清 悦 物 語
 
 

「栗駒物語第二集」より

はじめに

判官森は栗駒小学校の後山で、枝振りの良い松の古木のあるいかにも旧跡らしい森である。この森には高館の合戦で自害した義経の墓だといわれている高さ一メートル位の石作りの五輪の塔が建てられてある。

近年義経ブームにのって此処を訪れる人々が多く、遠く秋田県より毎年、焼香に来る人も居る。又少し古い事だが北海道の人で、義経の研究家吉田徳太郎が、この墓の発掘願を提出したのに内務省は「許可せず」と回答して来たので発掘は出来なかった。

清悦物語では義経の葬礼所であるといっている。高館の合戦では弁慶以下ほとんどが戦死したのに常陸坊と清悦と外に近習二人の四名は命令により後始末のために生残り、平泉の山中に棲息し長命を保ったといわれる。伊達政宗の第七子柴田郡村田城主伊達宗高の小姓小野太左ェ門が清悦に聞いたのを書いたのが清悦物語りであるという。だが中国の暦書である「東方朔」がその底本と思われる。

この物語は沼倉桑畑千葉信夫氏の蔵本(天明二年十月写本)による。千葉光男


 

本 文

奥州衣川の合戦の次第を清悦と云える人は、高館の御所に籠城せられ、義経の御供致し、御合戦に数万人討死しけれ共、清悦と常陸坊この外近習二人、以上四人生き残り、清悦は寛永七年の夏まで存命し、平泉に住みおり、清悦をよく知りたる人は、村田御そうし右衛門太夫様にて、小姓なりし小野太左衛門と云いし人なり。清悦を兵法の師匠とし、元和二年より七年まで六か年の間附添いし故、高館落城の次第を委細に承わり、記しおきたるなり。

一 或る時中納言正宗、清悦を召し出され御尋ねしけるは、「其の方久しき人と聞き及び、これによって義経之御手跡持たるる由、御一覧致したく」と仰せられ候へば、「畏し」と申し、赤漆にて塗りたる匣の内より、義経の御直筆を取り出し、御目にかければ、政宗御座所を少しおりさせたまいて、御らん成され、「さてさて珍らしき次第」とて、清悦に所領下さるべき由仰せ出さる。清悦「有りがたき儀に候へ共、是程の年の上に、何の用にも立ち申す事もなし。其儀は、平泉に心安く罷り在るが深き御恵み」と申し上げれば、重ねての御意もなし。其の後も度々めされ、古昔の事御尋ね成されしとなり。

一 清悦に太左衛門問うて、「何として御命久しく生きさせたまうや」と云う。清悦答えて言う。「我二十ばかりの年、義経公の御供仕り奥州に下り、高館の御所におわす折節、六月上旬の頃、其の時の衆二人某と三人、衣川の水上へ釣をたれに行く所に、亦川向いにても山伏一人木の下に腰をかけて釣をなす。互に物語などをし、『さて御辺は如何程つられ候や』といえば山伏『数多く釣りたり』と答え、清悦云いて、『早晩鐘になる帰ろう』といいながら、『何ぞ給わらば然るべき』と云えば、山伏答えて『我等の宿所は、此の向の山下にて候間、御いであって何ぞきこしめされ候え』と云うによって、彼の山伏と同道し、三人の者共山中まではるばる行きて見れば、大きなる屋形あり。則ち入りて見れば、金銀をちりばめ、心言葉も及ばざる次第なり。休みおりて、障子のすきまより料理するを見れば、かの山伏一人にて、皮もなき魚の色は朱の如くなるを料理して、その肴を膳にすえ出す。飯は湯漬なり。その肴殊の外赤くおそろしき体なり。残り二人は喰わず、此の清悦ばかり食するなり。其の味世に類なきうまき物なり。清悦云うには、『この肴の名は何と申しますか』と問う。山伏答えて云うには、『この魚をばにんかんという』と。とかくする間に、日も暮方になる間に、三人の者『御馳走かたずけなし』と暇乞して高館へ帰る。二人の内一人はかの肴を懐中して、家中の者の娘に喰せしが、その娘天正十年の秋まで長命して、平泉に住居する」と清悦かたるなり。某もその肴食する故か、かくの如く長命す』と語りしという。

一 秀衡の子供錦戸太郎国衡、同次郎泰衡兄弟の者共、義経公へ心替りの事、御因果と申しながらも、万事弁慶の沙汰悪き故なり、兄弟一門の者共御所辺を馬に乗り通るを武蔵(弁慶)見て、田舎士ども天命を恐れず、君を軽しめ緩怠によって、族を重んじてかようの者を見るならば、一長刀に切り落すべし、と諸人の前にて度々申すなり。秀衡死去の節、先世の定りとて秀衡家の惣領を、次郎泰衡がこれを継ぐ。出羽の国をば、君の御馬の草飼所に秀衡遺言により定まり、それより錦戸太郎いよいよ恐怖のように見えける。弁慶などは、浪人の身として我等の前にて跪くべきなれども、さがりてに下馬とがめをするといえる折節、鎌倉殿(頼朝)より長崎四郎御使として、奥の一統は何とて世になき義経に思いつき、頼朝に敵すること謂れなし、早く悪心をひるがえし、義経が首を斯って関東へ捧げるものならば、下野上野甲斐信濃ならびに武蔵を相添え、一々望みのままに取らすべきとの御諚なり。錦戸太郎国衡と泉の三郎を召しよせて、此の御状を拝見し、急ぎ御返事申し上げべきという。泉の三郎答えていう。この御談合には、某をば御免候へとて、座敷を立ち宿所へ帰り、女房にかくと語り、兄弟何れも同心なり。又秀衡かくあらんと御最後のとき、君へ心替り申しまじくと、兄弟に起誓文三枚かせ、一枚は灰に焼き水に入れ一々呑ませ、一枚は松島の御宝殿に納め秀衡が棺の内へ入れ、これ秀衡が依頼なり。然る所に未だ百か日も過ぎさるに、親の遺言起誓の罰、天命いかでか遁るべきという。女房この由を聞いて、君は何としておらせたもうべき、自ら女の身なりとも御所へ参りお供申さんという。定めて今夜御所にや参らんずらんとて、泉譜代の侍二、三十騎高館殿(義経)へ御加勢に参る。高館の御門は三重に立ち、大手の門の内へ忠衡が加勢入れおきて、御所の内へは入れざりけり。ややありて、泉が城へ二千騎押し寄せるを見て、泉よりの加勢ども、泉が城へ引き返す。この軍と申すは、泉に遺恨あるによってなり。判官殿(義経)に逆心の軍なりければ、大事と武蔵思案する。然れ共義経、泉を見つけよと、頻りに云いけるゆえ弁慶力及ばず、百余り騎を引き具して、駒を早めて乗りけるが、御所へ敵入るならば、取り切られては叶わずと、途中より御所へ引き返すなり。

一 泉が城の戦いは、舅兄弟甥従弟なれば、他人よりも恥かしく、少しも退かず押し返し押し戻し、十六度の戦いなり。泉夫婦は軍半ばより切っていで、散々に切り亡ぼし、城中へ引きこもり、夫婦もろ共に自害し、落城す。義経が云うには、忠衡をとどめて御所へ引き入るならば、奥羽両州の士て忠衡に属すなれば、錦戸兄弟心替りするとも、これに同心はあるまじき事なれば、弁慶無分別と申すなり。

一 鈴木三郎重家記州よりはるばる平泉へ下る事、文治四年四月廿八日衣川の大蔵坊宿所に着き、弟亀井六郎を御所より呼びよせて対面す。御合戦の日二十日前より高館に籠城の士三百七十五騎、この内信夫の佐藤三郎兵衛が子鶴若丸、義経公の御下向の節、佐藤三郎義信になしたもう。同弟四郎兵衛が子をば佐藤四郎義忠になされ、雑兵三千八百七十三人と記せり。関東よりの御代官長崎の四郎、十五万騎にて五十日以前より段々に下り、白川より大崎葛西郡中へ陣を取り、文治四年閏四月廿七日に惣勢押しよせ、岩井川より長部山の腰を引き廻り陣を取り、太田山口中村より長崎四郎が陣所と聞えける。奥州勢廿七万騎にて照井兄弟の者共大将にて下居の大門より仙台野か原、ぎおん林の山の腰、中尊寺の洞方々に取りける。

一 明る廿八日の寅の刻に長崎の四郎大将にて、二十五万騎を先となし、大手の門より押し寄せる照井太郎兄弟は、奥羽両国の勢廿七万騎を先として、搦手の門へ押しよせる。然る所に、錦戸兄弟は出でざるなり。互に陣にむらがって矢合わせする所に、卯の刻半ばの時分、伽に北上川の水海へは流れずして、衣川と一面になり、高館の御所へ津波の如くよせ来る。その津波に背筋丈一丈位計りの大蛇は背中に乗せて北上川に入り、大手の門は衣川の水にて、地形早くも埋まりて関東勢の半分過ぎは津波にとられ、半時ばかりにて津波は引き陸地になる。
亦惣勢よする所に、二番の大波よせて関東勢奥羽勢共に過半波にとられしが、二時ばかりにて大波ことごとく引き陸地になる。
然りといえども津波に気遣して勢寄せざりし所に、未の半ばより惣勢再び寄せ来る。御所方より亀井六郎始め二三百人、大弓の上手櫓の上に馳せ上り、よせ来る敵を待つところに、照井太郎兄弟からめての門近く乗寄せるを、亀井これを見て照井兄弟を射おとす。これを始め表に進む兵五百騎ばかりを射おとす。敵は大手を引き退く、その時弁慶切って出る。鈴木兄弟の三大将雑兵二千余を先立って切でれば、義経公も常陸坊江田源蔵熊井太郎肥前の平四郎佐藤三郎同四郎を御供にし、雑兵共千四五百人を先として、白旗をさし揚げさせ、太鼓を打たせ拍子を以て敵勢へ切り入らせたまえば、衣川の大蔵坊と申すは、義経公始めて御下向の節より、秀衡の枕のはかせにつけたまう。首尾によって侍五十騎雑兵五百余人にて、関東勢の横合に切り入れば弁慶鈴木兄弟は力を得て、二百余にて声をかけ、関東勢を追いかけ、三手が一つみもみ合い、はんかい張良が勇をなし、未の刻より戌の半ば迄、すでに軍は十七度、敵の大軍にうたれて引き退く。明る廿九日武蔵坊兄弟思い思いの名馬に乗って、それそれ特意の得物を取り、切って出ずれば、義経公も搦手へ御出であれば、義経の御事はすでに異国にまでも聞えまして、昨廿八日の戦に敵勢多く討たれければ、天命恐るべく大手からめ手引き退くを、弁慶鈴木兄弟一つになってかけ廻る。判官も追いかけたまえば、大蔵坊は小勢なれ共関東勢を断ち切りたり。三つが一手にもみ合、御所方一騎に関東勢五十騎に向って切りたりけり。辰の刻より申の半ばまでに十七八度の軍なり。この勢に恐れつ、敵は方々へ引き退く、義経公を始め三大将も御所へ入り、御勢を改め御覧あれば、侍百七十騎兵千八百余人討死する。敵も昨廿八日の勢に見合わせては千分一と見るべし。

一 明る晦日になりければ、武蔵坊云いけるは、今日ばかりの御合戦なり、君を二度おがみ申す事あるまじ、二百五騎の者共に御盃をと願いければ、義経公も尤と思し召し、則ち御盃を下されければ、これ迄と弁慶は元結を切って御前におき、山伏のようになる。鈴木兄弟その外思い思いに出立し、衣川の大蔵坊も一所になって、関東勢へ切ってかかる。御所方の軍兵いずれも必死と思い定めしことなれば、十騎が関東方百二百騎にかけ合いて一足も退ぞかず、えいえい声をあげて押しかけ押しかけ切って入る。午の刻より申の半ばまで、すでに軍は十三度と思うところに、敵の勢も二三騎に討たすなと思えば、御所勢もむざんに討死しますとす。中にも弁慶は、大事の手を負いて御所に入るべきようもなく、衣川の中の瀬に立ち死を遂げにけり。鈴木兄弟も亀井いたでを負いて、搦手の御門より杳西の小高き所へ引きあげて、一所に腹を切る。義経公につき添う者とては、この清悦と常陸坊とその外近習二人、以上四人御供申して御所へ入らせたもうなり。

一、判官へ兼房申上げるは「只今御前も、御二人の若君も御生害」と申せば「御心安く」と庭の石に御腰をかけさせまいて、金念刀で御腹を十文字に切られました。兼房は御命令でありますからと、御前に進み寄り御首を打落しそして兼房も腹十文字に切って臓をつかんで繰出し、義経の御首を腹の中に入れ、きぬをもって腹をまき、清悦と常陸坊近習二人にて、御所中に火をかけ焼きあげる。文冶四年閏四月廿八日より同三十日迄三日三夜の戦にて、高館の御所落城なり。時にあう春の花、秋の紅葉とかく、移りかわる形勢なり。衣川の流れ千々里迄も紅の如し。高祖頂羽の戦もかくあらんとおもわる。

一 生き残る者右申すが如く、某と四人ばかりなり。今時弁慶を絵に書くに、色黒く山伏のように書くこと偽なり。色は白くよき人の体なり。弁慶は両のかいなに筋金を渡したるが如く、毛三通りくみ生いたり、目に肉あり。弁慶を山伏の様に絵にかくことは、最後の節髪を元結きわより切り、君の御前において合戦に出たるを見て書きたるかと、清悦語りき。

一 清悦へ問うに、答えて曰く、義経公の御頭関東へ捧げたれば、頼朝公涙を流きせたもうと承わる。畠山云うには、判官御頭の御口の内に物を入れたるように見ゆるとて、こうがいにて御口の内を見れば、状あり、頼朝公これを御披見なり、いよいよ御涙をながさせたもう。今の世にもてなす含状これなり。頼朝公畠山へ云いけるは、科もなき義経を梶原がざん言にて空しくなす。梶原父子が首をはねよと、御諚を以て、同じき年五月十三日に梶原父子誅せらる。五月下旬鎌倉殿は義経の御葬礼所を、大崎殿在所三迫の内沼倉に定むる。大崎殿御前方は、義経公の伯父なればなり。義経公の御死骸御興にて、頼朝公御騎馬にて、沼倉においての御葬礼弁慶鈴木兄弟佐藤三郎義信同四郎義忠條の源蔵熊井太郎肥前の平四郎房十人、義経の御葬礼同前の御葬礼なり、さて頼朝関東へ御登り、同七月十九日に御上洛あって、征夷大将軍に任ぜられたまいて、同十月二十五日鎌倉へ居住有り。

一 文冶五年七月十九日に将軍頼朝公奥州へ御発向なり。その勢二十万余騎、これ秀衡子孫誅伐のためなり。錦戸太郎国衡八月十日に誅せられ、次男泰衡は九月三日に誅せらるるなり。然るに仙北の次郎囚となれり。頼朝公御使をもって、何とて奥の一統は我に合せて三十日の内にかけ負けたるやと仙北の次郎に御尋ねなれども御請は申さず、結句悪言を云う時に、最前よりの御請仕らざる儀は、上使なれども士が特にもの申すに、立ちかかり申し聞ざる故なり。柴田殿の聞きたもうには、左馬頭義朝公は、源平両家にして日本国を半分つつ持つ。然る所に大賢門の軍に三日三夜にてかけ負け、尾張の国ぬまの長田が宿所に落させたもうに、秀衡が一族なればこそ、日本勢を引きうけ三十日は戦いたりと申す。そのおもむき頼朝公聞し召し、よくも答えし武士の手本とて、縄を許され、先祖の領地相違なく賜り、仙北へ帰国す。文冶五年の冬より天正十八年迄四百六十年の間知行す。同十八年に太閤秀吉公、相州小田原北条の門族御誅伐とて、日本の諸軍勢小田原へ相詰られ、仙北は病気故、家老を代官としてさし遣わす。御合戦終って上洛す。その科によって仙北より西国へ配流になる。家老に仙北を賜わり慶長六年までは、仙北秋田を知行せしが、同七年に仙北を所替、岩城の内宍戸を知行となす。今の宍戸の領主秋田城之助と云いしは、仙北が家老と、清悦は語りけり。

一 問うに清悦答えて云うに、常陸坊は未だ息災にありと語るといえども、証拠なければ如何あらんと疑う。然るに常陸坊仙北にて死去す。その証拠には、義経の御手跡御判にて常陸坊に下されしを、小さき箱に入れ、上を竹の皮にて包み、昼夜油断なく首に顕わし申し候。死去の時その箱を宿におき候を、あけて見れば、義経公の御判常陸坊へとあるによって、常陸坊とは知り申すなり。清悦死去も常陸坊死去も寛永七年と云う。了
 


 奥付

「栗駒物語第二集」
栗駒史談会二十七周年記念号

昭和六十三年十二月 発行

発行者
栗駒史談会
宮城県栗原郡栗駒町岩ヶ崎上小路五〇
佐藤 寿 方
栗駒町史談会事務局
電話(〇二二八)四五−一一九九
印刷所
山本印刷所
宮城県栗原郡栗駒町岩ヶ崎六日町四三
電話(〇二二八)四五−一一〇九



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