蝦夷の馴属と奥羽の拓殖


凡例
  • 底本には、喜田貞吉著作集9蝦夷の研究(昭和55年平凡社)を使用した。
  • 原文をそのまま維持するようにした。
  • 各節ごとに連番を附したが、これはデジタル化の便宜上、佐藤が附したものである。
  • 一部差別に通じる表現があるが、歴史的表現であり、これを伏せずに使用した。
  • 当文章は、大正4年夏に、平泉の中尊寺で開催された歴史地理学会での講演記録である。
  • 一年後の大正五年六月に、日本歴史地理学会編として「奥羽沿革史論」に納められ刊行された。
2000.7.9
佐藤弘弥

第一席(2)
 

31 日河と日上湊

『続日本紀』は桓武天皇延暦年間の勅撰でありまして、これを差し上げる時の「上表文」に、天皇の御徳を頌して、「伏して惟るに、天皇陛下徳は四乳より光き、道は八眉に契ひ、明鏡を握って以て万機を惣べ、神珠を懐いて以て九域に臨む。遂に仁は渤海の北に被ひて貊種心を帰し、威は日河の東に振ひて毛狄屏息す」とあります。四乳・八眉とはシナの古聖帝王たる文王と堯とをいったことで、陛下の御徳これに過ぎ、ついに仁は渤海の北に及びて、かの貊種族もわが朝に心を帰せ、威は日河の東にまで及びて毛狄すなわち蝦夷らも屏息してしまったとのことを申したのであります。当時、紀古佐美・大伴弟麿らの征夷のことがあって、事実上、北上川下流地方の蝦夷は圧迫された。これを渤海来聘のことと相対比し、四六駢驪の文によって、渤海の二字に対して日河という。日河は事実上、今の北上川を指したので、日高見川の略称と解せられる。陸前桃生郡[桃生町]に延喜式内日高見神社があるのも、この地方がかつて日高見国と言われている一証でありましょう。

この北上川のことは、もう一カ所「日上」という字で書いてあります、「ひなかみ」とか「ひたかみ」とかいったのでありましょう。日上湊という名がある。延暦八年の蝦夷征伐の時に、大変皇軍が負けたことがある。その時池田真枚(まひら)という副将軍が、日上湊で見方の溺るるものを多く救うたとある。この日上湊は明らかに北上川に当たるもので、日上すなわち日高見であろうと思われます。つまり日河というのも、日上湊というのも同じものを指しているので、日高見川の古名を伝えているのでありましょう。

ヒとキはハ行の音とカ行の音で、古来しばしば混同されております。今日でも日本で海(かい)というのを、シナ音でハイという、上海のようなもので、字音にはこのカ行、ハ行の混同が多い。いにしえのハ行の音を、後の日本人は多くカ行の音に写すのが癖であります。木を引き切る道具を、一般に「のこぎり」(鋸)といいますが、「倭名抄」にはこれをノホギリといっております。日本でも古今この相違あるものが多い。この類例から見ると、「ヒダカミ」が「キタカミ」となり、その川が偶然南流するので、北上と文字に書いたに相違ありません。
 
 

32 奈良朝ごろの人の信ぜし日高見国

要するに奈良朝初めのころの「日本紀」編纂時代の人士は、認めて蝦夷の本国だとしておった日高見国が、今の北上川下流地方であったのであります。
 

33 日本武尊に関する新研究

そこで、これを『日本紀』の文面のままに、正面から解しますると、すでに景行天皇の御代において、日本武尊がとおくこの奥州まで来られまして、いわゆる日高見国すなわち北上川下流の地方を征服されたと、こういう事実になるのであります。

けれども、これはよほど注意して研究すべき古伝説でありまして、古代史上で日本武尊の御功業ということは大いに研究する必要のあるものであります。尊は御一代間に大層な御事業をなさいました。そしていろいろ神秘的なお話も交っております。ことに『古事記』によりますと、尊の御陵は三カ所にあると伝えている。尊は東夷征伐の御帰りに、伊勢の能褒野で御薨れになって、そこへ御陵を造った。ところが白い鳥が飛び出した。御陵を開いて見ると御棺が空であります。そこで白鳥の後を尋ねて行って、その止まった処にまた御陵を造った。それは大和の琴弾の原で、そこからまた白鳥が飛び出した。後を尋ねてまた御陵を作った。それは河内の古市です。

そうゆう都合で日本武尊の御陵は、三カ所にあるということになっている。これはどうゆうことを意味していましょうか。この古伝説を事実として信じたならばそれまででありますが、いかにも妙な工合で、これはあるいは日本武尊の御陵と伝うるものが所々にあって、いずれも確かな伝えのあるのですから、どれを捨てることも出来ない、どれも皆尊の御陵だということから、ついに白鳥の伝説が出来て、所々にある日本武尊の御陵をうまく結び合せたというようなことではありますまいか。
 

34 小碓尊と日本武尊

元来この日本武と申すお名前は固有名詞ではない。日本の「たける」、すなわち大和朝廷の武勇者の意味であります。御本名は小碓尊、またの名は日本童男と仰せられた。この小碓尊が熊襲「たける」を謀伐せられた時に、彼はその武勇に感じて、「皇子は日本の武にまします」とのことから、このお名前を奉ったとある。神武天皇御東征の時に、大和に種々の武勇勝れた酋長がいた。これを八十梟帥とある。日本武尊が九州御征伐の時の敵手は熊襲梟帥であった。出雲にも出雲建という勇者があった。要するに「たける」とは武勇の称である。それで大和朝廷の武勇者の称号を有しておられる御方は、古代史上では景行天皇の皇子たる小碓尊御一方に限っておられますが、その実代々のわが天皇ことごとく日本の武に在らせられる。
 

35 シナの史籍に見ゆる祖宗の偉業

これには偶然にも一つの証拠がシナ南朝の歴史に伝わっています。『日本紀』でも古代にシナの南朝としばしば交通のあったことが見えております。シナは御承知の通り土地が広く、おのずから北と南とに国の様子が分れておりまして、時々これが放れる傾きがある。この晋朝の末が乱れました時に、久しく南北両朝に分かれた。北では拓跋氏の魏の国が起こりまして、その後だんだんと移って行きます。南には東晋に次いで宋、それから斉・梁。陳という風に国が相つづいて起こりました。ちょうど日本で応神天皇のころ(『日本紀』の年代には疑問がありますが、まず近時の研究の結果では東晋に当たりましょう)、そのころからズッとあとの雄略天皇の御代まで、呉の国と交通のことが『日本紀』に見えておりますが、彼の史では、東晋のころから引続き、その南朝の朝廷と、日本朝廷とのとの間の交通のことが見えております。

「日本紀」の趣で見ますと、応神天皇は使を呉の国に遺わされましたのは、これは機織などの職工を連れて来させるためで、シナの南部地方は古来養蚕が盛んで、織物が発達している、その地は三国のころの呉と称し、わが邦ではこれを「くれ」と訓(よ)んでいる。その呉の織物が、応神天皇の御代からわが国に伝わり、今にこれを呉服すなわち「くれはとり」といっております。その後日本では雄略天皇の御代にも使者を御遣しになって、職工を求められたことがあり、呉の使が仁徳天皇の御代に来たことも「日本紀」に見えております。日本の史籍に見えているのはこの往復のことだけでありますが、彼の国の歴史には、そのほかなお日本から使いが数回行ったことが見えておりまして、その使者の持って行った国書の文まで記載してあります。
 
 

36 日本最古の文書

この文書は、今日に伝っているわが国最古のものでありまして、それがソックリそのまま「宋書」に載っている。これはきわめて珍しいものでありまして、日本に伝わっているものはでは何が一番古いのかといいますと、聖徳太子の書かれた「憲法十七条」が最も古いものとなっておりますが、これよりもさらによほど前、雄略天皇の御代において、日本から宋の天子に遣わされた国書が「宋書」にそのまま載っております。これを見ますると、日本の史籍でわからぬ昔の事情がよほどよく分かる。日本歴史において疑問の事柄が、これによって、解決されることがあります。あるいは日本が三韓を征服ていたことなど、日本の歴史にあるばかりで、シナなり朝鮮の書物には見えておりませぬ。けれども、それがこの国書には立派に見えている。それは今日の講演には関係ありませぬが、わが大和朝廷が蝦夷を征して皇威が東北に発展した事情なども、この国書で見れば様子がよく知られるのであります。
 
 

37 毛人五十五国

それにはこういう事情がある。わが国では祖宗以来代々の天皇が甲冑を見に帯びて、親しく山川を跋扈せられ、寧(やす)んじ処(お)るにいとまあらず、東の方では毛人五十五国を征し、西の方では六十六国を服し、さらに海を渡って海北九十五国を平らげたとあります。ここに毛人とは毛の多い人で、すなわち蝦夷であります。衆夷とは熊襲、隼人など、この系統の夷族が九州地方に多くの国をなしておったのを申し、海北とは申すまでもなく朝鮮であります。こういうこよであって、つまり五十五カ国と六十六カ国と、九十五カ国と、この多くの国を代々の天皇の御陵威によって征服して、大日本帝国は発展したとあるのであります。
 
 

38 海北九十五国は事実

この蝦夷の国五十五とは、いったい何をいったのであったか分かりませぬが、渡って海北九十五国を平らげたと申すことは、これは事実であります。やはりシナの書物でありますが、シナの三国の時、魏の歴史に、朝鮮の南部、すなわち日本に属しておった山韓地方の国名がことごとく見えております。その数、馬韓に五十四国。辰韓に十二国、弁韓に十二国、合せて七十八国の名称が明かに出ております。これらがことごとく日本に属してしまった。そのほかにもまだいくらも国の名が伝わっておりまして、わが「日本紀」ぬ見えておって、右七十八国に漏れたのもいくらもありますから、右の国書にいわゆる九十五カ国は決して掛値のない数であります。この渡って海北平らぐること九十五カ国という数に掛値がないとすれば、したがって他の数も信じてよかろうと思われます。商売人でも掛値をしない性質(たち)のものは、いつも掛値をしない、その言うところは信ぜられるのであるが、一つ掛値をすると、ほかの正札も怪しいと言って警戒をしなければならぬ。しかるにこの「宋書」にあるわが国書の記事は、朝鮮のことが正直に記されているので、他の東の方の毛人、西の方の衆夷の記事も信用すべきものであろうと思われるのです。ことにこの九州の衆夷六十六国は事実でありましょう。
 
 

39 衆夷六十六国

九州地方には昔シナ人によって倭人と呼ばれた種族がおった。これは「魏志」に三十国ばかりの名が出てくる。そのほかにもたくさんの国がありまして、総計百余国ということに見えている。すでに百余の倭人国があったとすれば、わが大和朝廷が西の方衆夷を服すること六十六国ということは、またむろん掛値のないことと見てよろしいでありましょう。すでに海北九十五国が正直な数で、衆夷六十六国が掛値のないものとしたならば、毛人五十五国という数もどこまでも信じることが出来るのでありましょう。この中で、海北と衆夷とは、今の問題に関係がないから略しまして、わが大和朝廷では、祖宗以来代々甲冑に御身を固められて、雄略天皇のころまでに従えられて毛人、すなわち蝦夷の国数が、五十五国と信じてよろしい。
 
 

40 祖宗の偉業と東夷の征服

かくのごとくして、わが帝国は当方に発展した、しかして、これは景行天皇朝の日本武尊の御征伐のみならず、代々の天皇の相相続して行われた宏業の堆積であります。これをもって見ますると、ひとり小碓尊のみならず、代々の天皇はことごとく日本(やまと)の武(たける)に在(ま)しまして、その代々の宏業が重なり重なって帝国は大発展を遂げたのである。しかして、その多くの日本武の御事業の中で、最も著しいのが景行天皇の皇子小碓尊であらせられたから、後の口碑伝説ではこの御方のみが日本武という美称をば、御一身に集めてしまわれたということになったかと察しられます。大師も多い、太閤も多い。しかし単に大師といえば弘法大師、太閤といえば豊臣太閤に限るようなものであります。旧幕時代に大岡越前守といえば、誰も知っている名奉行であったから、ほかにも越前守という人はいくらもありますけれども、単に越前守と言えば誰でもこの大岡忠相のことと思うのと同じ訳であります。しかして俗伝では、なんでも名裁判の話は皆この越前守のことにする。他の人の仕事であっても、名裁判となれば大岡越前守のことにする。それと同じような次第で、代々の日本武尊の中でも、最も著しい功業をなされた小碓尊が日本武という普通名詞を御一身に専有されることになって、さらに代々の日本武尊の行われた東征西伐の偉業をも、多くは御身に集められたことでありましょう。そこで、日本武尊の御陵がいくつも伝えられているという理由も解釈されることと思われます。
 
 

41 日高見の国の移動

お話が大分余談に渉りましたが、さて前に申しました北上川流域の日高見国へまでも、景行天皇の御代に日本武尊が来られたということは、これは事実でありましょうか。日本武尊が日高見子にを征服されたという伝説は疑わない。しかし景行天皇の御代に、果たしてここまでも進んだかどうかということは、これは疑問であろうと思う。元来日高見国とは蝦夷の国のことで、もと必ずしも後の日高見神社所在地たる北上川地方には限らぬ。皇威が発展して東北の地方がだんだんと皇化に服するとなると、蝦夷の国は次第に東北に退く。日高見国が次第に移って行く訳であります。神武天皇の御代には、大和もまた日高見国であったかも知れませぬ。「常陸風土記」では、常陸の信太郡(しだぐん)地方が古え日高見国であったということになっている。ある時代には、事実この常陸地方が蝦夷の国すなわち日高見国であったこともありましょう。

奈良朝のころの人が信じておった日高見は、陸前の北上川流域にあったのでありましょうが、その前には必ずしもそうではない。かつてじゃ常陸が蝦夷の国すなわち日高見国であったのが、だんだん常陸より東北に退いてしまった。そこで起こる問題は、景行天皇の御代に日本武尊が果たしてこの陸前の日高見まで来られたか否かということでありますが、これはおのずから別問題で、日高見国がかつて内地にあったことは疑いない。紀伊国に日高郡があり、九州豊後にも日高郡がある。この豊後のは後に日田となっている。ヒダとシダとは通音で常陸の信太郡も、あるいは日田郡で、昔は日高であったかも知れませぬ。陸前にも信太郡があるのは注意すべきことだと思う。飛騨国というもの同じ語源かも知れぬ。この国の人はいわゆる飛騨匠(ひだのたくみ)として古くから朝廷に出て御用をつとめた有名なものであります。その飛騨匠すなわち飛騨人は、仁明天皇承和年間の「太政官符」(類従三代格巻二十)によりますと、言語・容貌・他国人に異なりとあります。

当時飛騨人は徴発せられ、京都へ行って随分虐待された、それでしばしば逃亡したのを捕えしめるための「官符」で、この様子で見ますと飛騨人はかつては異種族として認められていたことと察せられます。美濃の中で飛騨の南の入口に当る所に、夷守(ひなもり)神社という社が「延喜式」に見えている。越後の頸城郡(くびきぐん)は、もと蝦夷に対して設けられた城(き)の名から起った名と察せられますが、その地の国府の附近にも夷守郷(ひなもりごう)という地名がある。今は文字も美守と誤り、訓(よみ)も「ヒダノモリ」と訛っておりますが、このヒナもヒダももとは一つで、後世はでは田舎のことをヒナと申しますけれども、もと夷という文字を用いまして、異族の称呼であったかと思われます。すなわちヒナも、ヒダも、ヒダカも、ヒダカミも、同一系統の語であるかも知れませぬ。要するにわが国にはかつて所々に日高見国があった。それを祖宗以来代々の天皇が、東征西伐寧んじおるにいとまあらざるまでに御苦労になりまして、雄略天皇ころまでに東の方毛人国では五十五国というものを従えられたのであります。
 
 

42 毛人五十五国の範囲

そのいわゆる五十五国の範囲やいかに、さらに具体的に申して、景行天皇朝の日本武尊の東征は、果たしてこの奥州の日高見国まで及ばれたかという問題になりますと、私は如何ながらこれを信ずるに躊躇せざるを得ない。と申すのは、ここに一つ東国発展の年代を知るにたよりとするところの文書があります。
 
 

43 白河・菊多の関の設置

仁明天皇の承和二年の「太政官符」(類聚三代格巻十八)に、陸奥の国司から申し上げた文句が引いてありますが、これに白河・菊多の二関を置いた年代のことがある。この白河の関は申すまでもなく、今の白河、また菊多の関は後の勿来関でありまして、内地から蝦夷地に通ずるには山道・海道の二つの道があって、海道の方は菊多関、山道の方は白河関、この二つの関所で、内地と蝦夷地の交通を監督したものであります。後にはこの関もよほど意味が変わってまいりましたけれども、これを置いた初めには、これは蝦夷が内地に来ぬように防御いたしたものに相違ない。しかしてその白河・菊多の二関を置いたのは、今より四百余歳も前だとある。仁明治天皇の承和二年から四百余歳の前といえば、「日本紀」の紀年で充恭天皇の御代になる。だいたい相当っておりましょう。これが蝦夷に対する日本朝廷の経営の年代について最古の的確な記録でありまして、かの雄略天皇の御代のころまでに、吾妻毛人五十五カ国を征したとある、その服属五十五国の東境は、ほぼこの充恭天皇の御代のころの白河・菊多までであったと見てもよろしいでありましょう。
そうするとわが祖州以来代々の天皇は、この白河・菊多以内において、雄略天皇のころまでに、毛人の国五十五国を征服されたことになる。もちろんその以前とても、白河、菊多以外の場所に及んだことがあったであろうとのことは、これを察することが出来まするが、しかしこの承和二年の「官符」に、今を距る四百余歳の前に白河、菊多の二関を置いたという事実が動かすべからざるものと定めたならば、それより遙かに以前、景行天皇の御代において、すでにいわゆる日高見国、すなわち北上川下流地方をまでも征服せられたということは疑問とならなければならぬであろうと思う。もっとも古書には、この二関を越えて、さらに奥の方に早くから国造が任命されたことを記してありますが、これはその書の出来たころに、これらの地方の豪族が、さる伝説を有していたことを示すのみで、その設置の年代にはなお疑問がのこりましょう。なおこのことは後の説明に譲ります。
ここにおいてさらに進んで、このころ蝦夷を制するにはどういう方法で行ったか、また蝦夷が日本国民のうえにどういう影響を及ぼしているかというようなことを詳しく観察致しますると、古代征夷の歴史はよほど面白く解釈されると思う。
 
 

44 種族的研究の困難

そもそも日本人とはいかなるものであるか、これが種族上の問題になると、よほど解釈がむつかしい。われわれ御互いはことごとく天孫種族である、天之御中主。高皇産霊。神皇産霊のゆわゆる産霊の神によって成り出でたものであると、そう物を大きく見ればそれまででありますが、天孫瓊々杵尊の高天原から降臨された時に、ともに随って下ったものの子孫だと、いわゆる天孫種族をそう狭く解したならば、日本人すなわち天孫種族とは言えぬ。歴史がそう教えていない。近ごろ人類学者なり、人種学者なりが、体格、骨相などの研究を致したり、あるいは風俗の研究を致したり、髪の毛の調査を致したりなどして、種々の方面からこの学が進んでまいりますが、その結果によると、いわゆる日本人必ずしも体質上からは単一の種族でないという。しかして歴史はまたこれと同一のことを教えている。ちょっと多人数の集会を見たところで、いわゆる十人十色で、いろいろ異なった容貌をしております。その極端のと極端のとを比べますと、素人目に見てもまるで種族が違うということがよくわかるほどに変わっているのがある。しかし素人が外見上容貌をもって、種族を分つことは、これはよほど困難な、危険なことです。
 
 

45 容貌と種族

一般に上方人は綺麗だという。京都には美人が多いという。公家衆などはなんとなく上品だという。なるほどそうであろう。しかして、この綺麗な上品なのをもって、ただちに天孫種族の風貌だと、こういうことを容易に言いたがる。少くもそう解釈した方が都合がよさそうである。かくて、ついには天孫種族は、この上方地方に多く比較的純粋な種族を止めているという風に解する。これは果してどういうものでありましょうか。同じ種にも出来、不出来がある。上方にも醜婦が出来れば、田舎にも美人は出来る。ところで、上方は昔から中央政府の所在地で、その政府は日本全体に命令を下して、各地方の容貌端麗なる男女を、兵衛・采女として京都に召し集められる。その兵衛・采女の綺麗な者が多く集まった地方には、自然に綺麗な子孫が出来なければならぬ。果たしてしからば上方人とか、公家衆とかいう人々の容貌は、必ずしも天孫種族の代表となるものではない。むしろ彼らは、日本各地における出来の良い者を集めた混血児である。そうして、これが日本人の理想に合った綺麗なものになっている。

昔から富豪、大家の人々は鷹揚に出来ている。上品に出来ている。御大名の子孫にひどいヘチャは少い。これに反して代々賤しい職業に従事しているものは、おのずから下品である。これは根本から種族が違うのかも知れぬという説もたとう、しかし必ずしも種族の問題からのみ来たのではない。寺子屋の松王丸の言い分ではないが、「いずれを見ても田舎育ち」でちょっと菅秀才の御身代に立つものは地方にいない。これはいわゆる氏より育ちで、生活状態に基するところが少なくないと思う。しかし、なおさらに重大なる問題は結婚関係である。社会に地位あり勢力ある者は、美人に対して先取特権を有している。貧乏人はどうしてもその選り残りに満足せねばならぬ。貴族、富豪の人が先に美人を娶ってしまって貧乏人は醜婦でも満足する。その結果はおのずから子孫のうえにあらわれる。

右の次第でありますから、日本人の種族を容貌上から研究するということはよほどむつかしい。しからば家柄すなわち系図によって分つかというに、これもとうてい出来ないことであろうと思う。というのは、昔からわが国では家柄のことをやかましく言いますけれども、不思議なことには血統はあまりやかましくいわない。血統をむずかしく言うのは表面で、内実は「腹は借り物」というような思想が昔からあったようだ。もちろん皇室におかせられては、はなはだしくこの御系統を重んぜられて、皇后と立てられる御方は、昔は皇族のみ限られておった。奈良時代から藤原氏の人々も入内することになりましたけれども、ある一、二の家の限られて、そうどの家からでも皇后が出られる訳ではない。しかしそれは皇后の御上のことであって、後宮に入られる方は必ずしも皇族に限らない。これを実例に徴するに、皇別・神別・諸蕃あえて御忌みにはならぬ。田舎から来た采女に御手が付いて、皇子御降誕の場合もあります。いわんや臣下の諸家においてをやで、家柄をやかましく言う割合に、血の混ざることはあまり頓着しない。

それゆえに、系図は祖先以来立派に通っておっても、血は始終いろいろのものが混ざっている。かの良民・賤民の制のごとき、随分やかましいもので、良民と賤民との間はもちろん、賤民同士でも、階級が違えば通婚が出来ない制度になっているが、それならば種族的な区別をするかというに、そうでない。良賤の別は、社会組織階級の問題で、中にも家人・奴婢などは財産としての関係上喧しく言いますけれども、血統においてはあまり喧しくはない。なんとなれば、家人・奴婢のごとき賤民でも、その主人が得心づくで解放すれば、いつでも良民となる。良民としての交際が出来る。家柄や階級は喧しくいっても、種族のことは日本ではあまり喧しく言わぬ。これがわが天孫種族の偉大なところで、泰山は土壌を譲らず故に高く、江海は細流を択ばず故に大なりで、なんでも御出でなされと歓迎して、ことごとく天孫種族に同化してしまう。そうしてその好いところを取った。そうして日本の大をなしたに相違ない。しかしてこの関係は、蝦夷の同化において、常に適切にあらわれている。ただに血が混じるばかりでなく、これが種々の点においてあらわれているのである。
 

46 武士道と蝦夷

かの武士道というもののごときも、蝦夷の刺戟を受けて発達したといってもよい場合があるのは面白い。元来、日本人はもとからいわゆる日本魂という美質を有している。しかもそれがいったん衰えてしまった時代があったのを、二度目に蝦夷の刺戟で、ここに武士道として発達している。これはよほど奇態なことであるが、蝦夷研究、奥羽拓殖研究の上には、見逃し難い問題であります。
 
 

47 蝦夷の武勇

日本では強い者は何かというと、それは蝦夷でありました。前に申した「蝦夷を一人百の人」の御製を始めと致して、蝦夷の強を説いたものははなはだ多い。中世には強敵に対して往々蝦夷を連れ出した例が多いが、太古から貴紳は従者として蝦夷人を使役した。
 

48 佐伯部と久米部

また兵士としても蝦夷人を使役した。これは有名なる佐伯部でありますが、この佐伯部に対して久米部という兵隊が古くあった。これは九州から出て来たもので、神武天皇が九州より御東征の時に、これを用いて大和地方を征服された。この久米部とはなんであるか。私はこれをもって隼人もしくは隼人の日本人に同化したものから組織した兵だと思います。その久米部は黥をしている。天孫種族は黥をしないが、昔九州にいた民は黥をしていた。久米部の帯びた頭椎剣は隼人の剣に似ているという。そのほかにもいろいろ理由はありますが、これは今の問題に関係がないから略しまして、ともかく久米部は九州出の兵ということは疑いない。この久米部に対して佐伯部の兵が出来た。当初は久米部の兵をもって宮門を守っておったが、だんだん国は発展する、久米部の兵のみでは不足になったためか、雄略天皇の御代からは蝦夷の兵士をして、久米部と相並んで左右の宮門を守らしめた。これがすなわち佐伯部で、従来久米部を率いていた大伴氏の一族が、佐伯宿禰となってこの佐伯部を率いることになった。
 
 

49 佐伯部と蝦夷

佐伯部とは蝦夷のことで、日本武尊の蝦夷征伐の時に、蝦夷の捕虜を伊勢神宮に献じたところが、彼らは昼夜喧しく騒いだから「せへぎ」部と言ったのだと、そういう説明があります。この説明の適否はどうであるか分かりませぬが、「常陸風土記」を見ると、昔、「山の佐伯」「野の佐伯」というものがおったとある。すなわち山夷・田夷で、その名義の由来はどうであるか知りませぬが、とにかく蝦夷のことを佐伯といったので、あるいは蝦夷人の言葉が通じないので、いかにも喧しく騒ぐように聞こえたから、そういう名が付いたのかも知れませぬ。この佐伯から組織したのが佐伯部の兵で、それが宮門を守る。
 
 

50 佐伯部の忠誠

その佐伯部は非常に忠誠で、勇気の優れたものであった。

”海行かば水浸(づ)くかばね、山行かば草生(ぬ)すかばね、大君の辺(へ)にこそ死なめ、のどには死なじ”
は大伴・佐伯宿禰の家訓で、聖武天皇の「宣命」(「続日本紀」天平勝宝元年四月条)の内にも明かに御述べになっております。これは海へ行けば屍を水に浸し、山に行けば草の中に屍を曝すとも、厭うところではない。大君の辺(ほとり)にこそ生命は捨てるが、無駄には死なない、というので、これはもと大伴氏が久米部を率いるさいの教訓であったのでありましょうが、蝦夷出の佐伯部も、これと同一教訓のもとに忠義にはげんだのであります。

この尊むべき忠誠の思想は佐伯部ばかりではありません。聖武天皇が東国人をもって中衛府と称する禁衛隊を組織して、宮中を守らしめられた。これは後の近衛の起原で、その兵士を東舎人と申す。「此の東人は常に云く、額に箭は立たじと云ひて、君を一つ心をもちて護るものぞ」と孝謙天皇「宣命」(「続日本紀」神護景雲三年十月条)にお褒めになっている。東国人は死を惜しまぬ。君のためには生命を捨てること鴻毛のごとしというのが特長で、それで古来常に貴紳の従者となり、あるいは兵士として用いられたもので、聖武天皇に至ってこれを禁衛隊に組織されたものであります。

その忠勇の状は、右の佐伯部と同じ意味でありましょう。昔の佐伯部、後の東人、彼此同じく貴紳の従者となり、同じく兵士となり、同じく忠勇の精神を持っている。いわんやその国も同じく東方であってみれば、これはよほど比較研究の必要があろうと思う。
 
 

51 蝦夷と兵士

佐伯部としての以外に、蝦夷はまたしばしば平安朝において兵士として、また警士として用いられた事業がいくらもあります。日本人が往ってもとても建てぬ時には、いつも蝦夷を用いた。
 
 

52 日本人の懦弱と蝦夷の強勇

日本人は一体強い国民である。久米部の兵も強かった。しかしそれが平安朝ころになると非常に弱くなった。その当時の日本人の弱さといったら、それはお恥ずかしながらまるでお話にならぬ。面白い例があらいます。嵯峨天皇の弘仁十一年に遠江・駿河の二国にいた新羅人が七百任暴動をした。そこでさらに相模・武蔵等七カ国の兵を発してようやく征伐をしたとある。さても大袈裟なことをやったもので、これは日本人の弱くなっていた例でありますが、もう一つこういうのがある。清和天皇の貞観十一年に、これも新羅の賊船が二艘やって来て、太宰府へ送る貢船を掠(かす)めた。そこで太宰府の兵を発してこれを討たしめたが、兵士皆尻込みをしてあえて往かずと書いてある。皆往かない。やむを得ず、その地方の地方にいた蝦夷人を徴発してこれに向かわしめたところが、これは「一以て千に当る」という勢いで、容易に賊船を追い払ってしまった。それ以来太宰府の海岸は蝦夷人をもって護らしめることになった。なんたる情けないことでありましょう。

まだまだはなはだしいことがある。これはまるで嘘のような真実のことでありますが、陽成天皇の元慶七年に、上総におった蝦夷人がわずか四十任で暴行を始めた。国史はさっそく兵一千人を発してこれを追討したところが、彼らは山中に籠って嶮(険)に拠ってこれを防いだとある。いずれ一夫これを守れば万夫も通う能わずというような所に拠って防いだのでありましょうが、国府の兵千人行ってこれをいかんともすることが出来ない。国史は駅を飛ばして急を朝廷に奏し、数千の兵を発するにあらずんばこれを平ぐる能わずといったとある。なるほど「一以て千に当る」の蝦夷でありますから、四十人に対しては四万人なくてはならぬはずであります。これは幸いにして平定することが出来ましたが、まったくもって嘘のような話で、当時いかに日本人が弱かったか、これに対していかに蝦夷人が強かったかが察せられます。それでいつも面倒な時には蝦夷人を引き出す。海岸防御にでも、海賊の退治にでも、強盗の追補にでも、いつでも蝦夷人を連れて行かねばならなかった。情けないことではあるがそういう時代もあった。日本人のもって誇りとする武勇も、一時非常に衰えておって、それを蝦夷人から補ってもらい、はては蝦夷からして再びこれを養成してもらったといってもよいほどの事実である。
 
 

53 異族と兵士

この蝦夷じん使役の件については、前に述べた佐伯部と東人とのことを併せ考えねばならぬ。佐伯部が蝦夷人であるとのことは、もはや問題にはならぬほど明確であります。異族をもって兵隊を組織し、これをして禁中を守らしめるというようなことは、他の国にも例の多いことであります。かの朝鮮が野人・倭人を使役したというのもやはりそうで、野人というのは満州人、倭人というのは日本人であります。

日本人中にも朝鮮政府に使役されたものが少なくなかったので、彼らではあるいはこれを降倭ともいっております。朝鮮ではこれらこれらの野人・倭人をもって兵士とし、これをもって護国、護宮の実用に供したばかりではなく「一は以て声をなす」とありまして、これをもって国の名誉とする。外国人をまでもかくのごとく使っている、異族の者もわが国の徳に服し、各兵士として忠実に立ち働くということをもって誇りとなす。このことはシナにも例のあることであります。

日本で古く久米部・佐伯部の兵を用いたのも、幾分この意味があろうと思う。後に奈良朝に至っては中衛府・外衛府という二つの兵隊が出来た。すなわち後の近衛でありますが、これがやはり右述べたようなもので、ともに宮の内外を護る者でありまして、中衛府の方は前に申し東人、すなわち東国人をもって組織し、これに対して外衛府は帰化の秦・漢人をもって組織したようであります。秦・漢人と申しても、これは遠い古代に帰化したものでありますが、やはり外国人の子孫というので「一は以て力となし、一は以て声となす」訳であります。
 
 

54 佐伯部と従者

佐伯部の兵が忠誠であったことはすでに述べましたが、彼らはまた貴紳の従者、すなわちその身辺に侍うて御用をつとめた。いわゆる「侍」として、最も忠実に働いたということも、歴史が証明しております。

雄略天皇が市辺押磐皇子をば御殺しになった時、その舎人すなわち後世の言葉で言えば「侍」に佐伯部売輪というものがありまして、これが殉死した。彼は皇子の屍を擁して涕泣し、去らなかったために、ついに雄略天皇に殺されたのでありました。後に押磐皇子の御子の仁賢天皇の御代、売輪の忠死を追賞し、当時諸国に散財していた佐伯部の人々を集めて、これを売輪の子に与え、彼を佐伯直(さえきのあたえ)として、これを統率せしめた。これは「日本紀」にあることで、その「日本紀」編纂の奈良朝初めの時分にも、諸国に佐伯部の民は散財していたという。現に播磨・安芸・阿波・讃岐・伊予などには、日本武尊捕虜の裔と称する佐伯部がいた。また安芸の沼田郡には、仁徳天皇のために摂津から移されたというものもおった。

そういう風に佐伯部は諸国におって、これが兵士に用いられ、また貴人に使役されることになっていたのであります。しかして、後に東人として貴紳の従者となり、または兵士として用いられたものは、やはりこの佐伯部と同じく忠誠なものとして認められた。
 
 

55 東人の範囲

東人はもとどの地方から出たか。その範囲はよほど広い。奈良朝ころには、遠江以東陸奥に至までの人々は、皆東人として認められていたようであります。九州の海岸を守る防人、これらもはるばる東人を東国から連れて行ったものでありました。

一時はその路次の往復が非常に煩わしいので、これを止めて九州人を用いたことがありましたが、辺防荒廃したとある。そこで筑紫の人は辺を戍るの器にあらずとなって、再び筑紫の海岸は東国人で守ることとなった。これは平安朝に、筑紫の人が間に合わないで、蝦夷を辺防に使ったのと同じようなことでありました。この東国は、古くは蝦夷人の住所であって、いわゆる東の方毛人五十五国を征すという地方に当たっているのでありましょう。その毛人国が、果たしてどの辺りまで及んでいたかは分かりませぬが、ともかくも後には遠江を堺として、その東を東人の国としておった。しかしてその国人を、あるいは貴人の舎人に用い、あるいは禁衛隊に、あるいは警備隊に用いた。

その東人の強かったことは、都から離れて、いわゆる都会の分弱の風に染まなかったためでもありましょうが、一は直接、間接に蝦夷の感化、影響を受けたものも少なくなかったでありましょう。彼らの中には、純粋の日本人も秦・漢人の子孫もありましょうし、帰服した蝦夷の、つとに日本人に同化したもの、あるいは雙方の血の混ざっているものなどもあったと解されます。
 
 

56 坂上田村麻呂は東人

この東人について、面白い事実があります。この有名な征夷大将軍坂上田村麻呂のごときも、実は東人の一人でありました。

この人のことはなお後に詳しく述べますが、ともかく彼は奥州田村郡に生まれたと伝えられて、東人の一人であります。また田村麻呂の父刈田麻呂は、これは同じく奥州の刈田郡で生れたとこういうことになっている。その系図によりますと、坂上氏は漢の霊帝の子孫阿知使主が、応神天皇の御代に二十県の民を率いて帰化して、大和の高市郡檜前地方を賜ったものの後だとある。この漢の霊帝の子孫というのはいわゆる漢氏で、秦氏とともに外衛府の兵に用いられたもの、刈田麻呂の言いよるに、高市郡の民十中の七、八までは漢人の一族だとあります。

しかしてその刈田麻呂も、田村麻呂も、実は東人であった。
 
 

57 頼光の四天王と東人

後に源頼光の四天王と知られた坂田金時・ト部季武なども、『今昔物語』によると、やはり東人だと書いてあります。彼らは都のてぶりに慣れない。京都へ行って始めて牛車に乗ったところが、さすがに武勇の士も乗り慣れないがために、ひどく車に酔ったという話しがある。
 
 

58 入鹿の従者と東人

貴紳、豪族の従者、すなわち「侍」というものは多く東人であった。これは大化前に、蘇我入鹿の従者が東国人であったということから続いて、平安朝・鎌倉時代までも常にこうである。この東人は常に、「額に箭は立つとも背に箭を受けじと云ひて、一つ心に君を護り奉る」という気概があった。これは前の佐伯部が、「大君の辺にこそ死なめ、のどには死死なじ」といったのと同じ思想であります。
 
 

59 板東武士と上方武士

源平合戦のころにあっても、強いものは相変わらず東人で、他国のものは弱い。

いわゆる板東武者がすなわちこの東人で、他国の兵はとても比較にならぬ。板東武者を使った源氏が勝って、西国兵を率いた平氏のまけたのも、けだしやむを得ぬ次第であった。古書に板東武者ということを述べた所はいくらもありますが、『源平盛衰記』を見ると両者を比較した斎藤別当実盛の言があります。
板東武者の習ひにて、父が死せばとて子も引かず、子が討たるればとて親も退かず、死むるが上を乗り越え乗り越え、死生知らずに戦ふ。・・・・・御方の兵と申すは畿内近国の駈武者なれば、親手負はば其れに事つけて、一門引連れて子は退く。主討たるれば、郎等はよき次でとて、兄弟相具して落ち失せぬ。

上方武者は、とうてい源氏の兵たる板東武者の敵ではない。とても源氏の兵とは戦争が出来ぬと、斎藤別当実盛は明言している。これが東人の武勇を示している。
 
 
 

60 東人の信義

南北朝ころになりましても、東人は信ずべきものとして認められた。兼好法師の『徒然草』にこういうことを言っている。

 吾妻人こそ其の言う事は頼まるれ、都の人は言請のみよくて実なし。

これは東国人の言を記したもので、兼好はさらに悲田院の堯蓮上人の言を引いて、説明を加えている。上人はもと相州三浦の武士で、自身東人であります。そこへ郷里の東人が来て、右の言をなしたについて、堯蓮上人は、都の人もそう悪いという訳ではないが、彼は心和らかに情あるゆえに、人の言うことを聞けばそうそうは否み難くて、ついこれを受け合う。そしてその実行が出来ぬのでつまり嘘をつくことになる。始めからそのつもりではないが、当にならぬ結果となる。しかるに東国人は心の色なく、情おくれ、かたくなに剛直なるゆえ、愛想気もなく、嫌なことは嫌だといって反対をする。それで頼もしいものだとこう言っております。さらに後のものでありましょうが、『人国記』を見ますと、やはり奥州人の剛直を述べております。

ともかくも東国の住民は、佐伯部の古代から後の代まで、日本人にとってわれわれが最も奨励すべき、種々の美点を特長として持っておった。しかしてこれが、佐伯部以来ズッと続いている一つの東国思想といってよろしいかと思います。
 

一席 了



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2000.7.9

2000.7.25Hsato