蝦夷の馴属と奥羽の拓殖


凡例
  • 底本には、喜田貞吉著作集9蝦夷の研究(昭和55年平凡社)を使用。
  • 「奥羽沿革史論」所収(元版大正5年6月刊 復刻本 昭和47年刊 蒲史図書社)の同論文を参考とさせていただいた。
  • 原文をそのまま維持するようにした。
  • 各節ごとに連番を附したが、これはデジタル化の便宜上、佐藤が附したものである。
  • 一部差別に通じる表現があるが、歴史的表現であり、これを伏せずに使用した。
  • 当文章は、大正4年夏に、平泉の中尊寺で開催された歴史地理学会での講演記録である。
  • 一年後の大正五年六月に、日本歴史地理学会編として「奥羽沿革史論」に納められ刊行された。
2000.7.9
佐藤弘弥

第一席(1)
 

1 緒言

上古よりほぼ平安朝の末ごろまでの蝦夷の服従した有様と、これに伴って奥羽地方の拓殖進歩の様子とを御話し致すつもりで、演席を汚すこととなりました。たいそう大きな問題でございまして、実は初めにこの講演会を計画しましたさいの予定では、講師は五人ということでありました。したがって少なくもその一日分は私が頂戴して、これに充てることが出来るという考えであったのでありましたが、だんだん予定以上に講師が殖えましたので、私のために与えられた時間は、僅々三時間になってしまいました。ただ今交渉を致しましてやっと三時間半にはなりましたけれども、それでも予定の御話を洩れなく致すということは出来ませぬ。ところで幸いにも、昨日原(勝郎)博士が奥羽の沿革について大体のことはすでに御話済みになったように伺いました。そうでありますと私の述べまする範囲もよほど少なくなる訳であります。しかし不幸にして私は原君の講演を聞いておりませぬ。どういう部分を述べておらるるかということがよく分かりませぬ。かえって御話がしにくいという結果になったことと思います。ついては普通一般の歴史にも見えているいことはなるべく略して、ただなるべく私の近来主として研究しておりまする部分だけについて、出来るだけ他と重複を避けることに致してお話したいと思います。
 

2 聴講の注意

そこで前もって御断り致しておきたいのは、私の今日申し述べまするところは、多くは私の不十分なる新しい研究でありまして、言わば一家言に過ぎない。ただこのごろの歴史家の中には、かくのごとき研究をしている者もある、かくのごとき考えを持っている者もいるということを、御承知になっていただけばよろしいのであります。これをもって学界の一定説とであるとして、ただちに学校で生徒に説き示されるというようなことなく、その場合には諸君においてもさらに十分の御研究を重ねられることに致したいと存じます。私はただ諸君の研究せられるうえに一つの参考として一家言を申し述ぶるに過ぎないのであるということに、あらかじめ御承知おきを願いたい。
 

3 講演の要領

さて、蝦夷の馴服、奥羽の拓殖と申しますると、要するに古来蝦夷はいかなる風に日本の治下に赴いたか、またもと蝦夷の巣窟であったこの奥羽地方に、どんな風にだんだん日本人が入り込んで来て、土人と種々の交渉を生じたか。次第にその土地を開く、そこに村落を造り、市街地を造り、蝦夷を同化し、蝦夷みずからも拓殖の功を積み、もって今日の状態をなすに至った、その道筋を申し述べる次第であります。申すまでもなく、東国の地方は、旧い時代には、蝦夷人がもっぱら住んでおったところであります。特に奥羽は比較的後までもその有様でありまして、従って奥羽の拓殖の歴史は、日本人と蝦夷人とが接触した状態の研究に過ぎない。これをさらに古代に及ぼすと、関東地方でもその以西でも、同様のことを繰り返したことと思います。また一方から申すと、蝦夷人自身がまたその拓殖に力を尽している次第もあります。蝦夷人が内地人に同化した歴史の方面からも見られます。要するに日本人と蝦夷人とが接触して、蝦夷人の日本化するに至った歴史を述べてみたいと思うのであります。
 

4 蝦夷の旧棲地の範囲

蝦夷はすなわち今日の北海道にわずかに残っております。アイヌと同じ種族であります。彼らは昔いずれの地方にまで住んでおったか、これは第一に観察すべき問題であろうと思う。
 

5 考古学の研究と蝦夷の遺蹟

明治二十年ころからだんだん考古学の研究がわが国にも盛んになりまして、わが日本の土地に遺してある遺物・遺蹟の内には、石器を使った人民のものがあるということが明らかになりました。しからばその石器を使っておった人民はどういう種族の者であったろうか。これについてはその研究の始まった当初から、学者の間に種々の学説が起っております。
 

6 コロボックル説

その内でも最も有力な説として、現に近いころまで学界を風靡するの勢いを持っておりましたものは、石器時代の住民は今日のアイヌの伝説にいわゆるコロボックルという一種の小さい人間で、蝦夷とは別である。蝦夷人は石器を使わなかったというのであります。またこの石器時代の遺蹟からは石器のみならず種々の土器が出てきますが、蝦夷人は古来みずから土器を作ってこれを使うことはしなかった種族である。今日の蝦夷人のみずから語るところに拠っても、彼らはかつて石器・土器を使ったということを認めておらぬというのであります。この北海道に発見せらる石器時代の遺物・遺蹟と、内地から発見せられる遺物・遺蹟とは、大体において性質が同じ物である。しかして北海道から現に発見される石器・土器を、アイヌは極めて前住民のコロボックルのものだと言っている。そしてかつて内地にいたアイヌは、少なくとも石器については無知識であった。これ彼が本来石器を使わない、少くも日本に住んでいるころには石器のことは忘れていた証拠だというのであります。平安朝のころまでは随分蝦夷人が奥羽に住んでいて、明らかに蝦夷人であるとして知られていたのでありますが、彼らの中でも少くも出羽にいたものは石鍬をしらなかった。
 
 

7 石鍬降る

仁明天皇の承和六年に出羽の田川郡の海岸に石鏃が降った。降ったのではなく、掘り返された土に混じって気がつかなかったものが、大雨のために洗い出されて発見されたのであります。この時国府の役人らは大いに驚いて、これは鳥海山の神が雲の中で異賊を退治された戦争の矢の根だといって奏上した。このようなことは、清和天皇の貞観十年にも陽成天皇の元慶八年にも、光孝天皇の仁和元年、二年にもあった。当時出羽には少なからず蝦夷がいたはずであるのに、これを知らなかったとは不思議だ。これは蝦夷人が石器を使わなかった証拠だ。もし果たして彼らがかつて石器を使ったものならば、いかに国府の役人でもそう石鏃が降ったと言って珍しがることはなかろう。これをもって観ても、その当時の蝦夷人は実に石器について全然無知識なものであった。従って石器は蝦夷人の者ではない。石器時代の人民は蝦夷人ではなくして、もう一つ前に住んでおったコロボックルであるというような説がもっぱら勢力がありました。

その説によりますと、日本内地各所石器時代の遺物・遺蹟の発見される所に、かつてコロボックルが住んでいたと申すのでありましょう。申すまでもなく石器時代の遺物・遺蹟の存するのは、奥州と北海道とには限りませぬ。関東でも信越でも、上方でも四国でも中国でも九州でも、ないし台湾、朝鮮、琉球にも出まするが、まず飛び離れた所はそれは別として、日本内地において到る処に石器は発見されるのえありますから、コロボックルという種族はかつて日本全国到る処に住んでおったということにならねばならぬ。これは果たしてかく簡単に考え得ることでありましょうか。
 

8  コロボックルの本体

この研究は後に譲ることと致して、私はまずこのコロボックルの何ものなるかについて解決せねばならぬ。なるほと今日のアイヌは石器・土器を使用しませぬ。みずからこれを作らぬのみか。かつて作ったとも伝えておりませぬ。しかしそれは日本人その他に接触して、手間のかかる、かつ不便利な石器・土器を作り、これを使用するよりも、物資の交換によりてより重宝なものが容易に得られるのでありますから、それでその使用をも廃し、その製造法をも忘れ、はては祖先はこれを使用したことについてまでも無知識になったのでありましょう。

虚心平気に考えてみたところで、みずからいまだ金属の鋳冶を知らず、他から金属品を得るの方法を有せない未開人が、石器・土器等の類を使用せずして、いかにして他民族、もしくは猛獣等に対して生存を維持していくことが出来ましょう。アイヌも他から金属器その他の供給を得ない前は、みずから石器・土器を作り、これを使用した時代があったに相違ありませぬ。しかして徳川時代においても、北海道山間のアイヌが石器を使用していたことは、だんだん証拠あることで、これは北海道学者の功の常吉君という人が、、先年調査の結果を発表されております。平安朝の出羽の蝦夷が石器を使わなかったのは事実でありましょう。それは今日のアイヌが、石器を使わぬのと同じであります。しかしてその出羽の蝦夷が石鏃を知らなかったか、あるいは国府の役人が無知識であったか、それはいずれとしても、今日のアイヌが石器を他種族のものだといっているのを見て、容易に不審が晴れましょう。

人間は平素えらそうなことを言っておっても、その実まことに忘れっぽいものであります。祖先崇拝の俗をもって誇りとするわれわれ日本人すらが、鬼の雪隠れだの、鬼のまないただのと言っているではありませんか。その崇拝する祖先をまるで鬼にしてしまっている、なんとも申訳のない次第です。アイヌがその祖先の石器・土器の使用を忘れたとて何も不審はないでありましょう。要するにアイヌのいわゆるコロボックルは、熟蕃たるアイヌがこれとすこぶる風俗、習慣を異にしていた生蕃たるアイヌのことを言ったもので、つまり同一種族だと断言してよろしいと思います。
 
 

9   古伝説上の異種族

日本人の語り伝えた古伝説には、このコロボックルのことは少しもありませぬ。日本の古伝説なり、歴史なりの教えるところに拠れば、太古西の方には、熊襲・隼人というような異種族がおり、これに対して東には蝦夷がいたのであります。西と東と種族が違っていた。あるいは熊襲・隼人と蝦夷同一種族だという仮定説も立ちましょうが、私は種々の点からこれは違うと思う。その理由は今は略しますが、ともかく東西種族を異にしていたと思う。あるいは西の方へ熊襲・隼人が入り込んで来る前には、九州にも蝦夷がいたという想像も出来ないではありませぬが、まだこれを断言するほどの確信を得ませぬ、
 
 

10  地名の研究と蝦夷

これについては種々の説をなす学者もありまして、あるいは地名を研究して、蝦夷語でもって解釈を下し、九州辺りにも蝦夷人の附けた地名があるから、あっちにもかつて蝦夷はおったものであろうと主張するものもあり、石器時代の遺蹟・遺物は東西その区別をするほどのものがないから、双方とも同種であろうとか、種々の説がありまして、ほとんど一致をみませぬ。これらの研究方法は、いずれも一理あることではありましょうが、またいまだもって不完全な点が多いと申さねばなりませぬ。地名をもって昔住んでおった種族のいかなるものであるかを極めるのは、確かにひとつの賢い方法ではあります。
 
 

11  古代の言語の比較と危険

しかしこれにはよほど危険が伴うことを注意せねばならぬ。というのは、数千年前の人が唱えた言葉と今日の人の口にする言葉とは、同一種族の間でも大変に変わっている。われわれ日本人は千数百年前から文字を有しており、しかしてその文字によってその当時の言葉を遺しているほどで、爾来、文字・言語並び行われて、幾分言語の放縦なる変化に検束を加えているはずでありますけれども、なお「万葉集」なり「古事記」なりに見えている言葉と、今日の言葉とを比べてみると、よほど変わっている。いわんや蝦夷のごとき、数多の部落に分かれて、交通が不便で、しかも全体としての行動は少なく、またなんら文字をもって古語を伝えるというような期間のない種族にあっては、数千年の間には言語に非常な変化のあったことを予想しなければならぬ。

今日のアイヌ語をもって、数千年の蝦夷の言葉を解釈しようというのは、それ自身よほど警戒しなければならぬ。また一つには、地名は同じ種族の口から口に伝えられているものでも、長い年月の間には、随分訛って来る。それでも同じ日本人が日本語の地名を伝うるものには、比較的変わりが少ない方であるが、異なった種族の残した地名を、その意味も理解せずして、他の種族が口にすることになると、それは非常に変わって来るものたることを予想せねばならぬ。

いわんや本来性質を異にする国語を表すための漢文字をもって、これを表記する場合においてをやで、これは現在北海道のアイヌ語の地名が、日本人によって漢字に書きあらわされてとんでもない変わったものになっているのと同じである。されば、よしや四国・九州にアイヌ語に基する地名が偶然今日のアイヌ語で説明出来るからと言って、ただちにその地をアイヌがおったという証拠に使うのは、非常に危険なものだと言わなければならぬ。言語には、暗合ということもある。全く縁のない国語のうちにも、いろいろと工夫して、強いてこじつけて説明すれば、説明の出来るものが多い。日本語でも出来る、漢語でも説明ができるというものが多い。
 
 

12  五韻相通と反説の濫用

ところで言語によって説明しようとする学者は、いわゆる五韻の相通で「カ」が「キ」に通ずるとか、「サ」が「シ」に通じるとかあるいはいわゆる反切で二つの音が一つになる。一つの音が二つ延びると、こういうようなことを申して、それで説明し得たりとすることが往々ありますが、すこぶるあぶない。これは有名な冷評の話であり、ますが、なんでも反切で言葉を説明しようとする学者に向って、「成るほどツとバが詰まるとタになり、クとラが詰まるとカになる、それで「ツバクラ」が「タカ」になった。いかにも燕も鷹も同じ鳥類だから」と言ったという話がある。また五韻相通を自由自在に使用すると、一ツも二ツも同じになり、三ツも六ツも区別がなくなる。これは注意しなければならぬ。燕が鷹になったり、一つが二つになったりせぬようにせねばならぬ。偶然一、二の地名が今のアイヌ語で説明が出来るからと言って、これでもってその地方にアイヌが住んでおったということを断言するのは早計である。
 
 

13  東西における石器時代遺跡の比較

これを要するに今日までの学説において、アイヌがどの辺まで拡がっておったかということについては、全く定説はないと言ってよろしい。私の実物上からの不完全なる観察によりますと、同じ石器時代の遺物・遺蹟でも東と西とは相違があるように思う。これはだんだん詳しい研究を加えました結果によらねば断言は出来ませぬが、これまで見たところでは、大体に両方の間に相違がある。
 
 

14  土器の紋様の相違

まず土器に施してある紋様の意匠が、九州から出る物と関東・奥羽から出る物との間に大変な相違がある。関東・奥羽から出る物は、今日のアイヌがいろいろの物品に彫り付けている、いわゆるアイヌ模様、彼らの衣服なるアツシの裾などに縫い取りしているアイヌ模様に類した彎(湾)曲したような、巧みに直線・曲線をを配合した一種の模様が多いのでありますが、九州地方の石器時代の遺蹟から出る土器の紋様は、多くは非常に簡単な直線のもので、それも紋様の附いている物は少く、全く無紋の物が多い。稀にアイヌ模様らしいものを発見することもありますが、これは比較的少ないもので、かつ土器の形がはなはだ簡単です。なお将来の研究を要しますが、東と西との石器時代の住民の間には、意匠が違っておったということは、一つの観察点になろうと思います。
 

15  石鏃製作の相違

もう一つ、石鏃すなわち矢根石の作り方が違います。むろん、これは材料の性質いかんにもよることではありましょうが、同じ材料であっても形が違う。関東・奥羽地方から出る物は種々の形のものがありまして、細長くして足の附いているものもありますれば、足がなくして三角の物や、あるいはその三角の下の方を抉って鍬形になっている物もありますが、どちらかといえば細長くして足の附いている物の方が多い。北海道のになると、大多数この方のものであります。

しかるに中国・九州等の地方から出る物は、足の附いている物はいっこうないというてよろしい。これは多年私も注意しておりますところでありまして、鳥取県にたくさん石鏃を集めている人がありますが、附近の地方で千以上も集められている中に、ほとんど一個も足のあるものがない。また宮崎県の地方にも大変石器時代の遺蹟がございまして、そこでも石鏃を枡に二升、三升も集めたといわれるほどの人もありますが、その中にもただ一個も足のある物がない。これはやはり同じ石器時代の住民でも、東西において種族が違うにより、おのずから意匠や技術が違うものではあるまいかと思われます。

石斧のごときに至っては、日本のも、外国のも、九州のも、北海道のも、あまり著しい区別はない。これも詳しく調査したならば、もちろん多少違いがありましょうし、また打製が多いとか、磨製が多いとかの区別もあるのではありますけれども、私の今日までの観察では、これによりて著しい相違を認め、種族を区別し得るまでにはわかっておりませぬ。

ただ石鏃なり、土器の紋様なりに至っては、確かに東西の区別がある。これらの分布を詳しく調査しなければ、東北地方の石器時代の遺蹟と、九州および中国地方に発見せられる石器時代の遺蹟との分布の葉にが極まらぬことだと思いますが、ともかく東西に違うことを認める以上、少くも東北地方に遺蹟を残しておりますものは、すなわち蝦夷人の祖先であるとこう認めてよかろうと思います。それならば西の方のは隼人の祖先のかと申しますと、これは断言を躊躇しますが、東のは蝦夷で、それがどの辺まで拡まっておったかということは、だんだん考古学上の調査の結果として決定せらる時期が参ろうと思います。
 
 

16  東西の両種族

不幸にして今日の考古学では、いまだそこまでに詳しい調査を出来ておりませぬ。ただ朧気に、東の方から発見される石器・土器と、西の方から発見される石器・土器との間に、大体に相違があるということを申し述べる以上のことは出来ませぬ。その大体に相違があるということからして、これを使用した種族が違ったものであって、日本の島には太古少なくとも二つの住民が住んでおって、その東の方におった者が蝦夷の祖先であったろうと、こういうことの結論に成り行きます。
 
 
 

17  古記録研究上の注意

それならば記録の方からどういう観察が出来るか。記録の研究も太鼓の事情についてはよほど警戒しなければならぬ。普通にこれまで多くの素人方によって扱われているところを見ると、例えば『古事記』にあるとか、『日本紀』にあるとか、「風土記」に出ているとかいうようなものは、これは古い確かな物だ。そういう確かな書物に書いてあるものは皆確かだ。これは『古事記』の説だから間違いはない、これは『日本紀』の説だから大丈夫だ、これは俗書の説だからいけないなどと、きわめて簡単にものを考える弊がありますが、これらは歴史研究の方から申しますと、よほど危険な方法であります。

よしや『古事記』『日本紀』に書いてあっても、その一つ一つの事実について、性質、内容を調査しなければ、確かだと断定することは出来ません。と申すのは、『古事記』や『日本紀』といえばなるほど古い書物で、今日から申すと約一千二百年前の本であります。一千二百年前と申すと、随分古いものではありますが、その一千二百年前からまた遡ること数千年前のことを書いてあるものであってみますると、今日の人が平安朝なり、奈良朝なり、またはまだまだそれよりも以前のことを書いたのと同じことで、しかも今日書く場合にはなんらか古書の拠ろがあるのでありますが、『古事記』『日本紀』の場合には、これが少ない。あるいは前人が全くの語り伝えを書き記したに過ぎないものを材料として書いたのでありますから、それが千二百年前のものであるからとて、必ずしも正確疑いないことばかり書いてあるとは言えません。
 
 

18  古伝説の価値

そのような意味から申しますれば、たとい「古事記」や「日本紀」にあることでも、古い時代の伝説によって伝ったことなどは、必ずしもそのままには信じられないとも言わねばならぬ。つまり千二百年前の当時の人がそう思っておった、あるいは千二百年前にかかる説があったという以上に信ずることは出来ない。いわゆる古伝説というものは、その説を伝えていた当時の人がそう思うておったとか、あるいはそういうことの語り伝えがあったとか言うに過ぎないので、それが事実であるかないかということは、さらにそのうえに研究を重ねなければならぬのであります。わたしはこの見地からして、古史の記事を扱いたいと思います。
 

19  神武東征と蝦夷

さて古史のうえにともかくも蝦夷のことが最も早く現れているのは、神武天皇の御東征の時であります。神武天皇が大和平野を御征服になりました時の敵は蝦夷人すなわち「えみし」で、この蝦夷が大変強いという評判であったが、実際これに当ってみると案外に弱いという意味のことをお述べになった御製があります。

       蝦夷を一人 百(もも)な人 ひとは言へども手向ひもせず

蝦夷一人にわが国の人は百人かからなければならぬ。こういう説であるが、今いっこうに抵抗をしなくて、服従してしまったとのことであります。これが果たして天皇の御製であったならば、天応御東征のころ、大和あたりまでも蝦夷は住んでおったとのことになります。
 
 

20  蝦夷の勇桿

この蝦夷一人に対し人百人という思想は、ごく古い時代からあったのでありましょうが、平安朝ころにもやっぱり同様の思想が行われておりました。否、平安朝には夷が一もって千に当るとまで言われております。かく蝦夷を強いものだと畏れた思想は、すでに「古事記」にこの御製が出ているところを見れば、少くも和銅年間、奈良朝の初めにもそういう思想があったことは明らかであります。あるいはこの御製なども実は後世の思想をもって詠んだ歌をば、神武天皇の御製として「古事記」に載録されたので、天皇御東征の敵手が必ずしも蝦夷であったという証拠にはならないのではないかという疑いもあります。
 

21  安倍貞任の祖先と長髄彦

けれどもこの神武天皇の御東征のさい、大和におきまして皇軍に反抗した者が蝦夷であったという思想は、よほど後の時代までも継続しておったものとみえまして、秋田氏の系図を見ますと、奥州の俘囚長たる安倍貞任の祖先は、長髄彦の兄だということになっております。長髄彦は神武天皇に反抗したために殺されたが、その兄の安日(あび)は奥州に流されて、蝦夷の首領になったのだということになります。この安日という名から安倍という姓が出来たとも、四道将軍の一たる大彦命が安倍氏の祖で、これから安日の子孫が安倍製を貰ったとも伝えております。この系図、新井白石の「藩翰譜(はんかんふ)」にも引いてあります。とにかく平安朝当時、蝦夷の一類として認められていた安倍貞任が、長髄彦の兄の子孫だと、こういう説のあるのは、長髄彦をも蝦夷の一類として認めておったという傍証になりましょう。
 
 

22  蛭子と蝦夷

これよりまえに蝦夷のことを言ったのでないかと思われることは、伊弉諾、伊弉冊二神の初の子の蛭子(ひるこ)でありまして、これは三歳になるまで足立たず、船に載せて流したとある。後世この蛭子を「えびす」神として崇敬していることを見ますと。子伝説ではこれでもって蝦夷の起原を説明しているのではないかと思いますが、確かなことは分かりませぬ。
 
 

23  出雲系の神と蝦夷

また出雲の神様であるところの事代主神をも「えびし」神として祀ります。あるいはその父大国主神も「えびす」様ではないかと思われます。それは摂津の西の宮の夷様で、これは「延喜式」にいわゆる大国主西神社のことではないかと思いますが、それはどうでもよろしい。ともかく出雲の神が夷神として祀られることは注意すべきことで、大国主神の父の素戔嗚尊も、お鬚が長い、乱暴をされる、後世の人が蝦夷に対して怖れたような性格がこの神様にあらわれている。これは尊が高志(こし)の八岐大蛇を平げられた伝説と相俟って、面白いことと思う。高志は越で、越人は蝦夷である。尊は蝦夷を征服され、その子大国主神はますます御盛んで、ついに大国主となられたほどで、御代々蝦夷を従え、ついに蝦夷の首領となり、はては蝦夷の神として崇められ、蝦夷らしき御性格を有するかのごとく想像され、あるいは夷神として祀られるのではなかろうか。果たしてしからば、蝦夷は古く大国主神の配下として山陰や畿内地方あたりまで住んでいたとも想像されるのであります。
 
 

24  日高見国と蝦夷

右は神代のことではありますが、人の代となりまして、蝦夷の国はどの地方にあったかということを知るべきものには、日高見国という名があります。日高見の国とは蝦夷の本国の名で、この語はしばしば古書に見えております。まず最も有名なのは日本武尊が蝦夷を征して、その本国日高見を従えられたことで、よく神官が神前において唱える「中臣祓」すなわち「大祓詞」の中にも、大倭日高見国(おおやまとひだかみのくに)を安国と定め給うという詞があります。
 
 

25  大倭日高見の国

大倭日高見の国という語には、種々に解釈がされましょう。あるいは大倭すなわち日高見国で、大和が日高見国だとこういう風に解釈していることもあります。あるいは大倭と日高見国とを別々のものとして2つに並べてみても説明が出来ようか思う。二つを別々のものとして並べてみますると、大倭すなわち神武天皇が御治定に相なった地方と、ならびに日高見国すなわち蝦夷の本国と、この両方を平げて安国となし、御統治になることがわが皇の高天原から帯びて降臨された使命であるということになろうと思います。またこの大倭をすなわち日高見国だと見たならば、畿内の大和地方も、もとこれ日高見すなわち蝦夷の国であったのを、神武天皇が御征定になって、使命の一部を完うされたものだと、こう見てもよいのであります。
 
 

26  武内宿禰の日高見探検

日高見国は『日本紀』[景行二十七年二月条]によりますと、景行天皇の御代に武内宿禰が勅命を奉じて東国地方を探検された時の復命に、東夷の内に日高見という国がある、その国人男女ともに椎結文身の風で、人となり勇悍、これをすべて蝦夷という。その国は土地が肥えておって広い、撃って取るべきものであるといったとある。日本武尊の御征伐も畢竟はこの探検に基づかれたもので、ついにはいろいろの賊をお平げになりましたけれども、終局の目的はこの蝦夷の本国たる日高見国でありました。『日本紀』の日高見国征伐のことはこれが初見で、したがって日本人と蝦夷人の接触はこれが事実上の最も初めのものであると解するのが普通でありますけれども、かりに神武天皇御東征の敵手が蝦夷でなかったとしても、日本人と蝦夷人との交渉はこの前にすでにいくらかあったということは注意しなければならぬ。
その事実は記録上からもだんだん証明される。考古学上からも証明されましょう。日本人の繁殖するに従って次第に蝦夷人と接触し、種々の問題を起こしたに相違ありません。
 
 

27  四道将軍の派遣と蝦夷

これを征服し、あるいはこれを撲滅し、あるいはこれを同化せしめたことが多かったでありましょう、必ずその間に種々のことがあったに相違いない。すでに崇神天皇の御代にも四道将軍が派遣された。この伝説によると、北陸将軍の大彦命は、今の岩代の会津まで来て、東海将軍の武渟河別命に出会われたということであります。これは会津という地名を説明するための俗伝でありましょうが、ともかくこういう説がある。このほか『新撰姓氏録』に収めてある旧家の系図などを見ますと、廬原公・治田連などの条に、祖先が東夷征伐に関係したことを記してあります。しかしてその最も皇威の発展上著しい成績の挙がったのは崇神天皇の四道将軍派遣の結果で、それから景行天皇の御代に日本武尊が熊襲と東夷とを征伐された、この二つであります。神武天皇は申すまでもなく大和朝廷を御創立遊ばした第一祖で、皇室はむろん皆様御存知の通りずっと開闢以来継続しておりますけれども、高天原や九州地方のことは別として、まず日本帝国というものを創められたのは、申すまでもなく神武天皇を第一祖として仰ぎ奉る次第であります。
 

      
28  始馭天下天皇と御肇国天皇

だから『日本紀』にも神武天皇を始馭天下天皇と申しあげております。始めて大八洲国を治め給うた天皇だという訳であります。しかるにこの崇神天皇に至っては、やはり同じく御肇国天皇と申し、「はつくにしらすすめらみこと」と訓ませてあります。同じく始めて国を治め給うた天皇が御二人あらせられるということは、いかにも不思議でありますけれども、神武天皇が大和の朝廷の第一祖として、始馭天下天皇、崇神天皇はさらに大いにこれを拡張して大日本帝国の基礎を固められた訳ですから、またこの御方にも御肇国天皇という御称号を奉ったのであろうと思います。これは外国の歴史にもいくらも例がありますることで、例えば元のジンギスカン、これはむろん蒙古朝廷の第一の祖先になって、太祖と仰がれておりますけれども、また後のフビライもシナ帝国を統一しまして、やはり元朝の祖先として、世祖の称を得ております。祖と宗とはよほど意味が違いまして、祖はすなわち国を創めたもの、宗はこれを継承したものであります。『日本紀』の意味合いから申さば、神武天皇は太祖、崇神天皇は世祖に在すというのでありましょう。その崇神天皇に至って、皇威東北地方に伸びて、蝦夷人は大いに服したことと思いますが、しかしながら日本歴史上においては、日本武尊の功業が最も著しいものとなっております。
 
 

29  日本武尊と日高見の国

日本武尊西征にことはしばらく措く。その東伐の方は会津よりもさらに北の方までも進んで、日高見国を征したと、こういうことになっている。そのいわゆる日高見国はとこだと申すと、これは今の北上川の流域地方のつもりで、『日本紀』には書いてある。それは。『日本紀』の記したる地理を案ずれば、ほぼわかる。従ってなんらの細工を加えずして、これを文字のままに解釈したならば、景行天皇の皇子日本武尊は、遠くこの北上川の流域地方にまで及び、当時この地方に蟠居しておった蝦夷の本国なる日高国を従えられたと、こういうことになる。
 

30  北上川は日高見川

北上川という名は、古く物に見えておりませぬ。ようよう鎌倉時代に至って、『吾妻鏡』に始めて見えているように思う。これは北の方が川上であって、北から流れる川だから北上川というという風に解釈しておりますが、それは無理でありまして、古くは北上川という名は見えませぬ。北上川という名はないが、この川のことは古く物に見えている。その最も古く見えているのは『続日本記』の編纂成って、これを上った時の上表の文です。
『続日本紀』は桓武天皇延暦年間の勅撰でありまして、これを差し上げる時の「上表文」に、天皇の御徳を頌して、「伏して惟るに、天皇陛下徳は四乳より光き、道は八眉に契ひ、明鏡を握つて以て万機を惣べ、神珠を懐いて以て九域に臨む。遂に仁は渤海の北に被ひて貊種心を帰し、威は日河の東に振ひて毛狄すなわち蝦夷らも屏息してしまったとのことを申したのであります。当時、紀古佐美・大伴弟麿らの征夷のことがあって、事実上、北上川下流地方の蝦夷は圧迫された。これを渤海来聘のことと相対比し、四六駢驪の文によって、渤海の二字に対して日河という。日河は事実上、今の北上川を指したので、日高見川の略称と解せられる。陸前桃生郡(桃生町)に延喜式内日高見神社があるのも、この地方ががつて日高見国と言われている一証でありましょう。
 
 

次へ



HOME

2000.7.9

2000.7.13Hsato