平泉志

旧一関藩教成館學頭 高平眞藤 編著

増補版 編著者離孫 菅原直諒 増注

 


目 次

平泉志序

平泉志凡例

○緒言(増補版にて付加されたもの)

平泉志巻之上

平泉志巻之下

 

平泉志附録序

平泉志附録

 

 以下は高平眞藤の離孫に当たる菅原直諒によって増補されたもの

○平泉志追加附録之上

  総論

  高平眞藤翁略伝

  高平翁及諸氏の詠歌詩集

○平泉志追加附録之下

  藤原氏の名残 堂宇の巻

  宝物の巻 宝庫の部

       経蔵之部其他

       弁財天堂之部其他

       峯薬師堂之部

       弁慶堂之部其他

       毛越寺の部

○国宝及宝物の説明

  附 五輪塔(石宝塔)解並に追加参考

別附録 平泉の変遷地図

 

平泉志序

平泉の藤氏三代富栄の遺跡にしてその事実を青史に載せ野乗に伝ふる所多しといへども今を以てこれを観てれば世々の沿革を経歴し古事旧物に似さるもの少なからず故に博く古今に渉りその新を挙るに陳を体するを以て主としその遺事旧蹤(きゅうしょう)をつぶさにして更に新書を著しこれにいい現往疎密の歎なからしむ嘗て平泉の記録にしてもっぱら正史に採り郷実を挙げ細録せしものは相原三益の平泉実記、同旧跡、同雑記三部に若しくはなくその労をいたせり言ふべし然れども三書は宝暦より安永年間の著にしてその録す所未だ観者をして満足せしむるに至らず或いは近世上木せしも稗官虚飾の文を添へたるあり封内風土記、封内名迹志の二書は観蹟聞老志を補へりといへども三書の平泉を主とせる如くならずそもそも実記は戦記に準し旧跡志は地志に準し雑記は志料とすべし互に取捨なき事能はずしかしてこの三書を1にせば即ち全志の体裁を得べし三益の自序に云へるその意けだし精選を後生に待つ者の如し今や地方の志士島津嘉六郎三上栄根の二氏該書あるを以て鑑古有益のものと認め且つ近時東巡臨鑾(りんらん)の典(かた)に感を懐きてこの挙あり即ちその需(もとめ)に応じ所在の図書及び古希録を悉(つく)してこれを参考しその事蹟の如きは今古の存亡を明らかにしその伝記の如きは終始の成敗を詳(つまびらか)にし繁(はん)を省き要を摘み簡明に意を用て編集の効を竣(をは)る実に是先著の三益ありて後著の略を全きをいたせり號を平泉志と云う

明治十八年六月

編者識
 

平泉志凡例

一 平泉の旧跡其沿革に随て細大漏さず挙記す

一 中尊寺毛越寺に属するものは其各部に之を記せり

一 旧趾に社堂を建立し或は未建立せさるも名蹤顕然たるものは方位を象り之を特記し其他の遺迹はすべて集録せり名所も旧館古刹に所縁あり或は方位の標準と為るべきものは分記し其他は悉く併記せり

一 旧跡に係る故人の伝は大概を挙て毎書に附記す

一 寺内の諸院草創の時故(ことさ)らに仏像を安置せる古院の類をば其部を別にして記せり

一 名所旧迹に係る古事旧説及び古歌古文書の類枢要なるものを挙記し其他は集書して附録とす

 

緒言

我中尊寺は、仁明天皇嘉祥三年(紀元1510年)慈覚大師の開基に起源し、弘台壽院と號し、陸奥守藤原興世朝臣堂宇を創建せしに始まる、其後貞観元年(紀元1518年)清和天皇勅して號を中尊寺と賜ふ、寛治六年(紀元1752年)鎮守府将軍藤原清衡朝臣、堀川天皇の綸詔(りんしょう)を奉じ堂宇の再興に着手し、長治二年最初院(多宝塔ならん)の建立成り、後二年嘉承二年に至り二階大堂(大長壽院)成り、其翌年則天仁二年(紀元1768年)金色堂の建築終り、更に願成就院等の諸堂を加へ、天仁二年に至り堂塔四十余宇禅坊三百余宇全く竣工し、悉くも鳥羽天皇の叡聞(えいもん)に達し、同三年三月勅使按察使中納言顕隆卿東下せられ供養の大法会を遂げらる、「一説には供養の法会は、崇徳帝の大治元年(紀元1786年)にして其二年前の天治二年金色堂落成と棟札に見ゆ、天仁元年は其規模を大にせしにして、前後十五年を要せしなりと」「又謂ふ金色堂は阿弥陀堂にあらずして遺骸を葬る霊廟なるよりして供養願文より省かれ、又二階大堂は、建築中なるより供養に入らざりしか、勅使の願文は菅原敦光卿の起草にして冷泉朝隆卿の書写に成り唱導として叡山より相仁已講(そうにんいこう)を招き勤めしむと。」

爾来(じらい)堀川鳥羽両帝以後の勅願所、鎮護国家の道場とい定めらる、文治五年泰衡頼朝に攻められし時全山の堂宇に火を放ち遁れしとあれど、経蔵別当心蓮頼朝の旅宿を訪(と)へ愁訴し頼朝亦寺社崇敬は施設要目の一なるより、二寺及無量光院等事なきを得たり。然るに建武四年野火延焼して、堂塔僧房悉く烏有(うゆう)に帰し、僅に金色堂経蔵の二宇余烟(よえん)を免るゝを得たり、先是(これよりさき)正応元年(伏見帝紀元1288年)征夷大将軍惟康親王執権北条貞時及陸奥守宣時に命じ覆堂(さやどう)を作り手金色堂を保護せしめ玉へり、後伊達政宗後水尾帝の勅を奉じ、堂宇の破損修理を施し、寺領を寄進し、尚仏像を保護し宝器を維持し旧跡の廃滅を防ぐ等の事あり、寛文五年東叡山寛永寺の直末(ぢきまつ)となり、明治に及びしが再び比叡山の直末に復して今に旧観を存せり、明治九年七月明治天皇東巡の日かしこくも駕(が)を抂(ま)けられ、親しく叡観を賜ひ永保の勅を垂れ玉へ、亦同二十年保存資の下賜(かし)あり、同三十年朝廷資を給して堂宇宝物の大修繕を加へらる、同四十二年現時の本坊成り。昭和六年官又巨資を給して金色堂経蔵二堂の大修理を行はる、実に皇朝稀有の名刹と謂う可し、今は唯藤氏三代の豪華を極めし名残りとして八百年来保存し来りし什宝霊軸等を列記し普く参観者の便に供せんとし説明及び参考文を加へて、本志後尾に附記する處然り。

昭和八年四月

発行者識
 


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2000.3.27