考えても足利時代の末葉か、織田豊臣時代の産物である様に思われます。余り脱線し過ぎて、飛んだ御話に成りましたので、先ず此辺で本線に復しますが、要するに前九後三の役が大に人々に持てはやされて文学の材料となった時代があったので御座います。其結果として両役の絵巻物が盛に作られた時代があったのです。

それで愈々両役の絵巻物について簡短に述べることと致します。これについては文科大学の史料編纂官和田英松君が嘗て歴史地理雑誌第十八巻第六号で詳しく述べられたものがありますから一寸御紹介致して置きますが、抑も両役の絵巻物の古書に見えて居る一番早いものを調べて見ますと前九年役のものは吾妻鏡の承元四年十一月二十三日の條に将軍実朝が奥州十二年合戦絵を京都から召下してこれを覧るという事が載って居ります。次に看聞日記の永享三年三月廿三日の條に後崇光院が勧修寺門跡の所蔵に係る十二年合戦絵五巻と後三年合戦絵六巻を取り寄せしめられて後花園天皇の叡覧に供せしめ給うたという事と、同書の嘉吉元年五月廿七日の條に後花園天皇より御父後崇光院へ貞任宗任討伐絵三巻を贈らせ給うたという事が見えて居ります。それから後三年役のものは吉記の承安四年三月十七日の條に静賢法印(少納言藤原通憲の子)が後白河院の院宣を奉じ絵師明実というものをしてこれを画かしめて蓮華王院の宝蔵に納めたという事が見えて居ります。次に又中原康富記の文安元年閏六月廿三日の條醍醐寺新要録及び前に申した看聞日記等にも見えて居ります。

それから次に両役の絵巻物そのものが今日に存して居るものを調べて見ますと、前九年役のものは二種御座ります。即ち其の一は永井十足の旧蔵であって、今は東京帝国博物館の所蔵になって居るものと、其の二は前田侯爵家の所蔵になって居る■本であります。第一のものは僅に一巻で絵はたしか三つ丈けで他は散佚したものと見えます。巻尾に元禄二年閏正月上旬法眼常昭という人の証明があって土佐光弘真筆としてあります。此画工については異論もある様ですが、今は別にそれについては申しません。それから第二のものは■本ですが奥書に拠ると暦応康永の頃のもので詞書は世尊寺行尹卿原図は松平加賀守所蔵、寛政八年辰十月に住吉内記なる者が写したという事が見えて居ります。次に後三年役のものについて申しますと、これは一種しか今日に存して居りません。彼の有名な八幡太郎義家が雁行の乱るるのを見て敵の伏兵あるのを知ったという事柄を画いてありませう。あの画で近頃文科大学の史科編纂掛から出版された参考絵画に出来て居りまして諸君の中にも御承知の方も御座いませうと考えます、あの画のあるのが即ち此の後三年合戦絵巻物で、池田侯爵家の所蔵となって居ります。此の絵巻物が池田侯爵家に伝わったについては中々の来歴があります、それは徳川家康の女が池田家へ嫁ぐときに持参したのですが、其の本来の出処は皇室の御物であったが後北條氏が献納物をした御礼として後北條氏に下されたものらしいのです。それが後に徳川氏に伝って池田家の所蔵に帰することとなったのです。此の絵巻物は本来は六巻あったのですが、今は四巻しか存して居りません。処が此が後三年役の唯一の根本史料で、この絵詞が後世に伝った為めに後三年役の顛末を知ることが出来たのであります。然るに此の書が二巻欠けて居るために後三年役の歴史が首尾徹底しないで、中程がとぎれて居るという様な結果を生じて居ります。それほど此絵巻物は後三年役に対しては貴重な資料で御座ります。前九年役の史料は其絵巻物が大部分は欠けて僅かに一小部分しか残って居ませんけれども、其の外に更に陸奥話記という書があって稍々詳しく戦役の顛末を知ることが出来ますが、後三年役の方は此後三年合戦絵巻の詞書に拠るより外に何等の史料がないから史料としての此の絵巻の価値は非常に重大なものであります。

以上は両役の史料としての絵巻物について一寸之を御紹介いたしたので御座りますが、なお両役の史料について後に至って詳しく申上る考で御座ります。

第三 前九後三両役の名称について

次には此の両役の名称について申し上ようと思います。両役の名前は云うまでもなく「前九年の役」と「後三年の役」というのが普通である様です。けれども、実は色々に云われて来て居ります。これを一々精密に御話致しますと中中紆余曲折がありますから、極くかい摘んで結論だけを申します。前九年役は古書には多く十二年合戦として現れて居ります。此十二年というは前九後三の両役を合していう名称では御座いません、前九年役だけを呼ぶ名称です。これは愚管抄・古事談・古今著聞集などに見えて居ります。然るに又本朝文粋に載って居る頼義朝臣申伊予重任状というものには十三年を歴て勲功を立つ云云としてあります。前九年という名称は保元物語・平家物語(剣巻)太平記等に至って現れて居る。以上の如く前役は詰り三ッになって居ります。これはいずれも推算の方法が異って居るからである。即ち

第一 十三年説は此合戦を阿倍頼時の叛せし結果として源頼義が陸奥守に任ぜられた年即
 ち永承六年から貞任の余党の全滅せし年即ち康平六年までと計算するので十三年となる 
 のであります。

第二 十二年説は第一の十三年説と同一の起源から貞任の誅戮せられた年即ち康平五年ま
 でと計算するので十二年となるのであります。

第三 九年説は阿倍頼時が一旦官軍に降附し後再び叛して源頼義に抵抗することとなった
 天喜二年から貞任が誅戮せられし康平五年までとするのであります。

かくの如く此戦役について其計算の差異からして以上三つの称がありますがいずれが正しいか、否からざるかは断定するに難いのですが、古は一般に十二年合戦という名で呼ばれて居った様です。然るに源平盛衰記や、平家物語の出来た頃から専ら前九年の役という名称にて呼ばれて居る。「前」というは勿論後役に対しての称であります。夫から以後は此の称呼が一般普通になって居りますから、今更これを改める必要もないので依然此称を以てするより外に仕方はあるまいと思います。

それから後役の称呼について申せば、此の称呼も亦保元物語や源平盛衰記などに見えて居りますので此等の書の出来た頃から専ら称え来った名称で、前九年役に対して後三年役というのですが、前に既に申しました此の合戦の事を書いた古い絵巻物即ち後三年記から起って居ります。然し此の軍記物には三とうりの名称があります。即ち奥州後三年記・奥羽軍記・八幡太郎絵詞というのです。又此書の序文の中にも「八幡殿後三年の合戦云々」と見えて居ります。この役の年数にも亦三つの算え方が御座ります。

其一は九年説で永保三年義家が陸奥守となって着任してから寛治五年まで九年間と算する
のです。(後三年軍記)

其二は三年説で永保三年から寛治元年十二月までの戦とするのです。これは大日本史の説であります。

其三は二年説で、義家が陸奥守となって着任した年を永保三年とするは実は誤りで、実際は応徳三年とするが正しいのですからそれで応徳三年から翌寛治元年十二月まで二箇年間の合戦とするのです。此れは後二條師通記・中右記・水左記・本朝世紀・百練抄などに出て居ります。

以上三つのなかで第三なる二年説が一番正しいのです。三浦(周行)博士も嘗て此事を史学雑誌に於いて論ぜられたが、其の中に此役が実際二箇年であったという事は後三年軍記そのものの文にて明に証明せられて居る。即ち官軍が武衡の乳母千任なるものを生捕にして其の主人なる武衡の首を踏ませることがありますが其時義家が此の様を見て「二年の愁眉けふすでにひらけぬ云々」と言った。この義家其の人の言葉に明かに二年とあればこれより確かな証拠はあるまいと三浦博士が言われて居りますが、誠に其の通りであります。其故に此役は後二年の役というが正当でありますけれども既に後三年の役と呼びなし来って居りますから、今更別にこれを改正するの必要もありますまい。

第四 前九年役の経過の梗概

此度の講演の主眼は両役の地理について申したいのでありますが、地理の説明に入るに先って此戦役の大体の経過即ち事実の梗概を一応申し述べるのが自然の順序と考えます。で此の概略は諸君も固より御承知の事と存じますから極めて要点丈けを申しますが、第一に前九年役の史料を申さねばなりません。これは即ち前にも一寸申しました陸奥話記という書で御座います。これが此役の唯一の材料で真の根本史料であります。群書類聚にも収めてありまして有名な書で御座ります。但し此以外にも固より諸書に散見は致して居りますが、一番詳しくて且つまとまったものは此書の外にはありません。それで此書はいつ頃出来たものですか、能くわかりませんが、先ず前九年役を去ること余り遠からざる時代に出来たものであろうと思われます。又正しい材料に基いて作られたものであろうと考えられます。此書は一名陸奥物語とも申しまして前に申した前九年合戦絵巻の僅小なる残存のものと相待って前九年役の根本史料を形成して居ります。其外に扶桑略記に引用せられて居る陸奥合戦記というものと、それから古事談・古今著聞集・今昔物語、更に下っては保元物語・平家物語等が前九年役の史料となるものであります。

さて陸奥話記に拠りまして前役の梗概を申しますと奥の六郡の司に阿倍頼時というものがあった。この阿倍氏は姓氏録や続日本紀などに拠りますと陸奥の人に安倍臣の姓を賜ったことが見えて居って其の族に日下部とか、那須とかいうのがありまして、いずれも大彦命の後としてある。而して其の中にも阿倍頼時の一族が最も顕われた。これは比羅夫の後裔であって頼時の後裔には藤崎とか安藤とかいう氏があると大日本史の氏族志にこう云う工合に記載してあります。が近頃喜田博士の説には彼の俘因長云々の語に基きて盛にアイヌ人の後裔ということを説かれて居ります。

定めし今度の講演にも既に御説明になったことと想います。然し此等の議論には私の立入る必要は御座りませんから今は申しませぬが、さて阿倍頼時が奥の六郡の司として大に勢力を奥州に振いました――此六郡については後に此役の地理を説明する所で申上げます。又頼時は陸奥話記の初めに頼良と見えて居ります。これは後に源頼義が陸奥守となって此地方に赴任して参りましたので、其時に頼義と同音ですからこれを憚りて頼時と改名いたしたので御座ります。――さて頼時は大に威を六郡に振い人民を劫略し中央政府の命令を遵奉せず、貢賦を輸わず、徭役を勤めず、代々驕奢を極め、子孫繁昌して強大な家柄となって居りましたので誰人も敢えてこれを制するものがないという様に陸奥話記に見えて居ります。

そこで永承年中に陸奥守であった藤原登任という人が兵数千人を発してこれを攻めました。然し陸奥守のみでは力が足らないと思ったからでもありましょうか、出羽の秋田城介平重成も来ってこれを助け重成が先鋒となり登任が首隊となって頼時を攻めました。詰り奥羽二州の兵を合して頼時を討ったのであります。処が頼時は早く兵を配ってこれを防ぎ鬼切部という所で大に戦いました――鬼切部についても後に地理の所で申します。すべて此後に現れて参ります地名についてはいずれも後に地理を説く所で一所に説明いたします――所が陸奥守と秋田城介の両軍が大敗して死者も多く出来ました。そこで朝廷では大に評議があって誰か偉い大将を撰んでこの追討に宛てねばならぬが誰がよかろうかということになって源頼義が遂に其撰に当たったのであります。

頼義は父頼信このかた武名が東国に響いて居って、殊に頼義は此時相模守で最も東国の武士がこれに帰服して居ったのでありますから、かたがた頼義が陸奥守に任ぜられ鎮守府将軍をも兼ねまして奥州に下って頼時追討の大任に当たりました、これが丁度永承六年の事であります。処が頼義が任地に着しました時丁度大赦が布かれました。そこで頼時は大に悦び且つは頼義の威名にも服して居りましたので一身を捧げて頼義に帰服いたしました。

そこで奥羽二州の境内も無事に治まり戦争もなくて天喜二年に頼義は任満ちて愈々京に還ることになったのです。これまで頼義は専ら国府に在って管下を支配して居ったのですが、愈々帰京せねばならぬというので、鎮守府に参って鎮守府将軍たるの所務をも観ねばならぬ必要から鎮守府のある所へ参ったのです。そして鎮守府で最後の府務を処理して事務引続の事やら色々の用事を終え、数十日滞留の後、其所を出立して又国府への帰途に就きました。此時阿倍頼時は能く頼義に奉事して居ります。陸奥話記に頼時首を傾けて給仕し、駿馬金宝の類を悉く幕下に献じ、士卒に至るまでも振るまったと書いてある。恰も今日で申さば縣知事が縣内を巡視するに当たって其地方の有力家が出て来て知事を歓待するという様な風であったろうと思われます。処が頼義が国府への帰途に阿久利川という所に宿ったが、其の夜、人あって窃かに権守藤原説貞の子光貞元貞等の野陣の小屋に入って人馬を殺傷した。将軍此の事を聞いて光貞を召して加害者を尋ねた所が、それは頼時の長子貞任の所為であるらしいとの事でありました。何故かと申しますと貞任が以前に光貞の妹を聘して妻としたいと申込みました所が光貞の方では貞任の家柄を賤んで其縁談に応じなかった。

第五 前九年の役に現れたる地理の説明

さて以上の如く前役の経過の大体を申し述べましたので、これから其の経過中に現れました地理について簡単に説明を試みて見たいと思います。それで私は此度の講演の主なる目的は此の地理の説明に重きを置きましたので連か準備の為に地図を作って参りました。(此時自製の地図 ○本誌の巻頭に掲載せるもの を掲ぐ)これは陸地測量部の地図に基き今日の地形を土台として其上に古の地理を想像したものを赤色で書き入れたのでありますが、元来此地理につきましては当地方の御方々の中に非常に熱心に御調査をなさって大変精しき御調べが行き届いて居ることと思います。で私共他所から参って御膝元の地理を実地踏査もしないで唯文字の上、机の上で取りきめてそれを諸君に向って説明するのは随分厚顔な次第で御座ります。それで私の調査が疎漏の為に案外実際と違って居る事が多いに相違ないのです。然し盲目蛇におぢずの譬で、盲滅法界にやったのですから其おつもりで何分御容赦を願います。のみならず私一己の独断で極めた点もないではないから、私が申しましたからとて、夫れで古の地点や遺跡が定まるわけでは決して無いのです。否或は全く反対の説を述べるかも知れません、が、夫れが為に棍棒の一つ二つ位此の頭の上に下ることは予期して参ったのですから、若し御異存がありましたら御遠慮なく打ち撲って戴きたう御座います。


1 多賀城

それで先ず第一に研究せねばならぬのは此役当時の陸奥の国司の居った国府の位置であります。それは然し論ずるまでもなく多賀国府で即ち多賀城であったのです。此多賀城の位置については既に明白で且つ他の講師からも或は御説明もありましょうから今ここでで詳しく述べる必要はないと思います。

2 胆沢城

それから次には当時の鎮守府の位置ですが、これは胆沢城がそれであります。胆沢城の遺跡については色々説もありますが、先ず今日の水沢町とするのが適当と考えます。其の考証については後に申しますが、源頼義が天喜二年任満ちて帰洛せんとするときに国府より鎮守府に赴いて府務を見るという事が現れて居ります。それから鎮守府より国府に帰る途中にて頼時が再叛することとなって此戦役が拡大せられて参ったのですから、ここに国府即ち今日の仙台地方と鎮守府即ち今日の水沢方面との間の官道を知ることが第一の必要であります。これを明らかにするのが此役の地理を知るの基礎であると存じます。

3 国府より鎮守府までの官道

それで私は此の自製の地図に於いて王朝時代の末葉に於ける多賀と胆沢との間に亘れる駅路を想像しました。これも私の独断でありますから間違があるかは知れませんが、先ず私の調べ得る丈は調べて想像致したので御座ります。此図上に太い赤線を以て示したのが即ちそれで御座います。これは主として延喜式の兵部省式に載って居る彼の駅家即ち駅馬を徴発する場所の名に基いて作ったので先ず多賀国府以南は暫く措きまして専ら以北について申します。王朝未には国司の力は衰えて居りましたけれども、まだ国府は存して居ったに相違ない、それで多賀国府は依然此の地点(地図を指す)に在ったとして、これから起って北への駅家を順次に申しますと、第一が黒川、次が色麻(しかま)、次が玉造・栗原・磐井・白鳥と次第して最終が即ち胆沢で御座ります。

4 黒川駅

そこで先ず黒川の地点について申しますと、今の宮城縣に黒川郡というがありまして延喜式時代の駅家の地名が今に存して居ります。然し黒川郡といえば比較的に広い面積に亘りての名称でありますから其の郡内の何処が古の駅家の在った地点であるかを考えなければなりませんが、其れは中々適確には申されませんが、大体から申せば此郡内の大崎・下草・舞野という様な村がありまして此諸村の辺が丁度当時の駅家のあった地点であろうと想像せられます。

5 色麻駅

次には色麻であります。今は四釜と書きます、丁度此の所です(地図を指す)。この四釜という地名は松島などと相伴って謡曲などにも現れて居りますが播磨国にも同名の地が御座ります。文字は違いまして飾磨と書きますが同一の言葉であろうと思います。此の両所は古に於いて必ず関係のあった所に相違ない。即ち播磨の飾磨から移住した人々が此地を開墾したのではあるまいかと考えられます。其の証拠には此の四釜に伊達神社と申す祠がありますが、播州の飾磨にも射楯神社と云うのがあります。これは恐く同一の神を祭ったものだろうと存じます。

6 玉造駅

其次の駅家は玉造であります。玉造も亦今は郡名となって居りますが、其の駅家であった地点は今の岩出山町から江合川の対岸真山村の辺であった様に思われます。此玉造には柵も設けられた時代があると見えまして玉造柵というが古書に見えて居ります。それは後にも申しますが此地方は当時陸奥の国府から出羽へ通ずるの道に当たって居たからであります。

 栗原駅

其次は栗原であります。これも今郡名となって居ります。又栗原という村も今郡内に残って居りますが、然し今の栗原村は古の駅家の地点に相当するか否かはチト考えものです。此の郡内には図にある通り三つの川が西北から東南へ向って流れて居ります。これを一迫川・二迫川・三迫川と申して末流は合して一となって佐沼川と申して北上川に注入します。此の三つの河流を横って玉造から栗原へ掛けて古の駅路が通じて居ったのです。

8 松山道

此辺の駅路を当時松山道と呼びなして居ったのです。(此道の事は後の申します)それから栗原の駅家は今の稲屋敷・鶯沢村・姫松村若しくは富野村の辺から津久毛岩ヶ崎の辺へかけての間の地点に相当する所と思います。

9 磐井駅

其の次は磐井であります。これは今は陸中国になって居りまして、郡名となって残って居る。而して其駅家は今の一ノ関の少し西方に当って市野々から上黒沢・赤荻へ掛けて駅路が通過して、中尊寺の少し西方に於いて衣川ノ関を貫いて衣川を渡り凡て今の国道の西方に於いて国道と並行して北に進んで居った様です。故に磐井の駅家は今の黒沢村の辺であった様に思われます。

10 白鳥駅

次に衣川以北に於いては白鳥・胆沢と次第して居ります。其の白鳥は即ち今の白鳥村の地です。それから胆沢は今の水沢町であります。斯様に多賀国府から胆沢の鎮守府まで陸奥国の駅路が通じて居ったのです。

11 古駅路と今日の国道との比較

さて此駅路を今日の国道と対照して見ますと全体が凡て山ノ手に寄って居ります。これが即ち大に研究すべき点でありまして、これに就きましては先年相模の鎌倉で日本歴史地理学会が開催致しました第一回の夏期講演会に於いて坪井博士(九馬三)が奥州街道の一部所謂松山道に就てと題する講演の要領をここに紹介するの必要を生じました。其の講演筆記は歴史地理学会から出版した『鎌倉文明史論』という書に載って居りますが、今其大要をかい摘んで申せば先ず古の多賀国府即ち今日の仙台方面から北に向かって進む道路は三つの主なるものを想像することが出来ます。其の第一は今日の鉄道線路と殆ど同一の道筋であります。然しこれは固より上古に於いて通じて居ったというわけではない。勿論一地と一村との間には区々にこれを連結する小路は有ったであろうけれども全体を通じて大道路のあったわけではない。次に其の第二は今日の国道即ち奥州街道に相当するものがあったであろうが、然しこれとても第一のものと等しく区々の地点を連ねたもので全体に通じては居なかったのでありましょう。それから第三が即ち只今ここに説明致します駅路であります。

12 古駅路が山の手を迂回していた訳

これは全体に通じて国府から鎮守府までの間にズット相続いで通じて居ったのであります。此道が即ち古の国道であったのです。何故に古の国道即ち駅路はかくの如く山の手を迂回したかと申しますと、これには大に理由がある。即ち今日の状態では平野の中央を流るる大河流の岸に沿って道路が通ずるのが殆ど原則であるけれども古は固より土木の術が進んで居りませんから数多の支流を横ぎるが為に一々橋梁を架設するとか又は堤防を築くという様な事が出来ないので、河流に出逢えばこれを徒渉せねばならぬ。所が大河の幹流に近い支流の水は多くは深いので徒渉が六ヶ敷い、其故に自然に上流の河幅が狭く水底の浅い所を撰んで横ぎることとなる。それで道路が自然に山ノ手に上って参り、山腹又は山麓を撰んで往来することとなるのであります。今此の地図について見ましても奥州平野の幹流たる北上川の本流の岸に沿って北に進める鉄道線路は平野中の最も低い所を走って居る代わりに此の通り(地図を指す)数多の河川を横ぎらねばならぬ。然しこれは技術の進んだ今日でなけらねば到底出来ない事で中古に於いては兎ても望まれないのです。国道とても御覧の通り鉄道線路よりは少しく山手に寄った所を走って居りまして河流の幅の広い所を避けて進んで居ります。かかる次第であるから古の大道なるものが更に山手に寄って出来て居るのは全く自然の理法に随ったもので、これは独り我国ばかりではない。外国とても同じ事であります。古の人は比較的に健脚であったから山手の迂路を取っても平気であったのです。然しここに一つの御注意を願わねばならぬのは、古の駅路が今日の国道の如く広い担々たるものであったと思ったら大間違であります。先ず二人列んで歩くことは六ヶしかったであろうと思われます。以上が坪井博士の説明の大要でありますが、私も多少附け加えた所もあります。要するに古の本道路は河流の多き平坦の部分を避けて山手を迂廻したという論であります。

13 松山道詳説

それから此の松山道の事について申し加えたいのですが、これは前にも一寸申しましたが玉造から栗原を経て磐井に至るまでの駅路の一部分を古へ呼びなした名で此地図では此のあたり(図を指す)で御座います。陸奥話記には杉山道と見えて居りますが杉は松の誤であろうと思われます。松山というのは別に、こう云う地名のあったわけでもない、多分此辺一円に松の木が多かったから申したのではあるまいかと思われます。松は元来北方に行くほど少なくなって今日でも北海道へ行っては所謂蝦夷松より外に内地同様の松は殆ど見られない。で中古奥羽拓殖の盛に行われた頃にも南方から盛に松樹を移殖したものではありますまいか、随って特に松山道と呼ぶ様な道路が出来たのではないかと窃かに思うのであります。

さて又この松山道と並行して四釜の辺から磐井に至るの間にモウ一本の道路があった様に思われます。それは坪井博士も言って居られますが、然し前九後三の頃よりは少し後の時代の様です。それは文治五年源頼朝の奥州平泉に藤原氏を征伐した時、多賀の国府が破れたから泰衡は玉造に退いて高波々の城を保った、そこで頼朝はこれを追って玉造まで進んで参った、然るに泰衡は既に其所に居ないことが知れたので更に引き返して今申した並行路を北進した様に思われます。此並行路というは今日の荒谷・高清水・築館・姉歯という順序で北進して更に津久毛の方へ西転し磐井郡に入った様です。これに反して山手路即ち松山道と称するものは岩ヶ崎から賢見を経て磐井郡に入り、市野々・上黒沢・赤荻と順序し今日の一ノ関には至らずして直ちに北進し衣川関に至ったのです。平泉志にも古道は今の道とは異って磐井郡に入ってからは黒沢村・赤荻村・平泉から中尊寺に掛りて衣川に出たという様に見えて居ります。これが中古の駅路で又鎌倉時代の官道であったのです。

14 奥六郡について

それから此の奥州の駅路の終極点たる鎮守府の在りし所、即ち胆沢城の地について申上ぐべきでありますが、これは後に説くこととして、此所では奥の六郡について申します。

前にも挙げました通りに阿倍頼時は奥ノ六郡の司として大に権威を振い国司の命をも用いずして遂に叛したというのですが、さてこの六郡と申すは胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手の六郡であります。これは今日の岩手縣の大部分で、陸中国の全平野たる最も膏腴の地を占めて居る部分で実に北上川流域の最上等の地であります。六郡の内胆沢・江刺の二郡は王朝時代の初期即ち延暦年中の設置に係り当時二郡を以て北辺の極界となしたもので延喜式の国郡も和名抄の郡郷も共に此二郡を以て終止としてあります。そして初めは江刺を以て胆沢の分郡としたのですが、後には二つ相並んで対等の郡となりました。それから和賀・稗貫・紫波の三郡は弘仁二年の創設で稗貫は■(くさかんむり+稗)縫とも書いてあります。中にも和賀と稗貫の二郡は初めは遠胆沢(とおいさわ)と申しまして今日の言葉でいえば胆沢城の前進陣地ともいうべきものであったのです。それから紫波は遠胆沢の更に前方に於ける大部落で大和民族と蝦夷との混合して住んで居った部分でありました。田村麿征伐の時に此地を収めて斯波城と徳丹城との二つを築いた所であります。弘仁二年に此郡を建てて民夷の分るる所とせられた。大和と蝦夷との両民族の間に於ける所謂パ(バ?)ッファー、ランドであったのです。それから岩手郡は大同年間に権置の郡で当時は斯波城を以て塞表とせられたから厨川以北は実に塞外というものであったが、岩手郡だけは塞外ではあるが、権置の郡ということであったのです。夫故に其以北の地は全く夷地であったのであります。

此六郡は実に北上川流域中最良の地で、其の大きな支流が二つ、南と北との自然の境界をなして居ります。即ち南方は衣川を以て、北方は厨川を以て各々境として此六郡の平野を其内に取り込み、阿倍氏が代々の積威に基いて此豊饒なる土地を占領して中央政府と拮抗したのであります。頼時に至って其の子供等に此土地を分領せしめた様な形跡が見えます。それは各の子供の名前に因て推察するのであります。

15 頼時の八名の子について

先ず頼時の子供を挙げて見ますと、頼時には八人の男子があった、井殿盲目・貞任・宗任・官照・正任・重任・家任・則任であります。

長男は只、井殿盲目とあって盲人で、名はわかりません。

貞任は厨川二郎と申しまして頼時の二男で、厨川の地即ち今日の盛岡を首都とせる岩手郡の全部を其の領地として居ったではあるまいかと想像せられます。岩手郡は六郡の最北に位して広さも一番広い。して見ると貞任は二男ではあるが長男井殿盲目は癈人であるが為に貞任が頼時の後嗣となって一番広い地を領したものに違ないのです。

それから三男宗任は鳥海三郎と申しますが、この鳥海の地は今の水沢町の北方なる金崎の辺に当たって居りますから、今日の水沢町を首都とせる胆沢郡を領地として居ったものかと思われます。

次は官照ですが、この人は第四男で僧となって境講師といった。これは僧であるから別に領地はなかったらしい。其の境というのは頼時が横領して居った全領地六箇郡の最南境即ち国司の威力の及ぶ範囲の最北なる磐井郡と相境する所――衣川の北上川に注く辺――に住んで居たから申すのでありましょう。

それから第五子が黒沢尻五郎正任で黒沢尻は今日も其地名が伝わって一つの町となって居て和賀郡の首都となって居る。即ち五男正任は和賀郡を領して居ったらしい。

第六男は北浦六郎重任と申しますが、此の北浦の地は今の何処であるか、能くわかりませんが、出羽の仙北(仙北の地は後に後三年役の地理の所で説明いたします)に今の横手から戸沢へ亘るの辺に北浦郡という名があったことが戦国時代の上杉文書に見えて居りますが、或はこれを申すのではないかとの説もあります。若し此地と致しますれば此の重任は陸奥でなくて出羽の方に領地を貰って居ったもので阿倍氏の勢力は独り陸奥国内にのみ限られないで出羽国の方にも及んで居ったと見なくてはなりません。

次に第七男は鳥海弥三郎家任で御座いますが、此鳥海弥三郎という字(あざな)が一寸わかり兼ねます。鳥海の地は第三男宗任が鳥海三郎と申して居るから其の領となって居るわけですが、これが一寸疑問です。但し吾妻鏡に頼時の子供の名を挙げてある中には此の家任の名は欠けて居ります。

それから最後の第八男が白鳥八郎則任ですが、これは吾妻鏡には行任と見えて居ります。陸奥話記には則任となって居ります。此の白鳥の地は今も胆沢郡前沢町の大字となって残って居りますので、明かであります、して見ると此の則任は胆沢郡の一部たる白鳥の辺を領して居ったものと見えます。

さて以上の如く頼時は其の多くの子供に六箇郡中の主なるものを分領せしめて各々其領内の最緊要なる地点に館を構えてこれに住せしめ、頼時自身は此等を総轄して六郡の富を一身に集め、貢賦も徭役も一つも出さないで横暴を極め、国司の命令は全く此境に入らなかったのです。そして頼時は其六郡の最南端なる衣川の地、即ち国司の勢力の及べる磐井郡に境を接して居る所に塞柵を構え、又自己及び一族子弟の第宅をも此所に設けて盛大なる城下の市街をも為し以て中央政府官憲の勢力に抗抵したのであります。かかる次第ですから前九年役は頼時が今日の岩手縣全部の富力を土台として政府に対抗し、源頼義は今日の宮城縣及福島縣全部の力を以てこれを征したと見られると思います。

16 「陸奥話記」に現れる地理

さて私は以上に於いて中古の奥州に於ける駅路と六郡について説明致しましたから、是から愈々進んで陸奥話記に現れたる前九年役の各地点について一一詳細に説明致したいと思います。先ず第一には此役の最初に頼時が陸奥国司藤原登任と出羽国司平重成の連合してやって来た大軍を打破った地である所の鬼切部について申します。

17 鬼切部(おにきるべ)

鬼切部  これは今日の陸前国玉造郡鬼首(おにこうべ)村の地を充てます。鬼首は鳴子の北方の山峡で玉造川の源谷に当たりまして、有名なる温泉のある所で陸前の玉造郡から出羽の仙北(羽後国雄勝郡)に通ずる道である。即ち当時奥羽の連絡道路であったのです。夫れ故に出羽国守平重成も此の路を取って奥州に出で来り、陸奥国守藤原登任と其の兵を合して頼時に当たろうとしたのである。それを頼時が早く知って奥羽両国の軍が合一せない先きにこれを打破ろうと思って、いち早く此鬼切部に進んで一方には出羽から来る軍に当たり、一方には奥州の軍を破ったので大勝を得たのである。詰り頼時の此戦略は最も当を得たのである。

18 玉造柵

前にも一寸申しましたが、此の玉造郡に玉造棚があったことを挙げました。これは神亀五年の設置で当時玉造軍団の営所と見て差支ないと思います。これは即ち此鬼切部が奥羽山脈を横ぎって奥羽を連絡するの道に当たって居るので、即ち出羽の雄勝城(其の地点は後に出羽の地理を説く所で申します)に通ずる道であると同時に又最上(もかみ)の方へも通ずるの衝に当たって居るから玉造郡が最も緊要なる所となる、それで玉造柵を設けたのであります。

19 瓶割峠(かめわりとうげ)

ついでに一寸申しますが、この玉造から出羽の最上即今日の羽前国新庄方面へ通ずる瓶割峠というは彼の源義経が奥州平泉へ落ち行くときに通過したという道で往古北陸道より平泉に通ずるには矢張り此道に由ったものと思われます。これについては雑誌『歴史地理』誌上に嘗て「義経記に現れたる地理」と題して鄙見を述べた中に説いた事も御座います。要するに鬼切部即ち今日鬼首は古の奥羽交通の衝に当たって緊要な地点であったので御座ります。それから次には

20 阿久利川

阿久利川  について申します、これは源頼義が鎮守府に至り府務の所理を終りて国府への帰途に此の阿久利川に宿したときに貞任が藤原光貞(陸奥権守説貞の子)兄弟の宿営を襲って殺傷を逞うした為に此前九年の大役が起こったという所です。此阿久利川というが今の何処に当たるか、どうもこれが疑問である。誰もまだ此地点を考え当てたものがない、が、然し鎮守府たる胆沢城から国府たる多賀城への帰途頼時の衣川館を通過した頃に起こった出来事である所から推し考えて見ると、道順から謂っても先ず磐井駅の辺での出来事らしく思われますから、それから推して阿久利川とは今の磐井川を指したものではあるまいかと思われます。但し全くの想像ですから固より確かとは申されません、只推察丈を申して置きます。それから其の次には

21 河崎柵と黄海柵

河崎柵と黄海(きのみ)  の地点について申します。河崎柵は金為行というものの居所で貞任が四千余人の精兵を以てこれに拠ったのを頼義が千八百人を以て攻めた所で、黄海は其時に戦場となった地である。此の戦は大風雪の裡に行われ八幡太郎義家が武勇を示したのを以て有名であります。さて此二地点はいずれも今日の東磐井郡なる北上川の東岸にあって河崎柵は今日の門崎薄衣等の諸村の在る地と云われて居る。此地は束稲山の南端が出張って砂鉄川と千厩川という二つの川が北上川に合流する所で南北に河流を控え最も形勝の地である。黄海は其の南に当たって今日もなお同名の村名が残って居る。此等の地は凡て要害で守るに安く攻むるには最も難いから大戦闘を演出し官軍も遂に敗北したのであります。その次に説明すべき地は

22 営岡(たむろがおか) 

営岡(たむろがおか) であります。これは前に申した所謂松山道に在る地点で今日の宮城縣栗原郡岩ヶ崎町に相当するのです。此地も亦栗原郡から出羽の仙北即ち羽後国雄勝郡に通ずるの要衝でありますから清原武則が一族萬余人の大兵を率いて来って源頼義を援け頼義が丁度武則を迎えて相出逢った地であります。今も岩ヶ崎町の東南四五町に八幡村というがあって三面断崖をなして居る山の頂に営岡の址があるという事です。丁度三ノ迫川の南岸に当たって居る。此地は前には坂上田村麿が陣を張り又後には源頼義父子が陣を張った地というので営岡というとの事です。

23 伊冶城(これはりじょう)

古の伊冶城の址も此地であるとて嘗て大槻博士が復軒雑纂に論ぜられたものが載せてあります。さて源頼義は賊貞任の勢が猖獗で中々討伐の実が挙がらぬので大に困り出羽の豪族清原武則を説いて来援を求めたが愈々武則がやって来るという事になって、そして此営岡で両人が出逢った時には頼義の悦びは一通りではなかったのである。両雄互に手を握って涙を拭い歓喜の情を交換したのである。そこで愈々衣川柵の攻略を定め部署を定めて軍を繰り出した。実に康平五年八月十六日であります。今其の陣出を申しますと第一陣が清原武貞(武則の子)第二陣が橘貞頼、第三陣が吉彦(きみこ)秀武、第四陣が橘頼貞、第五陣が即ち源頼義である。この頼義の陣は更に三陣に分かれ其の第一が頼義将軍親からこれを率い、第二が清原武則、第三は国内に居る官人としてあります。それから第六陣が吉美侯(きみこ)武忠、第七陣が清原武道である。以上七陣に分って整々堂々と貞任の拠れる衣川柵に向って進みました。そして先ず第一に磐井郡中山大風沢に至り、次に翌日同郡荻馬場に至り、尋で小松柵を攻めてここに激戦が起こったのであります。それで此等の諸地点を一寸説明致しましょう。

24 中山大風沢

中山大風沢  古の営岡即ち今の宮城縣栗原郡岩ヶ崎から斜に陸前陸中の国境を横ぎって赤児・市野々を過ぎ赤荻に通ずる道は即ち古の松山道で今日もなお此道路は現然として存し、赤児の普賢堂の辺が中山大風沢だということですが、今は其地名も残って居ませんので明確に申すことが出来ません。

25 荻馬場

荻馬場  今の岩手縣西磐井郡一ノ関町の西方数里に赤荻・黒沢等の村があります。此の黒沢は元と荻庄村の内であって上下に分れて居ります。其の上黒沢の地を、この荻馬場に充てるのです。そして延喜式に挙げたる磐井の古駅は此辺であったであろうと思われます。今の赤荻も亦荻馬場と関係のあった地であろうと思います。但しこの荻馬場は陸奥話記の一本には荻馬場とも見えて居ります。

26 小松柵

小松柵  この地の古址は今どうもわかりません。大槻博士の復軒雑纂に拠りますと小松は駒津の義ではあるまいかといってある。荻馬場を去ること五町余と陸奥話記に見え又同書に此柵の地形を説いて「件柵東南帯深流之碧潭西北負壁立之青厳云々」といってある所から考えると磐井川に臨んで居ったものである。此川は五串の辺からして両岸絶壁をなして居るから旁々其記事が相応するのである。此柵は宗任の叔父良照の拠って居た所だが遂に陥り宗任も亦敗北し、官軍遂に柵を焼いた。所が前にも申した通り此時霖雨に逢い糧食の欠乏にて官軍非常に困難し、それに乗じて貞任来り襲ったが幸にこれ等を打破り官軍は賊の北ぐるを追って北進した。賊は更に高梨宿及石坂柵を棄てて衣川柵に逃れ入った。

27 高梨宿及石坂柵

高梨宿及石坂柵  この二地点は共に磐井川の北岸で赤荻村の内にありました。丁度古の本街道に当たって居て高梨宿というのが或は古の磐井の駅家に相当するではあるまいかと思われます。復軒雑纂には下黒沢村に高梨という地名が存して居るが、然し赤荻村ならでは地理が合わぬと云ってあります。それから石坂柵も亦赤荻でなくてはならぬが其址跡がどうも今日明らかで御座いません。赤荻村に駒泣坂とかいう地名があるそうですがそれが果たして石坂ですかは一向わかりません。凡て此辺の地理は各地方の方々の御研究に待つより外には仕方がないのです、でどうぞ御当地の諸君に御願致して置く次第で御座います。

そこで官軍は磐井川を渡り石坂柵を抵抗なく抜いて是から愈々貞任の第一根拠地たる衣川柵に攻め寄せることとなったのです。それで衣川館及衣川関の址等の研究に入ります。これは本講演の主要なる部分で御座いますから章を改めて説明いたします。
 

第六 衣川関・衣川館及衣川柵

さて康平五年九月六日に将軍頼義は高梨宿に至って愈々衣川関攻撃の方略を定めまして前に申した通り其の軍を三分し、三方より進んで衣川関を攻めました。

1  衣川の様々な呼称について

今先ず陸奥話記の文を読み上げてこれについて此関の地理を考えたいので御座ります。
 

六日午時、将軍到高梨宿、即日、欲攻衣川関、件関素隘路嶮岨、過■(山+肴)函之固、一人拒嶮、萬夫不能進、弥斬樹塞蹊、崩岸断路、加以霖雨無晴、河水洪漲溢、然而三人押領使攻之、武貞攻関道、頼貞攻上津衣川道、武則攻関下道、自未迄戊時、攻戦之間、官軍死者九人、被疵者八十余人也、云々、


この文の中に衣川関として現れて居りますが、衣川は頼時及其一族の住地となって居た所であるから先ず其の地点を考証するの必要が御座ります。所が此の衣川の住地については種々の呼び名がある、即ち

衣川館……衣館……阿倍館……(館)
衣川柵……衣関……衣川関……(柵・関)
の六つあります。此の外に又衣川営というがある。然しこれは延暦八年五月紀古佐美が勅命を奉じて陸奥の蝦夷を征伐した時に設けたものの名で阿倍氏には関係のないもので御座ります。但し其の設けられた地はこの衣川の地であることは申すまでもないのです。それで今申しました衣川館・衣館・阿倍館・衣川柵・衣川関・衣関の六つは皆同一の地点を呼んだ名であるか又は夫々地点を異にして居るか、これを定めるのが問題で御座ります。愚按に依りますれば先ず衣川館と衣館とは同一のものと思います、又阿倍館は全く異った地点に在るものを呼んで居ります。それから衣川関と衣川館とは同一地にはあるけれども其の地点は全く同じではなく少しく場所を異にして居りまして衣川関は衣川館に入るの関門であると思います。それから又衣川関と衣関とは同一のものを呼んだ場合もありましょうが、又異った地点を呼んだ時もある。それから衣川柵と衣川関とも亦少しく地点を異にして居ったものと思います。それで先ず便宜上衣川関の地点から説明いたします。

2 衣川関

衣川関  前に読み上げました陸奥話記の文中に衣川関の事を記して

「件関素隘路嶮岨、過■(山+肴)関之固、一人拒嶮、萬夫不能進、弥斬樹塞蹊、崩岸断路云々」
とありますのは前に申した高梨宿若しくは石坂柵から衣川関に通ずる道路を形容した文句で、此道路は今日の赤荻から小金沢を経て太田川を渡り大沢の辺を通って此の中尊寺の西北なる古関(衣川関)の址に出でで坂を下りて衣川を渡るの道路を指したものと思います。これが阿倍氏の時に衣川館に入る正面の本道であったと思います。吾妻鏡に「西界於白河関、為十余日行程、東拠率土(そとが)浜、又十余日行程、其当中央遙開関、名云衣関、宛如函谷云々」と見えるのは即ち此所を申したので御座ります。それで衣川関は此の中尊寺の西北に今も古関址として存して居る辺がそれで中尊寺に伝わって居る永正の古図に拠りましてもこれは立証せられます。此の御寺の在る山即ち今吾々が居る所の山を関山と呼ぶのもそれが為で此の山中に通じて居った道路が即ち衣川関門に通ずる道路であったのです。此道路は頗る狭く且つ嶮悪で彼の函谷関にも似て居ったのです。それ故陸奥話記に頼時の臣下の言を載せて「以一丸泥封衣川関、誰敢有破者云々」といえる意義が能く解せられるのであります。それから此関を通り抜け関山の北方坂路を下りて衣川の岸に出で川を渡った所が今日の下衣川村の平坦なる地に達します。其の所が即ち阿倍頼時一族の居った衣川館の在った所です。

3 白鳥村にもあった衣関との区別

それから衣関について一寸申し添えますが、今申しました吾妻鏡の文句の中に「名けて衣関と云う」とあるのは申すまでもなく衣川関の事で御座りますが、此外に永正の古図に衣川の東北白鳥村の辺に衣関という柵門を画いてあります。これは平泉の全盛の時代に北方に対しての関門として柵門を構えて人の出入を厳にしたもので、阿倍頼時の衣川関とは全く別物でございます。芭蕉の『奥細道』にも「康衡(泰衡)が旧蹟は衣が関を隔てて南部口をさし堅め夷を拒ぐと見えたり云々」と見えて居りますのは即ちこれで、詰り新旧二つの衣関があったのです。名は同じでも地点は全く異って居たので御座ります。

4 衣川館

衣川館・衣館・衣川柵  以上に説明致しましたので衣川関は御わかりに成ったことと思いますが、此関の外、更に衣川館というがある、これを又衣館とも申して居る。彼の義家の貞任を挑みかけて云ったと伝えられる歌にも「衣の館はほころびにけり」とあるので知られます。又衣川柵というのもあって、矢張り同一のものを指して呼んだ様に思われます。それで今私が其の遺蹟に就いて考えた所を概略申して見ましょうなれば、先ず衣川館の遺蹟と称せられるものが都合三つ御座ります。

其一は源義経が平泉に落ちて来た時に住んで居たという平泉の高館を以て衣川館と同一とするの説であります。此説に従うなれば衣川館は衣川の南岸であったということになります。それは高館の跡が今残って居って衣川の南岸で北上川に浜した高地に在るからです。

其二は今の下衣川村の地とするの説であります。此説に従うなれば衣川館は衣川の北岸に位置して居ったということになります。

其三は今の上衣川村の地で衣川の上流が北股川と南股川とに分かれて居る其の分肢点即ち百袋(もたい)という所の地点に阿倍館と称するものがある、それが即ち衣川館の跡だという説であります。

5 衣川館は下衣川北岸に存在した?!

この三つの説の中で私は第二説が宜しいと思います、第一説も第三説も共にいけないと思います。そこで簡短に其理由を申しましょう。

先ず第一説は吾妻鏡に「予州義経在民部少輔基成朝臣衣河館、泰衡従兵数百騎、馳至其所合戦」とあるに拠って、其の衣河館が即ち阿倍頼時一族の住んで居た衣川館と同一だというのです。又尊卑分脈にも義経は衣河館に於いて死んだとしてありますので、これも証拠となって此の説が生ずるのです。然しこれは只衣河館という名称が会々符合するからいう説であって別に頼時がこれに住んで居ったという事を書いてある証拠はないのです。それ故にこれは頗る薄弱な説であります。殊に此の館の位置は衣川の南岸にあるということが此説の大なる弱点です。それは今後に詳しく説明いたします。

それから第三の説たる衣川の上流なる両支流の合流点なる阿倍館を衣川館の旧趾とするの説は只其地点に何かわからない古の遺蹟があるのでこれではあるまいかという位な推量説であって外に確乎としたる証拠があるのではない詰り其土地の人がそう云うのみで別に書物に学者の説として論ぜられてあるわけではありません。故に其の実地について能く検分し考究した上でなくては断言出来ませんけれども私は此説は甚だ薄弱なものと考えます。それで此説は採りません。

6 衣川館が下衣川に存在した説の根拠

かくなる上は愈々第二説が一番正しいものとなります。即ち衣川の北岸なる下衣川村の地とするのであります。これについて少しく私の愚見を申し上げたいのです。

私が今述べようとする説の終局点は安倍氏の衣川館の遺趾は是非共衣川という川の北岸でなくてはならない、南岸であってはいけないというにあるのです。先ず此地図について、つらつら奥の六郡を考えますと、これは北上川流域の盆地をなして居る陸中の平野であって北上川の本流が南北に此平野を縦断し水流の一大幹線を形成して居ります。それへ向って流れ込む支流は大方西から東に向って並行して流れ幹流たる北上川に注入して居ります

其の有様は丁度、木の葉の葉脈が中央に大いなる幹脈をなして、それへ幾多の支脈が相並行して合する有様と能く似て居ります。然し此の図で御覧の通り北上川の東側は大部分山脈が北上河に迫って居って平野が開けて居ない、多くは山地であるから、一番大切な部分即ち奥の六郡というのは実にこの西側の平野であります。(但し六郡の一なる江刺郡は北上河の東方にあるが、これは比較的重要でない)即ち此の西の部分が(図を指す)実に阿倍氏の依って以て富強を致せる根本の地である。

今この平野を横断して並行線をなして北上川なる幹流に注入する幾多の支川を北方から順序に南方へ算へ下って見ますれば最北のものが厨川(今日の雫石川)で巖手郡の此平野に於ける部分の最大河即ち幹流をなして居る。其次が瀧谷川で紫波郡の幹流である。次が豊沢川で稗貫郡の北上川西部に於ける幹流をなして居る。次は和賀川で和賀郡の幹流である。次が胆沢川で胆沢郡中の最大流をなして居る。其次即ち最南のものが実に衣川で、これは阿倍氏の領地の南堺を為して居る。此の川を南に渡れば国衙領即ち中央政府の冶下に在る土地に出るのである。夫故に中央政府の権力は此の衣川までしきや達して居なかったわけです。

7 厨川柵

それで今列挙しました諸支川の本川なる北上河に注入する点は此等諸川の潤す各郡中の最も緊要なる場所で此の点には自然に都会が発達すると同時に又戦略上の地点ともなります。即ち厨川(雫石川)の北上河に注入する点には厨川柵がある、これは巖手郡の首府を為して居って頼時の長子たる貞任の根拠地である。

比与鳥柵

次に瀧谷川の北上河に注入する点には比与鳥柵があります。これは紫波郡の首府であります。

9 鶴脛柵

次に豊沢川が北上河に注入する点には鶴脛柵が起こって居りますが、これは今の花巻町の地で稗貫郡の首府をなして居ります。この比与鳥と鶴脛の二柵は頼時の子の中で誰の根拠地となって居たか能くわかりません。

10 黒沢尻柵

それから次に和賀川が北上河に注ぐ点には黒沢尻柵が起こって居ります。これは和賀郡の首府で実に黒沢尻五郎正任の根拠地であった。

11 鳥海柵

次に胆沢川が北上河に注ぐ点には鳥海柵があります。これは今の金ヶ崎町の地で胆沢郡の首府で鳥海三郎宗任の根拠地であった。

12 衣川柵=衣川館

次は即ち衣川が北上河に注入するの地点で、実に衣川柵即ち衣川館のある所である。これは阿倍氏一族の家長たる頼時の根拠地で先ず以上の六郡を統轄するの格に在るから最も要害の地を撰んだので殊に奥の六郡全部の最南端に位置し六郡全部を此の所で扼して以て国衙に対抗したのである。是に於いてか此の衣川館の地点は衣川という川の北岸にあったか、又は南岸にあったかということを決するの問題に入るのである。

それで先ず他の諸柵について其位置を考えて見ますと、厨川柵でも比与鳥でも鶴脛でも鳥海でもいずれも皆河流を其南方に控えて柵はすべて北岸に位置して居る、それから打算して衣川柵も亦是非共衣川の北岸になけらねばならぬとの結論を得るのであります。それは詰り南方に国衙の勢力があるから、之に対して防禦するの意義に於いて柵地の南方に河流を控えるのであります。これに反して国衙若しくは中央政府の側から此地方に設けた城柵は凡て河流を北に控えて其の南岸に位置して居る。第一に胆沢城がそれである。胆沢城については今ここで詳しく説明するの自由を有しませぬが、これは今の水沢町の北辺で今鎮守府八幡宮のある辺と思います。此地点は丁度胆沢河の南岸にあって河流を北に控えて居ります。胆沢城は申すまでもなく鎮守府を置かれた所で中央政府から設けた一つの要塞である。北方の夷に対しての鎮撫的根拠であるから北方に対して防禦的構造を必要とする。其の他志波城でも徳丹城でも其の古趾は今日能くはわかりませぬが、然しいずれも北方に河流を控えて居る地点に設けられて居る、志波城は今の紫波郡の郡山・日詰の北方、徳丹城は同郡の東徳田の地だと云われて居ります。此等の城塞は皆中央政府の方から設けられたものであるから、すべて北方に対して防禦的の地位に在るのであります。

以上の根本的論拠からして衣川柵若しくは衣川館は衣川の北岸に位置しなければならぬのですが、今古い記録の方からしても、又これを立証することが出来るのです。即ち陸奥話記の劈頭に安倍氏が専横にして中央政府の命を奉ぜざることを叙した文中に

「横行六郡、却略人民、子孫尤滋蔓、漸出衣川外、不輸賦貢、無勤徭役代々驕奢、誰人敢不能制之云々」
という句があります。衣川の外に出づるというは即ち頼時が自己の根拠地の境を越え国衙領へ出でで横暴の挙動をなすことをいったので、これは地勢上北から衣川を渡って南方の国衙領の地に出づるのであるから、衣川館が衣川の北岸に在ったということが証明せらるるのであります
 

又吾妻鏡にも文治五年に源頼朝が奥州の藤原泰衡を征伐し其の帰途平泉に軍を駐めた時に一日平泉の地を歴覧することを記した條に安倍頼時の遺蹟をも尋ねた事が載って居ります。其の記事が実に此の衣川館が衣川の北岸の地であることを証明して居ります。今先ず其文句を読み上げます。

二品頼朝歴覧安倍頼時衣河遺蹟給、郭土空残、秋草■(金+巣)兮数十町、礎石何在、旧台埋兮百余年、頼時掠領国郡之昔、点此所構家屋、男子者井殿盲目、厨河次郎貞任、鳥海三郎宗任、境講師官照、黒沢尻五郎正任、白鳥八郎行任等也、女子者、有加一乃末陪、中加一乃末陪、一加一乃末陪也、巳上八人男女子宅並檐、郎徒等屋開門(中略)左隣高山、右顧長途、南北同連峯領、産業亦兼海陸、卅余里之際、並植櫻樹、至干四五月、残雪無消、仍号駒形嶺、麓有流河、而落干南、是北上河也、衣河自北流降、而通干此河、凡官照小松楯、成通貞任後見琵琶柵等旧蹟、在彼青巖之間、
この文に拠ると頼朝は今この中尊寺のある高地から北方に向って衣川館趾を見たらしく思われます。即ち左は高山に隣り、右は長途を顧るといい、麓に流河あり南に落つ、これ北上河なり、衣川は北より流れ降って北上河に合するという工合が此の寺から眺望する有様と能く符合し居ます。尤も北上河の本流は古は束稲山の山麓を南流したので今とは大に趣が異って居ります。随って衣川の北上河に合する地点も今のよりは少しく東へ寄って居ったのです。が兎に角これで衣川館趾は衣川の北岸で今日の下衣川村の地であるということを決するのです。前に挙げた第一及び第三の両説は共に採らないで私は此の第二説を主張するというは即ちこれであります。今日もなお下衣川村には現に古の市場の跡とか、諸屋敷の跡が存して居るそうですから、かたがた私の申すことが立証せられるのであります。

13 衣川柵と衣川館の範囲

然しここに一つの疑問は衣川柵の趾というが今の下衣川村の西方で衣川を渡った西岸月山の麓に在るとの事です。これは実地を検分せねば能くわかりませんが、多分戦時に立籠る所であったのだろうと思います。夫故に衣川柵というのであるらしい。そうすると此の関山の北岸の地は平時の住所で市場もあり其他凡ての屋敷もあって、これが所謂衣川館である。詰り全体を引っくるめて衣川館とも云い、又同時に衣川柵とも云ったのです。

14 衣川営

ここで一寸前に申した衣川営のことを再び申しますが、これは延暦八年五月紀古佐美の蝦夷征伐の時に設けたもので其遺蹟は今全く知る由なしですが、然し私が前申し来った論法から推しますと衣川の南岸になくてはならぬ。南岸といえば此の平泉の関山の地がそれらしい、即ち此所に設けて北方に対し防禦したものではあるまいかと思われます。即ち安倍氏の衣川館とは反対の位置でなくてはならぬ。

15 衣川の戦

かく衣川館の考がつきましたから、ここで一寸衣川の戦の始末を付けて置きたいと思います。前には康平五年九月六日頼義将軍が其の軍を三分して三方の道路から進んで衣川関を攻め破ったことを申しました。然し関は破れたけれどもまだ衣川館はすぐに陥りません、それは衣川の対岸にあるから先ず関を破って、全軍が此の館を攻むることとなったのです。それで陸奥話記の文を引いて其の攻撃の有様を申しますれば

○前文は前に挙げた 

武則下馬、廻見岸辺、召兵士久清曰、両岸有曲木、枝條覆河面、汝軽捷、好飛超、伝渡彼岸、偸入賊営、方焼其塁、賊見其営火起、合軍驚走、吾必破関、矣、久清云、死生随命、即如猿猴之跳梁着彼岸之曲木、牽縄纏葛、牽卅余人兵士、同得越渡、即偸到藤原業近柵俄放火焼、業近字大藤内宗任腹心也、貞任等見業近柵焼亡、大駭遁奔、遂不拒関、保鳥海柵云々
この文で衣川戦の様がよく知られます、これに関としてあるのは衣川館をいうので、又川の両岸から曲木が河上に突出して居るのを猿猴の如くつたはって渡ったというからには衣川館が対岸にあったことは明白である。此の戦争の記事でも衣川館の位置が能く知られます。但し藤原業近(成近ともしてある)柵のあった地点はどこであるか、今一寸知るに苦しみますが後に泉が城といったものと同一であるようにも思われます。又成通の琵琶柵というのと同じであったかも知れません、琵琶柵というは今日も其趾が明に知れて居ります、これは地形が琵琶に酷似して居るからいったので、衣川の北岸にあったのです。それが第一に焼けたから全軍が崩れて、皆鳥海柵を目掛けて落ち行き、衣川館は遂に陥ったのであります。

講演者申す。昨年夏余の平泉講演に列するや、衣川村地方有志者の好意に依りて下衣川村なる古の衣川館及衣川柵の趾を調査し、又上衣川村なる安倍館をも実地踏査するを得て大に得る所あり、乃ち是に因て余の講じたる地理に関する拙案を確むるを得ると同時に上衣川村なる安倍館は古の蝦夷蛮民が残したる所謂チヤチホツに戦国時代の城郭の規模を少しく加えたる趾を認め其の安倍氏に関係ある所謂衣川柵にはあらざることを確むるを得たり。なおこれに就いては別に『衣川柵考』を歴史地理誌上に於いて発表し大方の教示を仰がんとす。(第六了)
 

つづく

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2002.1.17
2002.1.23
H.sato