今朝、偶然テレビに映った故白洲正子さんの邸宅を見た。昭和18年、白洲さんは、町田の農家を買い取って、ほぼその
ままの形を生かしながら、そこに住んでいた。昔ならどこにでもあった茅葺きの屋根が、妙に懐かしさを感じさせる。家屋の名は、「武相荘」。この呼称は、武
蔵と相模の国の境にあるという単純な理由から付けられたようだ。
玄関を一歩入れば、白洲さんが自らの眼をもって収集した民芸品が、広い居間を持て余すように、訥々と並べられている。それはまるで
彼女が、生涯愛した能舞台のようでもある。その昔、幼い子らが格好の餌食にしたであろうあろう障子戸には、子らの指を待つように障子紙が整然と貼られ、床
を見れば、時の流れを感じる煤(すす)けた板目が、何やら呼吸をしているように黒光りをしている。
何も名工が造った名品でなくても、民衆がそれを日常において大切に使うことで、そこに魂が入り込み、名品が誕生するということであ
ろうか。一見何気ないものでも、白洲正子さんが見立て、そこに置きさえすれば、日本美の結晶として、渋い輝きを放つのだから不思議だ。
奧の壁際には、何代前にか、この農家に嫁いできた花嫁が持って来たものであろう木製の和箪笥が、置かれてある。その上に妙な格好の
信楽焼き(?)に花がぶきっちょに挿してある。かつては米びつだったらしい。首の辺りが少し、ゆがんでいる。どうしてこんなゆがんだ焼き物を使ったのか。
まあ、それが日本人の感性あるいは美意識なのであろうか。
囲炉裏を見れば、その脇に、薪の煙で煤けてしまった竹の籠が無造作に置かれてあり、中には木炭がびっしりと入っている。奥に進め
ば、白洲さんが、愛用したした机があり、その周囲には、彼女の蔵書が整然と並べてある。ここだけは洋間になっている。何でもかつてここは牛や馬がいたそう
だ。通称「馬屋」あるいや「牛小屋」であり、日本人が昔は、自分の家の家畜とともに、ひとつ屋根の下に暮らしていたことを偲ばせるものである。
そう言えば、「奥の細道」にも、平泉を出て、出羽に抜ける途中の芭蕉が、宮城の小黒崎の農家に泊めてもらったのはいいが、馬の放尿
を聞くはめになって、「蚤(ノミ)虱(シラミ)馬の尿(シトあるいはバリと読む)する枕もと」という句を詠んだのは有名な話である。これは別に、主が嫌味
をして、芭蕉を馬屋に泊めたものではない。昔は、ひとつ屋根の下に人も牛馬も暮らしていたのである。
白洲正子さんは、この馬屋にタイルを布き、その上に小豆色の絨毯を敷いて、書斎としたのである。普通の人の感覚であれば、たとえ昔
であっても、ここには牛や馬が棲んでいたともなれば、自分が普段一番多くいる場所として、改造したりはしないかもしれない。しかし彼女の美意識は、何の躊
躇もなく、馬屋を西洋風に改造することで、一見和風でありながら、どこかに西洋風のしゃれた雰囲気を醸し出してしまうのである。
この町田の白洲正子邸は、今年から一般公開が始まったということだが、公開して僅かの間に、二万人もの人々が、この家に訪れている
そうだ。訪れる人の心には、一種の郷愁(ノスタルジー)のようなものが働いているのであろうか。また白洲正子という人物が発見し磨き抜いた日本的なるもの
の世界への憧れに似た気持ちもあるかもしれぬ。ともかく古き良き、日本の田舎にタイムスリップしたようなどこか懐かしく、暖かい気持ちにさせられた朝だっ
た。
平泉や衣川も、これと同じなのだ。日本の美の粋が、奥州平泉には、五万と眠っているではないか。佐藤