大河ドラマ、「新選組」第一回を観た。正直に言えばひどいの一語だ。冒頭の
シーンの殺陣は余りに習熟度がない。「迫力」「意気込み」ともに不足していた。それ
から近藤や土方が、実は龍馬や桂と周知の仲だったという突拍子もない話。これは完全に歴史的事実のわい曲ではないのか。大河ドラマはも
はや、歴史を映したものではなく、単なる創作ドラマとなった。とするならば、まず冒頭で、このようなテロップを流すべきだ。
「このドラマは、歴史の事実を忠実に映像化するものではありません。歴史的事実と相反する箇所も多々あります。あくまでも創作劇(フィクション)として、
ご鑑賞くださ
い。」と。
そうしないと、若者たちの中に、間違った歴史認識が生まれてしまう可能性がある。若者だけではな
い。
そんなに歴史に詳しい人間はいないのだから、間違った歴史が日本人全体に蓄積する危険性がある。
戦前戦後の歴史小説でも、所謂長編歴史小説というものは、フィクションでもあるにかかわらず、あたかも歴史的事実であるかのように喧伝されて、誤った歴史
が、私たち日本人の中に大分蓄積されて来ているようにも感じる。
去年の大河ドラマ「宮本武蔵」でも、多くの歴史的事実のワイ曲が行われたていた。武蔵が、佐々木小次郎との対決以降、根拠地のような村を開拓した話もそ
うだ。「何だこれは?」と思ってしまう。フィクションと断りを入れているならともかく、どうしてそんなに簡単にねつ造が許されてしまうのだろう。また、柳
生一族との対決。
最後の方の大阪城落城の折り、柳生宗矩(むねのり)と決闘をして、破れた柳生が「武蔵、わしを斬れ」というシーンは、「そんなバカな?!」と絶句してし
まった。まったくリアリティがない。ウソも
ここまで来るとギャクになってしまう。
考えてみれば、吉川英治の原作そのものが、「宮本武蔵」の生涯の改竄(よく言えば伝説化)であった。恥ずかしい話だが、私自身、吉岡一門との死闘をつい最
近まで、歴史の真実だと思って
きた。実はあんなことはなかった。事実は、吉岡の道場で、武蔵が一度立ち合いをしたことはあったようだが、引き分けだったらしい。ところが、吉川版武蔵で
は、あのように大げさに、兄弟が敗れ、一乗寺下がり松では、子供まで殺されてしまう。自責の念に駆られて仏像を一心に彫る武蔵が描かれる。そして足利以来
の名門吉岡一門は、武蔵ひとりによって滅ぼされて没落する。これが実は虚偽だったのである。「オーNO」と言いたい。これまで、信じてきた武蔵の真実とは
いったい何だったのだ。あの錦之助扮した映画「宮本武蔵」の名場面泥ん
この田んぼを逃走して逃げるシーンも創作だったとは・・・。
人は、偉大なヒーローを求めがちで、そんな人間の人生を派手に美化して捉えがちである。しかし人の一生というものは、そんなに始終ドラマ性に満ちているわ
けではない。長い長い静寂の時間とほんの少しの華やいだ時間。そんなものだ。真実、武蔵
の晩年の苦労は、並大抵のものではなかったと推測する。何故なら達人の域まで行った人間の感覚を、我々凡人が知るというのは元々無茶な話だ。きっと武蔵は、自身の鋭敏過ぎる感覚を持てあましながら、生涯を不遇のう
ちに終えたのである。出世欲だって人一倍だった。殿様にもなりた
かった。しかし、武蔵は、精神の力で、その我欲を捨てきったのだ。それが彼の最後の著「五輪書」には、強靱な剣の哲学として刻印されている。世には、稀な
がら出来上がった瞬間に古典となるべく誕生する作品というものがあるが、「五輪書」は、まさにそうした稀有な書である。すべての欲を、捨て、捨て、捨て
去って、初めてそれ誕生した。それは武蔵という大人物の遺書であり、同時に人類の中の最高の天才が遺した文化遺産である。この五輪書の中にこそ真実の武蔵
は居る。いや、そこにしか居ない。
吉川の大衆小説「宮本武蔵」の意図は分かる。彼は娯楽小説として、面白
くするためにあのような歴史の事実をドラマチックに創作した。武蔵は、若い頃、ある種剣術狂いの大変人だった。吉川は、狂気を孕む武蔵を、完全に自分の価
値観で、普通の若者に変えてしまっ
た。
昨年の大河ドラマ武蔵は、吉川英治が勝手に作りあげた武蔵を更に、女性の時代を意識し
てパワーアップした創作劇でしかなかった。はじめからフィクション(創作)というならそれでよい。しかし
NHKは。フィクションを、歴史的事実と誤解してしまう視聴者がいることに配慮すべきだ。
とかく、日本人は、歴史認識が脆弱だと云われる。事実がわい曲されても、「まあそのくらいならいい」、「許してやれ、たかが大河ドラマではないか」という
寛容
な意見があるのも承知している。しかし日本人の歴史認識に対する曖昧さを糺す意味でも、大河ドラマは、「誰々の原作を主題にした創作劇である」とはっきり
明示すべきだ。つい百年ほ
ど前の歴史すら、平気で歴史的事実を変えて、歴史ドラマとされては、それを知らないで観る者はたまったものではない。
聞けば、来年の大河ドラマ「源義経」のシナリオを担当する某氏は、歴史の空白
を埋めるようなドラマにしたい旨のコメントを出していると云う。これは、ドシドシフィクションでありますよ。と宣言しているようなものだ。もちろん義経の
場合は、義経記そのものが、創作の匂いのプンプンとするものだ。しかしその生涯をキチンと追って、新資料をも含めて収集すれば、かなりのリアリティのある
物語にすることは可能だ。
さて、「NHKの大河ドラマ」というものを、一歩引いて考えてみよう。すると日本の価値判断がどんどんと多様性を帯びてきている二一世紀の日本にあって、
結局、「紅白歌合戦」同様、時代の使命を終えたということになりはしないか。つまり大河ドラマが、日本人というものを啓発するような時代は過ぎ去ったとい
うことかもしれない。
歴史的背景をもって、「新撰組」(新選組)の歩んだ滅びのドラマというものは考えれば、それは
江戸末期の封建制度の中で下層階級出身の若者たちが、何とか這い上がろうとしてもがいた挙げ句、まさに這い上がろうとしたステージ(サムライの時代)が瓦
解して崩れ去ったよ
うな悲しい物語である。そこには「誠」というものに象徴される「侠気」とドストエフスキーの「悪霊」に見られるような「狂気」が渾然一体となって成立する
毒の
ある物語である。安易にこの挫折と滅びの中にヒロイズムを見い出したり、現代の若者を啓蒙する力があると思ってはならない。この物語から毒を抜いて、青春
ストーリーに
した所で、いったいいかほどの意味があるだろう。 佐藤
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