平泉志のテキスト化について
  
 
平泉志
高平真藤という人物

高平眞藤(たかひらまふじ)は、天保二年(1831年)、幕末の田村藩一ノ関に生まれた。本名は「高平清敏」。氏の青春は、まさに激動の幕末とともにあった。
氏は、単なる藩というアイデンティティを越えて、本気で国家の存亡を憂えるような若者だった。江戸に勉学に出て、前田夏蔭(なつかげ)という人物に出会ってからは、益々勤王の志を強く抱くようになり、勤王の士として東奔西走したと伝えられる。その後、一ノ関藩に帰藩した清敏は、藩立の学校「教成館(きょうせいかん)」の学頭に推挙され、多くの青年の教育に力を尽くした。また「眞藤(まふじ)」を名乗り、神社の中宮司としても活躍をした。右筆としてもその名を知られ、歌を読み、書画にも通じている多才多芸な人物でもあった。
明治二八年、氏は六五才のけっして長くない生涯を終えた。氏の著作としては、この「平泉志」の他に「須川温泉記一巻」や「開花教喩百首一巻」などがある。

初版       平泉志序 平泉志凡例 緒言  平泉志巻之上 平泉志巻之下 平泉志附録序平泉志附録
増補版   平泉志追加附録之上  平泉志追加附録之下 国宝及宝物の説明 別附録 平泉の変遷地図
「平泉志」は、一関藩士高平眞藤(まふじ)翁が著した平泉の歴史と文化紹介の著作である。高平翁は、その自序の中でこのように語っている。

「嘗て平泉の記録にしてもっぱら正史に採り郷実を挙げ細録せしものは相原三益の平泉実記、同旧跡、同雑記三部に若しくはなくその労をいたせり言ふべし然れども三書は宝暦より安永年間の著にしてその録す所未だ観者をして満足せしむるに至らず或いは近世上木せしも稗官虚飾(はいかんきょしょく)の文を添へたるあり封内風土記、封内名迹志の二書は観蹟聞老志を補へりといへども三書の平泉を主とせる如くならずそもそも実記は戦記に準し旧跡志は地志に準し雑記は志料とすべし互に取捨なき事能はずしかしてこの三書を一にせば即ち全志の体裁を得べし」

(意訳:これまで平泉の正史といえるものは、相原三益(友直の別称)の三部作以外にはない。しかしこれは宝暦から安永年間にかけての古い著作であり、取るに足りない民間の説話などを添えたりしている。封内風土記も封内名跡志も奥羽観蹟聞老志を補う著作なのだが、三部作のように平泉を中心としたものではないので、物足りない。そもそも三部作の体裁は、実記は戦記で、旧跡志は地誌であり、雑記は歴史資料なのである。これをひとつにすれば、はじめて全史としての体裁が整うに違いない)

高平翁が「平泉志」を著したその意図は、この自序ではっきりした。つまり相原翁の三部作を統合することによって、相原翁の著述の無駄を省いて、要点を明らかにして、その内容を簡明に編集し直すことである。言い換えるならばそれは、先輩相原友直翁の平泉三部作を時代に合わせて発展的に継承しようという意志そのものである。この著作は、そのような相原友直翁の意志を受け継ぐ形で、明治一八年に完成し、その初版は明治二一年に刊行の運びとなった模様である。

現代において、この「平泉志」も、三部作同様、余り読まれることがなくなってしまった。明治維新という熱狂の時代に生まれた高平眞藤という人物が、相原友直翁の平泉三部作をどのように解釈し奥州人としてのアイデンティティをどのよう獲得したかを知ることが出来るからである。

平成十二年三月二十七日

佐藤弘弥

 


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 2000.3.27
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