平泉志巻之下


旧一関藩教成館學頭 故高平眞藤 編

     編者離孫 菅原直諒 増注

 
 

関山中尊寺(かんざんちゅうそんじ)
一山の境内東西十七町三十間南北十三間、東は官道を限り、西は戸河内村(へかないむら)、南は平泉村、北は衣川村の境を限る。即ち中尊寺村にして、近時戸河内村を併て、衣関(きぬとめ)村と改名せしも、再び戸河内村を別にして、旧に復せり。此村界寺地の外は、今の桜川橋辺より、北上川に沿ひ衣川を過て、徳沢坂愛宕社後に限り、西は官道、衣川を限る村中に瀬原と云ふ地あり。此村をも昔時、衣の里と称せし事、開巻に云るが如し。地勢東は、高舘及び平泉舘に対し、又東山の連峰逶(る)いとして北上川の長流滔々たり。西は山隘(やまあい)に関門の古跡あり。右は道路を顧み、左は近く月山の清峙連台野の高原に隣(つらなり)り、遠く駒ヶ嶽の秀峰を望み、南は鶏足の洞鐘(どうしょう)が岳より、毛越寺達谷に接し、北は琵琶柵の旧廬衣川の流水を負ふ山地を漸々登り、深奥に入る四隅を老樹圍(囲)り静幽絶塵(せいゆうぜっちん)の浄域霊区たり。抑当寺は、五十四代任明天皇の御宇、嘉祥三年釈円仁(野州都賀の人、貞観八年七月謚(おいくりな)を慈覚大師と賜ふ)の開祖なり。円仁嘗て比叡山に往し時を以て法杖を曳き奥地を跋渉(ばつしょう)せられ、此に当山の浄地を検し、其中央に龍宇の堂をを創建ありて、本堂となし、弘台寿院と号し。かくて仏像を手刻し、如法経を書写して、之を安置し、又当山の鎮守として、南北に日吉白山の両社を勧請あり。是寺堂創建の本原にして時の陸奥守藤原興世資財を投じて社堂を修造す後に野州大慈寺の僧栄信大師の法蹤(ほうしょう)を慕ひ来り。宝器及び修法を伝て留寓するに及び、二十余人の土民、大師の教化に感じ落髪し、栄信と共に、法灯を授く。五十六代清和天皇貞観元年に中尊寺の号を賜ひ四境を定めらる。七十代後冷泉天皇の御宇天喜五年源朝臣頼義、安倍貞任を征伐の時、日吉白山両社を衣の関、月見坂に於いて、拝し戦利を祈願せられ、凱旋の時、髪(ママ)尻朝臣小前沢の両村(胆沢郡の内)を寄付せらる。七十三代堀川天皇の御宇長治二年、藤原朝臣清衡に当寺を経営すべき旨の勅(みことのり)あり。同二年『寛治六年に工事を創むの説あり』二月工事を創し堂塔四十余宇僧坊三百余宇、天仁二年に其功竣(おわ)るを以て、即ち鎮護国家の霊場たるべしとて、勅願所となし給ふ。中央の山上に、最初院(釈迦多宝像を安置す)を創造し、次ぎに大金堂以下の堂塔を建立して、七宝の荘厳を尽くし、林園を開き、築垣(ちくえん)をめぐらし、泉水を湛へ、橋梁を架して、修理至らせる所なし。

(東鏡に寺塔四十余宇禅坊三百余宇、清衡六郡管領の時、之を草創す。白川関より、外が浜に至り、行程二十余箇日。其道路一丁毎に金色阿弥陀像を圖畫せる笠卒塔婆を立つ、当国の中心を計り、一塔を山頂に立て、寺院の中央に多宝寺あり云々。中間関路を開き、旅人往還の道と為すとあり。山号の関山は、之に由るべし。衣関の條下に詳なり)

『中尊寺号…陸奥郡郷考の記事に曰く…中尊寺縁起に清衡の時、白河の関より外ケ浜まで、一里毎に弥陀を圖せし卒塔婆を建て、その中央にあたる故、寺号とすと載せたりとあり。同寺の縁起書に二種の記事あるはいぶかし。いずれか誤なるべし。白河以北、外ケ浜迄は、二十余日の路程と、清衡之を定め、鎌倉京都間の飛脚行程を、文治四年十二月頼朝七日と定めたり』

七十五代崇徳天皇御宇天治三年三月二十四日、按察使中納言顕隆卿を勅使として、大伽藍堂塔を供養し給ひ其願文を納めらる(此時、白河天皇法王も仙洞に座せり。是に於て堀川天皇、鳥羽天皇御願寺とし給ふ)基衡秀衡尋て、堂塔坊舎を増建す。山谷に軒を列ね甍を並べ、殿宇楼門光彩、赫耀(かくやく)として真に海内区恣意の仏界民心帰向の霊場なりき。文治5年平泉没落後、頼朝卿より、自社領安堵の御教書を下され、其後、鎌倉家及時の国守よりも保護あり。本堂の傾廃を興し、修理を加へしも物かはり、星移りて、諸堂の甍瓦(かわら)破壊し、雨漏れ、柱梁を朽腐(きゅうふ)せしかは、山徒ここに精力を励まし、或は鎌倉府に訴へ、修造を謀るといえども、時に都鄙擾乱(とひじょうらん)に際し、果たすこと能わず、かくて建武四年火起こり、原を焚き、その猛焔烈風に乗ずるを防ぎ得ず、惜むべし。峻宇高門は更なり。昆玉麗金の宝什を蔵せし府庫に至るまで、急ち烏有(うゆう)となり、その負擔(担)奉遷して、火難を逃れし仏像多しといえども、たまたま残れる堂宇は、只経蔵金色堂の二宇其全を存するのみにて(経蔵は二階なりしか上層焼失せり)禅院僧坊も亦遺れる者少し。金色堂は正応元年鎌倉将軍惟康親王、此堂の常に雨露に涸れ、金装全く剥脱せん事を惜み給ひ、保存の為に、覆堂(ふくどう)を造立ありしか、其まま残れるなり。寺領は、天正年間豊臣関白時代まで、七ケ村の朱印地を賜ふ伊達政宗卿受領後、寛永の初年に、後水尾天皇勅して金色堂の破損を修理せられ給ふ。伊達忠宗卿に至り、当寺の境内を定め、更に若干の寺領を附せらる。近代、衆徒社堂の荒廃を嘆き、伊達家の庇蔭(ひいん)を抑き、協心戮力して、絶たるを継ぎ、廃れたるを興して、旧趾遺礎(きゅうしいそ)に本づき小祠仮堂(しょうしかどう)数宇を建立そ、神仏を奉安す。当寺全盛の古図と称する物ありて、詣人老少肩摩雑沓の形勢を模せり。此図、風装短襖(ふうしょうたんおう)を着る者などありて、けだし後世に出づといへども当初堂塔伽藍、未だ全かりし時態を追想すべし。今尚山祭に其形迹を遺し、平日観客の杖履(じょうり)絶ゆく事なく、遠近伝称す。抑社堂に神仏を配祀せるものは、古来の習慣の然らしむる所なりしか。維新の改革に由り、分祀に帰し、亦寛文以後、東叡山の直末(じきまつ)なりしも、比叡本山の直末に復せり。明治九年の秋、聖駕東巡の時、畏くも、当山に臨幸あらせられて、古堂宝什を始め旧楽に至るまで叡覧あり。岩倉右府をして永遠保存に注意すべき旨を、懇諭(こんゆ)せらる。今や千歳の下此盛時に遭遇して、無涯の恩栄を受く。実に一山の幸福なり。
 
 

鎮守社(東鏡に鎮守じゃ南方日吉を崇敬し、北方に白山社を勧請すとあり) 

白山宮
金色堂の東北にあり、仁明天皇の御宇、嘉祥三年慈覚大師の勧請にして加賀の白山を分祀し、白山権現と号せり、即大師の作十一面観音を本地仏とす。配仏正観音は運慶作にして、樋爪(ひずめ)五郎孝衡の持仏なり。毘沙門天は、源義経の持仏なり。宮殿は、竪横六尺。奥行一尺六寸許。徳治三年の建立にして、白檀那法橋実源と記名あり。嘉永二年焼失に罹り、今の社祠拝殿は、同六年伊達家の再建なり。維新後、改革に由り、村社白山社となり。(一宮社白山姫神社伊弉並尊) 仏体を他堂に遷座せり。旧別当は法泉院なり。

 古祭式
白山社祭礼、古来毎年四月初午未の両日なり。午の刻に殿内に山吹一束枝葉一尺許を納む。次ぎに獅子舞あり。伝て白山社、遥迎式(ようげいしき)と云。此獅子舞は、北條時代の寄付也とへり。次に御一個馬(おひほま)と称し、衆徒中男子の七歳なるを選び、二十七日、潔齋(けっさい)をなさしめ装束して、腰に芦葉を挿(はさ)み飾馬に乗る。(口附二人)笠上に月日象を戴く供奉(くぶ)六人、各造花を立てる。笠を着け、長刀小太刀、脱沙兎(はりぬきうさぎ)を持つ。金堂趾より乗馬し、社前にて下乗し、造花を四方に投散し、馬を急に牽還(けんかん)す。この馬の嘶くを以つて、凶兆とす。次ぎに舞台にて、田楽あり。胡桃木(くるみ)の皮にて方平に二尺余の網代を組織そ。四辺に七五三(しめ)を下げ、上に造花を立たるものを笠にし、太鼓を首に懸け、敲く者あり。簓(ささら)を鳴す者ありとて、八人鼓吹して囃し拍子して舞踏す。次に開口式あり。装束して老翁の仮面を被り、立ちながら、四方に向ひ、一山の縁起風景を頌(しょう)す。次に祝詞の式あり。がん袴の装束して、幣帛(へいはく)を持ち、社に対ひ当社の由来を演べ天下泰平国家安穏護国成就君民息災を祈る。次に若女の舞と云ふあり。少女の仮面を被り、鈴と扇とを把て舞ふ。次に老女舞姫の仮面を被り、腰を屈め舞う事同じ。次は能数番衆徒各其役を務む。始に衆徒輪座転経あり。奇古の祭儀往々沿革し、今猶舞台を営し、能楽を修せり。
『剣を持ちて舞ふをけんぱいと唱え居れり』

 姥杉 (社頭にあり、囲4丈八尺枝幹、朽残り木香伽羅の如し。往時炬(ママ)香となりて、後水尾天皇に奉献したれば、其名を千歳と賜ひ御製あり)

いく千とせ齢(よわい)ふりぬる神の木か神はしら山杉の一本(ひともと)
享保の比旧領主伊達吉村卿之をみちのくとも名つけらる和香木名奇に奥州仙台光堂古杉と出たるは、是なるべし。文化元年、雷火(冬雷)に焼て、今じゃない。此杉郷説に往時本州三戸郡南坊と云う僧の手植なりと言伝へり。南宗は康元年中の人にして生前死後異状奇迹ありとぞ、康元より文化元年まで五百五十年許経歴せり。
 

山王社(さんのうしゃ)
金色堂の前にあり。同じく慈覚大師の勧請なり。釈迦三尊(釈迦は堪慶の作。珠普賢は運慶の作)を本地仏とす。配仏肉色の大日金輪(俗に人肌の大日と云ふ)『大日金輪仏今は中尊寺一山の所蔵なれり』運慶作にして秀衡の持仏とせしなり。改革に由り、仏に帰し釈迦堂となれり、別当は常住院。
 

金堂(こんどう)
旧趾金色堂に隣り、東北にあり、鳥羽天皇の御宇天仁元年清衡勅を奉じて造営する中尊寺の本堂にして、最初院経蔵等あり(此堂三間四面此三間四面は、仏像を安置せる祖法壇にして全堂の惣坪にあらず)左右回廊二十二間紫檀赤木等の唐材を以て造建荘厳を極む。本尊丈六、釈迦・文殊・普賢・小釈迦、百体及び四天王を安置すと云り。建武四年焼亡し、後、光仏二十四体残れり。
 

多宝塔 (たほうとう)
旧趾金色堂の西北にあり。二階大堂にして、長治二年清衡草創す。故に最初院と号せり。東鑑に云寺院の中央に多宝寺あり。釈迦多宝の造を左右に安置す。其の中間関路を開きて、旅人往還の道となす云々とあり。
 

釈迦堂(しゃかどう)
金色堂の北に在り。後年再興す。本尊釈迦文殊普賢は、定朝作にして、鳥羽天皇御願に依て下し賜ふ霊仏なり。別当は釈尊院なり。
 

三重塔(さんじゅうとう)
旧趾金色堂の西北にあり。
 

両界堂(りょうかいどう)
旧趾金色堂の西南にあり。両部諸尊金色木像を安置すと云り。
 

二階大堂(にかいだいどう)
旧趾金色堂の西北に在り。嘉祥二年の建立にして、大長寿院と云り。塔の高さ五丈。本尊金色弥陀四丈。脇士九体丈六と云り。
因云ふ該院号は、元塔の称号なれども、今寺号とす。一山各院の号古へ、堂塔の名を称するあり。古院の部に詳なり。
 

経蔵(きょうぞう)
金色堂に隣りて、西北にあろ。天仁元年清衡建立す。元二階のなりしが、建武四年の災に上層焼失し、其残る所修理を加たり。三間四面六尺六寸、間にして柱の高さ礎石より、一丈二尺なり。堂中八架を設け、三代寄附する所の一切経を蔵む。其函広さ七寸、長さ一尺五寸、高さ三寸三分。黒漆(くろぬり)にして、蓋に螺鈿(らでん)を以て、経巻の題目を鏤(ちりば)め、部帙(ぶちつ)を見(あら)はせり。清衡の納めしは、紺神金銀泥(こんしきんぎんでい)にして、一行交字なり。是堀河鳥羽両天皇の勅願として寺堂を建立し納むる所の経巻なり。其の一切経は、自在房蓮光奉行(じざいぼうれんこうぶぎょう)となりて、八ケ年間書写せり。(又僧侶数百名を撰て書写せしむと、悉く善諸也)其賞として、経蔵、別当に補せらる。基衡の納めしは、紺紙金泥(こんしきんでい)なり。秀衡の納めしは、黄紙宋板なり。清衡の私領の骨寺(今の本寺)其他数ケ所の荘園を寄附せり、爾来世々の国司地頭相続て、荘園を寄附し、其寄文数通を相伝す。

(一説に豊太閤此宝経を京都に召すされしが、其ままにして還し給はず。摂州天王寺に納めらるといへど、定かならず。或は畿内其他諸国に散財せるものありと云り。又、通念集山寺の條に鎮守府将軍秀衡唐朝より、請求せし、紺紙金泥とあるは、経蔵に留まる現物を挙言へるにて唐朝にて得しと云ふは、他に在るか、蓋しは蔵せるも早く散逸せしなるべし)

本尊は文殊獅子座右は、干真王(かんしんおう)轡(くつわ)を把(と)り、浄名居士拂子(じょうみょうこじほっし)を採て、其後に立つ左は、善哉(ぜんさい)童子、ごふを捧げて従ひ、仏陀波利錫杖を持て後に立てる像なり。各毘首か摩の作にして精妙比類(せいみょうひるい)なし。鳥羽天皇御願に依りて、下し賜ふ霊仏なり。(後世修理を加へり)千手観音二十八部衆、白檀像は、運慶の作にして、基衡の持仏なり。別当は大長寿院なり。

編者云、此経蔵光堂と共に遺れるは、実に古刹仏場の眼目たり。但し仏像のそのままなるは、光彩剥脱して、宛も杯朴子の如きあり。光彩爛々として見るべきは、後世修理せるもの多し然れども、金光尚古色なり。
『古昔は、財政上の偏見などより、故に古刹を焼毀(しょうき)せしめし悪風もありしなり。尤も本尊と称すべきは万難を排して避難せしむるを例とせり。今日も是に類する所業を為す者やあると聴く』
 
 
金色堂(こんじきどう)
(世俗光堂と称せり)鎮守白山社の南にあり。天仁二年清衡建立す。此堂三間四面中の間七尺二寸両脇の間五尺五寸柱高さ一丈九寸内外上下四面悉く鹿布を掛け黒漆して其地を重厚にして、金箔を貼し。金色を耀かす内部は、鐫柱(せんちゅう)彫梁、悉く螺鈿珠玉を飾り、中壇の四隅には七宝荘厳丹精の柱を立て、柱毎に十二光仏を■し、其壇上に阿弥陀、観音、勢至多聞、持国二天、六地蔵、各(おのおの)法橋定朝作。すべて十一体を安置せり。左右の壇上も亦、同じ。三壇中に藤原氏三代の棺を納む。遺骸各厳然として存在す。
中央 清衡 左 基衡 右 秀衡 
秀衡の棺側に忠衡の首桶あり。
附言
寛永年中修補の時仙臺中納言吏員に命して棺中を點検せしめられ三代死骸全き事を傳へて野乗に記せり。清衡棺長さ六尺廣さ三尺白綾を以て之を裏み剣一口及び鎮守府将軍の印璽を納む。基衡は白絹を以て之を包み白衣を襯にし錦袍を表にす。秀衡も亦同じ側に忠衡の首桶あり、高さ二尺方一尺なりと。又元禄十二年修補の時新に槨を造りて其棺を蔵む各剣三口を棺中より出す(剣の事寶什の條に詳なり)此時或物語記に云清衡の棺は黒漆にして上は総金なり。基衡の棺は朱漆なり。秀衡のは黒漆なり。忠衡か首桶も黒漆なり。棺桶共に布を掛て塗りを堅牢にせり。三代何れも死骸全く白装束錦の直依に袴なり。印璽は格別なり。皆面體常人に異ならすといへとも、長は大なり。清衡棺中に一腰紙袋一箇ありて、其内に鎮守府将軍の綸旨及び書物數品あり。基衡棺中にも太刀小道具種々あり。棺に清衡御死骸の文字を唐様にて書せり。二代も之に準す云々。
又元文三年修覆の時三代の棺を假屋に移し置き中に秀衡の棺破損して四隅放れ開けたりしか板の厚さ一寸許にて内外共に漆にて塗り上に金箔を貼せり。遺骸は皮肉骨乾固まり色薄黒くして白髪一寸許長は中人と見ゆ。清衡基衡棺は損せす此二棺は木地に金箔を貼せり。秀衡棺の側に忠衡首桶は絹一端許にて巻き包置りと府廳の尋問に依て仙臺吏員より上申せし書面に見えたり此外事疑はしきものは之を挙ず太刀は今朽錆たるか残れり鼻紙袋は靡爛して披見すへからすと言傳へたり。


此堂経蔵と共に留まり三代の榮輝を徴すへしといへとも七百七十餘の星霜を歴て斯く古色の光彩を消滅するに至れりされと雨露の為に頽廃に至らさりしは正應元年鎌倉将軍惟康親王の命を以て平貞時宣時套堂を造立し四面を圍み屋上を覆ひしを始めとして爾来時の國守其先模を繼き修理を加へし故なりけり。何れも修造の棟牌あり。之を不朽に傳ふるの功を致せり本堂の別當は金色院なり。
 

因云覆堂の背面の壁板は黄門政宗卿の戯書ありしと云傳ふ曾て政宗卿平泉巡覧せらるゝ時予此壁板に戯書すへしとあるを衆徒等承りて即ち墨汁を擂盆にたゝへ新しき馬沓を添て捧けゝれは政宗卿之に興せられ即沓を墨に浸し板一間に一字つゝ湯目民部の四字を書せらる時に湯目民部君側に侍りし故なりとそ其意ありし事にや扨文字は亨保の此まて黒色は失て青苔の中に字象は跡のみ白く残りて著かりしか年序を経るまゝに雨露の為めに其跡さへ青苔と變して悉く消滅せりと語傳へたるよし相原氏の舊跡志にいへり。
本堂の傍に石碑あり。
 
五月雨の降残してや光堂      芭蕉翁
蕉翁東遊至此地也實元禄二年巳己五月十四日有光堂詠同七年甲戊十月十二日卒於攝州浪華之旅亭勒石擬随涙碑云
延享三戊寅十月十二日雲裏坊門
 仙臺治下白英門人        山目山笑庵連中建之


編者云此詠頗る人口に膾灸す昔屋上といへとも金箔を貼せしと云ふ古色の猶燦然たるを暗雲の中に見る景況眞に想像すへし此光堂の古へ其光遠く眼を射川鮭も上らさりしと俗間に言傳へたれは宛も之を形容するか如し。
 
 

閼伽堂(あかどう)
(赤堂とも書り閼伽は梵語に云ふ水の事也)
金色堂の東北にあり本堂昔時は表坂下の北に在りき其邊に閼伽水と稱する井今も残れり。寶歴九年今の地に再建し焼亡後光堂に移し置たりし本尊不動尊二童子及び丈六彌陀薬師(運慶の作なり)を安置す。往昔光勝院と號せり別當は金色院なり。
 

辨財天堂(べんてんどう)
金色堂の北池中の島にあり。本尊及び十五童子は安阿彌も作なり。往昔最勝院と號せり別當は大長壽院なり。
 


元大日堂にして金色堂の東南にあり。本堂及び十五童子は運慶作、大日は慈覚大師の作なり。別当は利生院なり。
 

大日堂(だいにちどう)
金色堂東南にあり。本尊大日慈覚大師の作なり。別当は金剛院なり。
 

千手堂(せんじゅどう)
(清水堂とも號す)金色堂の南にあり。慈覚大師の作なり。洛陽清水寺の霊像を模せり。堂傍に霊水あり。別当は観音院なり。
 

観音堂(かんのんどう)
閼迦堂古跡の上にして、月見坂の邊にあり。故に閼迦堂観世音と称せり。
 

薬師堂(やくしどう)
金色堂の東北にあり。元峰の薬師堂にして其舊蹟は金色堂の南に当り鶏足洞『鶏足洞とは天笠に於て加葉尊者入定の地を移しける場所なるより其浄名を取りて此地に名づけし也』の東北にあり。本尊金色の丈六薬師運慶の作なり。彌陀、観音、勢至、檀金の三像は清衡の持佛なり。舊堂荒廃の後天正の比佛像を失いしが、再び出現の時至り。霊夢の事ありて延寶九年八月五日此堂跡を堀りしに、其像土中より出ければ、今の堂に之をも配安(はいあん)せり。龕(がん)は伊達家より寄附なり。三尊の記あり。別当は願成就院なり。『東磐長部村に峯薬師堂と称するあり、本堂の分派なるや否や創建の年も詳かならず。又中尊寺善逝堂とて、上衣川村にありて嘉祥年中慈覚大師之を建つと云ふあり。又妙見山黒岩寺に平城帝大同年中に建立の峯薬師堂なるものあり』

八月四日晝七ッ下り、中之坊平内薬師堂跡(なかのぼうへいないやくしどう)近所にて彌陀三尊中尊者一尺四寸脇佛二体九寸八分堀出申候覚

一、右佛永根坊門前之長蔵と申者、同五日之朝五ッ時、三尊共に御佛もり申候て参り候。拝申候得者、不及言語見事成金色之御佛に御坐候間。長蔵に品々相尋申候得者、薬師堂跡の並小社之跡御坐候所にて、わらひのねほり申候處に、右之御佛一体ほり出候處に、鍬之跡より五色のにち立申候故、おそろしく存候て、しばらくやすみ居申候、又くれの下に大き成ひかり見へ申候故、又ほり申候得者、右三体ほり出申候。右申通にちの様成物立ひかりかがやき申候故、おそろしく存ほり出し申事、あやまりに罷成かと存候て、其夜は則堂跡に指置申候て、兎角中之坊寺内之事に候て、門前与五右衛門に相談可申と与五右衛門に申聞候得者、品々中の坊へもり申候て可参由申に付てもり参候と長蔵申候。

一、五月四日に右の之堂跡にて御佛有之候をほり出し申候と夢に見申候と右長蔵物語仕候

一、ゆり坐眞は木也総者金色之金にて包み申候蓮花は四枚ならえ十二なかれに御坐候脇立三座右同然に御座候座何茂ことごとく破申候

以 上
延寶九年九月二十三日                                                       
中 之 坊
此申文本の儘に書して昔時の実況を見せり

金色堂の東に在り。旧跡は三重池を隔て南にあり。本尊薬師日光月光十二神将慈覚大師の作なり。紀州熊野分霊(きしゅうくまのぶんれい)の霊石を配安す。別当瑠璃光院(るりこういん)なり。
 

阿彌陀堂(あみだどう)
金色堂の東北にあり。本尊は慈覚大師の作なり。別当は圓乗院(えんじょういん)なり。


月見坂の傍にあり、天喜五年頼義朝臣白山遙拜の地にして凱賽に八幡宮を建立せられるたるに八幡宮と稱せしを改正の後本地佛の堂となせり別當は大徳院なり。

愛宕堂(あたごどう)
金色堂の東方月見坂上にあり、本地佛勝軍地蔵(運慶作)八天狗像千手観音(慈覚大師作)大日(弁慶護持の本尊)弁慶像(長六尺二分甲胃を着し數箇の兵器「俗に云七道具」を負ふる容体にして固有のものを修理せしなり時代詳かならす)弁慶堂は元山麓に在りしか荒廢の後、其像を此處に遷しし今之を弁慶堂と稱せり推新後沿革に依り佛堂に歸す此邊より衣川中の瀬『衣川中ノ瀬を母體「百袋とも書けり」の地とも稱せり』と云ふを臨む弁慶立往生すと云る所なり。(本堂文政十一年の建築にして銅葺縦三間横二間なり)別當は地蔵院なり。

鬼門鎮守白虎山稲荷社(きもんちんじゅびゃっこさんいなりしゃ)
金色堂の東北に當り裏坂上鉢森にあり、洛陽の稲荷を摸す本地佛十一面観音(作者知れず)漁籃観音(慈覚大師にて忠衡守本尊なり)を配安し是を白虎堂と稱せり。沿革により佛に歸し観音堂となれり別當は薬樹王院なり。

観音堂(かんのんどう)
慶蔵の西にあり、關の明神及菅神を配祀して天神社と云ひしか沿革により佛に歸し別當大長壽院なり。

鐘 樓(しょうろう)
金色堂の東北にあり、舊趾に假堂を建て梵鐘を懸く鐘の長さ四尺一寸口径二尺一寸厚さ三寸銘及び序文あり。元の鐘樓は天仁元年の建立なり。夫より二百三十三年を経て建武四年野火の災に焼亡せり。後康永二年頼栄法師再び鑄造せしは此鐘にして頼栄は金色院の住僧なり。 按に康永は足利尊師将軍時代なり北畠顯家卿既に没せられ奥地も足利家に属せりさて此鐘より古きもの傳はらされは元鐘は樓と共に焼たるへし和漢三才圖曾に此鐘櫻川より上りたりとあるは忘誕なりと相原氏の雑記に云り。  鐘の序銘

抑考平泉中尊寺草創歳序長治二年春藤原清衡公忝賜堀河鳥羽勅詔之霊場也爰建武四年回禄成阿闍薩捶頼栄勵推鐘利生志干茲銘

關山暁鐘覚無明眠鷲嶺晩嵐拂煩悩塵摧伏魑魅感降霊仙悉極六道下達九泉剣輪輟苦鯨音無邊普配聖賢四化父母利物心竪鑄施金銭銘加鑁子永不栃傳

康永二年大歳癸未七月   日

                 鑄師散位藤原助信

                 願主權律師頼栄

                 大旦那左近将監平親家

                 大旦那當國大将沙彌義慶

熊野宮跡(くまのぐうし)(金色堂の東南にあり) 神明宮跡(白山社の北にあり) 八王子社跡(金峰山の東南にあり舊別當常住院なり) 七高山観音堂(祠堂か森の南P原にあり比叡比良、伊吹、葛城、金峰、愛宕、大峰の七神を勤請して祈願所となす古へは祠堂か森にありしを中古今の地に遷せしか沿革により仏堂に帰せり別当瑠璃光院なり) 宮小路(裏坂の下官道の辺にあり往古諸勤請の地なりごぞ)祠堂か社(瀬原の北にあり) 弁天童趾(三重池の辺にあり) 大塔趾(櫻川の北官道の辺にあり) 大日堂趾 帝釈堂趾(弁天堂の西南にあり) 観音堂趾(金色堂の南にあり) 常誥観音堂趾(金色堂の西南にあり) 弥勒童趾 地蔵堂趾 虚空蔵堂趾(旧別当観音院) 十王堂趾 前鬼堂趾 関山堂趾(金色堂の西南に石塔あり) 講堂趾(金色堂の東北にあり) 小経蔵趾 鼓楼趾(鐘楼に対せり) 仮屋別所 風呂屋敷趾 閻伽堂趾 護摩堂趾 弁慶堂趾 駈土屋敷趾(岩倉にあり) 承仕屋敷趾(大獄にあり) 楽人住居趾(朴木にあり) 田楽法師住居趾(志田にあり) 舞台趾 雑掌住居趾 仁王門趾(月見坂上にあり又二階総門趾ともいえり) 下乗趾(仁王門趾の傍にあり今に下乗の二字を勒せる石碑建り)下馬趾

この余旧堂多しといえども枚挙にいとまあらず。

地蔵石像表坂口にあり亨保年中瀬原住小野寺仁左右衛門建立す傍らに一字一石の法華塔ありこれらすなわち登山の目標とすべし。

編者云山中老杉鬱然として四方を囲み盛夏烈炎を防ぎ厳冬積雪を支えたり僧房岳に依り谷に拠り屋宇参差として到虚寂然たり抑昔時の平泉にして地形動かす剰へ光経の二堂を遺し現に其の旧趾を見るべきもの当山に若くはなし。


古 院 (こいん)
大長寿院(即ち二階大塔の本尊大日如来連慶の作なり) 願成就院(本尊薬師丈六を安置す) 瑠璃光院(本尊薬師十二神を安置す) 常住院(本尊釈迦三尊を安置す) 釈尊院(本尊上に同じ) 成就院(本尊薬師観音十三躯を安置す) 薬王院(本尊上に同じ) 光勝院(本尊弥陀薬師各丈六を安置す) 佛聖院(本尊両界大日を安置す) 金剛王院(本尊金剛界大日) 大教王院(本尊両部諸尊を安置す) 千手院(本尊千手観音を安置す)『前記五院は中尊寺内にその他は毛越寺内にあり』

これらの諸院は寺堂草創のころの特立にして今坊中にその旧名を存し又その仏像を仮堂に安置させるも有りすなわちその旧跡たり。

現住僧坊(げんじゅうそうぼう)
総別当(一山衆徒の首長なりこれを今中尊寺と号し金色堂の東北に在り従来僧正寺なり天治三年己講僧正慶源遮那授法の印を賜り両州惣法務の道場と定められる故に総別当と号せり) 金色院竹下坊(往古櫂(ママ)別当と称し学頭職を兼ねたり) 大長寿院西谷坊 法泉院小前沢坊 大徳院別所坊 地蔵院東野坊 瑠璃光院永根坊 積善院観泉坊 願成就院中野坊 薬樹王院北本坊 真珠院大林坊 金剛院池辺坊 観音院観智坊 円教院吉祥坊 円乗院櫻本坊 常住院南谷坊 利生院観喜坊 釈尊院上西谷坊 承仕法師行善(以上十八坊一承仕)
古来総別当並金色院の外は世襲なりきたびたび世の変遷に退転し残る所の者所在を別にせしも後また一山に集合して法務を維持す傍ら能楽を伝習せり。

寺内及近傍名所(てらないきんぼうめいしょ)
三重池(金色堂の東南にあり常時反橋を架けし龍船を泛ぶといり) 按察使水(金色堂の西南にあり昔時勅使登山の時饌の炊に供ぜる水なりとそ) 物見亭趾(姥杉より三十間詐西方に亭ありし旧跡なり又表坂上の北にもあり東北四望観の樞區なり) 憩息松(鐘楼の東北にあり義経の遊蹤にして此松に倚て息へりとを俗に腰掛松と云り) 天狗森月見坂(表坂の辺なり衣関月見坂と続け云し事衣関の條下に云い) 化粧坂(又毛分坂ともいえり仁王門跡の南西にあり) 他楽坂 仮屋別所跡 鶏足洞釈迦か岳 隠里(京の隠れ里を模せりとそ) 岩倉(由来詳ならず相原氏旧跡志に往古平安城の東西南北の山に蔵を建て岩倉と名け王城の鎮護と為す事雍州府志に見えたり然れば秀衡其岩倉を模せし跡なるべしとあり) 大岳(楽人居住の地) 鐘か岳(平泉の部に出つ) 蓮台野(四の山下にあり地形蓮萼の容にある故に名つくと云えり又火葬の地ともいえり) 中の瀬(俗に弁慶往生の瀬と云う) 弁慶松(弁慶堂跡の松なり) 薄墨櫻(弁慶手植の櫻なり弁慶堂跡の條に出)

鈴木の松 亀井松 兼房松(各其塚の松なり)岸の松(衣川の條に出)
    中尊毛越両寺一年中問答講
長日延命講 彌陀講 月次問答

一山宝物(ちざんほうもつ)
天台大師(章安大師 妙楽大師)影像一幅(地は竹布なり)唐金如意 ネ香炉
以上三種は自覚大師入唐帰朝の時もたらして本山に納められたるなり書像の賛は唐の三朝國師光禄太夫守太師顔魯公の文とあり寛文年中『寛文年中「後西院帝」紀元二三二一〜三二年中』東叡山貫主輪王寺宮一品法親王の尊覧に呈せしか御感の余り即ち執事の僧に命ぜられ是か裏書を記さしめ給いて還附あり。
章安大師讃(書像にあり)
智者猶子 心密利根 辣(ママ)称仏号 幼入法門 槌鐘却賊 焼香反魂 石烈応手 
砂浦随言 天芽雪落 神兵雲長 生被兜率 奉観慈尊
妙楽大師賛(上に同じ)
荊渓抜群 添欺其文 裁義制記 場英播芬 敷声霄鶴 五色顕雲 偶然端座
終半夜分
右裏書
此唐筆之天台智者大師影像者奥州岩井群平泉関山中尊寺弘台寿院累代尊崇之什物也当寺者自往古雖偽台宗弘通之地未相定本寺之処今般被属東叡山貫主輪王寺宮一品法親王尊敬之御門下訖当所領主従五位下伊達兵部大輔藤原朝臣宗勝聞之歓悦之余為台門繁興令此像加修復焉於戯可謂信心至矣尽野納等亦感心之甚厚故加紫毫於書像背当寺之霊賓荳加之哉冀此尊像至尽未来際莫粉失而己
                          円覚院大僧都法印
 貫文六丙午稔三月吉祥日                   ェ 泰 書 判
                          住心院大僧都法印
                               実 俊 書 判
書像毎年十一月廿四日大師會にこれを開帳し勤行作法ありこの一軸経蔵に納置く。
紺 紙 金 銀 泥 行 一 切 経・・(軸)清 衡 寄 附
紺 紙 金 泥 行     一  切   経・・・・・(軸) 基 衡 寄 附
黄 紙 宋 板 一 切 経           ……(帖) 秀 衡 寄 附

以上三経は経蔵堂に納架あり

玉軸法華経一部(小野道風筆)秀衡読誦せし経なりとそ。

最勝王経の曼陀羅(十副各厨子入長五尺五寸横二尺)紺紙金泥にて経文の細字を以て十階の塔を鮮明に図せり又其塔の左右には彼の経の大意を彩書せり(秀衡の書と云へり)厨子は悉く仙台中納言の北堂万寿寺殿の寄附なり。

黒絵観音(牧渓和尚筆) 両界曼陀羅(証智大師筆) 十三仏(金岡筆)
藕糸袈裟 水火玉 蛇歯 雷斧

清衡の太刀(二尺余柄に金具残れり) 其衡の太刀(一尺七寸) 秀衡の太刀(一尺六寸)
以上三刀は昔三棺より出す所にして悉錆朽たり。

後奈良天皇宸翰 後水尾天皇宸翰 経文(傅教大師筆慈覚大師筆)
不動尊像(弘法大師筆) 金色不動尊(智証大師筆) 十二天像(興行大師筆)
弥陀三尊像(恵心僧都筆) 安倍貞任鞍鐙 義経弁慶像二幅
義経東下古絵詞一巻 経文(弁経書) 弁慶の独鈷 同六字の鍔 亀井六郎片岡八郎笈二個歌(慈円僧正筆) 楽面舞獅子(北條家の寄附と云り)、一休禅師書 一軸、十六善神(土佐家筆)、曲玉、螺鈿貝、中尊毛越両寺古絵図、

 古 文 書

中尊寺供養願文 真筆本書珍蔵宝庫
敬 白
奉建立供養鎮護國家大伽藍一区事
三間四面檜皮葺堂一宇 在左右廊二十二間
荘厳
五彩切幡三十二旒
三丈村濃大幡二旒
奉安置丈六皆金色釈迦三像各一体
右堂宇則芝■(木+而:ジ)藻井天葢宝綱厳飾協意丹■(ワク)悦目仏像則蓮眼菓唇紫磨金色脇士侍者次第ニ囲繞ス
三重塔婆三基
荘厳 
五彩切幡卅二旒、
  三丈村濃大幡二旒、

奉安置丈六皆金色釋迦三尊像各一體、

右堂宇、則芝ジ藻井、天蓋寶網、厳飾協意、丹ワク悦目、

佛像則蓮眼菓脣、紫磨金色、脇士待者次第圍繞、

三重塔婆三基、

 莊厳

  金銅寶幢卅六旒、旒別十二旒

 奉安置摩訶盧昆遮那如来三尊像各一體、

  釋迦牟尼如来三尊像各一體、
  薬師瑠璃光如来三尊像各一體、
  彌勒慈尊三尊像各一體、

右本尊、座前瑜伽壇上、置八供養之鈴杵、立八方色之幡幢、儀軌以第莫不兼備、
二階瓦葺経蔵一宇、

 奉納金銀泥一切経一部、

 奉安置等身皆金色文殊師利尊像一體、
 

右経巻者、金書銀字挟一行而交光、紺紙玉軸合衆寶而成巻、漆匣以安部帙、琢螺鈿以鏤題目、
文殊像者憑三世覚母之名、為一切経蔵之主、廻惠眼照見、運智力以護持矣、

二階鐘樓一宇、

 懸廿釣洪鐘一口、

右、一音所覃千界不限、抜苦興樂、普皆平等、官軍夷虜之死事、古来幾多、毛羽鱗介之受屠、
過現無量、精魂皆去他方之界、朽骨猶為此土之塵、毎鐘聲之動地、令冤霊導浄刹矣、

 大門三宇、

 築垣三面、

 反橋一道、廿一間、

 斜橋一道、十間、

 龍頭鷁首晝船二隻、

 左右楽器、太皷、舞装束卅八具、

右、築山以増地形、穿池以貯水脈、草木樹林之成行、宮殿樓閣之中度、廣樂之奏歌舞、
大衆之讃佛乗、雖為徼外之蠻陬、可謂界内之佛土矣、

 千部法華経、

 千日持経者、

右、弟子運志、多年書寫之僧侶、同音一日轉讀之、一口充一部、千口盡千部、
聚蚊之響尚成雷、千僧之聲定達天矣、

五百卅口題名僧、

右、揚口別軸之題名、盡五千餘巻之部帙、毎手捧持開紐無煩、
 

以前善根旨趣、偏奉為鎮護國家也、所為者何、弟子者東夷之遠酋也、生逢聖代之無征戦、長屬明時之多仁恩、蠻陬夷落為之少事、虜陣戎庭為之不虞、當于斯時、弟子苟資祖考之餘業、謬居俘囚之上頭、出羽・陸奥之土俗、如従風草、粛愼把婁之海蠻、類向陽葵、垂拱寧息三十餘年、然間時享歳貢之勤、職業無失、羽毛歯皮之贄、参期無違、因茲乾憐頻降、遠優奉國之節、天恩無改、己過杖郷之齢、雖知運命之在天、争忘忠貞之報國、憶其報謝、不如修善、是以調貢職之羨餘、抛財幣之涓露、占吉土而建堂塔、冶眞金而顯佛経、経蔵・鐘樓・大門・大垣、依高築山、就窪穿池、龍虎協宜、即之四神具足之地也、蠻夷歸善、豈非諸佛摩頂之場乎、又設萬燈曾供十方尊、薫修定遍法界、素意盍成悉地、捧其全分、奉祈禪定(白河)法皇、蓬莱殿上、日月之影鎮遅、功徳林中、霧露之気長霽、金輪聖主玉衣無動、太上(鳥羽)天皇寶算無彊、國母仙院(待賢門院)麻姑比齢、林廬桂陽松子伴影、三公九卿武職文官、五幾七道萬姓兆民、皆樂冶世、各誇長生、為御願寺、長祈 國家區々之誠、天高徳卑、綸フツ依請、供養遂思、寶歴三年青陽三月、曜宿相應、支干皆吉、延堀千五百餘口僧、讃揚八萬十二一切経、金銀和光、照弟子之中誠、佛経合力添法皇(白河)之上壽、弟子(清衡)生涯、久浴恩徳之海、身後必詣安養之郷、及至鐵圍砂界、胎卵濕化、善根所覃、勝利無量、敬白、

 天治三年三月廿四日弟子正六位上藤原朝臣清衡敬白

「件願文者、右京大夫敦光朝臣草之、『鳥羽勝光明院供養願文も敦光卿の書たりし事本朝文粋に見ゆ』中納言朝隆卿書之、而有不慮之事、及紛失之儀、為擬正文、忽染疎毫耳

鎮守大将軍(花押)

 大将軍は北畑源中納言顕家卿にして其真蹟なり延元元年『延元々年は「後醍醐帝」紀元一九九六年』丙子十月十五日の書と見ゆ朝隆卿真筆は何れの頃失せしか傅はらす今存在の真蹟は嘉暦三年『嘉暦三年は「後醍醐帝」紀元一九八八年』経蔵別当十一世行円「信濃阿闍梨」上京捜索して得たる所のものにして其下稿なるへしとそ。

 跋
余嘗過平泉中尊寺観藤原氏三世之遺墟僧某甲出■(目+示)寺中所蔵北畠公書藤原清衡願一軸余悚然展観其書雄健如顔魯公方正如柳公健蓋公之節烈気概有与顔柳二公不期而然者也歟按本傅公奉義良親王開府於陸奥憤乱賊交起中原陸沈率結城田村伊達諸族西上破義詮于利根川走義直於鎌倉長驅復王城遂与高師直戦於阿部野不利殉節当此時海内諸雄依倚傍観事漸不可為而顕家唱義於賊焔方熾之日長驅奮闘為之逡巡敷而遂至以身殉國中興大業随而不振此所以後世忠義之士読史至此喟然嘆息継以血涙也此書鬼神呵護墨痕依然使人仰其節烈気概於千歳之下浩歎不能止豈不可謂希覯之宝哉即使某甲上之石以廣播海内噫顔柳二公之書海内争傅者豈独区々筆画之巧為然世之観此帖亦将有所起感于此也
明治三年庚午正月 胆澤縣権知事武田敬孝謹撰

この清衡か願文は北畠顕家卿の真筆なりこれ此卿清衡を尊ひてかかせ給へるにはあらてたた古物のうせぬるをなけかせ給ふあまりのすさひなりけむをこたひ天覧に備へたてまつれるは本寺のおもておこしのみかは顕家卿か霊もあまかけり来ていかによろこひ給ふらむと思ふままに

後の世にきえせぬふてのあと見ても消し安倍野の露をしそおもふ
                                                          近藤芳樹

『奥游日記男爵細川潤治郎の句あり北畠顕家書尤堪把玩云々』
 

 鳥羽院御願

関山中尊寺金銀泥行交一切経蔵別当職事
僧蓮光所
所領骨寺(磐井都有之)御堂出入料田漆段屋敷壱所(瀬原有之)燈明料屋敷肆所内(北谷、赤岩両所麓有之瀬原村有之)毎日御仏供料白米二斗可入銅鉢弐之自高御倉可被取請之
毎月箱掛料上品絹壱疋白布壱段自御改所可被取請之
毎月毎御仏事請僧壱口可被請定
毎年正月修正二季彼岸懺法毎月文珠講彼以骨寺田畑一向可募之故也是偏 聖朝安穏御祈祷無懈怠可令勤仕右件於自在房蓮光者為金銀泥行交一切経奉行自八年内書写畢依之且為奉公且為器量故御経蔵別当職所定也就中令寄進蓮光往古私領骨寺然間限永代任蓮光相傅致御経蔵別当並骨寺者不可在他入妨仍可令寺家宜承知之如件

天治三年丙午三月廿五日 

俊慶判
金清兼判
坂上季隆判
藤原清衡朝臣判


  頼朝卿下文

 鳥羽院御願

関山中尊寺御経蔵所領骨寺内籠居雑入等事

早於被雑人等者還本住所可成安堵思也但限骨寺内境東者鎰懸南者岩井川西者山王岩屋北者峰山堂之末限馬坂総於境者可限水境仍所被仰下執達如件
文治五年九月十日 親義判
親義は斉院次官親能なるへし。

古文書は此外北條貞時、北畠顕家卿、浅野長政、関白秀次公等数多あり附録に載す。


医王山毛越寺 (いおうざんもうつうじ)
金剛王院と号し平泉村にあり平泉舘趾の西南に当たれり即ち寺境の総名にして円隆寺、嘉祥寺等皆此寺中に胚胎す第二の巻にある新御堂及義経堂の如きも亦皆此寺に附属せり。昔時の境域は今も社寺ある地にして南中里村界より北判官舘に至る東旧祇園社より西旧貴船社に至る地形岳山に拠り東は東山の群峰を仰き西は達谷の霊窟に及ひ南は山脈を蘭梅山に通し北は高舘山上の老樹森然たるを望む。

五十四代仁明天皇の御宇嘉祥三年慈覚大師の開基なり。大師済度の為め東奥に巡歴し、暫く禅錫を此地に留め伽藍を草創あり。抑大師飛錫の始め俄に霧雲山野を蔽ひて行路咫尺を弁せさりしか怪哉。前程白鹿の毛を敷散し綿々として一径を開けり大師追従数歩にして回顧すれは、白髪の老翁忽焉と出現し大師に告て曰く。此に蘭若を開始せは弘法済民の功■(火+曷)焉にして、邦國不二の霊場ならむと。即ち其形白鹿と共に消えて見えすなりぬ。大師惟へらく是正に薬師如来の示現ならむと此に先つ一宇を建立して嘉祥寺と号し大師自作の医王善逝の霊像を本尊として根本中堂となし秘法を修し久住を祈るとかや此外堂塔巨藍を建立し台家無上の法を弟子円観等二七の僧衆に傅へ、永く鎮護國家の祈願所とせらる。此地勢遙に王城の鬼門に当れるか故也。仁明天皇叡感ましまし為に四境を定めて倉卯の鋳璽を賜ふ。山号は薬師如来の霊現に由り医王を以て称し、寺号は白鹿の毛山路を越し導くの義に取りて称せられる。

今、猶村落の地にも毛越の名あり。五十五代清和天皇の御宇貞観十一年一月、北門鎮護の御願寺たるへしと勅詔あり。其後、星霜漸く移り逆乱相踵き堂社僧房殆と破壊に属せるを長治年中、七十三代堀河天皇の勅願に依り時の領主藤原朝臣清衡に寺堂興造の勅命あり。清衡父子之を奉行し、凡十三年の間に七堂伽藍落成す。七十三代鳥羽天皇更に勅使左少弁富任朝臣をして、円隆寺の宣化あり、且勅額及ひ國家鎮護の勅願文を賜り勅願となし給ふ。此より巳降相仁円隆寺別当に補せられ、宗則法儀の事を掌り、奥羽両國の僧侶灌室に於て、一切の行法を勤修す。清衡若干の寺領を寄附し、経営相継て、秀衡に至り益す。社堂坊舎を増築し堂塔四十余宇禅房五百余宇全く具はり其境内五方(中方、東方、西方、南方、北方)に位す且建築する所の峻宇高楼悉く四海の珍宝を以てし山に傍り、壑に臨み頗る土木の勝を極め■(羽+軍)飛輪奐宏壮にして幽邃も亦超然たり。

実に仏門成道民庶帰依の霊地にして当時皇國屈指の巨刹なりき文治五年泰衡没落後頼朝卿巡覧させられ武門祈願寺の台命あり且寺領安堵の壁書を下附せらる即ち之を円隆寺南大門に掲けしむ承元年中『承元年中「後土御門帝」紀元一八六七-七〇年』幕府更に当寺修営の命を下して其旧観を保持す(東鑑に詳なり)

八十四代順徳天皇健保二年後鳥羽上皇一字三礼の法華経を納め給ひ両寺別当二位禅師良禅に祈願修法の義を宣旨あり八十五代後堀河天皇の御宇嘉禄二年『嘉禄二年は紀元一八八六年』十一月円嘉両刹及ひ講堂、経蔵、鐘楼、鼓楼、文珠楼門等回禄の災に罹れり(創立より嘉禄二年に至り、百余年にして、常年より今『今とは明治二十年』に至り、六百六十余年なり。嘉禄は、鎌倉頼経将軍時代なり)。然れとも、歴朝殊崇の勅願所たるを以て、公家より毛越寺別当を兼ねられ(九十五年後醍醐天皇の御宇元亨元年花山院内大臣大僧都御坊毛越寺別当に補られ、御坊代として、若狭中務丞藤原成清寺務を監督されし事跡あり)亦鎌倉以降幕府の保護浅からす往々絶たるを継き廃れたるを興されしも乱離攘奪の世を累ね施て元亀天正に至り、兵燹に罹り、観自在王院南大門を始め社堂、坊舎、峻宇、高楼、悉く鳥有となり、唯常行法華の二堂のみ、災を免る他は、其跡を原野に遺し、或は其名を田園に留む。

天正十九年豊臣秀次卿九戸凱旋のとき、旧趾巡覧あり。尋て宗徒(常時僧坊中央付十四、東方付六、西方付四、南方付五、北方付三なりき)還住すへきの御教書を賜り、寺禄若干を、寄附せられ、伊達黄門受封後代々旧堂を保護し、堂宇を修理させらる。殊に忠宗卿数百町の境内に松杉を植え若干の寺領を定められしより、山徒精励協力して、残礎に拠り、小祠仮堂を建立し、遺像を安す。現存の社堂廿宇僧舎十八坊二庵なり。
 

寛文以来、輪王寺宮の直末なりしか、維新後、比叡山の直末に復せり(常時は基衡造立と東鑑に見えたれど同書脱漏に清衡建立とあるに適へり両衡の建立です)

明治八年五月更に毛越寺住職を定めらる。同九年七月車駕東巡の際、義経堂に臨幸し給ひて、此に傅来の仏像什器を始め、古術音楽等天覧あり。岩倉右府をして永遠保存に注意すへき旨を懇諭せらる。噫古趾旧物も此盛代に遭逢し千歳の下栄顕を見る。抑亦一山の幸福なり。


大金堂円隆寺 (だいこんどうえんりゅうじ)
(東西十六間南北十四間)旧趾、今の常行堂の右にあり。
元嘉祥寺にして鳥羽天皇勅して、円隆寺の号を賜ふ事、上文に述ふるか如し。内部の荘厳、金銀珠玉を鏤め、紫檀赤木を接き美を尽し彩を極む。本尊は丈六の薬師十二神将、日月二天を安置す。共に運慶の作なり。仏像に珠玉を以て、眼晴を入れ、威霊端厳にして彫手の精妙なる他に比類なしとす。

常行堂、講堂、文珠楼門、鐘楼、鼓楼、経蔵相並へり。勅額は九條関白忠通公(前関白忠実公男なり筆蹟最善し)。堂内の色紙形は、参議藤原朝臣教長卿(宇治左府の男にして忠実公の孫なり保元の事に座して常陸國に配流せらる)筆なり。本尊造立の際、基衡の注文に応し、運慶上中下の品等を示せしに、基衡中等の作を請ひ、運慶に寄贈せしは金百両、鷲羽百尾、七間間中径水豹皮六十枚、安達絹千疋、希婦細布二千端、糖部駿馬五十疋(希婦は狭布にて陸奥鹿角郡の産糖部は同國二戸三戸九戸北郡四郡の古名なり古へ北郡より尾駁の名馬を貢せしより尾駁の御牧と云り)白布三十端、信夫毛地摺千端、其余山海の産物珍奇を洩さす、是に添へ、又生美絹を三船に積て、輸漕し、故らに練絹を懇望に任せ此亦三船に積て輸漕し、其意に叶ふ。

運慶一層精力を振ひ此仏像を、三年間に造成す。当時、其沙汰洛中に普くして、鳥羽法皇の上聞に達しければ、即ち叡覧あるに当世無比の彫像たるを以て、他に出さす、洛中に留むへき由宣下せられぬ。其衡之を歎きて、七日夜仏堂に籠もり、醤水を断ち、願望懇切たるの情状を九條関白執奏ありけれは、遂に勅許を蒙り、奥に下して、寺堂に安置するに至れりとそ。其の霊場荘厳に於ては、当時吾朝に双ひなしと云ふ(東鑑にも此事を載す)。然るに、憐むへし。

嘉禄二年『嘉禄二年は紀元一八八六年』の災に、堂像併せて、鳥有となり、堂趾に径五尺余の礎石四十九並に周囲に渠石等残れり。現在の薬師石像は、後世村上治兵衛照信の建立なり(基衡室の墓碑を建しも此人にして亨保年中『亨保年中「中御門帝」紀元二三七六−九五年』の事なり)

附言東鑑に右大将文治五年奥州征伐の次て順覧し給ひし後、殊に信向ありて其荘厳の模様を永福寺に写せりと。同脱漏に嘉禄二年十一月八日陸奥國平泉円隆寺暁六時に、此災ある由、鎌倉中告廻る者あり、後聞時刻違はすといふことを記せり。

 常行堂 (じやうぎやうどう)
金堂跡の左に在り即ち摩多羅神祠にして摩多羅神及本尊宝冠の弥陀四菩薩を安置す(宝依菩薩、功徳菩薩、金剛鐘菩薩、金剛幢菩薩なり摩多羅神は円宗守護の神なり)昔時慈覚大師入唐の時清涼山に於て文珠大士より常行三味を伝授し帰朝後比叡山に於て其修法を始められ当時開基の時此堂を草創して修法勤行あり後二百五十余年を経て堀川鳥羽両帝の勅願に依り藤原朝臣清衡再建し給ふかくて嘉禄元亀天正の三回禄を免れ造営荘厳全盛のおもかけ十中の一を存し即ち一山の本尊となれり惜むへし慶長二年四月野火のため一瞬の間に忽ち煙となる本尊は是其災に残れるにて天神社趾に年久しく安置せしか亨保十三年『亨保十三年は紀元二三八八年』八月(今を距る百六十年)古跡に五間四面の堂を建立して是に遷坐す大師常行三昧を傅へられしより毎年正月一山修法の勤行断る事なし。

鐘樓堂 (せうろうどう)

常行堂に並ふ元禄年中里人柏原氏の建立なり。

 法儀祭式

修法 十七箇日(毎年正月十四日より二十日まで)
祭礼 (二日十九日二十日なり両日共に修法畢て古実を勤む二十日西刻常行三昧供結願)
常行三昧供次第
奉供四十八色造華百味飯食
初夜作法
唱礼師 梵唄師 当題師 慶題師
後夜作法
後夜導師 唄 三十二相 伽陀 散華 梵音 錫杖

  古実祭式

路舞(唐拍子とも云) 慈覚大師入唐(じかくだいしにふとう)のをり清涼山(せいれうざん)の麓(ふもと)に童子出現して舞ふと云大師当寺(たうじ)を草創(さうそう)し常行(ぜうぎやう)三昧供修法(まいくしうほふ)せられし時亦童子二人にて歌舞(かぶ)せしもの今に伝へるなり。
延年舞(延年式とも云ふ) 田楽躍(場躍とも云ふ) 呼立(笏拍子とも云ふ) 祝祠(神秘あり) 老女舞(姥舞とも云ふ) 若女舞(坂東舞とも云) 禰宜舞(職掌舞とも云ふ) 兒舞(立合舞とも云ふ) 敕使舞(京殿舞とも云ふ) 音楽 舞楽

法華堂跡 (ほけどうあと)
常行堂の左にあり貞観年中円観草創し釈迦、文珠、普賢、千手観音、二十八部衆、鬼子母神、十羅刹女を安置す再建焼失等常行堂に同し鬼子母神像、及礎石今に残れり。

講堂(こうどう)
常行堂の西金堂跡(こんどうあと)の右にあり大礎(だいそ)及ひ周辺の渠石を存せり本尊は胎金両部大日如来(れうぶだいにちにょらい)にして当時奥羽両国の灌室なり嘉禄の炎後再建又天正二年の兵燹(へいせん)に焼亡(せうぼう)すと。

嘉祥寺(かせうじ)
(東南二十間南北十八間)常行堂の西講堂趾の右にあり本尊丈六薬師なり(往古の像は慈覚大師作なり)抑大師薬師如来(やくしにょらい)の霊現(れいげん)により嘉祥寺を草創して鎮護国家の祈願所(きぐわんしよ)とせられたるは上文(ぜうぶん)に述(のぶ)る如くにして即ち毛越寺(もうつじ)金剛王院の根本中堂(常行堂講堂の間にあるゆえなり)なりき然るに本寺円隆寺(えんりうじ)となりて基衡更に西方百歩に地を相し旧規(きうき)に拠り再興(さいこう)した末た落成(らくせい)せさるに卒せられしかは秀衡先志を承き二代の功を以て落成(らくせい)せり四壁並三面の扉に法華廿八部の大意を彩画せりと東鑑に云へり是亦嘉禄(かろく)の災に罹りて残(のこ)るものなし只大礎渠石を存し園池の跡今田となれり礎石(そせき)の徑り各六尺余なり。

徑蔵(けうぞう)
(八間四面)常行堂の西講堂跡(にしこうどうあと)の南面にあり礎石を存す一切経(さいけう)を蔵せしにて本尊文珠菩薩(ほんぞんもんじゆぼさい)なりしと。

文珠楼門(もんじゆろうもん)
(縦六間横四間)金堂跡の正面にあり。
按に諸書(しょしょ)に文珠楼跡(もんじゆろうあと)とのみ記せと郷説楼門跡(ごうせつろうもんあと)といへり位置を察(さつ)するに左もあるへく覚(おぼ)ゆれは此説に拠(よつ)て録(ろく)す聞老志(もんろうし)にも封内名迹志(ほうないめいせきし)等にも二階総門(かいそうもん)に鐘皷楼経蔵を列ねて天正の此(ころ)の焼亡(せうぼう)と記し文珠楼(もんじゆろう)を挙けす文珠楼(もんじゆろう)果して楼門(ろうもん)なれは二階総門に当れるか如し礎石存す其数十二あり徑り二尺余なり。

鐘樓(しょうろう)
(縦五間横四間)文珠楼門跡(もんじゆろうもんあと)の左にあり礎石を存す重さ二百斤(斤法五百目)の鐘(かね)を釣(つ)るといふ昔(むかし)時の鐘は此に伝はらす。

 右鐘銘

左青龍東河流 右白虎西有大澤 前朱雀前有北森 後玄武後在山巌 寺名円隆 建奥州中 白虎走西 青龍翔東 玄武遍列 朱雀方沖 天春相役 地徳三充 故招魯匠 更課■工修補致信 造営尽功 虞■(にんべん+垂)調宝 晋曠■錮 瓊鐘輝眼 金殿呈夢 九乳潤地 双龍勝空 甘露無尽 恩澤不窮 妙聲新挙 梵響忽通 遙混夕吹 遠韻晨風 染徹方壊高揚円窮 主上成願 臣下竭忠 君家惟穏 民屋皆豊 息八獄熱 詣大梵宮 退還賈客 嬉戯幼童 苦忘想睡 成正覚躬 

 貞應三年(歳次日中)三月 『貞應三年は元仁元年「後堀河帝」に当り紀元一八八四年』 鑄師大和法安
  両寺別当権少僧都良信
  両寺別当二位禅師良禅  大法師奉行宗円

右洪鐘寛永元年旧領主伊達氏より借り受けられ今に仙台某寺にありといふ時の奉行茂庭周防の證文あり。

鐘樓趾
(縦五間横四間)文珠楼門趾(もんじゆろうもんあと)の右にあり礎石を存す。

南大門趾
(縦八間横六間)二階総門(かいそうもん)といへり廻廓(くわいかく)跡左右にあり文珠菩薩金剛力士(もんじゆぼさつこんごうりきし)等を安置(あんち)し勅額を掲(かか)く(勅額の事上文に記す)後頼朝卿より賜りたる壁書を某傍に押すといふ天正元年『天正元年は「正親町帝」紀元二二三三年』焼亡し勅額及壁書も伝はらす抑此大門趾寺堂旧趾(だいもんあとじどうきうし)の中央に居り境内最廣区にして四隅(ぐう)に古木森々(こぼくしんしん)として囲(めぐ)り残礎乱草の間に隠見す。

大泉池
池形一心の二字なり(一心三観を表す)池(いけ)の廣さ東西百三十間南北八十間中に一島(とう)を築(きづ)き左右に大黒弁天を安置す文珠楼門(もんじゆろうもん)の前に十間の朱橋を架し中島より南大門まて十八間の反橋(そりばし)を架し水底(すいてい)に美石を布列し四方の飾石和漢竺三國の石を用て造り池中に龍頭■首(りうづげきしゆ)の船を泛(うか)ふといふ其形跡(けいせき)略ほ旧観を存して風趣今猶梵刹宏壮の昔を想像(さうぞう)するに足れり其現在(げんざい)する所昔(むかし)時の半に居り既に島地没し西畔は大概田となれり大門跡(だいもんあと)の東五六十歩の所に八九間許の出崎ありて巨大(きよだい)の奇石(きせき)を布列せり其先なる竪石二箇水面(すいめん)に並(なら)へるは二見潟(ふたみがた)の俤(おもかげ)あり石の容體恰も両人の沙門対立(たいりつ)せるに似たれはとて羅漢石(らかんせき)と称せり或は双石の義にも取れり石は黒色堅緻にして光澤(くわうたく)を負ひ江刺郡黒石村の蝋石(ろうせき)に同(おな)しきものあり其他池塘の処々に巨石(きよせき)の残れるもの数多(かずおほ)し往々池中を浚(さら)ふ毎に水底(すいてい)より美石を出せり大泉の名も著く池水清々溶々として秋風波心(しうふうはしん)を動かし汀蘆に音(おと)なふ時は殊更(ことさら)に観客(くわんかく)をして懐旧(くわいきう)の情(ぜう)に勝(た)へさらしむ池の南畔に石碑あり芭蕉俳詠(ばせうはいえい)の自筆(じひつ)を勒せり里俗之を芭蕉塚(ばせうづか)といふ(近世素鳥といふ者此碑の後世に至り字體漫滅せん事を慮り其傍に同詠せる副碑を立つ)『……三代の栄耀一睡の中にして大門の跡は一里こなたにあり、秀衡が跡は田野になりて金鶴山のみ形を残す、先つ高舘にのぼれば北上川南部より流るる大河なり、衣川は和泉城をめぐり高舘の下にて大河に落入る、泰衡等が旧跡は衣が関を隔てて南部口をさし竪め夷をふせくとみえたり。偖て義臣すぐりて此の城にこもり功名一時の叢となる、國破れて山河あり、城春にして草青みたりと笠打敷きて時のうつるまで泪を落し侍りぬ。……奥の細道』

 俳詠

夏草(なつぐさ)やつはものともか夢(ゆめ)のあと
編者云元平泉の寺地廣きを割て藤氏の居所とせしものと見ゆれは古舘の跡も当寺に礎石を留め旧趾を遺せるにて想像すへく此詠も最人口に膾炙す一吟膽をして寒からしめ眞に故亡士の幽魂も感動すへし『芭蕉翁一句を列ね短冊に書きて里人に与へしに、後世の為めにとて短冊塚と名つけて、翁の古蹟に石碑を建て、又は古戦場の印にとて書き貰ひて、堂か根にこれを建てし里人や優し……此發句を石面にほりて昔を今に残さへ、翁も百有余年以前……「天明九年壽鶴齋旅行談」。此句碑鎌倉にもありと、誰人の建立にや、其他倶利伽羅峠等拾余個所にありと伝へらる』

大黒天堂跡
(東方)
弁財天堂跡
(西方)大泉池中の島に在り講堂の南に当れり。

大阿弥陀堂 
観自在王院と號(ごう)す常行堂(ぜうかうどう)の東北に在り運慶作(うんけいさく)の弥陀を安置(あんち)す基衡室(鳥海三郎宗任の女)の建立(こんりう)なり仏壇は一丈五尺銀なり高欄は磨金なり(托洗金鏡と云是なり)内陳組入れ天井金を毘多打となす柱一本四萬貫四本十六萬貫なり四壁の図絵は洛陽(らくやう)の霊地(れいち)名所なり(四壁絵、一番八幡放生會、二番賀茂祭、三番鞍馬之様、四番醍醐櫻會之様、五番宇治平等院之様、六番嵯峨之様、七番清水之様)なりと云(い)へり此堂(このどう)元亀四年(天正と改元す)二年八月に焼亡(せうぼう)し本尊(ほんぞん)の像をは他所(たしょ)に移(うつ)し置しか享保年中旧地に仮堂を建立して之を安置(あんち)せり古輿あり(基衡の室は仁平二年『仁平二年は「近衛帝」紀元一八一二年』四月二十日卒去す葬儀の例を装ひ年々其日を以て追祭をなす一山の僧侶之を勤め此古輿を荷ひ幡を列ねて儀式を整ふ昔時 哭せしも近世は止たり里俗之を称して四月二十日の哭祭と云り当初より今に至るまで七百廿余年を経歴して闕怠なかりし是至誠に出たる古風の例祭なり)別当(べつたう)常本坊千手院(せんじゆいん)なり。

小阿弥陀堂跡
大阿弥陀堂跡(おほあみだどうあと)に並て東に在り運慶作の弥陀(みだ)を安置せしなり東鑑に大小両宇(だいせうれうう)共に基衡妻宗任の女の建(たて)る所なり障子(せうじ)の色紙形(しきしかた)は参議教長卿の筆蹟(ひつせき)と云へり(一説に基衡の母の建立と云り佐少弁富任朝臣の女なり)大阿弥陀堂(だいあみだどう)と共に焼亡(せうぼう)す音頭佛(堂趾の傍に古石佛あり里人之をオンドウブウツといふ昔両阿弥陀堂建立の時夫役を督せし者造立せし故の名なりといへり)六字名號石塔(じめうごうせきとう)(元文年中『元文五年紀元二四〇〇年』金堂前の池底より出せし石に里人號を錆て之を立つ)

舞鶴池
往古(わうこ)二堂(どう)の前の池なりしか今は田となりて間々汀石(ていせき)を遺し其形跡(けいせき)を存(そん)せるか如(ごと)し。

鐵塔
(池中の島に此塔一基を建立す南蛮鐵にして高さ二尺五寸囲五尺六寸形円くして鼓胴の如く臺は鑄続けにして三階四方なり往古は鐵の屋根九輪も有りしか天正年中に失せけるに更に石に造れり名凸字にして都て八十字なり今此塔を千手堂内に移して保存し置けり)

 銘文

奉安置平泉観自在王院池中島奉納六十六部妙典塔婆宝萬鐵塔鑄立功徳法界民生速佛道文和第四亥月上旬鍛冶久行行祐法師鑄師淨円金剛覚賢権律師幸賢勧進衆法眼定進金剛覚秀故法印幸海衆徒敬白 『文和四年「北朝後光厳院」紀元二〇一五年』

鐘樓趾 普賢堂趾 五重堂跡 
何(いづ)れも小阿弥堂趾の東南(とうなん)にあり。

基衡室墓
小阿弥陀堂趾(せうあみだどうし)の後に在り霊屋(れいをく)は荒廃(くわうはい)し後年立つる所の石碑表面に前鎮守府将軍基衡室安倍宗任女墓仁平一壬申四月二十日と勒(ろく)す此碑高(たか)さ臺石より五尺許あり享保十五年『享保十五年は「中御門帝」紀元二三九〇年』九月十三日村上冶兵衛照信之を建(た)つと云へり照信又金堂趾(こんどうあと)に薬師石像をも建(たて)たり相原氏の旧跡志(きうせきし)云按に宗任は清衡の叔父(おぢ)にして清衡二歳の時頼義朝臣の囚人となる是を以て見る時は其女子基衡の室となる能はす但し宗任赦免(しやめん)を得て後老年に生し少女を都(みやこ)より下し嫁せしにやと云へり尚按に是は基衡母の墳墓(ふんぼ)の謬伝(べうでん)にして両阿弥陀堂は其追善(つひぜん)の為に其妻建立(こんりう)せしにはありしか小阿弥陀堂(あみだどう)の條に基衡の妻と東鑑に載せ一説(せつ)に基衡の母とあるも照考(せうこう)すへし。

弁財天堂
常行堂(ぜうかうどう)後の池中の島にあり弁財天(べんざいてん)十五童子を安置(あんち)す。
諸社堂反名迹

鎮守総社
東鑑(あづまかがみ)に鎮守総社(ちんじゆさうしや)を金峰山(きんほうざん)の東西に立つ又中央に総社東方に日吉白山両社(ひよしはくさんれうしや)南方に祇園社王子総社(ぎおんしやわうじ)西方に北野天神社金峰山北方に今熊野稲荷社(いまくまのいなりしや)なりとあり(何れも上國の本社を摸せるなり)

日吉社
平泉舘趾(ひらいづみたてあと)の西南にあり慈覚大師毛越寺守護(じかくだいしもうつじしゅご)のために勧請(くわんせい)ありしを長冶年中再建して五方鎮守の一となす元亀年中回禄に罹りし後(のち)久しく星霜(せいさう)を経て今の堂を建立(こんりう)す前に池あり鈴澤池(すずさはのいけ)といふ其形跡(けいせき)あり西を池上と云東を池尻と云御旅所跡もあり又祭礼(さいれい)には流鏑馬(やぶさめ)あり馬場跡も遺(のこ)れり。

白山社 (はくさんしや)
日吉社(ひよししや)の東方に並(なら)へり元亀中回禄の後日吉社に合す。

祇園社 (ぎおんしや)
舘趾(くわんし)の南に当り今の官道(くわんだう)の西にあり(一説に官道の東にありしを移せるなりと云へり又是より西方愛宕山の下に祇園社趾あるは御旅所なりとそ)毎年(まいねん)六月十四日祭礼(さいれい)あり維新後釐革(いしんごりんかく)にて八坂神社と改號し平泉村社(ひらいづみそんしや)となれり。

王子諸社
祇園社(ぎをんしや)に隣し官道の東にあり。

北野天神社
舘趾(くわんし)の西南に当れり本社の跡に仮堂(かりどう)を建て摩多羅神(またらじん)と供に安置(あんち)せしか享保年中常行堂(ぜうかうどう)を旧地に建立後本社を再建(さいこん)して天神の像を移(うつ)せり。

稲荷社跡
西方(せいほう)にあり(東鑑の北方として今熊野の次に叙せるに方位違へり)

金峰山社跡
蔵王権現(ざうわうごんげん)なり子守勝手社も属す吉野を摸せり金鶏山(きんけいざん)の東北に在しか今荒廃(くわうはい)せり昔時慈覚大師(じかくだいし)八部の峰(みね)を開かれし其一なりとそ御旅所跡衣関の南にあり。

今熊野社跡
金鶏山(きんけいざん)の東に在り残礎数箇(ざんそすうこ)ありしも近世用水堤を築(きづ)く土木の料となせり岩土穴と称(せう)するもの神竈と伝えて社地の辺(へん)に存(そん)し元禄の此(ころ)まて十二箇ありしか今は只一箇残(のこ)れり口の徑(けい)二尺或は三尺深(ふか)さ四五尺なりと旧趾志(きうせきし)に云へり此岩土穴昔時貴人の胞衣を納(をさ)めしものなるへしと附録に記(しる)せる如し。
 因云宝暦九年所在の農民今熊野社趾の田畔より一箇の壷行基焼にして量二升許入るへきを掘出せしか蓋なくして灰の如き沙中に周二寸許の円珠一夥と黄金数顆あり珠は透明の白玻璃にして黄金の形は柿核の如く少し赤みたり重さ二匆余厚さ三四分なり之を時の國主に呈せしとそ。『白玻璃は金剛石ならんとの説ありき』

新山社 (にひやましや)
(高舘の東にあり元羽黒権現にして高舘の鎮守なり郷人後世に此社を再建す) 貴布禰社(常行堂の東方に在り以下皆方位是に準す) 八幡社趾(南方春日社) 趾(南方) 日光社趾(北方) 白山社趾(西南にある櫻清水白山社と號せり) 伊豆社(鏡山の下にあり伊豆箱根二所明神を崇む近江の鏡山を摸せりと社内に姥杉あり中尊寺千歳松と同名なり) 本守社趾(西南にあり子守とも書けり善阿弥陀山の内にあり又木舟社あり昔常泉と云ふ者勧請すといへり) 諏訪社(東南) 幸神社趾(東南にあり今官道の東畑中に笠杉と称する一老樹のある所にして往古道祖神を勧請せり幸は塞に作るへし)

以上諸社維新の改革に由り村社の外総て本地佛に帰せり。

千手堂
常行堂(ぜうかうどう)の北金鶏山(きんけいざん)の麓(ふもと)にあり千手観音を安置(あんち)す定朝の作藤原秀衡の守本尊(まもりほんぞん)なり今其一躯千手観音木像(くせんじゆくわんおんもくぞう)を中尊寺経堂に蔵(をさ)む運慶の作なり妙手の彫工(てうこう)殆と眞(しん)に迫(せま)れり。

慈覚堂趾
常行堂(ぜうかうどう)の西南にあり慈覚大師(じかくだいし)を安置(あんち)す古作なり本堂頽廃の後鬼子母神堂(きしもじんどう)に安置(あんち)せり。

吉祥堂趾
(常行堂の南に当れり以下の方位皆是の常行堂を以て準拠とす往昔金輪山吉祥寺と號す相伝ふ本尊観音は洛陽補陀洛寺の本尊を摸し生身の霊像たるに由り更に丈六の像を建立して其中心に蔵むと) 
三十三間堂趾(東北) 聖山塘趾(東南) 一切経蔵趾(西南) 文珠堂趾(西南) 護摩堂趾(南西) 釈迦堂趾(南) 大日堂(西南) 十王堂(南) 不動堂(南) 鐘楼堂(南) 九輪塔趾(東南) 大仏堂趾(東南昔時釈迦の大像ありし所なり) 寄水観音堂(東南昔時文禄二年二月二十八日北上川洪水に仏像堂共に流寄たるを安置せり今像は失たり) 寺院趾(東南北に其跡多し) 此丘尼寺(南) 
稲荷社 八幡宮 貴布彌社 愛宕社 白旗社(一説に義経堂を云へり此社別なり) 外浦社 塩釜社 山王社 山神社 阿弥陀堂 観音堂 子安観音 鬼子母神(本尊定朝作)

以上稲荷社より鬼子母神まで九社四堂は何れも南方にありて後世再建せるものを挙く社は改正して仏道となれり。


造り山 (経塚山とも云り又一説に金鶏山とも云へり金鶏山の邊は社堂を兼ね伽羅舘に属する園地の如くにして是に築ける山を凡て造山と謂ふへし)
花立山 (平泉の盛時花園の地なりと一説に金峰山の祭礼の時吉野櫻の造り花を立置く神輿の御旅行とせし地なりと) 
芭蕉塚 (大泉池の條下に出つ) 
馬塲 (白山社の條下に出つ) 
高屋倉町車宿 (平泉舘の條下に出つ) 
時太鼓跡 (西木戸屋敷の東北にあり) 
馬駐 (時太鼓跡の西にあり当時の下馬所なりとそ) 
粧坂 八幡社跡の西にあり正月摩多羅神祭の日田楽人の楽屋坂上に在し故の名なりしと) 
兒カ墓 南大門の東に在り当時社堂群参の日乗輿の争に兒の殺されしを葬りし所なり) 
兒カ澤 (兒塚の下流の名なり) 
高石 (西木戸屋敷に近し逆芝山と云ふ説骨寺に同名ありて其條に云り) 
鑾通水 (獨銘水と號す金堂の趾後丘にあり慈覚大師の加持の水なりと云り) 
鈴掛森 (昔時金峰山々入の修験勤行了て帰後鈴掛を納めし所と云ふ) 
鐘カ丘 (常行堂西の山頂を云ふ昔時軍備の為に四十八の鐘を所々に掛置き急を報せし其一とも又中尊毛越両山の僧徒集合の號鐘を設けし所なりとも云ふ) 
雉足洞 中尊寺山中にも同名の所あり) 
最明寺屋敷 (北條時頼入道行脚の日此所に寓せり庵跡の遺礎畠中にあり
  一説に義経の男子生害の道號を最明寺と云しか其遺骸を葬りし所にて時頼入道も同名の縁に感して此に寓すといへり) 
櫻清水 (往昔清水の邊に櫻樹並立つ花影水に映して芳名を流せり其樹枯るれは継て今に之あり) 
西木戸趾 (平泉舘の西の関門西木戸舘の邊に在りしと云へと今其所詳ならす按するに平泉郭外に出る西方に在しなるへし) 
勅使屋敷 (基衡の時富任卿勅使として下向ありし其賓待舘の跡なり今に其土塁を存す) 
片岡屋敷 (片岡八郎) 
鳥屋崎屋敷 (鳥屋崎備中守居舘跡なり) 
日向舘 (阿土日向居舘跡なり) 
大仏舘 (黒澤豊前居舘跡なり新城跡と云るに隠居せし所なり此豊前下黒澤にも居れり鳥屋崎以下の三人は葛西なとの後臣にて天正前後の人ならんか) 
校堂趾 (校倉にや詳ならす) 
修正田 (昔時正月修正料免田なり) 
霜月田 (昔時霜月廿四日天蜜大師講料の免田なり) 
月忌田 (昔時両阿弥陀堂佛供料免田なり) 
大田川 (達谷川の下流なり平泉にて此名あり橋を太田橋と云ひ今大橋と云ふ
  南黄金西大澤の流末相合し平泉舘の南畔を東流して北上川に落る小川なり即平泉舘の捏渠の如し) 
黄金澤 (昔時沙金湧出し此名あり今小金澤と書す) 
佐野 (相伝へて佐野常世北條時頼入道に従ひ来りて此に寓せしより此名ありと云ふ) 
柩カ森 (五郎柩森とも又日陰山とも云り昔時黄金を掘出せし所なりと云ふ) 
善阿弥山 (古より常行堂正月廿日の祭事に供する柴燈木を採し所なり元禄の頃より止たり)

以上猫間淵梵字池金鶏山なとの如く項別に挙さるものを集録す。

 現住僧坊

毛越寺金剛王院 (もうつじこんごうわういん)
(常行堂の西南にあり一山の総號なりしか維新改革の際一山の勧挙寮所を挙く此寺の號を附し衆徒の首院となせり)
日輪院隆蔵寺 大乗院柳下坊 千手院常本坊 威神院寂淨坊 妙禅院池上坊 白王院覚城坊 金剛院鳥屋崎坊慈光院連繞坊 壽命院千繞坊 普賢院山繞坊 壽徳院円蔵坊 正善院善正坊 薬王院千光坊 宝積院櫻岡坊 覚性院梅下坊 光円院円光坊 福昌院宝全坊 蓮乗院蓮乗坊 承仕煙明同 鏡全

古来宗徒(こらいしうと)所々に住居せしか多く退転(たいてん)して残る所の者集合し今寺堂の間に住所せり学寮(がくれう)を置き法務(ほふむ)を維持(いぢ)し古楽を伝習す。

 年中恒例法合古例

二月常楽合 三月千部一切経合三日基衡供養合 四月金堂合誕生合 舎利合、基衡室供養合、六月論議合、伝教合、祇園合、新熊野合 七月清衡合、施餓鬼放生合 九月仁王合 十一月天台合弥陀講 十二月秀衡供養合、講読師清僧或三十人、或百人、或千人、舞人三十六人、楽人三十六人。

 一山之宝物
文珠画一幅(唐筆慈覚大師入唐伝来) 不動尊画一幅(巨勢金岡筆) 三尊弥陀画像一幅(恵心僧都筆) 天台智大師画像一幅(唐筆) 伝教大師画一幅(古筆) 弘法大師画一幅 十三佛画一幅(巨勢金岡筆) 不動尊画一幅(智證大師筆) 薬師画一幅(唐筆) 龍頭観音画(琢磨筆) 出山釈迦画一幅(深陸筆) 三社神託一幅(最明寺時頼筆) 不動尊画一幅(古筆) 不動尊画一幅(慈覚大師の筆)
経筥(外面総打金花輪棒五鈷等の模様なり裏面は綿を貼り基衡寄附) 法華経(紺紙金泥字秀衡寄附) 文珠経(紺紙金泥字基衡寄附) 法華経(紺紙金泥字秀衡寄附) 最勝王経(宗版秀衡寄附)
慈覚大師像一體(古作鬼子母神堂に安置す) 源義家像一體(古作前九年の役より伝来す里人八幡の神と崇む鬼子母神堂に安置) 秀衡像一體(古作千手堂に安置) 佛具(慈覚大師所持) ネ香爐(同上) 五鈷(同上) 鐵塔(南蛮鐵阿弥陀堂前の池島に在しを千手堂に納置) 床飾二基(秀衡所持鍛冶舞草森房之を作る森房は名高き鍛冶にして鍛冶伝に之を載す) 勅使舞面(二箇) 同伝本(一冊) 古笛二管(大同竹袙巻) 同一管(銘怡志四辻亞相所號記あり附録に載す伝云田村将軍所持と)

 古文書

 文治壁書

平泉内寺領者任先例所寄附也堂塔縦雖為荒廃之地至佛性燈油之勤地頭等不可致其妨者也云々
 文治五年九月十七日 『後鳥羽帝紀元一八四九年』 親能
  承元四年下知状

陸奥國平泉保伽藍等興隆事故有幕下御時任本願基衡等之例可致沙汰之旨被残御置文之処寺塔近年破壊供物燈明以下事己断絶之由寺僧各愁申仍廣元奉行如故不可有懈緩者也
 承元四年五月廿五日 『土御門帝紀元一八七〇年』 奉行廣元
  弘長三年六口料下知状

鳥羽院御願所
平泉毛越寺円隆寺六口供僧三十六丁口別六丁柏崎之内右之地頭四方田左衛門尉景綱父子四十四年令押領彼領被附供僧畢
 弘長三年八月六日 『亀山帝紀元一九二三年』 奉行雑賀彌治郎

此他数通あり附録に載す。

達谷窟 (たつこくのいはや)
(古書に闥谷、田窟、谷窟と書り)平泉村(ひらいづみむら)達谷に在り中尊寺より西南に当り官道(くわんだう)より二里許(りばかり)を隔つ往(むかし)昔夷酋悪路王等の拠塞(きよさく)なり地勢窮山囲繞の陬域にして東北は毛越寺衣関(もうつじきぬとめ)に道を取り西南は陣か越の道路(だうろ)に入る四面狭隘(けいあい)にして眺望の景なし(路道西南は神山鹿野坂を越て赤荻村に出つ東北は七曲戸河内を経て衣川村に至る是古の官道なり)

毘沙門堂
別当を眞鏡山西光寺廣照院と號す五十代桓武天皇(かんむてんのう)の御字延暦二十年征夷大将軍坂上田村麿東夷平冶祈願成就の報賽(ほうさい)として山城國鞍馬寺を摸(も)し九間四面の堂を創建(そうけん)し百八躯(たい)の多聞天(たもんてん)を安置し鎮國(ちんこく)の寺社となす即同天皇の御願所なり堂(どう)は岩洞に長閣(てうかく)を構ふ高さ三丈長さ九間廣さ七間なり(旧堂九間四面とあれと現堂此の如し)毘沙門天(びしやもんてん)の古像及脇士等今存する所僅かに四十余躰(たい)余は後世(こうせい)の作に係る其他丈六不動もあり共に慈覚大師(じかくたいし)作と云り東鑑(あづまかがみ)に田谷窟(たつこくのいはや)は田村麻呂利仁等の将軍綸命(せうぐんりんめい)を蒙り征夷の時賊主悪路王並に赤頭『獣皮を蒙り居りしより赤頭と云へしか或は今日の紅毛人侵入し来し居りしとの説もあり、故に赤鬼は紅毛人にて青鬼は碧眼にして若き青鬚を指せしなるべし』等塞を構(かま)ふるの岩室なり其岩洞の前途は是(これ)より十余日にして外カ濱に隣る坂上将軍此窟(いはや)の前に於て九間四面の精舎(ぜうじや)を建立し鞍馬寺(くらまでら)を摸し多門天の像を安置し西光寺(さいくわうじ)と號して水田を寄附せらる
寄文曰東ハ限北上川南ハ限リ磐井川西限写王岩屋北限牛木長蜂者東西三十四里南北二十四里云々とあり本堂は坂上将軍建立の後清衡(きよひら)以下三代の建立(こんりう)も多く堂塔僧坊(どうとうそうぼう)宏荘なりしか天正年間兵燹(へいせん)により閣堂楼門(かくどうろうもん)等悉く鳥有(ういう)となり偶本室巌窟に架するを以て余燼(よじん)を免ると現堂は後年の建立修造(こんりうしうざう)に係れり堂塔左右階壇(かいだい)を登る左右に狛犬(はくけん)あり石の大華表あり前面に石の高燈(かうとう)四基(き)を設く当寺は天台宗(てんだいしう)にして東叡山(とうえいざん)の直末なりしか維新の後比叡山(ひえいざん)の直末に復せり住僧は古来(こらい)妻帯なり維新前(いしんぜん)は國守より寺領(じれう)を寄附(きふ)せられき。

神明宮趾(本堂の西南にあり以下の方位之に準拠す) 山王社(東北櫻野にあり) 愛宕社(西北) 稲荷社(東南) 日光社趾(東方) 大日堂 八尺堂趾(東南、昔時八尺八面の堂に恵心僧都作の観音を安置せし跡なり) 不動堂趾(北、姫待か瀧の本尊智證大師の作にして基衡の建立なりしと云ふ) 不動堂(左、天明六年之を建立し本堂に遷し置る所の本尊を安置せり) 弁財天趾(前、蝦墓池の中島に在り本尊は慈覚大師の作なり十五童子を配安す) 講堂趾(南、或は金堂とも云り薬師並十二神将を安置せしとそ) 仁王門趾(東) 鐘楼(左) 巌面大仏(右絶壁に彫りたる大日像にして高さ三丈余なり相伝ふ頼義朝臣或は義家朝臣弭して模様を画かれしと其造工苟且の物ならす一説に田村或は利仁将軍の事を誤れるかといへと頼義朝臣等衣川柵を攻られし時も戦時近傍の寺なれば此事なしと云ひ難しさて此像の事何の為にせしと訝みつるに近時像下の土中より無数の骸骨出たるを思へは当時の戦死人「官軍か」を此に埋葬して其供養にせし業なるへしと別当坊の物語なり) 無量壽院(東)
手掛松(高さ数丈の巌上に偃臥したる古松ありて伝ていふ昔時悪路王手を掛て軍容を窺ひしよりの名なりと今の樹は後木なるへしとそ)
傘松(手掛松の右にあり) 蝦蟇池 九葉楓(池は弁天堂の池なり形を名とせり其畔に葉の九裂なる楓樹あり後木なり) 四季染楓(本堂の北にあり) 日月石(上に同し) 鬘掛石(同しく十余町にあり高三丈許の岩にして其上に桂の朽木あり昔時枝葉たれて婦女の鬘を掛し如きよりの名なりといへり) 姫待カ瀧(同しく三町余に小瀧あり奔流双岩繞れり白練を裁し奇趣最愛翫すへし昔時悪路王の徒動もすれは貴紳富豪の室に侵入して少婦閨媛を掠奪する者多きよりの名なりと)
櫻野(本堂の東北にあり瀧の東なり昔時櫻樹数百株あり悪路王か姫女を具して遨遊せし所なり) 来迎橋(瀧の畔にあり) 陣か越(本堂の南にあり)

霧山 善城 胆澤郡上衣川村に在り達谷窟より西北の方二里余を距(へだ)る深山(しんざん)なり高丸(たかまる)悪路王等の巣窟(そうくつ)と云り高峰(かうほう)特立して幽谷(ゆうこく)切断したる如く嶺は平坦(へいたん)にして窟は其中段(だん)にあり岩壁(がんぺき)高くして窟中を臨(のぞ)む能(あた)はす里人之を切山とも云り是高丸(たかまる)等か本城の如し三方は川流れ谷深(たにふか)く西方は平坦にして濕壌なり一説に此地要害善(えうがいよ)きを以て善城と云るなりと(雑記に澄江説を記して詳なり)

編者云巌窟奥深きにあらす又浅きにあらす今毘沙門堂の高閣簷楹穴中に籠れり閣後幽暗にして蝙蝠を棲ましむ梟賊狭隘の嶮を擁し根拠を卜て猛鷙を帳れる昔を憶ふに堪たりさて賊魁は撻靼人なりし由元禄の此蘭人ゲーブルの著はせる鎖國論と云ふ訳書に見え又近時宕陰塩谷氏著す所丙丁烱戒禄にもみゆ想ふに彼等当時波濤を超え侵犯して土賊を指揮せしならんか他に考証すへきものなし暫く書して後案を待つ。

坂上将軍
坂上宿禰田村麻呂は阿知使主(あちのおみ)より十代苅田麻呂の子なり延暦七年紀小佐美安倍墨縄等陸奥國(むつのくに)の夷賊(いぞく)を征伐して敗を取りしより夷賊の勢力強大にして官府を劫凌(がうれう)す同十年征夷大師(せいいたいし)大伴弟麻呂副使百済王俊哲及田村麻呂多賀の國府(こくふ)に合し遂(つい)に賊徒を平け同十六年三将帰洛(きらく)し勲賞(くんしやう)を行はる田村麿殊功(しゆこう)を以て陸奥出羽按察使陸奥守鎮守府将軍を兼ね尋て征夷大将軍に任せらる同廿年の春夷賊(えぞく)高丸悪路王等達谷窟より起り三千余人の賊徒(ぞくと)を率ひ進んて駿河國清見関に至る坂上将軍節刀(せつとう)を賜はり征討(せいとう)の命を奉して進発(しんぱつ)ありけれは高丸等之を聞き恐(おそれ)て奥地に引退く将軍之を追討(つひとう)して神楽岡に大戦し高丸を射殺(しやさつ)し悪路王を捕て誅戮(ちうりく)して首を京師に伝送(でんそう)せらる東陲即平治しけれは将軍磐井郡達谷窟の前に鞍馬寺(くらまてら)を摸して精舎(ぜうしや)を造立し多門天の像を安置(あんち)水田を寄附せられ此年凱陣(がいぢん)あり即勲功(くんこう)を以て従三位に叙(ぢよ)せらる同二十一年将軍をして胆澤城を築しめらる(栗原郡伊冶城等も築かる胆澤郡に八幡宮を建立し鎮守社とせられし由なれは鎮守府を此に移されしなるへし又津軽外カ濱近き七戸郡壺村に壺碑あり是将軍蝦夷まての地理を量り日本中央の文字を勅して建られたりと云り顧昭袖中抄に之を詳記し其時代迄は文字猶分明なりしと見えたり此碑後世確かならずと聞く)此に夷酋大墓公阿氏利磐具公母礼其黨五百余人を具して降参(こうさん)しけれは将軍伊澤城の役竣て即二酋を率(ひき)ひ帰洛(きらく)して奉上せらる公卿其僉議(けんぎ)ありて遂に河内國椙山に於て二酋(しう)を斬らせらる(以後将軍叙任の履歴之を略す官大納言に至られたり)弘仁二年『弘仁二年は「嵯峨帝」紀元一四七一年』山城國栗田の別業に薨す嵯峨天皇(さがてんのう)其像に親賛(しんさん)ありて深く悌惜(ていせき)し給ふ宇治郡栗栖村水陸田山林三町を墓地に賜ひ其遺骸(そのいがい)を棺中に立て平安城に向け甲冑剣矛弓箭糒塩を並せて埋葬せらる(其墓も亦國家に事あらんとて■鳴動すと云ふ大将出陣ある毎に詣て戦勝を祷らるとそ将軍の佩剣は御府に納て坂上宝剣と云ふ)

因云田村将軍は延暦年中東征あり利仁将軍は延喜中奥の役あり東鑑に田谷窟是田村麿利仁等奉綸命云云とあるより混同して記せるもの多しさて田村は奥州の地名に因る名なれは将軍は蓋し其所の産なりしや父名の苅田も同く奥州の地名なりかくて将軍の庶小淨野の裔代々陸奥國に住し或は陸奥守鎮守府将軍となり或は探題職となり或時は京師に奉職せり後田村郡三春城主大膳太夫清顯は子なくして嗣子其一門に出でず親戚伊達政宗朝臣に後見せられしか時に小田原役の事ありて其采地を挙て伊達家に属し且嗣子早世に由て家跡爰に絶たり後年伊達忠宗朝臣先妣(清顯女)の遺志を継き朝臣の三男を以て田村家を再興せられ十余世の久しき諸侯に列し当郡一関邑に封を襲ひ其邑達谷窟堂に近きを以て往々寄附もありき。

骨寺 (ほねでら)
今之を本寺(ほんでら)と云り一説に当村蓮花谷に逆芝山(さかしばやま)と云ふありて此処に慈覚大師の髑髏(どくろ)を埋めて建し塔あり故に骨寺と號(ごう)し其寺跡及ひ尼寺(あまでら)の跡あり又平泉野と云ふ所もありて野中(のなか)に冷水あり旱魃(かんばつ)といへとも涸(か)るることなし即平泉の本源(ほんげん)なりと云り又山王窟(さんのうくつ)あり堂は窟に拠りて造れる様達谷窟の毘沙門堂(びしやもんどう)に準す嘉祥年中中尊寺にも遷(うつ)すと云り。

按に平泉始め慈覚大師の開基毛越寺ありて当初之をゲゴシデラと呼し山の縁起あれは後に清衡に至り此骨寺及僧坊をも平泉に遷し彼の高石に逆芝山の名を遺し塔もありしなるへし相原氏の雑記に東鑑に古津天良と訓せしは誤なるへし云々何れの時より骨を改て本の字になしけん中尊寺の古文書に拠れは百一代後小松帝の応永年中迄は骨寺と書り此地に山王窟あり寺の事は伝へ知れるなし云々尚按ふに逆芝山の故事撰集抄に見えたるを以て證し難けれと慈覚大師の塔の事骨寺に取り其謂なきにはあらさるへしさて骨寺は元名にして後にほねをほんと訛り終に本寺に書しなるへし土人伝へて元政宗卿の時其文字を改められたりと清衡此地を以て中尊寺の経堂に寄附せしも其所縁ならん逆芝山の物語は附録に挙く。

五串瀧 (いつくしたき)
達谷窟より西南一里半程を阻(へだて)て本寺(ほんてら)の南隣五串村(いつくしむら)にあり瀑布を一名玉瀧とも称し大小(だいせう)三湍ありて奔浪白雪(ほんらうはくせつ)を吐(は)き碧潭飛沫(へきたんひまつ)を呑み岩石重疊として恰(あたか)も渓壑の如し両岸(れうがん)の翠松禄苔漣■(サンズイ+コロモヘン+奇)に映し春花爛漫(らんまん)として眞に芳山松島の景(けい)を兼(かね)たり又中流に飛橋を架し岸邊に望楼観亭あり地方の名所(めいしょ)之に若(し)くものなし巌美橋の碑あり碑文は松崎慊堂題額は松平定信朝臣平泉より三里程山路を阻(へだ)つといへとも古官道の近傍にして義経此に吟杖(ぎんぜう)を曳ける由語伝(かたりつた)へたれは当時藤氏の遊場(ゆうぜう)たりし事知るへきなり故に平泉の因に贅記(ぜいき)す

『奥游日記に曰く……邦人称瀑為瀧、瀧者水之奔流処、非瀑也、此等処、似宜称以瀧、然此水、有瀑、有瀧、有潭、有淵、又有漫流、不若称渓之為愈、然距山稍遠、称之以渓、猶恐人之不首肯焉、』『……随鑾紀程に曰く……雷轟電激、力擘堅石、懸為瀑布、碎為跳珠、散為飛雨、匯為深潭、盤旋■(サウズイ+回)■(サンズイ+伏)、与岸曲折、両崖■■、雑樹与、怪巌相彌縫、其聳起処、架以飛橋、下流有盤石大可坐数十人清泉淙々小石錯落、親王召、余移榻望瀑橋外。』『……大橋乙羽……松古く水新しき山蔭は夏こそ来へき処なりけれ』


編者云此瀧両岸の恠巌突出し其所に依て風景を異にせり抑上邊に於ては飛沫の白雪を吐くを見下邊に在ては飛橋の長霓を架せるを見る松は椅影痩て盤根を顕はし櫻は淡紅なるあり純白なるあり抑一種にして二色なるは蓋し其樹の異なるのみならす發花の遲速を呈せるもあるへし之を下流に望めは巌上更に重畳をなし宛も堆雲に異ならす之を橋上に瞰れは直に雲梯を度るに似たり惜哉此の如き美景も宇寰隔絶の域に在て観客往来の便を得す然れとも春秋の際文人墨客故らに吟杖を曳き閭邑の男女交々箪瓢を携へ群集遊宴して楽を極む昔時藤家の遊蹤たるも信なる哉。

平泉志巻之下 終


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2000.5.30
2002.5.8 Hsato