腰越状の素形(原本)を推理する






義経公の心情というものを知りたければ、「腰越状」を読むのが良いと云われる。確かにこの書状は、元歴二年五月(1185)に鎌倉の目と鼻の先である腰越で書かれた切々たる嘆願書で、義経公の悔しさが、にじみ出ているような文章だ。

この腰越状がどのように伝播していったのかを大雑把に追ってみよう。まず語りとして日本中に広まった「平家物語」を端緒として、初期「判官贔屓」とも言えるような心情が民衆の間で形成された。続いて正史としての「吾妻鏡」も、この書状を歴史の一端として記載することとなる。それからは「判官物」と称されるような義経公に関する題材が、それこそ洪水のように歌舞音曲として創作されていくことになる。そしてとうとう洪水のような流れは、源義経公の一代記としての「義経記」という物語を誕生させるに至る。こうして腰越状は、いつのまにか、日本人の心の深層部にしっかりと固着され、「判官贔屓」とも言われるような心情を形成していった。だから換言すれば、この腰越状こそが、「判官贔屓の源泉」そのものなのである。

ところで義経物の白眉とも言える「義経記」は、「平家物語」誕生から、おおよそ200年後に、その原型が出来上がったと見られているが、この物語は、民衆の心の中にある一種の「義経熱」に答える形で、様々に発展した個々の義経伝説を包含綜合する形で、成立したものと見なされている。その証拠に義経公の一代記であるはずの「義経記」は、物語として構成上の大きな欠陥をもっている。つまり義経公のもっとも輝かしい活躍の部分である一の谷から壇ノ浦にかけての平家追討の場面が描かれずにカットされ、結局無実の逃亡者として、全国各地を放浪する悲劇性だけが、むしょうに強調されている。この物語としての「義経記」の欠陥は、この物語が、あらかじめ、一人の作者によって、そのプロットから考え抜かれて、描かれたものではないことに起因していることは明らかだ。あえて言えば、作者は、厳密には蒐集者に近い存在であり、各地で形成された義経伝説を、収拾解読創造して、年代記風に配置したのが実際ではなかろうか。結局、このことは、日本の民衆が、けっして強い武将義経ではなく、腰越状に見事に映し出されているその悲劇的な義経公の生涯に強く惹かれていることを意味している。考えてみれば、民衆のこの義経公の悲劇の生涯に惹かれる心情が「判官贔屓」そのものであり、民衆は報われぬ主人公の人生を遠くふり返り、涙することによって、自分自身の報われない人生を癒されていることになるのである。

厳密に云えば、この腰越状を、本当に義経公が書いたか、どうかと考えれば、かなり疑わしい。その点では、著名な研究者でも黒板勝巳氏(義経伝の著者)、渡辺保氏(人物叢書「源義経」著者)、高橋富雄氏(中公新書「義経伝説」の著者)、安田元久氏(評伝「源義経」著者)、角田文衛氏(「腰越状」というエッセイ)なども、言い回しについては多少の違いはあるが、皆一様に現在に伝わっているものは、原文とはかけ離れたものであろう、という点で一致している。

私もこの点ではまったく同意見である。第一、義経公ともあろう武門のエリートが、こんな飾り立てた美文調の文章を書くはずがない。もし書くとしても、もっとずばりと要点を付いたシンプルなものであったはずだ。どのように考えても余りにも文章がめめしくて情けな過ぎるのだ。だから推測するに、原「腰越状」とも云うべき、脚色される前の遙かに短文の書状があったのではあるまいか。

この原文がいったいどのようなものであるかを推理する前に、義経公の真筆として伝わっている高野山の文書について触れて置こう。この文書は、元歴二年三月に書かれたと思われる文書で、高野山の衆徒の訴えに基づいて裁きを与えた阿弖河の庄の領地の安堵状である。そこには次のような文言が記されている。

<外題>
如解状者、尤不便也、早停止無道狼藉、可令致沙汰也、若又有由緒、可言上子細之状、如件、

訓読
(解状の如くば、尤も不便なり、早く無道狼藉を停止し、沙汰致しむべきなり、もしまた由緒有らば、子細言上すべきの状は、件の如し。)

<請文>
高野山阿弖川庄事子細承候了
証文顕然之条所見及候也、早存其旨以便宜且可申入事由候也、神社仏寺事実不便候、恐々謹言、
五月二日 源義経

訓読
(高野山阿弖川の庄の事、子細承り候ふ了りぬ。証文顕然の条、見及ぶ所に候ふ也、早く其の旨を存じ、以て便宜を且つ事の由を申し入る可く候ふ也、神社と仏寺の事、実に不便に候ふ。恐々謹言、五月二日 源義経)


この文章を見ていると、もちろん裁き状ということもあるが、まったく無駄な文言がない。しかも踊るような筆致で、まさに義経公の人柄をよく表すような書面そのものである。

腰越状とこの高野山に与えた書状を単純に比較することは出来ないが、少なくても義経公の人柄性格などから判断して、つらつらと子どもの頃の苦労話を持ち出して、許しを請うとは思えないのである。おそらくこの腰越状は、最初に義経公自身が書いた原文を、義経公の周囲の人間か、もしくは、平家物語の書いたと思われる信濃前司行長のような人物によって、加筆され大幅に修正された可能性が強い。もしかしたらこの書状を預かったはずの大江広元自身が、義経公を哀れと思って、加筆し、何気なく世にリークした可能性だってある。

考えてみれば吾妻鏡にも、この腰越状は、掲載されているのだが、この吾妻鏡自身が、静御前の記述や義経公の記述には、かなり思い入れがあることは、多くの研究者からも指摘されているところだ。おそらく鎌倉幕府内部にも、義経シンパとも言えるような人々がいて、正史「吾妻鏡」を記述するにあたって、その辺りでかなりの判官贔屓的な配慮がなされたものと考えられる。
 

そこで、最後に現在佐藤が「腰越状」の素形(原本)と考える文章を、もちろんあくまでも仮説ではあるが推理してみる・・・。
 
 

左衛門少尉源義経、恐れながら申し上げ候。

意趣は、御代官のその一に撰ばれ、朝敵を傾け、抽賞を被るべきのところ、義経犯すことなくして咎を被る。鎌倉中に入れられざるの間、素意を述ぶるに能はず、いたずらに数日を送る。本意は、亡魂の憤りを休めたてまつり、年来の宿望を遂げんと欲するの他事なし。 あまつさへ五位の尉に補任の条、当家の面目、何ごとか、これに加えんや。 憑(たの)むところは他にあらず、ひとへに御慈悲を仰ぎ、よって一期の安寧を得ん。愚詞に書きつくさず、省略せしめ候ひおはんぬ。義経 恐惶謹言

元暦二年五月日              左衛門少尉義経

進上         因幡前司殿


つづく



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2001.10.14 Hsato