常陸坊海尊についての一考察
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1.常陸坊海尊について

 義経の家臣に常陸坊海尊(注1)という謎の人物がいる。登場するのは「義経記」や「源平盛衰記」などの著作であり、義経伝説の発端としての「平家物語」にも、鎌倉時代の正史である「吾妻鑑」にその名は見られない。つまり伝説伝承上の人物ということになる。「義経記」では、この常陸坊海尊は主人である義経が高舘合戦で非業の最期を遂げようとするまさにその時、「常陸坊を初めとして残り十一人の者ども今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、そのまま帰へらずして失せにけり。言ふばかりなき事どもなり」と、半ばあきれた口調で、暗にその敵前逃亡劇を責めているようにみえる。海尊は、どこから見ても、不忠者、転向者、裏切り者である。

柳田国男は、その著「東北文学の研究」で、海尊について次のように語っている。

「義経記成長の事情を窺い知る端緒として、最初に我々の心づく特色の一つは、いよいよ泰衡が背き和泉夫婦が忠死を遂げて、主従わずかに一三人で、寄手の三万余騎と激戦するほどの大切な日に、あいにくその朝から近きあたりの山寺を拝みにでて籠城の間に合わず、そのまま還って来なかった者が十一人あったという点である。その十一人の大部分は名が伝わらぬが、ただ一人だけ知れているのは、常陸坊海尊であった。それがその通りの歴史であったとすれば、是非もないが、人の口からだんだん大きくなった物語としては、かような挿話は見たところ別に必要もないので、もし必ずそう語るべきであったとすれば、別に隠れた理由が何かあったはずである」

その後、海尊は伝説の中で様々に変形され、清悦物語(注2)のような異質な物語として展開することになる。

 

2.義経記における海尊像

「義経記」における、海尊の初見は、巻第三「頼朝謀反により義経奥州より出で給ふ事」の中の「御曹司の郎党には西塔の武蔵坊、又園城寺法師の、尋ねて参りたる常陸坊、伊勢三郎、佐藤三郎継信、同四郎忠信これらを先として三百騎馬の腹筋馳せ切り…」である。これによれば海尊は、園城寺の法師だったようだ。この園城寺は、別名三井寺とも言われ、智証大師円珍(814−891)の流れを受け継ぐ天台寺門宗の総本山である。円珍の死後、比叡山の山門派と三井寺の寺門派の対立が続き、叡山の僧兵に攻め込まれ度々焼失したこともある。現在もこの寺には、かつての延暦寺との攻防を物語る「弁慶の引摺り鐘」がある。言い伝えに寄れば、この鐘は、弁慶が戦利品として、叡山に引きずりながら持ち帰ったのだが、鐘を打ってみれば、その音が気に入らなくて、谷間に捨てたのだそうだ。

 

3.海尊は弁慶の子分?

このように考えてみると、義経の二人の僧侶上がりの家臣、弁慶と海尊は、かつて寺院同士の対立に巻き込まれて敵対していた時期もあったはずだ。

次に海尊が「義経記」に登場するのは、義経主従が西海へ逃れるようとする「住吉大物二ヶ所合戦の事」である。その中で、海尊はまるで弁慶の「使い走り」のような感じで現れる。その時、敵が現れ、先陣を賜ろうとした弁慶だったが、その栄誉は義経の一言で、佐藤忠信に与えられた。面白くない弁慶は、海尊を呼んでこのように言った。

「安からぬことかな。戦すべかりつるものを。かくて日を暮さん事は宝の山に入りて、手を空しくしたるこそあれ(まったく面白くない。戦うべき所を、こうして日を重ねているのは、宝の山にいて、それを取らないでいるようなものだ)」

するとそこへ敵がこぎ出して来るのが見える。弁慶はしめた、とばかりに鎧を着て、小舟に太刀や熊手などを積んで、海尊とともに沖にこぎ出す。

そして「此舟をあの中にするりと漕ぎ入れよ」「漕げや海尊」などと、まったく海尊を奴隷のように扱う始末だった。この時の血に飢えた弁慶を誰も止める者はいない。主君の義経が言っても耳を貸さないほどだ。

義経が「さのみ、さのみ罪なつくりそ(むやみに罪をつくるものではない。やめろ)」と叫んでも、「末も通らぬ青道心、御諚を耳にな入れそ。八方をせめよ。(今更慈悲を言っても通らぬ事。ご命令は聞かず、八方を攻めろ)」と一向に耳を貸さ素振りはない。まるで鬼神である。海尊もそんな弁慶の気迫に圧倒されたのか。必死で敵のまっただ中に舟を導く。弁慶は熊手で敵の舟を引き寄せるとあっという間に、敵を皆殺しにしてしまう。

 

4.海尊は弁慶に恨みを持っていた?

 この場面の中に、義経をめぐる主従の力関係がよく現れている。義経にとって、この西海にこぎ出す時点で、第一に信頼を抱いている部下は、佐藤忠信であった。弁慶はそれについて少なからぬ不満を抱いている。彼は忠信に対し、ある種の対抗意識とコンプレックスのような感覚を持っている。海尊は、そんな弁慶の使い走り的な存在である。もしかしたら海尊は、叡山と園城寺の騒動の時に、弁慶によって、捕虜的に捕まって、その時以来の頭が上がらない関係であったのかもしれない。そのように考えると、これまで謎とされてきた海尊の逃亡の真相が見えてくる。つまり海尊は、仕方なく弁慶に従っていただけだったのかもしれない。

一応伝説では、海尊は義経を慕って、奥州の義経に合流したことになっている。これが弁慶の強制によって、仕方なくそうなったということであれば、あの卑怯な敵前逃亡にもそれなりの説明がつくというものだ。

その証拠が義経記の中には、いくつかある。例えば、巻第五「吉野法師判官追いかけ奉る事」で、吉野を逃げる義経一行を敵の吉野法師百五十人ほどが、突然現れ、「すはや、敵よ(それ敵だ)」と言うと、海尊は誰よりも早く、その場を逃れ、後を振り返ると、義経も弁慶もまだそこにいるのを見て、「われがこれまで落つるのに、此人々如何なることをか思召すらん(俺がここまで逃げて来たのに、みんなはいったい何を考えているんだ)」

更に「三の口の関を通り給ふ事」の箇所でも、散々怪しまれた挙げ句弁慶の機転で何とか、この場を逃れると、「常陸坊は人より先に出でたりけるが、後を顧へりみれば、判官と武蔵坊と未だ関の縁にぞ居給へり」と、とにかく逃げ足の早いお調子者に描かれている。何かまるで海尊という人物の生涯は、ただひたすら逃げる為だけにあったような気にもなる。他の義経主従の美しい生涯に比べて、海尊の敵前逃亡劇は、みっともなさの極致だ。
 

5.海尊は義経記の作者の創り上げた架空のトリックスターか?

このことは、義経記の作者が、あらかじめトリックスターとしての海尊というキャラクターを創造(?)し、物語りとしての「義経記」をより面白いものにしようとする意図が初めからあったことを物語っているのではあるまいか。

しかし庶民は、海尊のような人物が嫌いではない。いやむしろ大好きなのだ。義経や弁慶や忠信のような非凡な英雄に惹かれるのとは、また別の意味で、ドジで臆病で、命が惜しくて惜しくて仕方のない海尊のような凡庸さがたまらなく愛しいのである。それが庶民感情というものだ。つまり海尊に親近感を持つのである。そして、敵前で素早く逃げた海尊は、義経記で不発に終わったキャラクターを伝説という形で展開させていくことになる。別の言い方をすれば、海尊伝説のスタートである。もちろんこれは、義経記の中のキャラクターから生み出される物語の展開である。

さて思うに、義経記から暗示される海尊物語の展開としては、以下の三方向に集約できる。

まず第一は、素性不明ということを生かしての自由な逃亡者としての方向である。これは後に、義経が実は高舘で実は死なずに蝦夷へ逃げたとする「義経北行伝説」として発展する大事な要素である。第二に、源平合戦の生き証人として、義経の語り部としての方向である。海尊は、寸前に逃亡したからこそ、どこかに生存しており、きっと真相を語るはずとの意識が当時の庶民感覚として存在していたに相違ない。第三には、義経自害の主原因を弁慶に押しつけるという恨み晴らしの方向である。

このことにより、海尊伝説は、その土地その時代の人々の時代精神や私欲というものを囲い込みながら、ある時には、義経を生かして、北へ逃がし、ある時は、源平合戦の裏話を生々しく証言し、またある時は、弁慶を飛びきりの悪者に仕立て上げて、大いに海尊の恨みを伝説の中で、ねちねちと晴らすことになったりもするのである。

実際、江戸中期、奥州(仙台藩)で盛んに読まれた「清悦物語」は、弁慶に対し悪口雑言を並べており、あたかも義経が自害し、平泉が滅んだのも弁慶のせいだと言いわんばかりの迫力がある。

 

6.「義経記」の新展開としての海尊伝説

柳田国男は、前褐書(「東北文学の研究」)の中で「足利時代の下半期(中略)常陸坊海尊が、まだ生きているという風説が諸国にあった。(中略)この噂が一箇所一口ではないために、かえって始末が悪い」とまで語り、義経記の海尊像が、その後に一人歩きを始めた諸国の物語を説明している。

まず柳田は、海尊が富士山に入り、飴のようなものを食べて不死を得た話を挙げ、次に信濃、能登、加賀、越後でも同様の話があり、中でも会津の実相寺に残夢(ざんむ)と名乗る禅僧が、実は不死となった海尊で、実に天正四年(1576)まで生存したことを教えている。この残夢については、林羅山が「本朝神社考」で紹介している所だが、その人物の特徴は、概ね清悦と同じように、枸杞を常食したため長寿となり、やたらと義経について詳しく、しかも親しい者であったかのように生々しく語る不思議な人物として描かれている。

早い話が、残夢伝説も海尊伝説も、「義経記」という物語から派生した義経伝説の亜流に過ぎないのである。。更にもっと遡れば義経伝説の萌芽は既にそれより200年ほど前に書かれた「平家物語」の中に既にあった。だから厳密に言えば、義経伝説の源流は、「義経記」ではなく、「平家物語」ということになる。

「平家物語」の成立は、鎌倉前期(1240―1250)と言われる。次に「源平盛衰記」(1260頃?)が成立した。その後長い熟成期を経て、様々な義経伝説が集合される形で「義経記」が成立(1420―1430?)した。こうして義経死後およそ230年ほど経過して「義経伝説」の原型はほぼ完成したのである。

更にそれから150〜160年を経て、「義経記」は独自の展開をすることとなる。つまり義経伝説の亜流としての海尊伝説の展開である。義経記の中で、含みを持たされていた部分が次第に北上する。そしてそれは各地に様々なバリエーションの物語を生みながら、会津の地には「残夢物語」(天正期=1580年前後)として定着したことになる。それから更に物語は北上し、更に50年後の寛永期(1630年前後)義経終焉の地奥州平泉に里帰りを遂げて、「清悦物語」に変化するのである。

 

7.「清悦物語」として展開する海尊伝説

清悦は、会津の残夢と同じく、常陸坊海尊と共に、義経の高舘落城を逃れ、以後四百年生き続け、義経の自筆の文書を持っていたり、義経の奥州下向から高舘自害に至るまでの事を当事者でなければ知らないような口調で語り、寛永七年(1630)まで平泉界隈で生きていたという伝説的な人物である。

尚長寿の原因は、山伏に勧められて人魚の朱い肉を食べたためとされる。その物語の中で、当の清悦は、伊達政宗にも何度か呼ばれ、当時のことを生々しく証言したとある。結局、清悦物語は、日本全国に広く伝播した常陸坊海尊伝説や義経伝説が時間的空間的な広がりの中で、「義経記」の中では未成熟だった部分を膨張発展させながら微妙な形で地元の伝説と伝承を絡み合いながら発展した物語なのである。つまり先に指摘したように、清悦物語が成立する以前に、各地には義経記から発展した形の無数の海尊物語や義経伝説があったはずだ。そして義経終焉の地奥州平泉に里帰りをする形で、江戸中期奥州の地で成立したのが「清悦物語」という訳である。この物語は非常に異本多いことで知られる。これは庶民がこの物語を好んで書き写す間に、様々に内容が変化したものと考えれれる。(この点に関する詳細は、別の機会に詳しく論ずる予定である)清悦物語は、若狭に伝わる八百比丘尼(やおびくに)などと同様の構造を持つ長寿物語である。八百比丘尼の話でも、義経主従の事が語られており、共通点も多い。

清悦物語に関して、相原友直翁は、「平泉雑記」の中でこの著作の盲点を列挙しながら、この著作の歴史的価値については、明確に疑問を投げかけている。それは歴史家として当然の判断であろう。

* * * * * *

結論である。おそらく常陸坊海尊は義経記の作者が、話を面白くするために作為的に作った架空の人物であろう。そのような虚像にあたかも実際にあったかのような生き生きとした永遠の命を与えてしまうのが我々人間の想像力の怖さであり、素晴らしさでもある。(了)

佐藤弘弥


 

 注1

 常陸坊海尊―

○生没年不詳。源義経の家臣。海賢、荒尊とも称する。「盛衰記」「義経記」などに見える伝説的人物。もと園城寺の僧。弁慶らとともに義経の都落ちに同行し、大物ノ浦で活躍。衣川合戦では、物詣に出て帰らず、難をのがれたという。以来東北地方には、海尊が不老不死の身となり源平争乱を各国に語り伝えたという廻国伝承が広く分布する。(日本史広辞典:山川出版社)

 

○源義経の家臣で長寿伝説の持ち主。生没年不詳ながら、「源平盛衰記」「平家物語」「義経記」にその名が見える。叡山または園城山の僧であったが、義経の家臣となり、弁慶とともに都落ちするが、衣川の合戦を生き延びて、後世に義経伝説を語り、伝えたとされている。江戸時代の初め、林羅山は「本朝神社考」に残夢という老人が源平の戦いを見てきたように語り、人びとはそれが海尊だと信じたと記している。長寿の因は枸杞の常食、また赤魚の肉、人羹(にんかん)魚の肉を食したためとされる。(日本人名辞典:三省堂)

 

○義経主従戦死の場に居合わせず、生き残って不老不死となり、源平の合戦を詳しくしっていて、その顛末を語って歩いたという。不老長寿となった原因としては、衣川で老人に会い赤魚を貰って食べたためとも説かれ、また富士に登って岩上の飴のようなものをなめたためなどと説明されている。この点は、八百比丘尼、清悦などと全く等しい。近世初期から海尊の存命を説く記録があって、「義経記」以外に、その物語が語られていたらしいことが考えられる。漂泊唱導している間に罪障消滅のために懺悔の生活をしているという考えに変わってきて不死回国、さらに物語中にまではいりこむようになったのであろう。(神話伝説辞典:東京堂出版)

 

 注2

清悦物語―

○小野太左衛門(仙台藩柴田郡村田城主の村田御曹司右衛門大夫宗高家来)という人物が、清悦(116?―1630)という義経の家来だったと言う謎の人物の不思議な話を寛永六年二月(1629)にまとめたという奥州の懺悔物語。異本多し。
 

参考サイト

清悦物語(義経伝説の中の「義経デジタル文庫」所収)
http://www.st.rim.or.jp/~success/seietsu.html

天和霊験記(海尊伝説)の紹介。青麻神社略誌より
http://www12.plala.or.jp/aosojin/tenwa.html

阿波大杉(おおすぎ)神社の紹介。「ものしりいばらき」様より
 http://plum.pref.ibaraki.jp/data/festival/s_13.htm
 
最上郡戸沢村仙人堂の紹介。
http://www.nenrin.or.jp/yamagata/park/ttabi09.html

戯曲「清悦物語」(佐藤弘弥作)
http://www.st.rim.or.jp/%7Esuccess/kaison_play.html


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最終更新日 1999.11.07
         2003.10.06 Hsato