猿之助の「義経千本桜」を観る



今日は、ちょっといい話をす る。実は、昨日、猿之助歌舞伎を観た。演目は「義経千本桜」(全六幕)。この 作品は、「仮名手本忠臣蔵」や「菅原伝授手習鏡」と並ぶ歌舞伎十八番のひとつである。仕事を、五時で終えると、東銀座の歌舞伎 座に向かった。

七月は話題の猿之助一座の興行である。さすがに人気実力ともにNO1の猿之助。しかもあたり役 の「義経千本桜」とあって人気はすごい。どうせチケットも取れないだ ろう。と、知らない人は、諦めてしまう。そもそも歌舞伎は敷居が高くて、とても入れない、という先入観がある。

しかし元々歌舞伎は、もっと手軽に楽しめる娯楽である。何と「一幕見」という席を買えば、自分 の好 きな一幕だけを、八百円〜千円で観ることができる。最終幕が始まるのは8時15分。歌舞伎座のコーヒーショップで時間を潰すと、8時前に「一幕見」チケッ トを八百円で手に入れた。さすがに猿之助だけあって多くの外人観光客も混じっている。

今や市川猿之助と言えば、ただの歌舞伎役者ではない。「ヤマトタケル」や「小栗判官」 などのスーパー歌舞伎で、世界的な名声を博し、一昨年は、ヨーロッパでオペラの演出も手がけたほどの芸術家である。

高鳴る気持ちを静めていると、拍子木がなって、静かに幕があいた。場面は吉野の川連法眼(かわ つらほうがん)の館である。主である川連法眼は、源義経の古くからの友人であり、兄頼朝に追われて逃げている義経をかくまっている。しかし頼朝の追手は、 すぐそこまで迫っている。川連法眼にも、「もし義経が来たら、捕まえて差し出せ」という命が、頼朝より下っている。

そこへ、屋島の合戦で平家を打ち滅ぼした後、田舎へ母の病気見舞に行っていた佐藤忠信が帰ってくる。しかし何かおかしい。第一幕において、佐藤忠信は、義経の愛人である静 御前を伴って、別の道を逃げていたのである。義経は、静がいないことを不信に思い、「さては忠信が静 を鎌倉方に売ってしまったのでは?」と忠信を詰問する。

しかし当の忠信は、まったく身に覚えのないことで、答えに困ってしまう。そこに静が現れる。義経は静 に質問する。「お前は、忠信と連れ立って旅にでたはず、ここに忠信が来ているが、本人はそんなことは 知らないと言っている、これはいったいどうしたわけだ」静自身、まるで狐につままれているようで、ことの次第がさっぱりわからな い。

忠信は、詮議(せんぎ)のため、奥の座敷に連れていかれてしまう。義経は、 静に「もしも忠信がニセモノであれば、その命を奪え」と短刀を渡す。

するともう一人の忠信が舞台に現れる。静は、試しにこの忠信に切りかかってみる。すると忠信 は、まるで狐のように、ひょいとばかりに、身をかわす。もう一度試みるが、何度やっても人間ワザとは思えない身のこなしで、切っ先を払いのけてしまう。次 に、静は、義 経から「自分の身代わりと思え」として貰った鼓(つづみ)を打ってみる、すると忠信は、この鼓の音(ね)に応えるように、踊り出す。

静は、この忠信に質問する。

忠信、今奥に、もう一人、自分が本物の 忠信と称する武士が来ている。お前は本当に本物の忠信なのか?

「えっ」と絶句する忠信。この忠信は、実は狐 が化けた偽の忠信であった。狐は、本物の忠信に迷惑がかかることを心苦しく思い、自分が鼓恋しさに、忠信に化けていたことを静に語 り始める。

この鼓とは、実は古くから天皇家に伝わる「初 音の鼓」(はつねのつづみ)という品であり、干ばつで雨を祈願するために夫婦一対の狐の皮で作った鼓であった。

時の天皇、後白河は、平家を滅ぼした源氏の力を 押さえるために、頼朝と義経の仲 を引き裂くことを画策して、義経にこ の由緒あるこの「初音の鼓」と、「判官」という位と、頼朝を討てという「院宣(いんぜん=天皇からの命令)」を与える。このことに不信を 持った頼朝は、ついに義経一党 を、捕らえることを決定する。これによって戦の天才義経の悲 劇の逃亡劇が始まるのである。

全ては明らかとなった。義経は、 この畜生親子の情愛の深さに打たれる。それに引き換え、自分は親とも慕う兄頼朝の不興をかって、今は逃亡の身となってしまったのである。義経は、 その狐忠信の気持ちに打たれ、この鼓を狐に授けることを決心する。

うれしやな、こいしやな…」 狐忠信は、この鼓を手にして、感激の舞を舞う。そしてそのお礼にと、この川連法眼館を包囲している鎌倉の軍勢を全て、妖術をもって打ち滅ぼしてしまう。そ して最後に白い狐となった狐忠信は、両親の鼓を手に携えて、彼方の空へと、飛び去っていくのである。

猿之助の演技は、言葉には尽くしがたいほどの凄味がある。双眼鏡で、猿之助の足袋の裏を見てい たが、少しの汚れもない。身のこなしから、台詞回しまで、寸分の隙がないほどに、完璧なものだった。

もちろん歌舞伎は伝統芸能だから、古い伝統を背負っているはずだが、猿之助が、いったん演技を 始め ると、観客全体が次第に猿之助の魔法にかかっていく感じがする。彼の前では、言葉も伝統もまったく意味をなさない。ましてや古いも新しいもない。これが芸 の力というものだろう。

狐忠信を演じた猿之助の演技は、観客をあっと驚かせるケレン味にあふれ、時に切なく、悲しく、 危うく、子狐(忠信)の親を思う情感を、見事に表現していた。まさに胸かきむしられるような一時間だった。

あなたもこんな猿之助歌舞伎を体験してはどうか。夏の夜長、銀座に行けば、本物の天才に会え る。く だらないアメリカ版「ゴジラ映画」に二千円を出すなら、「一幕見」でもいい。何しろ天才猿之助の舞台がたったの八百円で観れるのだから。歌舞伎座にて平成 十年七月二六日まで上演。佐藤
 

 


1998.7.15 佐藤弘弥

義経伝説

思いつきエッセイ