春の骨寺を歩く

2003.3.22

1 本寺橋から栗駒山を見る

3月22日、春分の日を終えて、やっと奥州にも、遅い春が来たような穏やかな日だった。玉山の栗駒ダムを横に見て本寺に向かうと、赤い本寺橋で車を止めた。青い瞳の色をした磐井川が、雪解け水を欲しそうに、静かに流れている。遠く栗駒山を見上げれば、神々しく凛と聳えていた。

本寺の橋から見ゆるふるさとの山に向かゑば柏手のでる

平泉野の本堂のあったと思われる嘉祥寺参道は、結局雪の為に登ることが出来なかった。そこで、平泉野の東の玄関とも言うべき駒形神社に参拝した。ふいに神の使いか、鷹が境内から飛んできて、我々の上を「よくぞ来たな」というように三度舞って、磐井川の彼方に飛び去っていったが、実に荘厳な姿であった。この駒形神社に向かって左横の道を峰の山道真坂というらしい。この道は、平泉野の奥の院に続いてたと思われ、これをずっと行けば、最古の官道の旧志和街道に当たる。

2 本寺の駒形神社

ふるさとの古社に残れる根雪すら美しかりしいつくしの村
 
 

3 駒形神社から現れた大鷹

駒形の神の化身か大鷹は宮から出でて大空を舞ふ

この駒形神社(古地図では六所宮と言う)の東に、本寺川の清流が流れているが、この辺りを駒形、古くは柳の里と呼んだらしい。駒形神社の前の道を200mばかり北に走ると、骨寺古地図で、「ミタケ堂」か「ミタチ堂」かと論議のある場所に突き当たる。私は「ミタチ堂」で、安倍氏か清衡公かの居館があった場所と思うのだが、まだ何とも言いがたい。

その「ミタケ堂」跡の前の小道をせり出した山の稜線に沿って、東(左)に向かうと、撰集抄に登場するドクロの慈恵大師に法華経を教わって、尼になったという女性が建てた尼寺の跡があったという辺りに行き着く。この辺りの地名は要害(ようげ)といい、平泉の寺が、現在の平泉に移る時に、仏像・仏具などを運んだという古道の跡が、山の中に伸びていて、アジヤ沢からは、雪解けの清水がしみ出すように流れていた。
 
 

4 味が沢の清流

味が沢しみ出すように流れ来る雪解け水の甘さ冷たさ

またこの付近には、三吉山という標高306mほどの山とその東には、金鶏山と形の良い山が連なっている。丁度三吉山と金鶏山の中間の丘に、平泉経蔵初代別当の自在坊蓮光の西谷坊の跡と思われる廃寺の跡がある。今は、山野の草間に隠れて、雰囲気はあるが、発掘をしてみなければその全貌は掴めないであろう。
 
 

5 寺沢の廃寺跡から金鶏山を見る

残雪の斑に残る寺沢のいぐねをぬって金鶏山見ゆ




道なりに行けば、結局、先ほど駒形神社の前で、後にした本寺の流れと再び出会うことになる。本寺の古地図を開いてみれば、この道の配置などは、古地図とほとんど変わっていないようだ。この道が、本寺川と合流する前の辺りに西行の庵が結んでいたという伝承があるらしい。もちろん土地の伝承で事実かどうかは分からない。ただ、確かにここから白銀の栗駒山を拝み見るにつけ、なるほど、誰でも、こんな栗駒山を見られる辺りに庵を結び、朝な夕なに霊峰を拝み、春夏秋冬その移り変わるみ姿に手を合わせたいと思うものだと思った。
 

6 西行の庵の跡付近から栗駒山を望む

西行の庵を尋ね来てみれば春野に白く駒嶽御座す




栗駒山から目を右手前に転じると、尖った形状をした山王山(標高573m)が見える。厳美村誌によれば、その昔、三美女神(市杵島姫命、奥津姫命、田心姫命)を祭り、厳宮大明神、麗美宮(いつくしのみや)ということだ。この地で、ヤマトタケルの尊がエミシの酋長を討ち取った場所と伝えられるのは、駒形根神社の、由来と同じである。その後、嘉祥三年(850)に慈覚大師が、エミシの土地を仏教による教化を願って、この地に釈迦仏の化身として、山王権現のいくつかの木像を彫ってこの窟に安置したことになっている。しかし山王とは、そもそも唐の天台山の守護神であり、神仏混淆を説く天台神道が確立したのは近世以降ということであるから、この山王山の慈覚大師開祖の説は無理があると思われる。
 
 

7 上の写真から少し目を栗駒山の右手前に移すと尖った形状の山王山が見える






さてそんな由来話はともかく、田んぼの土手の形を見ていただきたい。丸くて良い形をしている。そこに根雪が見える。昔の田んぼは、地形に合わせて皆このような形状だった。最近では、機械化が進み、農地改良ということで、田んぼを、ただむやみに大きく又四角にして、農機械が動きやすいようにする傾向にあるが、本寺の懐かしい田園風景を見ながら、改めて日本人が長い歳月をかけて造って来た年輪を見せられる心地がした。実に好い景色だ。
 
 

8 栗駒山を背に東に不動岩方向を見る

今度は栗駒山を背にして東に目をやれば、本川の川の投げれの向こうに不動岩が見える。この付近ではかつて僧侶たちが修行のために野宿をした跡がたくさんあると言われる。また大石窟という名の窟がある。不動岩の向こうに、撰集抄で有名な慈恵大師の塚の跡との伝承がある逆柴山が微かに見える。考えて見れば、この地域は、エミシと大和朝廷が、熾烈な戦をした場所であり、双方の犠牲者を葬った霊場とも考えられる。しかも、ここから悪路王伝説で有名な達谷窟までは、直線にすれば、わずか7キロほどの距離となる。
 
 

9 国道342号に出て北に若神子社の跡を見る




西行の庵跡付近を後にして、細い道を南に下って国道342号に出た。そこにバス停があったが、その停留所の名は「塚」というものであった。どのように考えてみても、この地帯は死者を弔った場所ではないかという確信が強くなってきた。国道を東に少し進むと、左手に若神子社の跡(古地図では

本寺川は、このまま山並みに沿ってしばらく進み、不動岩の手前を右に流路をとり、国道342号と交わる。ここで磐井川と合流をするのだ。骨寺の古地図と比較すると、川の流路は、若干変わったように見える。昔はせり出した山の麓を進まず、ほぼ真っ直ぐに流れていたようだ。

そしてこの辺りを吾妻鏡が記している東の境界「鎰懸」(いつかけ)ではないかと推定される。ただ私は、この「鎰懸」の字は「鈴懸」(すずかけ)の読み違えではないかと、思うのだがどうだろう。鈴掛は、」「篠懸」とも書き、山の修行者たちが、深山の篠(すず=細い竹の意)の露を防ぐ麻の衣のことで、篠懸衣とも言う。もしもこの「鎰懸」(いつかけ)が正しいとすれば、この辺りは山が川にせり出す狭隘(きょうあい)な地形であることから、敵方に対して、矢を射掛けた場所であったから、音便変化して、「いつかけ」となった可能性もある。

あるいはこの付近に「篠懸の木」が生えていたことも考えられる。この「鎰懸」の地名解釈については、大石直正氏(東北学院大教授)の魅力的な先行研究がある。それによれば、昔、「鎰懸」の神事というものがあり、それは山に入る者が、神木に木の枝を投げかけて、神に手向け、併せて己の運気をも占っていたというものである。確かにそうやって古地図を見れば、鎰懸の字の下側に高い木のようなものが描かれている。つづく
 
 

  

9 逆柴山の拝殿入口
 
 


 

10 逆柴山をどうしようというのか参道を設えるのか、雑木林は刈られ山の地肌がむき出しであった






 

つづく



史料

○吾妻鏡、○文治五年九月十日の条に。
(頼朝は)・・・「経蔵領の境界である東の鎰懸(いつかけ)、西の山王の窟(いはや)、南は岩井河、北は峯の山堂の馬坂まで、
所領安堵の御奉免状を下されたのでした。逃亡した民百姓らは、ただちに土地に戻るべきとの命令を出すよう
に言い渡され、これを散位の親能に執行させた」(現代語訳佐藤)

平泉雑記 相原友直著 骨寺

封内風土記 田辺希文著 五串邑 (読み下し 佐藤弘弥)

平泉志 高平真藤著 骨寺 五串邑


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2003.3.23 Hsato