奥羽沿革史論 第三
 前九年役と後三年役

 
 
凡例
  • 底本には、「奥羽沿革史論」所収(元版大正5年6月刊の復刻本−昭和47年刊 蒲史図書社)である。
  • 原文をそのまま維持するようにした。
  • 但し、小見出しについては、原本になきものも一部附してある。
  • 小見出しについて、各節ごとに連番を附したが、これはデジタル化の便宜上、佐藤が附したものである。
  • 一部差別に通じる表現があるが、歴史的表現であり、原文に差し障りのない範囲で尚した箇所がある。(土人−土地の人という表記である)
  • 当文章は、大正4年夏に、平泉の中尊寺で開催された歴史地理学会での講演記録である。
  • 一年後の大正五年六月に、日本歴史地理学会編として「奥羽沿革史論」に納められ刊行された。
2002.1.25 佐藤弘弥
          文学士 岡部精一

第七 衣川以北の地理 厨川柵

衣川以北は実に安倍氏の拠って以て富強を東北に致した根拠の地で所謂奥の六郡は即ち此の全部で御座ります。これについては既に前に十分説明いたしましたから、ここでは前九年役に現れた地点について設明いたしましょう。但し此所で当時鎮守府の地であった胆沢城趾について説明致す筈で御座いましたが、時間も大分進みましたから、これは他日に譲ることに致して陸奥話記に見えて居る種々の地名の考証に入りたいと思います。それで先ず

1 大麻生野柵

大麻生野柵及瀬原柵  官軍は前に申した通り七日に衣川柵を抜いて胆沢郡白鳥村の大麻生野及瀬原の二柵を抜きました。この大麻生野の地点は今日どうも考がつきませんが御当地の方々には御研究になって居らるることかと思いますで教を受けたいと存じます。

2 瀬原柵

それから瀬原柵は今も白鳥村と下衣川村との境に当たって柵趾が残って居るとのことであります。瀬原と申すは衣川と北上河との中間の洲になって居る所で川瀬の原とでもいう意味から起こった地名の様に思われます。俗に武蔵坊弁慶の立往生をした所と伝えられて居る所の様です。弁慶石というが古からあったそうですが享徳年中に京に送ったという事が封内風土記に見えて居ります。

3 小松柵

又吾妻鏡に官照の小松柵いうが青厳の間に見ゆるとしてありますのは此瀬原柵の辺である様に思われます。中尊寺に伝って居る永正年間の古図で見ますると此の瀬原と思わるる所に小松館と衣関と標示してあります。然し其衣関と申すは既に前に説明いたしました通り平泉の藤原氏が北方に対しての警戒に設けた関で安倍氏に関係のものではありません。

4 鳥海柵 

鳥海柵  これは十一日に官軍が至らぬ先に貞任以下が空うして退いたので戦なくて陥りました。これは今の胆沢郡金崎駅に相当します。頼時の三男鳥海三郎宗任の居た所で南に胆沢川を控えて防禦としました。又西北の二方面は平坦の地です。これを東磐井郡に在る鳥海村の地に充てるのは全く誤って居ります。この事は大槻博士も其著復軒雑纂に説いて居られます。さて此棚からは賊の最終の根拠地たる厨川柵までは行程十余里もありますので将軍頼義は此所で全軍に一日の休養を与えて兵士をいたわりました。

5 胆沢城

此の鳥海棚は其の南方に胆沢川を隔てて当時の鎮守府たる胆沢城と相対峙して居ったのです。胆沢城については前にも申しました通り胆沢川を其の北方に控えて夷族の鎮となって居たのです。これについては詳しく申したいですが何分御話が長くなりますから残念ながら略します。

6 黒沢尻柵

黒沢尻棚  これは和賀郡の首都で御座いまして今日も同名の地がチャンと栄えて居ります。陸奥話記にこれを斯和郡としてあるのは全く誤で御座いましょう。和賀川を南に控えて其の北岸に位置して居る。頼時の五男黒沢尻五郎正任の居城であった所で御座ります。

7 鶴脛(つるはぎ)棚

鶴脛棚  この棚の古趾は次の比与鳥棚の故趾と共に今日能くわかりませんが然し稗貫郡花巻町にある鳥谷ヶ崎城址が或はそれではあるまいかとの説が御座います。私が前に総括的に六郡の首都はいずれも北上河が其の支流と合流する点の北方に発達したと申しました論法に拠ると丁度稗貫郡の首都としては是非此の地点に一都会が起らなければならぬのです。其の論から申しますれば花巻の地を以て鶴脛棚に充てるのを最も当を得たものと思います。次には

8 比与鳥棚 

比与鳥棚  これも前に申す通りに其故趾が知れませんが、前の論法から申しますと紫波郡に於いて其の主なる河流なる瀧谷川の北上河に注入する地点の北方即ち今日の郡山町の南方の辺に求めたいのです。丁度其辺に古館村という所がある。

9 陣岡

この辺には又文治五年源頼朝の奥州征伐に陣を取ったというので陣岡(じんがおか)といわれる所もありますが、先ず此古館村が比与鳥棚のあった所ではあるまいかと思われます。さて此棚と前の鶴脛との二棚も亦難なく破られて官軍は十四日を以て厨川棚に向いました。そこでいよいよ

10 厨川棚

厨川棚を説いてこれで地理の御話は一先ず終わりたいと思います。此棚は十六日から攻めて十七日に陥りました。貞任の居城で六郡の最北に位し厳手郡の首都でありましたのみならず要害の地で十分に防禦の準備もしてあった上に賊も力を尽くして最後の奮闘をやったから、攻撃軍も中々骨が折れた様です。

この厨川柵の故趾については中々異説がある様で御座りますが要するに今日の盛岡市の地に当たることは論はない、然し果たして其の遺蹟は盛岡のどこの地点かということは随分極めにくいのです。元来今日の盛岡市の大部分は北上河の東岸を占めて居りますが、古は北上河の河心が今よりもズット東へ偏して丁度今日の市街の中央を縦断して居った様です。それで今日厨川という地名の残って居る所を調べて見ますと、市の西北一里許で岩手山の裾野の一端を占め裾野を背にして東に北上川、南に雫石川があって丁度其両川の合流上に位置し上下厨川村に両分して居る。そして厨川というは此の雫石川の古名である。これは丁度私が前から論じて参った主意と符合しまするので誠に都合がよい。即ち陸奥話記にも此柵のことを記して

「件柵西北大沢、二面阻河、河岸三丈有余、壁立無途、其内築柵自固、柵上構棲櫓、鋭卒居之、河与柵間亦堀隍、々底倒立刀、地上蒔鉄云々」
としてありますから北上河と厨川との合流点の北方に柵があったと見て差支がない。然し前に申す通り古は北上河が今の市内に入り込んで居たというのですから厨川も又今の合流点よりは稍々東方に於いて北上河に注入したと見なければならぬ、そうすると其の合流点に於いて河岸三丈という地形がなければならぬが、今日の市内で丁度古の合流点とも思わるる辺にかかる三丈も高さのある様な高台は求められない様に思わるる。所が又盛岡地方では今の盛岡監獄の東方なる北上河に接した高地があって、それを古の柵趾と称え安倍館とも称する様に聞きましたが、これを厨川柵趾としては陸奥話記の「二面阻河」という記事に該当しない即ち南方厨川から余り多く隔って居る、只東方に北上河があるばかりであるから、疑わしい。私は此地は蝦夷蛮民の作った所謂チャチホツの遺蹟ではないかと思います。

然らば果たしてどこが柵の故址であるかというと私はまだ実地を能く踏査しませんから断言は出来ませんが今の故址と称えられて居る所よりも少しく南方に降って今日の新田町の辺から鉄道停車場までかけての一帯の地に故址を求めたいので御座います。然し陸奥話記の所謂二面阻河河岸三丈有余という地形には該当せぬかも知れないが雫石川も北上河と共に河心の変遷が盛であったから古の通りの地形は今日は存して居ないのですから、これは此地方の方々の最も精細なる御研究に待つより外に方法はないと思います。

11 嫗戸棚(うばへのさく)

嫗戸棚  陸奥話記に厨川柵を距ること七八町としてありますが、厨川の西方に嫗屋敷と土地の人の呼ぶ所があると旧跡遺聞に見て居ります。戸(へ)というは人家をいうのですから、それが後に屋敷と変ったのかも知れません、そうすると、これが古の嫗戸柵の遺址ではあるまいかと思われます。

地理の説明が大変に長くなって定めし御退屈であったであろうと思います。これで前九年役の方は全く終わりましたから、これから愈々(いよいよ)後三年役に移ります。

 

第八 後三年の役の経過の梗概

次には後三年の合戦に移って其経過の概略を先ず申し上げます。時間も大分迫りましたから極めて簡単に走ります。但しこれは諸君も大体に於いて御承知の事ですから前九年役の場合と等しく先ず此役の史料について申します。

 史料としての奥州後三年記

これも矢張り奥州後三年記という合戦の絵巻物の詞書(ことばがき)で御座います。其外に中右記・後二條師通記・甘露寺為房日記・百練抄・吾妻鏡・本朝世紀等があります。此奥州後三年記は群書類聚に収めてありますから諸君も容易に御覧になることが出来ましょう。

所が此書は前にも一寸申しました様に彼の後三年合戦絵巻物の詞書ですから絵巻物と等しく六巻あるべきのが、二巻欠けて四巻しか残って居りません。そして此が此の戦役の唯一の根本史料で御座いますから二巻欠けて居る為に戦争の顛末を終始一貫して知る事が出来ないのです。所が此頃幸いにも明治聖世の御蔭に依りまして幾多貴重なる諸種の材料が世に出ました結果、此の後三年記の欠けて居った部分に相当する記事を明にする史料が現れて参りました。これに依りて完全に此合戦の一伍一什を知ることが出来る様になりました。

それは中原康富記という書が出たからの事で御座います。中原康富というは後花園天皇の御代の頃の公家さんで御座いまして其人の手ずから書かれた日記で御座います。此書の文安元年閏六月二十三日の條に康富卿が伏見殿に参ったときに勅命で以て御室の仁和寺の御宝蔵から後三年合戦絵巻を伏見殿へ取り寄せて天子様が御覧になりました時に、此の康富卿も陪覧をして其の観た所の顛末を記載して居ります。これに就いては史学雑誌の第二十二編第一巻に三浦周行博士が最も精細に説明せられて居ります。

康富記に此の欠を補う記載のあるという事は全く博士の発見に因ったので誠に結構な事です。是の結果に因って多年歴史家の最も遺憾として居った大欠点が補われた次第で御座います。此点に於いては博士に感謝せねばなりません。それで私は只今後三年役の概略を申すについて三浦博士の調べられた所に従い此康富記の文を引用して其欠けたる点を御話いたします。

 

2 後三年の役の概略

出羽の仙北の豪族清原武則が前九年役に源頼義を援けて平定の大功を建てました結果、鎮守府将軍に補せられ、安倍頼時の横領して居った奥の六郡を領することとなりました。其の子に清原武貞というがありました。武貞の長子を真衡と申します。これは「マヒラ」と訓ませてあります。この真衡は男児が御座いませんので海道小太郎成衡と申すものを養子としました。真衡は父祖三代の遺蹟を継いで富豪を致し驕奢を極めて居ったのであります。それで養子の成衡の為に妻を迎えましたが、それは常陸多気権守宗基というものの女が源頼義の胤を宿して生んだ女子を貰い受けたので御座います。

其の成婚の御祝の為に一族郎党どもが皆それぞれ相応の品物を持って真衡の館へ参りました。其の中に出羽の住人吉彦(きみこ)秀武というがありました、此人は前九年役に武則に従って奥州の合戦に加わり一方の大将となった人で御座います。それが今は真衡に対しては家来同様になって居りましたが、然し一族中の宿老であったのです。で前九年役の生存者として尊敬を払われて居ったに相違ない。所が此秀武も亦真衡の養子の成婚を祝せんが為に非常なる物を持って真衡の屋敷へ参りました。所が此時、丁度真衡は、其の護持僧であった所の「五所うのきみ」という奈良法師と碁を囲んで居ったが、それに熱中して居た為に秀武の来た事に気付かない。秀武は朱の盆に砂金を堆高く積んで両手でこれを捧げ目の上まで差し上げて庭前に進み跪いて礼を致しました。けれども真衡は碁に無中でこれを顧みもしない。秀武は称々暫く差し上げて居たけれども老の力も疲れて苦しくて堪えられない。とうとう疳癪を起こして、自分は一族中の長老である何んぞかかる奴に屈せんやといって其の砂金を盛った盆を庭上に投げ付けて門外に奔り出でました。

其所には従者共が酒だの飯だの色々御馳走をこしらえて長櫃に入れて持って来て居ったのですが、それをも皆打ち棄てさせて物の具を着せて出羽の国へ逃げ帰りました。真衡は碁をすませて秀武はどうしたかと尋ねた所が斯く々々(かくかくしかじか)の次第と聞いて非常に怒って直ちに諸郡の兵を催して親らこれを率いて出羽国へ出向いて秀武を攻めんとしました。

秀武は覚悟を極めて抵抗することとなりましたが、自分独力では覚束ないと思いましたから陸奥の国に在る藤原清衡及び清原家衡というものをかたらいて真衡の留守に乗じ其家を焼き払い真衡の妻子を捕えさせんと謀りました。この清衡家衡の両人は義理の兄弟で清衡は経清の子で御座います。経清と申すは前九年役に貞任に属して討たれた人です。其時其の妻(安倍頼時の女)は清衡という子供がありましたが、それを連れて真衡の父なる武貞の妻となって家衡を生みました。それ故清衡と家衡とは胤ちがいの兄弟で御座います。又真衡とは腹違いの兄弟になります。

なお此の藤原氏の事については此次に大森学士の御講演がありますから、私はこれには立ち入って論じません。それで真衡・清衡・家衡の三人兄弟はいずれも兄弟ではあるが、父が異ったり、母が異ったりして恰も水の中へ油を入れた様に頗る不調和であったに相違ない。後には清衡と家衡とも不和になりますが、此時は真衡が嫡子であるから家を嗣いで大に権力があった為に清衡家衡は相合して真衡と拮抗して居ったのであります。

そこへ丁度、出羽の秀武から真衡の空虚に乗じて其家を攻めよとの交渉があったので、一も二もなく同意して兵を揚げて真衡の館に攻め寄せるつもりで先ず胆沢郡の白鳥村へと攻め寄せて、在家四百余を焼き払いました。真衡の住んで居た館は今の何地に当たるか、又清衡家衡の住所も何処であったかは、後に地理を説く所で申します。さて真衡に在っては、出羽に攻め入らんとする所に清衡家衡が己の空虚を衝かんとするとの報知を得て、それは大変だと直様兵を引き返して奥州へ帰り、清衡家衡を討たんとした。両衡は衆寡敵せざるを見てこれも又引き退きました。真衡は両方に対して志を遂げ得ないので益々いら立って秀武を攻めんとの準備に努めました。

会々永保三年の秋になって源義家が陸奥守となって奥州へ下って参りました。そこで真衡は戦の事は打ち忘れて義家の御馳走に力を尽くしました。此御馳走というのは新に国司が任に就きますとこれを饗応するので、この事を三日厨(みっかくりや)と申しまして、当時此の地方の風俗であったので御座います。乃ち日毎に上等の馬五十疋を引かせ、其外に金羽とか、「あざらし」とか、絹布のたぐい数しらず持ち参りて国司を饗応したと軍記に見えて居ります。此の饗応の事が終わってから真衡は是非共本意を遂げんとの考で又秀武を攻めんため其の兵を分って自分の居館を守らせ、自分は再び前の如くに出羽の国へ出かけて参りました。清衡家衡の両人は真衡が又出羽へ向ったという事を聞きましたので、前の如く真衡の館を襲い攻めました。此時留守をして居ったのは真衡の妻と養子の成衡夫婦であったのですが、兵は固より寡く甚だ危い、所が此時会々国司義家の郎等で兵藤大夫正経と伴次郎{仗助兼という二人が――この二人は婿と姑の関係であったのですが――が此の地方の検閲のために巡廻して参って居ったので真衡の妻女が急に使を馳せて二人に来援を求めました。因て二人は早速真衡の館へ馳け付けて防禦の事に当りました。

後三年軍記は前に申した通り此所で第一巻が終わって居りまして、後がポッツリ切れて、直ちに武衡が飛び出して参って居りますから其関係がサッパリわかりません。又真衡も此後は一度も現れて参らず、どこへ行ったか、どうなったか幽霊の如くに消えてしまって居る。清衡はいつの間にか義家の味方になって居る。これと反対で此以後は専ら武衡家衡と源義家との対戦になって居ります。かかる歴史の欠陥が従来史家の大遺憾とする所であった。それで諸家が此間の史実について従来色々な想像説を建てて前後の連絡を附けんことを試みて居る。大日本史や、平泉志などにも種々の想像が案出してある。所が前申した通り三浦博士が中原康富記を得られて此間の事実が明白になり千戴の遺憾を消すことが出来たのである。そこで今此康富記に拠りまして此間の事実を申そうと思いますが、これは寧ろ此間に相当する康富記の文を其まま朗読する方が良かろうと思いますので暫く御清聴を煩わしたう御座います。
 

上略 太守之郡使、合力成衡有合戦、城中頗危、寄手清衡家衡得利之間、太守義家朝臣自率利兵有発向、被扶成衡、先之遣使於清衡家衡仰云、可退歟、尚可戦歟也、清衡家衡、申可退之由、欲避之処、清衡之親族重光申云、雖一天之君不可恐、況於一国之刺史哉、既対楯交刃之間、可戦之由申之、与太守官軍及合戦、重光被誅了、清衡家衡両人跨一馬没落了、此間真衡於出羽発向之路侵病頓死了、此後清衡家衡対太守不存野心、死亡之重光為逆臣之由陳之請降之間、太守免許之、六郡割分、各三郡充被補清衡家衡処、家衡雖讒申兄清衡、太守不許也、剰清衡有抽賞之間、家衡令同居清衡館之時、密謀青侍、々々欲害清衡、々々先知之、隠居叢中処、家衡放火焼払清衡宿所、忽殺害清衡妻子眷属了、清衡参太守此歎訴申之間、自率数千騎、発向家衡城沼柵、送数月、遇大雪、官軍失闘利、及飢寒、軍兵多寒死飢死、或切食馬肉、或太守懐人令得温之蘇生、如此之後重率大軍欲進発之、太守義家之弟義光、於京都、聞此大乱、雖申暇、無 勅許之間、辞官職逃下属太守攻敵給了、此後家衡打越伯父武衡館、相談此事、武衡申云、太守者天下之名将也、巳得勝軍之名、非高運乎、可楯籠金沢城之由誘也、武衡同所籠入也、太守又攻此城、下略


以上が康富記の文で、丁度後三年記の欠けて居る部分に相当するのであります。即ちこれに因って見れば清衡家衡は一族重光なるものの言に聞いて義家に対抗し戦敗れて両人一匹の馬に跨って出羽の国へ逃れた。真衡は出羽を攻めんとて出で向いたる途中で頓死してしまった。其後清衡家衡は共に義家に降参したので義家は奥の六郡を両分して三郡つづを分ち与えたが、家衡は間もなく兄に反して其妻子を殺したので清衡は全く義家の味方となり家衡独りが義家と対抗することとなったのであります。そこで義家は兵を発して家衡の沼柵を攻めたが容易に勝つことが出来ない。伯父の武衡がそれを見て当時尤も勇将の名を得たる義家に勝ったというので大に悦んで、やって来て家衡を援け沼柵を棄てて金沢柵が要害であるというのでそれへ移って更にこれに拠ったのである。

それで一寸此文中に見えて居ります重光なるものの言葉について申しますが「雖一天之君不可恐、況於一国之刺史哉云々」という一言は聞棄にならぬ言葉である。これ恰も将門記に見えて居る所の天慶の乱に武蔵権守興世王が平将門に勤て兵を挙げさせた時の言葉即ち「八州を取っても誅せらる、一州を取っても誅せらる、誅は一のみ」という有名な言葉と共に頗る破壊的の思想ともいうべきものである。当時僻遠の地殊に所謂植民地に於いては往々にしてかかる不穏当なる思想上の一種の暗流があったものと見えます。今日でも台湾や満州などの植民地には如何はしい思想が流行して居るだろうと思います。此事については三浦博士も康富記の説明の箇條に述べられて居りますが、私も練か諸君の教育の御参考までに御注意申して置きます。但し中学か小学で正面からかかる文句が見えて居るという様に御説明なく只御自分の御参考に留めて置いて戴きたいと思います。

さて本論に戻りますが、武衡家衡は金沢柵に拠って義家に反抗しましたから義家は弟義光と兵を合せてこれを攻め立てました。所が中々柵が堅くて容易に陥らなかったが、遂に寛治五年十一月十四日の夜を以て陥りました。

此の金沢柵を攻むるについては彼の有名なる談である所の義家が雁行の乱るるを見て伏兵のあることを知った事やら、鎌倉権五郎景政の武勇の事やら、剛臆の座を設けて将士を奨励した事やら、家衡の乳母千任の事など種々様々の事柄がありますが、今は此等の事皆略します。それで直ちに此合戦に見えて居る諸地点即ち此役の地理の説明に移ることと致します。

 

第九 後三年役に現れたる地理の説明

さて後三年役の主なる戦場は出羽で御座ります。即ち前九年役の場合には戦場が主として陸奥であったのが、今度は出羽に転じたのである。然し陸奥の地も初の頃には矢張此役の舞台たるを免れなかったのである。それで戦場の地理を個々別々に説明するに先ちて陸奥から出羽に入る駅路について私の考えましたことを陸奥の場合と同様に一寸申述べたいと思います。

1 出羽への駅路

陸奥国内に於ける駅路は、前に申しました様に当時の国府たる多賀府を中心として、これより今日の陸前国の西方山地の麓に沿って北方に進み鎮守府たる胆沢城即ち今の水沢まで通じて居ったので御座いますが、さて出羽への駅路も最北の秋田城まで通じて居ったのです。それで陸奥から出羽への順序を申しますれば、先ず多賀国府から西南に進みまして棲屋駅というへ参ります。これは今の仙台市の東方郊外に当たる辺で御座います。棲屋から次が小野駅です、これは今の柴田郡の小野村という所で名取川の南岸に位置して居ります。此所で今の大河原即ち古の柴田駅から来る駅路と合するのです。それから笹谷峠の嶮を越えて出羽の最上に入るのです、この山越が古の有耶無耶関といわれた難所である。さて出羽に入って、とりつきの駅が最上駅です、これは今の山形市で、市の東南方に今も古沢家の位置であったらしい遺跡が多少認められるそうで御座います。

それからして駅路は、まっすぐに今日の国道と並行して北進し、最上川の東岸に達した所の辺に次の駅家がある。それは村山駅である。村山駅は今日村名となって残って居る、その駅家のあった所は今日の郡山の辺である。それから其次からの駅路が非常に込入って居ります。先ず延喜式に拠って見ますと、村山の次は野後(のじり)・避羽(さるはね)・佐芸(さき)・遊佐(ゆさ)・蚶方(きさがた)・由理白谷飽海と次第して秋田に達して居ります。

2 野後駅の比定地

この野後駅については説が区々になって居る。即ち今の大石田の地であるという説と、今の谷地駅に当たるというのと、又古の玉野駅と野後駅とは同じであるとの説が御座りますが、吉田博士などの説には大石田とするが宜しいと云われて居る。この玉野というは今の丹生と正厳とに相当する所で天平九年に陸奥国府から直ちに出羽柵に道を通ぜんが為に男勝村を建て(これが雄勝城の創始である)先ず陸奥国加美郡の色麻から奥羽の境上の大山脈を横ぎって出羽国最上郡の玉野へ新道を開通した、続紀の天平九年正月の條に

先是陸奥按察使大野東人等言、従陸奥、達出羽柵、道不経男勝、行程迂遠、請征男勝村、以通直路、
とあります。

 

3 出羽柵

この出羽柵というは即ち秋田城のことをいう様に思われますが、秋田城は海北に孤立して陸奥の多賀国府とは懸絶して居るから直路を開通したものらしい。尤も其以前天平五年紀に男勝村に於いて郡を建て民を置くという文が見えて居りますけれども、これは実効を奏せずして終わったらしい、それ故に天平九年の直路開通があったのである。それから更に二十年の後天平宝字三年に至って雄勝城が設けられ雄勝平鹿の二郡が仙北の平野に設置せられて陸奥の色麻より出羽の玉野に通じたる道路が更に延長せられて避羽平戈等の駅家が置かれ遂に平戈山即ち今の雄勝峠の嶮を越えて雄勝郡の横川に出で以て雄勝城に達し更に北進して河辺・助河等を経て秋田に至ったのである。

所が後に至り平戈・雄勝の駅家が停止せられたので延喜式の駅路には平戈雄勝の山道は載せられないで、前に申した野後・避羽・佐芸・遊佐と次第することになったのである。此等は凡て最上川に沿って水岸の道を取って居る。そして野後駅は今の大石田に、船形峠の避羽は今の合海(あいかい)に移された結果となったのである。

4 玉造から鬼首へて雄勝城に至る道

出羽の最上及仙北に於ける駅路は此の如き有様であったのですが、後三年役の当時に於ける仙北即ち雄勝平鹿両郡への陸奥国からの交通は前にも申しました様に陸奥の玉造から今日の鬼首を経て山脈を横ぎり、今の羽後雄勝郡の横地町に出でで雄勝城に向いたのである。雄勝城の地は今日の雄勝郡の郡山と西馬音内等の地に相当します。此地は丁度後三年役の戦場となった沼柵即ち今日の沼館の地に相対して居ります。夫れ故に陸奥から沼柵を攻むるにも矢張り此道を取って進んで来たものと思われます。これを要するに平安朝の末葉即ち前九後三役の頃になりましては仙北地方即ち今日の羽後国が次第に開けて参ったのですから駅路も大に趣が変わりまして多賀国府から仙北に通ずるに南方の有耶無耶関を越えないで直ちに北方の鬼切部越若しくは瓶割峠の方へ出たのであります。即ち多賀府から黒川玉造の両郡を通過して西北に向いて今の鳴子温泉の方から瓶割峠を越えて今日の新庄の方へ通ずるか、若しくは鬼首からして横地又は湯沢の方へ越えたのであります。

5 仙北の地

それで先ず後三年役の頃の所謂仙北の地について説明する必要が生ずるので御座ります。

仙北  前九年役に源頼義を援け兵乱を平定して大に家を興した清原武則は仙北の俘囚長としてあります。此の仙北とは山の北部という義で実に平戈山の北方の平野を指すのであります。平戈山とは今日の雄勝峠の事でありますから此の山北は実に羽後平野即ち今の雄勝平鹿仙北の三郡を云ったものであります。平戈の山道を通じて雄勝柵を築き平鹿郡を建てられてから夷虜の巣窟たりし此地方漸く王化に入ることとなりました。清原氏は実に此の羽後平野の豪族であったので、これが陸奥へ出て鎮守府将軍となり大に家を起したから、初は羽後丈に勢力を振って居ったのが、陸奥出羽両国に勢力を持つこととなった、それだから後三年役には出羽の地即ち雄勝平鹿仙北の三郡が主として戦場になったのであります。それから次に

6 清原真衡の館の場所は衣川

清原真衡の館  が何処にあったかを考えなければなりません。所が真衡の居所のみならず清原氏の陸奥に於ける居館は何処とも後三年記に見えて居りません。が然し清衡家衡が真衡の留守を襲撃せんとて進んだ時に先ず伊沢の郡白鳥の村に往って在家四百余家を焼き払ったという記事が見えて居ります。白鳥村は前に説明いたした通り今の前沢町の南方白鳥村の地であります、それから此時清衡の居館は豊田に在ったとしてあります、其の豊田の地は今の江刺郡餅田(わだ)に相当します。して見れば清衡家衡は北方より南方に向いて攻め下り先ず白鳥村の在家を焼き払って真衡の留守宅に攻めかかるの準備をなしたと見なければなりません。それ等の地勢上の関係から推考致しますれば真衡の居館は矢張り頼時及貞任等の旧址たる衣川館であったものと想像せらるるのであります。これは全く私一己の独断かも知れませんが、衣川を措いては他に何処に居ったかという事が、どうも見当が附かぬのであります。大森学士は武則以下が鎮守府将軍となりましたから其居館は鎮守府の在った胆沢の地でないかと云われますが私は矢張り衣川を主張いたしたいのです。

7 清衡の豊田館

それから次には清衡の居館であった所の豊田について申しましょう。これは吾妻鏡に清衡が後に此の平泉館を居所と定めてこれを経営した時に豊田から移って参ったと見えて居りますので知られます。此の豊田というは今の江刺郡藤里村の大字に餅田というが御座ります。浅井の西で岩谷堂を去る約半里計の東に当たります。北方に丘陵を負って頗る形勝を占めて居る、今もなお豊田館址があると申すことですが、私はまだ実地は見ませんので却って御当地の方々には既に御研究になって居ることと思います。後に家衡清衡兄弟の間が不破となたときに家衡がこれを焼き払って清衡の妻子をも殺して奔ったので御座ります。

8 沼柵

沼柵  これは陸奥ではなく出羽の方へ移ってからの戦場で家衡の拠って居た柵でありますが義家がこれを攻めて中々堅固にして抜けないで大に悩んだ所です。其の地は今日の羽後国平鹿郡沼館町に相当するので御座います。此の沼館町は御物川の東岸に倚って居て横手町の西四里半、大塚とか今宿とかいう所がこれに属して居ります、義家が陸奥から此地に攻め進んで参った時、どの道を取ったかは能くわかりませんが、矢張り多賀国府から玉造郡に出て、前にも申しました鬼首を通り今の羽後の雄勝郡に入って、そして此柵に攻めかかったのであろうと考えられます。後三年軍記に拠りますと柵堅うして抜けず、折から冬季に入り非常の大雪に逢って士卒飢寒に迫り馬を屠って食うに至ったので再挙を期して一旦軍を引き返しました。其の困苦を極めた時義家が飢寒の為殆ど死に瀕して居る士卒を懐いて体温を以てこれを温め遂に蘇生せしめたということが見えて居りまして、古から名将が士卒を愛する至情の厚い一例として士林の美談となって居ります。

9 金沢柵

それから最後に金沢柵  について申します、これは後三年役には最も有名なる戦場で最後に武衡家衡両人の共に拠って以て決戦し其の陥落と共に清原氏が遂に滅亡したのであります。此の金沢柵の地については色々説がある様ですが、御当地方にも既に御研究になった方がある事と思いますが、私は矢張り独断かも知りませんが、今の羽後国仙北郡金沢町の地であると思います。金沢は今其地方ではカネザハと申すそうですが、古はカナザハとも申したと見え義経記にカナザハと出て居ります。此所に御物川の支流横手川があって(図を指す)これに又一つの小さい支流が流れ込みます、これを厨川と申します、これは陸奥の方の貞任が拠って居った厨川と同名であるが為に双方混同せられて此の出羽の方にも貞任が居った様に云われますけれども、これは全然誤で決して両者を混同してはいけません、只名が同一であるのみで、全く異って居ります。それで此の厨川の上流が二股になって居て、其合流点の辺が北方の山にかけて緩徐なる傾斜をなし頗る形勝の地をなして居ります、八幡宮が今も残って居りますが、此辺が丁度古の柵址であったであろうと思われます。これを厨川館とも又孔雀柵とも申したということです。「月之出羽路」(菅野真澄の書いた地誌の題名:佐藤注)という書に金沢八幡宮の宮山を武衡家衡の古城址として

本麻呂 八幡宮の本社より辰巳の方に中り其旧蹟東西四十間余、南北三十間余也

二の麻呂 東西八十間余、南北四十間余也

北の麻呂 十五間余

西の麻呂 安本館といい、東西三十間、南北百間許

追手口は栗谷川の橋より社までの間六町、道広一丈許也、金洗水は本九(丸?)の東の沢をいう、古へ朝夕城中にての要水なり云々

搦手口は御本社より寅卯の間にあたれり、古城巡り五十町許、権五郎景正高名塚坤の方に在り云々

と見えて居りますが、此等を今日実地について調べて見たら更に得る所があるであろうと思います。又義家が雁行の乱れるのを見て伏兵のあるのを知ったという伝えも此の金沢柵を攻めた時の事で古来頗る著名なる美談となって居ります。

10 最後に

これで後三年役の事はほぼ申し上げたので御座いますが、なお此役の余談として今日研究上の問題になって居ることは彼の義家が此戦勝を奏上した時に朝廷はこれを私闘と見作して将士を賞せられなかった、そこで義家が私財を擲って部下を賞したということは如何なる書に基いて居るか、これは果たして事実であったか否かという問題でありますが、既に時間も余程経過しまして大分大森さんの時間に喰い入って居りますから残念ながらこれは略します。

それから今一つ義家の弟新羅三郎義光が足柄山で豊原時秋に笙の秘曲を伝授したという有名なる伝説がありますが、これは時秋と義光と年代が合わないという所からして全く後世の仮托であろうという説が御座りますが、これも又残念ながら今日は申上る時間がないで略します。甚だつまらぬ講義を長たらしく申上げてさぞ御迷惑であったことと恐縮致します。
 

講演終了。


 

講演参考史料



康平六年二月十六日、献貞任重任経清首三級、京都為壮観、車撃轂、人摩肩、先是献首使者、率貞任従者降人也、称無櫛由、使者曰、汝等有私用櫛、以其可梳之、檐夫則出櫛梳之、垂涙鳴咽、曰、吾主存生時、仰之如高天、豈図以吾垢櫛忝梳其髪乎、悲哀不忍、衆人皆落涙、雖檐夫、忠義足令感人者也、 (陸奥話記)

伊予守源頼義朝臣貞任宗任等をせむろ間、陸奥に十二年の春秋を送りけり、(中略)衣河の館岸高く川ありければ楯をいただきて冑にかさね、筏をくみて責戦に、貞任等堪ずしてついに城のうしろよりのがれ落けるを、一男八幡太郎義家衣川に追たてせめふせて、きたなくもうしろを見するものかな、しばし引かへせ物いわんといわれたりければ、貞任見かえりたりけるに、

衣のたてはほころびにけり
といえりけり、貞任くつばみをやすらえ、しころをふりむけて、
年をへし糸のみだれのくるしさに
と付たりけり、其時義家付けたる箭をさしはずして帰りにけり、さばかりのたたかいの中にやさしかりける事かな。 
(古今著聞集、第十、武勇)
(大日本史義家伝曰按此説他無所見、疑出於和歌者流好事者所為也、故今不取)
 

千任丸○家衡の乳母をめし出して、先日矢倉の上にていひし事、ただ今申てんやという、千任頭をたれて、ものいわず、その舌をきるべきよしをいう、源直というものあり、寄て手を持て舌を引出さんとす、将軍大きに怒りて曰く、虎の口に手をいれんとす、甚愚なりと追立、ことつはもの出できて、箙より金箸をとり出し、舌を挟んとするに、千任歯をくい合せてあかず、金箸にて歯をつき破りてその舌を引いだして是を斬つ、千任が舌を切り終りて、しばしかかめて、木の枝につりかけて、足を地につけずして、足の下に武衡の首を置けり、千任なくなく足をかがめて、これを踏まず、しばらくありて力尽きて足を下げて、終に主の首をふみつ、将軍これを見て、郎党共にいうよう、二年の愁眉けふまでにひらけぬ、但なを怨る所は家衡が首を見ざる事をという。 (後三年合戦記下巻)
 
 
 


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2002.1.17
2002.1.20
H.sato