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 大河兼任の伝説化について
 
 

[東日流外三郡誌に現れた兼任伝説化の萌芽についての考察]

さて、実に奇妙な一文がある。その文は「東日流外三郡誌」の中にある「大河兼任之不降」という一項。まずはその全文をここに掲載してみよう。

「大河兼任之不降

源頼朝の暗謀により、弟義経奥州に脱し、平泉泰衡に身を寄せたるも、暗殺され、泰衡もまた逆心に殺されたり。然るに、泰衡たゞ一人の忠臣大河兼任は、泰衡の滅亡後は東日流に一族を隠住せしめて、文治五年十二月二十三日、一族を挙兵して葛西清重奥州惣奉行を討落し、亡君の藤原泰衡の恨報を晴らしめり。

大河兼任の反乱、鎌倉に急報ありて卒急に源頼朝は、是を鎮伐せしむ為に小諸太郎光兼、佐々木次郎盛綱、工藤小二郎行光、由利中八維平等を討伐軍として、総兵一万六千騎をさしむけたり。

是に応じて大河兼任、東日流十三左エ門尉秀栄に客抱へたる伊予守源義経の旧臣一族及び朝日将軍源義仲の旧臣一族に、阿北仙北の藤原泰衡旧臣一族及び平氏旧臣を集結なし総勢七千八百四十五騎を以て、先ず東日流の平賀郡岩楯に鎌倉御家人宇佐美平次実政を斬首血祭りに、平泉衣川の安倍一族の旧臣を加勢なし、北上せる鎌倉勢の先陣、宮方{伏国平を討降し、その首を仙岩峠に梟首せり。

然るに、建久元年二月、源頼朝は東日流藤崎城主安東貞季氏に状を発して、源氏への加勢を頼みたり。

依て、安東貞季是を応じて、十三福島城主十三左衛門藤原秀元が大河兼任に駆参ずるを飯積高楯柵及び卒止浜の多宇未伊柵に布陣して封じ、更に金井関にも布陣して、十三の加勢軍を封じ、て大河兼任の兵糧及び加軍は絶して、次第に大河兼任の軍は敗れ、北上河を北に向へて退きぬ。

大河兼任頼む処は十三左エ門尉藤原秀元の居城福島城に、一族倶に望みをかけて、糠部に退き更に卒止浜に達するや、安東勢に向い討れて兼任命からがらにして、八頭山麓を阿北に遁したる。栗原寺にて髪を剃して僧となり、再び単騎亀山を北に超えて密かに東日流に入り、十三に至りて三王の法場にその一生を終り貞応元年十月七日入寂せり。

亦兼任の法名は、泰仙と称し、その一子兼友は阿北の土民に暗殺されたるは悲しきなり。

元禄十年七月

秋田頼季   

出典は「東日流外三郡誌」中世篇 八幡書店(1989年刊)P357からである。

 <この一文についての解釈と兼任の伝説化の側面>

はっきりと言って、どこか胡散臭さが漂っている文章である。まず大河兼任によって、葛西清重が討たれた。とあるが、その後の奥州における葛西氏の君臨を、著者「秋田頼季」は、どのように説明するのであろう。「東日流外三郡誌」は、初めから最後まで、このような多くの説明不能な初歩的な誤謬(故意か?)を多く抱えており、歴史を真摯に研究する者にとっては、眉に唾して、読まなければならぬ要注意の書である。

私は、ただ一箇所、この文の中で、兼任が、実はその栗原寺において、殺されず、髪を切って仏門に入り、名を泰仙と変えて、一三の三王の寺に逃れ、寿命を全うしたとする説には興味がある。

何故なら、栗原寺は、義経公縁の寺であり、義経公が亡くなって、一年も経たない時でもあり、簡単に鎌倉勢に心まで、売っているとは思えない。ましてや兼任は、自らを「源義経」と号して立った忠義の士であり、密かに逃がしたとする説には、それなりの十分なる根拠がある。

そこでよく考えれば、何故樵が突然登場するのか。ここからは私の勝手な推測に過ぎないが、武士であらば、首実検をせねばならない。もしも首の真偽を分からないようにするためには、あの樵の持つ鉈(なた)や鉞(まさかり)で散々に頭部に裂傷を負わせて、しまえば、分からないのは当然である。そのぐらいの細工はしたかもしれないと思ったのである。

もちろんこれは私の勝手な俗解釈に過ぎない。

さてこの私の「細工したかもしれない」という感慨が問題である。つまり秋田頼季がどんな資料を用いて書いたかしれない想像の産物(?)に対して、私の頭の中で「樵=何故・・・でも、武士でなく、樵」として閃いた発想こそが、あるエピソードが、頭の中で勝手に、膨らみ伝説化していく過程なのである。しかも義経伝説などは、長い時を経て、多くの人の頭の中で「何故・でも・・・」と後の「閃き」が繰り返されて、当初とは全く違う姿、例えば義経=ジンギスカン説のような極端な飛躍も可能だったのでは?あるまいか。

私はこの東日流外三郡誌の「大河」の記述の中に、ある意図的(?)に創作された俗説が、伝説に発展していく典型的な萌芽をみる。この萌芽が私の中で芽を吹いて、初めはこの一文を眉唾で見ていた私自身の心の中で、義経北行説と同様の「大河兼任の伝説化」は始まっているのである。

確かに奥州人大河兼任の造反にある種のシンパシーを感じる者にとって、彼の生存説は心惹かれるエピソードである。ある意味ではこれだけでも秋田頼季の執筆意図は、達成されたことに(?)なるではあるまいか。私も「不幸」を「不降」と記述する秋田の気持ちが嫌いではない。又最後に「悲しい」という仏教的な言辞にもある種のシンパシーを感じる。

伝説とは、長い年月を越えて、過去から未来へと受け継がれ形成される類の心の創り出す幻影のようなものだ。確実に言えることは、伝説の中には、必ず癒しという重要な要素が含まれていることだ。確かに歴史書としては、問題のある「東日流外三郡誌」ではあるが、奥州の人間だけではなく、多くの歴史ファンがこれだけ、この書に熱い視線を送る根拠は、そこにこそある。

だから次には私も大河兼任が栗原寺の僧侶達の機転で仏門に入り、津軽へ逃げるという物語を書くかもしれない・・・と、思う次第である。佐藤

参考文献

東日流外三郡誌 中世篇 八幡書店


大河兼任の乱

大河兼任(?〜1190=文治6年3月)は、秋田郡大川村(八郎潟付近)に領地を持つ藤原泰衡配下の豪族であった。大河という姓は領地から取った名字と思われる。

文治5年12月「叛逆を企て、あるいは伊予守義経と号して、出羽国海邊庄(あまべしょう)に出で、あるいは左馬頭義仲の嫡男朝日冠者と称して、同国山北郡(せんぽくぐん)に起ち、おのおの逆党を結び、ついに兼任、嫡子鶴太郎、次男於畿内次郎、ならびに7千騎の凶徒を相具し、鎌倉の方に首途す」と、吾妻鏡(第十、文治六年正月六日辛酉に初見)は記している。

しかしここで思わぬ事故が起こる。「秋田・大方より志加の渡(しかのわたり)をうち通るの間、氷にわかに消えて、五千余人たちまちもって溺死」(同書、同日)したのである。それでもひるまずに兼任は、鎌倉に討ち入るため、まず多賀国府を目指した。途中由利維平に文を送って、この度の反乱の正当性を主張し、共に起つことを訴えている。

すなわち、
古今の間、六親もしくは夫婦の怨敵に報ずるは、尋常のことなり。いまだ主人の敵(かたき)を討つの例あらず。兼任ひとりその例を始めんがために就くところなり」(同書、同日)

しかし維平はこれに応じなかった。そのため、兼任は由利維平を敗死させ、次に津軽の地頭宇佐美実政らを攻め滅ぼした。そして怒濤のような勢いで、山北地方から陸奥に入り、平泉を経て栗原郡一迫方面まで進出した。これに対して、頼朝はそれぞれ海道を千葉胤正に、山道を比企能員に大将軍に任じて大軍を派遣。さらに上野・信濃の御家人を増強し、足利義兼に任せた。孤立していた葛西清重らはこれらの鎌倉勢と合流。栗原郡一迫で合戦に及ぶ。わずか五百騎ばかりになった兼任は、それでも「平泉・衣川を前に当てて陣を張り、栗原に差し向かひ、衣河を越えて、合戦す凶賊北上河を渡りて逃亡しおわんぬ。」(同書、文治六年二月十二日)
これでほとんど、大河軍は、ほとんど壊滅状態となった。

しかし兼任の執念は、すさまじかった。外の浜と糠部(ぬかぶと)の間の「多宇末井(たうまゐ)の梯(かけはし)」があるあたりの山の中に隠れ山城を築き、遊撃戦を挑もうとしていた形跡がある。だが、ここも足利義兼に急襲され、あっさりと敗北。家臣はほとんど殺され、一人になった兼任はいずこえかえ消えた。その後の兼任探索は、さすがに頼朝らしく執拗を極めた。三月一日には、兼任追討軍に向けて「賊主兼任いまだ存亡を知らず。よって御家人等左右なく参向すべからざるの旨」の令までを発している。要するに首を取るまで帰ってくるな、と言っているのである。

三月十日、遂に一人となった兼任は、進退窮まって、死に場を求めてさまよう。最後の力を振り絞って、花山(けせん)から千aiせんぷく)、山本をへて、亀山を越えて、ついに信奉する義経公ゆかりの栗原寺に至る。その出で立ちは、武者に相応しく「錦の脛巾(はばき)を著け、金作(こがねつくり)の太刀を帯く」(同書、三月十日)というものだった。それを「樵夫等怪しみをなし、数十人これを相囲み、斧をもって、兼任を討ち殺すの後、事の由を胤正以下に告ぐ。よってこの首を実検すと云々」(同書、同日に記述)こうして大河兼任の反乱は鎮圧された。これをもって、鎌倉幕府による奥州支配の体制は確立されたのであった。佐藤



資料

平泉實記

平泉實記巻之五  ヨリ
 
 
 

大河二郎兼任反逆

こゝに泰衡が家臣大河二郎兼任以下(いげ)の者とも、文治五年十二月の頃より叛逆を企つ、或ハ伊豫守義経と名乗て、出羽の國海邊
(あまべ)の庄に出、またハ木曾義仲の嫡男旭冠者と號し、同國仙北郡に出各黨類をむすび、鎌倉に攻上らんとするの風聞あるによつ
て、同月下旬奥州より飛脚をもつて鎌倉に言上す、これによつて深雪の時たりといへとも軍勢をわかちつかハさるべきの御沙汰あり、小
諸(こもろ)太郎光兼・佐々木三郎盛綱、越後・信濃等の御家人等に御書(ごしょ)をつかはさる、同廿四日、工藤小二郎行光・由利中
八惟平・宮六兼仗國平防戦の用意の為に奥州に発向す、建久元年正月、兼任ハ嫡子鶴太郎・二男畿内二郎並に七千餘騎の軍兵を相具し、
鎌倉に攻上がらんと直に首途(かどいで)して、其道ハ河北秋田の城を歴て大關山をこえ、陸奥の國多賀の國府に出んとこゝさし、秋
田・大方より志加の渡を打過る所に、氷俄に消て五千餘人たちまち水中に溺死す、こゝに兼任は使者を以て由利中八惟平が方へ申おくり
て曰く、古文の間、報六親若大婦怨敵之者尋常事也、未有討主人敵之例、兼任獨為始其例、所趣鎌倉也と、惟平ハ是を聞、兼任を討んか
為に小鹿島の大社山毛之左田(やまけのさた)の邊にはせ向ひ、兼任と相戦ふ事両時に及て、惟平終に兼任に討取れぬ、兼任ハそれより
鎌倉にハ向はす、千福・山本の方に趣き、津軽に至りて重て宇佐美平治實政等と合戦し、實政及ひ雑色澤安等を殺戮す、此騒動によつ
て、奥州在國の御家人の面々飛脚を以て事のよしを鎌倉に言上す、

 

諸軍勢奥州下向

兼任が弟に二藤次忠季といふ者あり、去年泰衡征伐の時囚人(めしうど)の中に有けるか、物儀(もつぎ)にそむかざるによつて、御家
人にめしつかハれ鎌倉に有けるが、今度?朝仰付らるゝ事ありて、奥州に下向しけるが、途中において兄兼任が叛逆の事を聞、則取てか
へし、正月七日鎌倉に歸りて、兼任に同意せさるの旨を言上しけれハ、頼朝は御感ありて、早々奥州にはせ向ひ兼任を追討すべきの仰を
ぞ蒙りける、且亦忠季が兄新田三郎入道も兼任に背き鎌倉に参上す、頼朝は彼等が言上によつて、ハじめて奥州の騒動を聞し召驚き給
ひ、軍勢を發向せしむべき御沙汰有、民部丞平盛時・主計充(かぞえのじょう)藤原(二階堂)行政等を執筆として、相模の國より西方
の御家人等に奥州征伐の用意をなし、鎌倉に参上すへし旨、召文を下されける、同八日、軍兵をわ(分)かちつ(遣)かハさる、海道の
大将軍ハ千葉介常胤、山道ハ此企藤四郎能員(よしかず)也、此外近國の御家人結城七郎朝光以下奥州に所領あるの輩、一族等を同道し
急ぎ下向すべきよし仰下さる、同十三日に上野・信濃等の御家人等に相らる、次に上總介義兼追討使として發向す、また千葉介常胤(た
ねまさ)一方の大将軍をうけたまハる、常胤言上まうしけるハ、葛西三郎?重ハことなる勇士にて候、先年上上總國合戦の時相共に合戦
を遂候、此度も又某と一同に戦場に向ひ申べき旨を仰含られん事を希(こいねが)ひたてまつり候と申上けれバ、?重ハ當時奥州の總奉
行として彼地に居るの間、則言上にまかせ胤正に相伴ひ合戦すべきの旨、御書を以て仰下さる、其外大友佐近将監能直等を始として、奥
州に所領これある輩ハ大略を以て首途(かどいで)す、同十五日、千葉小太郎成胤今度奥州合戦に軍忠を抽(ぬきんず)るの旨言上ある
によつて、ことに御感ありて御書を下さる、先登(さきがけ)に進まず、身をつゝしむべきのよしを載らる、同十八日、奥州の守護葛西
三郎?重方より去る六日の飛脚鎌倉に到著す、兼任御家人等と箭合(やあわせ))の戦ひに、御方の軍士の中、宇佐見平次實政・大見平
次家秀・石岡三郎友景・由利中八惟平等兼任に討取(ら脱)るゝの旨を言上す、同廿二日、小諸太郎光兼は、老體の上病痾(びょうあ)
身をまとふといへどもこと(殊)なる勇士たり、去年奥州合戦の時軍功あるによつて、其節具足せし軍卒を召具し、此度も下向すへしと
仰付らる、同廿四日、去年合戦の後、泰衡が郎從の囚人等赦免せられ、私宅に安堵せしむるの族、ならびに金剛別當秀綱が郎從以下こと
ごとく是を追放すべきの旨、奥州居住の御家人等におほせつかはさる、

 

兼任合戦

二月五日、鎌倉より雑色眞近(さねちか)・常?・利定等を奥州にさし下さる、これ三方において合戦すへきによつて、其檢見(けん
み)の為也ける、同六日、奥州よりの鎌倉に参著して申て曰く、某(それがし)去月廿三日に奥州發足仕候處、其日まてハ下著の軍士な
く、兼任が逆賊群参して蜂のことく起り候と言上す、則鎌倉より雑色里長に計略を仰含られ、彼使者に相添られ奥州にさし下さる、且
方々の軍勢共のうち、鹽竈以下の神領に入て狼藉をなすべからざるの旨仰つかはさる、偖亦其頃奥州にハ在國の御家人、此度下向の軍兵
等兼任誅伐の為に方々に群集す、同十一日、おのおの平泉を馳過、泉田に於て賊徒の在所(ありか)を尋問の處に、兼任一萬騎を引て既
に平泉に出るよし聞えれば、諸軍勢泉田を打立、ゆきむかふ輩にハ、足利上總(義兼)前司(ぜんじ)・小山五郎宗政・同七郎朝光・葛
西三郎?重・關四郎(俊平)・小野寺太郎道綱・中條義勝法橋・同子息藤次以下、雲霞のことく昏黒(こんこく)におよぶといへとも、
一の迫(はざま)を過る事あたはず、途中の民居に止宿(しじゅく)す、此間に兼任早く過畢ぬ、依て今日千葉新介胤正等馳加ハり、襲
ひ至りて栗原一の迫に於て兼任か勢に相曾ていどミたゝかふ、兼任が軍兵打負て分散し、逃走るの間、追懸るの所に、兼任五百餘騎を卒
し、平泉衣川を前にあてゝ陣をはり、栗原にさし向ひ衣川をこえて合戦す、兼任が軍兵たゝかひ負て、北上川をわたりて落ち行ける、其
内かへし合する者をハことごとく討取、次第に跡を追かくる、兼任は外が濱と糠部(ぬかのぶ)との間有多宇未井之梯(たうまいのかけ
はし)山に城郭をかまへ籠城するのよし風聞あるによつて、上總前司義兼等楢其所にはせ向ふ、兼任一旦防戦ふといへとも、終に敗北
し、其身ハ逐電(ちくでん)してあとをくらます、郎從等は或ハ梟首せられ、或ハ帰降す、則千葉新介胤正・葛西三郎?重・堀藤次親家
等、合戦の次第を飛脚をもつて鎌倉に言上す、賊徒の宗徒(むねと)たる輩大抵敗北し、兼任ハ逐電す、其間能直・國平等兵略を盡せ
り、又鎌倉よりも凶徒等敗北すといへとも、賊主兼任が存亡、未詳の間、御家人等左右(そう)なく凱陣すべからさるの旨を仰つかはさ
る、

 

東國平均

大河二郎兼任は軍勢ハことごとく誅戮せられて後、濁進退にせまり、華山・千福・山本等をへて亀山をこえ、三月十日栗原村に出る、兼
任錦の脛巾(はばき)を著し、金作(こがねづくり)の太刀をはくによつて、樵夫等是を怪しみ、数十人にて取圍、斧を以て打殺し、此
旨を千葉新介胤正に告つによつて、其首を實検する所に、うたかひもなき兼任なりけれバ、即飛脚を以て兼任を誅し、其外生捕数十人有
之旨を鎌倉に言上す、同月十五日、伊澤左近将監家景陸奥の國の留守職たるべきのよしを定めらる、彼國に住し、民庶の愁訴をきき鎌倉
み申達すべき旨を仰付られ、葛西?重と共に奥州の總奉行として、兩人政務をつかさとり庶民を撫育す、九月九日、大友左近将監能直、
陸奥の國より使者を以て陸奥・出羽兩國の輩の忠否、ならひに兼任が黨類の所領の事を鎌倉に注進す、依之民部丞平盛時を奉行として、
彼賞罰の條々沙汰を歴られ、事書を能直に下され、國家静謐にして貴賤萬誠(ばんぜい)をぞ唱へける、

<平泉実記前後の文にリンク>

http://www.st.rim.or.jp/~success/jikki5.htm



参考文献

 全譯 吾妻鏡 二    新人物往来社

 平泉実記  巻之五第 本サイト参照の事

 鎌倉室町人名辞典   新人物往来社

 東北の歴史と開発   高橋富雄著 山川出版社

尚、大河兼任に関して以上のサイトを参考にさせていただきました。
お礼申し上げます。

 都母の国(つものくに)、小田正博氏のサイト
http://www.hi-net.ne.jp/%7Ema/home.html

 メビウスホームページ、八郎潟青年者異業種交流会様のサイト
http://www.rnac.ne.jp/~kodama54/index.htm


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 更新記録
1999.11.07 Hsato
1999.11.25 Hsato